もうひとつのふるさとへゆこう

 序詩                          尹東柱
 
 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを、
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。
 今宵も星が風に吹き晒される。      (伊吹郷訳)

 「二十代でなければ絶対書けないその清冽な詩風は、若者を捉えるに十分な内容を持っている。

 長生きするほど恥多き人生となり、こんな風にはとても書けなくなってくる。

 詩人には夭折(ようせつ)の特権ともいうべきものがあって、若さや純血をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をも惹きつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。

 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。

 一九四五年、敗戦の日をさかのぼること僅か半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死させられた人である」 (茨木のり子「尹東柱」『ハングルへの旅』に所収)

( 尹東柱 1917‐1945 ユン・ドンジュ: 朝鮮の詩人。1941年,延禧専門学校(現在の延世大学)をくり上げ卒業のあと,翌年立教大学をへて同志社大学に進学。1943年に思想犯の嫌疑で逮捕,2年の刑で福岡刑務所で服役中に獄死。1948年,生前に準備した詩集《空と風と星と詩》が遺稿として発行される。《序詩》《星を数える夜》《たやすく書かれる詩》《懺悔(ざんげ)録》などがよく知られている。)(マイペディア)

 もう一つの故郷
 
 ふるさとへ帰ってきた夜に 
 おれの白骨がついて来て、同じ部屋に寝転んだ。
 
 暗い部屋は宇宙へ通じ
 天空(そら)からか 音のように風が吹いてくる。 
 
 闇のなかで きれいに風化する
 白骨を覗きながら
 涙ぐむのは おれなのか
 白骨なのか
    美しい魂なのか
 
 志操高い犬は
 夜を徹して闇に吠え立てる。
 闇に吠える犬は
 おれを逐(お)っているのだろう。
 
 ゆこう ゆこう 
 逐われる人のように
 白骨にこっそり
 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。  (伊吹郷訳)

 「二十四歳の時の作品だが、三年先の死を予見しているような詩である。クリスチャンでもあった尹東柱の『もうひとつのふるさと』は何処を指していただろうか」(茨木・同上)

 茨木さんは還暦を過ぎてだったか、ハングルを学び始め、ついには韓国現代詩の翻訳をなしとげられています。また、金時鐘さんは2012年に「尹東柱詩集 空と風と星と詩 」を文庫で訳出されています。ぼくはくりかえし読んできたものでした。この稿ではお二人のものを使って書くつもりでしたが、何よりも早くから慣れ親しんでいた伊吹さんのものによりました。

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丈高いカンナの花よ

 茨木のり子さんは大阪市生まれで、愛知県西尾市で育つ。詩人。(1926-2006)。昭和十八年、東京の蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校(今の東邦大学の薬学部)に入学。20歳で敗戦を迎えられた。

 戦争中、なんど東海道線に乗って郷里に帰られたことか。そこから生まれた一編の詩。題して「根府川の海」。

 小田原→早川→根府川→真鶴→湯河原→熱海とすぎゆく、その根府川を読んだ詩。(夏の盛りに咲くカンナ。ぼくは幾度も、この駅に降りたことがありましたが、真夏の記憶がない。花言葉は「情熱」「妄想」とも)

    根府川の海

東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
 
たつぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまつさおな海がひろがつていた
 
中尉との恋の話をきかされながら
友と二人こゝを通ったことがあつた
あふれるような青春を
リュックにつめこみ
 
動員令をポケツトにゆられていつたこともある
 
燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かつたふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在つた
丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
あゝそんなかゞやきに似た十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だつた歳月
うしなわれたたつた一つの海賊箱
 
ほつそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ツパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?
 
女の年輪をましながら
ふたゝび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこゝろを育て
 
海よ
 
あなたのように
あらぬ方を眺めながら……

 敗戦当時を回想して、茨木さんはつぎのように語られています。

 《今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。

 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。

 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います》(インタビュー「二十歳の頃」より)

 戦時中は「軍国少女」で、敗戦後はぱっと「民主主義者」になった自分。そんな浮薄な自身が情けなく許せないと、そこから生まれたのが「自分の感受性くらい」だった。一編の詩に託された、叱咤、覚醒の声音。それは半世紀にもわたって発せられていたのです。「わずかに光る尊厳の放棄」、それをこそ「自分で守れ」

 この持続する志(姿勢)に、ぼくたちは驚いてもいいでしょう。「自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います」という、茨木さんの「過ちの原点」から、すべて(戦後)は発しているにちがいない。まちいは人のつね、そのまちいをみずからの根っ子にしっかりと据えること。自らの過ちを自分に隠さないこと、それが「正しさ」の感覚を養い、方向を定めるのではないか、まちがいの記憶、それは導きの糸なんだとぼくは考えています。

 教育というのはどこにでもある。だが、たしかにあると誰しもが思っている学校にこそ、もっとも教育は欠けている。教育ではなく、反教育、つまりは強制や命令が教育の名によって好き放題に振る舞われているのではないか。

 いったい、なんのためだれのための教育か、茨木さんの経験にならって、それをこそ、ぼくたちは考えつづけなければならない。

〇 茨木のり子 詩人。本名三浦のり子。大阪府生れ。帝国女子薬学専門学校卒業。1953年川崎洋とともに同人雑誌《櫂》を創刊。ヒューマニズムに基づく批評精神を持ち,代表作〈わたしが一番きれいだったとき〉で戦時下の女性の青春を描いた。主著に詩集《対話》(1955年),《見えない配達夫》(1958年),《鎮魂歌》(1965年),《人名詩集》(1971年),《自分の感受性くらい》(1977年),《倚(よ)りかからず》(1999年),評伝《うたの心に生きた人々》(1967年),50歳ころからハングルを習得し,訳詩集《韓国現代詩選》(1990年)などがある。(百科事典マイペディア)

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苦難に塗(まみ)れながらも…

 金 ぼく個人は、この一年、若い民族学校の教員たちとの関係を築いている。彼らは幼稚園から総連の民族学校で育ってそのまま民族学校の教員をしているから純粋培養の意識体だが、拉致問題によって祖国にある懸念を持ち始めている人たちである。「民族学校の教員をやって何の意味があるだろうか」と聞いてくる。それは北共和国への懸念と言うよりも、自分の生き方への問いがようやく始まったと思うべきだ。教える立場の自分にまず決着をつけていく自信がなければ民族学校の教員をやめることやと、率直にいってあげている。

  非常にむずかしい問題ですよ、実際はね。

 金 「私はどうしたらいいでしょうか」と言う人に過激なことをいうのは、魯迅の言葉に依拠している。部屋に閉じこもっている人に「窓を開けろ」といっても開けない。「壁を破れ」と言って、ようやく小窓が開くぐらいだ。若い人たちにいつも、「活動やめて一般市民にかえれ」と、そればっかり言ってる(笑)。

 梁 在日の新しい世代は、僕らの世代とはずいぶん違うと思うのね。ぼくも若い人たちと話すと、アイデンティティをどう表現したらいいのかわからない、という。先日も朝鮮大学の学生と話しましたが、ぼくの本を読んでいることにそもそも驚いたわけです。金石範、金時鐘、そして僕の本は何年か前までは読んではいけないと言われていた。でもいまは読めるというわけです。

  拉致問題が露呈してから、拉致という非常におぞましいことがあったけれども、よかったと思うことが二つある。一つは、日本人との関係で感情的軋轢が昂じなかったこと。一方的な北バッシングが起き、朝鮮学校の子どもたちが罵られたり、痛い目にあったという話もあるけど、在日の私たちの側が同じようにいきり立たなかったということは幸いだった。日本人の側でも心ある人たちは、一方的なバッシングを危惧している。狭隘な民族主義の跋扈をあおるものだと、日本人からの自制も起きている。

 もう一つは、石日が言ったように、在日の若い世代たちが拉致問題を契機に在日定住者の自分を見つめる気運が、かなり広まっていることです。非常におぞましい事件ではあったが、自ら考えようと言う気運が在日同胞の中に広まってきたのはプラスだった。(以下略) (金時鐘・梁石日「我らが文学と抵抗の日々を想起する」『世界」04/7月号)

 (*金時鐘(キム・シジョン)…詩人。1929年生まれ。48年日本に渡航、「チンダレ」主宰。兵庫県立港川高校で朝鮮語教師。『地平線』『新潟』『猪飼野詩集』『在日のはざまで』他)

 (*梁石日(ヤン・ソギル)…作家。1936年、猪飼野生まれ。「チンダレ」同人。タクシー運転手などを経て作家に。ノンフィクション『タクシードライバー日誌』は『月はどっちに出ている』の原作。『骨と血』『夜を賭けて』『夜の河を渡れ』『タクシー狂躁曲』『修羅を生きる』など)

 十数年前の対談をもちだした理由は明確だというわけではありません。このところ(だけではないが)、さまざまな分野で日本と韓国の関係というか軋轢が深まったりゆがめられたりしているのを見るにつけ「在日問題」の根っ子の部分(核)が見えなくなってきているようにもおもわれるので、あらためてご両人の語りを聞いてみたくなったという次第です。(韓国に関してはどうか、自信を持って言えませんが)この島社会の為政者・政治指導者は(笑うべき、唾棄すべき言い方です。当人たちにとって「政」とは何ですかね)自分たちの政治の軌跡(手法)が怪しくなると「外敵」を叩く、それに煽られるために付和雷同する分子が周りに待機している。いつでも相手を攻撃する準備ができているのかどうか、やがて、「火種」が発火する、そんな見苦しいコマ送りの連続です。これをして「日韓関係」といってはならない。

 金時鐘氏の「詩」を一つ。題して「見えない町」。

なくても ある町。  そのままのままで  なくなっている町。  電車はなるたけ 遠くを走り  火葬場だけは すぐそこに  しつらえてある町。  みんなが知っていて  地図になく  地図にないから  日本でなく  日本でないから  消えててもよく  どうでもいいから  気ままなものよ。   (『猪飼野詩集』所収)

「猪飼野 大阪市生野区の一画を占めていたが、1973年2月1日を期してなくなった朝鮮人密集地の、かつての町名。古くは猪甘津と呼ばれ、5世紀のころ朝鮮から集団渡来した百済人が拓いたといわれる百済郷のあとでもある。大正末期、百済川を改修して新平野川(運河)をつくっており、この工事のため集められた朝鮮人がそのまま居ついてできた町。在日朝鮮人の代名詞のような町である」(金時鐘『猪飼野詩集』より)

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solemn list of people whose lives…

By John Grippe Published May 23, 2020 Updated May 24, 2020, 2:10 a.m. 
Times Insider explains who we are and what we do, and delivers behind-the-scenes insights into how our journalism comes together.
 
Instead of the articles, photographs or graphics that normally appear on the front page of The New York Times, on Sunday, there is just a list: a long, solemn list of people whose lives were lost to the coronavirus pandemic.
 
As the death toll from Covid-19 in the United States approaches 100,000, a number expected to be reached in the coming days, editors at The Times have been planning how to mark the grim milestone.
 
Simone Landon, assistant editor of the Graphics desk, wanted to represent the number in a way that conveyed both the vastness and the variety of lives lost.

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 米紙ニューヨーク・タイムズは、24日付の1面を新型コロナウイルスによる死者の名前や年齢などで埋めた。見出しは「米国の死者数10万人に近づく 計り知れない喪失」。米国の死者数は約9万7000人(23日現在)で10万人に近づいているが、失われた一人一人の命の重みを伝えるために異例の取り組みをした。

 同紙が23日夕、公式ツイッターなどに紙面の画像を投稿した。記事では名前、年齢とともに「新年度の初日には孫たちに歌を歌って聞かせた」など、故人の人柄も紹介した。中面も含めて1000人分を掲載したが、「ここに掲載した1000人は全体の1%に過ぎない。誰一人としてただの数字ではない」と訴えている。

 同紙が紙面製作の背景を説明した記事(電子版)によると、死者数が10万人に近づく中でどのような紙面を製作するか編集局で議論。死者数を「点」で描く方法もあったが「亡くなった人がどんな人生を生き、それがこの国にとってどんな意味を持つのかを伝えることはできない」(グラフィック担当者)と考えたという。数百人分の写真を掲載する案も検討されたが、最終的に活字だけの案が採用された。【ニューヨーク隅俊之】(毎日新聞2020年5月24日)

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 国内で新型コロナウイルスの感染確認が続いている。各自治体などによると、23日は午後10時までに24人の感染が確認され、累計は46都道府県で1万6357人となった。死者は11人増えて計825人となった。「密閉」「密集」「密接」の「3密」回避など、一人ひとりの感染防止の取り組みが重要となる。

 なお、前日午後10時より後に明らかになった感染者と死者は当日の新規分には含めていない。クルーズ船は横浜港で検疫が行われた「ダイヤモンド・プリンセス」。国内感染者の累計には長崎のクルーズ船(149人)と検疫官など(10人)を含んでいる。 (日経新聞・2020/5/23 22:41更新)

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 ここに日米の三紙(最新のもの)を挙げておきます。彼我の優劣を示すためではない。新聞に寄せるぼくの希望や期待、それは儚いまでに空しいことだったと、並みいる新聞の購読を中断して久しくなるのも、決して故ないことではありませんでした。多くはありませんが、友人や知人に新聞人がいます。でも書かれた記事を読む気力もなくなったのでした。新聞もまた企業であることを失念しているのではありません。しかし、と思う。政治家や官僚の嘘もごまかしも見逃し、はてはあからさまな犯罪行為さえも等閑に臥すような劣島の新聞人の堕落や退廃ははてもないものと、ぼくは早々に見切ってしまいました。つい数日前、たまたま露見したに過ぎないが、権力とのおぞましいばかりの癒着・馴れあい。

 作日、NYTの紙面を見て、ぼくは見透かされたように感じました。なにをか。人の死は数字ではない。このことを年来の微意として抱きつづけてきました。交通事故死者数、自殺者数として、すべての数量化を抵抗なく受け入れさせられることに、いちいち抵抗していたのでした。死者数 3 は、それを越えた、それぞれの人生を生きた歴史を語る者の死であるべきだとぼくは愚考してきました。まるで気圧や風速、あるいは雨量の如くに数字化する意図は何だろうと訝り、端からか改められないのはなぜかと。理屈は言うまい。言われることは百も承知しています。見透かされたと、ぼくが一驚した理由もそこにあります。

 「亡くなった人がどんな人生を生き、それがこの国にとってどんな意味を持つのかを伝える」という難題に果敢に挑戦した、挑戦しようと試みたと、ぼくは直感・直観したのです。生きた人の足跡や笑顔、人柄を「新聞人」として記事にする、最良の方法は何かと議論を重ねたに違いありません。三紙のどれが良いか悪いかという問題ではなく、思い半ばで死に掴まれた人、一人一人の代弁者であろうとする姿勢をこそ、ぼくは待望していたのでした。 

 「正気は統計的なものではない」という意味のことを言ったのはジョージ・オーエル(George Orwell 1903-1950)でした。数字で表せないもの、数字を越えたものの中にこそ、いくつもの意味や生活が籠められているのです。

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生きることに降りたって…

 《 詩とは、他者の生と「兼ね合うもの」だと思っています。「書かれない小説は存在しないが、詩は書かれなくても存在する」というのが私の信念です。

 例えば、京都大には反原発の中心的な役割を果たし、チェルノブイリに行って分厚い報告書を作られた先生がいました。しかし反原発というだけで彼は最後まで助手だった。広島で何十年もの間、どこかの国が原爆実験するたびに同じ場所で座り込みを続けた名もない人がいます。そういうこと自体が詩なんです》(東京新聞・11/10/14)

 こう語るのは金時鐘さん。(詩人。一九二九(昭和4)年日本統治下の朝鮮元山生まれ。済州島で育つ。四八年の「4・3事件」後に来日。詩集に『地平線』『日本風土記』『新潟』『猪飼野詩集』『光州詩編』『原野の詩』『『失くした季節』など。評論に『さらされるものとさらすもの』『「在日」のはざまで』『わが生と詩』など多数。

 《 金さんにとって日本語への思いは複雑ですね。

 八月十五日は日本では終戦の日ですが、私たちの国では解放の日。今年は六十六回目でしたが、「私は本当に解放されたのだろうか」と毎年自問にします。/ 日本統治下の朝鮮で、私は天皇陛下の赤子であることが一番いいと諭され、がむしゃらに日本語を勉強しました。大日本帝国に帰属し、近代化が遅れた朝鮮が開明することはいいことだと思っていたのです。(中略)/ 朝鮮で生まれ、朝鮮人の親元で育ちながら、自分の国の言葉で「あいうえお」が書けなかった。私の意識は日本語で下地ができたんです。言葉とは意識、光みたいなもの。私は自分の意識をつかさどる日本語に無垢だった。/ ところが、祖国が解放されて切れたはずの日本に来て、また日本語で考え、日本語で書いている。そうすると自分は何から解放されたのかという思いに常にとらわれるのです》(同上)

 ぼくが敬愛してやまない詩人の金時鐘さん。親しくお話を伺ったこともあります。「在日」問題、ぼくにとって、それは金氏の片言隻句によって培養されたといっても過言ではないと、深い思いをもって言いたいのです。

 別のところで、次のようにみずからの「根のない草」のような有り様を,しかし強靭な感性で語られています。

 《 私は日本語によって育成され、その日本語によって伸びざかりの過去を失くしもした。いわば日本語は私の生成の節くれた年輪とも言えるものだが、余儀ないこととはいえ日本での暮らしも間もなく五十年を重ねる。過ぎてみればあっけない感じの年月だが、一時しのぎの滞日のはずが、生涯を居坐らせる「在日」ともなってしまった。六十の老い坂を異国でよじるということは、見るべき青山はもう見てしまったということでもあるのだが、それでも私には、先は見えたという感傷も悟りもあきらめもない。

 やってくる日々は誰にも等しい時空だからだ。果てしない時をきりもなく、小刻みに刻んでいる生がたぶん老いなのであろう。何年生きようと残された歳月がより重く、生きつづけるのはより長い年月だ。親の死に目にも会えずじまいの「在日」であったが、それでも自分の詩のためには幸いな場であったとも思っている。本国でもし生き長らえたとしても、それこそ鼻もちならない抒情詩人で自壊したか、さもなくばその日ぐらしに追われて、間違いなく自滅したことだったろう 》(金時鐘「日本語の石笛」『わが生と詩』所収、岩波書店刊)

 《 今、生きることに降りたってものを考えようということが、せめて詩を書く仲間たちから起きないものかと思う。現地から痛ましくも声が上がりました。「原発さえなければ」と自殺した人が上げた声。命と引き換えた言葉です。

 それが「元気を出しましょう」「がんばりましょう」では、壁にあの言葉を刻みつけて命を絶った人が視野に入ってない。

 説破詰まった思いを共有できる言葉がないとあかんねん。現場で茫然自失した人たちにうずいている言葉を代弁する表現者が、澎湃とそこらじゅうに出てこんと。そうして他者の生と兼ね合うべきなんやと、そう思います 》(東京新聞・同上)

 「在日を生きる」といったのは金さんでした。「在日」という表現に込められた何重にも矛盾した存在のありかを詩人として、また表現者として求め続けてきた金時鐘のことばを、ぼく自身の生に重ねてみる。

 《 かつて日本の兵隊さんたちは戦争の合間に日暮れともなれば、国の家を思い、妻を思い、子どもを思い、懐かしい歌を歌った。しかしその兵隊さんが、アジアであれだけ残虐なことをした。殺される側への痛みがないのですね。自分への心情はほだしても、他者へとは思いが及ばない 》(同上)ことごとくに問題化するこの島社会と朝鮮半島。ことの起こりは明らかです。問題の「発端から決着まで」があまりにも政治取引に偏していたがゆえに、もつれた糸は解きがたいというほかありません。この問題もまた、わが身のほどによるしかないように愚考しながら生きてきました。ナショナリズム、民族主義、植民地問題、「戦後補償」等々、残された課題はいつまでも両者が相接する瀬戸口に横たわったままです。

〇 金時鐘(キムシジョン)(1929- )在日朝鮮人の詩人。元山生れ。師範学校卒業。1948年の済州島四・三蜂起に関わった。1949年渡日,在日朝鮮人の政治・文化活動に参加した。兵庫県立湊川高校教員となり,日本の公立学校で初めて正規科目として朝鮮語を教え,大阪文学学校理事長なども務めた。主著に詩集《地平線》(1955年),《日本風土記》(1957年),《新潟》(1970年),《猪飼野詩集》(1978年),《光州詩片》(1983年),《原野の詩》(1991年),《化石の夏》(1998年),エッセー《さらされるものとさらすものと》(1975年),《クレメンタインの歌》(1980年),《〈在日〉のはざまで》(1986年。毎日出版文化賞受賞),《草むらの時》(1997年),《わが生と詩》(2004年),金石範との共著《なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか》(2001年)などがある。(百科事典マイペディア)

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医学と専門家の言説について

金沢大学のインフォームド・コンセント調査委員会の調査結果を報じる2006年1月18日の朝日新聞(石川版)の記事。 ぼくは三十年以上も、(身の程も知らないで)小さな看護学校に勤めていたことがあります。その関係でいわゆる「医療事故」に分類されるような事件や訴訟について調べたことがありました。驚くべき頻度で「事故」は生じていました。「医者にかかれば、命が危ない」と深刻に考えたことでした。

 《現在のように、治療法がないのに診断だけつくという期間は、案外長くつづくかもしれない。そこで告知の問題が起こってくる。発病してしまったガンの告知の問題もまだ完全には解決されていない。これは医学が進歩して診断や予後の予想ができるようになったために生じた問題である。発病したガンを本人にではなく家族に知らせるという慣行はいつどのようにしてできあがったのであろうか。これは、医学の進歩に人間がついていけなかった結果のように思えてならない。

 もし、誰でも自分の病気あるいは死を受容できるように訓練されている社会であったら、医師は迷うことなく本人に真実を告げるであろう。患者が受容できないであろうと疑うから、家族に告げるという事態が生じる。

 遺伝子診断ができるようになると、発病前に自分の将来の運命を知ることができるようになる。これは、現在のガンなどの告知よりもいっそう深刻な問題をふくんでいる。

 この場合には、原則として最初に告知を受けるのは本人であるということが重要であると私は思っている。本人の希望により、本人のみに告げられるべきであろう。他の人は、たとえ家族であっても遺伝子診断を依頼してはならないし、本人の許可なく結果を聞いてはならないと思う。

 そのためには、一人ひとりがもっと精神的に自立しなければならないし、死や病気について若いうちから真剣に考え、受容できるだけの精神力を養っておく必要がある。子供のころから、生物であるとはどういうことであるか、病や死をいかに受け入れるべきかという教育を家庭や学校でしなければならないのではなかろうか。医学の進歩に見合った人間の成熟、社会の成熟が望まれる。(中略)

 出生前に遺伝子診断ができるようになると、病気になる可能性のある胎児は抹殺されることになる。このような方法が普及してくると、障害児を生むことが罪悪のように思われるおそれがある。障害児、障害者やその家族に肩身のせまい思いをさせるようでは困る。

 しかしすべての胎児に遺伝子診断をするわけにはいかない。ダウン症の子供を産みやすい女性があるとは考えられているが、それ以外の女性でも、二〇代で一〇〇〇人に一人、三〇代で一〇〇人に一人の割でダウン症の子供を産む可能性をもっているデュシェンヌ型筋ジストロフィーのように、突然変異率の高い病気もある。これらの病気の子供が生まれることは、現在では完全には防げないのである》(柳澤桂子『遺伝子医療への警鐘』岩波現代文庫、2002)

 引用させてもらった書物が出版されたのはいまから二十年以上も前のことです。したがって、柳澤さんが杞憂していた状況はさらに深刻の度を加えているといわなければならない。今では、すでに遺伝子に関する情報が知悉されかかっている段階にあるのかもしれない。かなりの程度で解明が進んできたのは事実だからです。そこからいかなる結果が将来するか、おおよその見当はつきます。「進歩」というのは一直線ではありません。これは人間の感情や思考においても言えます。古い部分、つまり「古層」の上に「新層」が乗っかるわけで、古層はいつでも残るというより、それがなければ「新層」の根拠がなくなるからです。いつでもぼくたちは、新旧の感情や思考のせめぎあいで苦しむのでしょう。「世代間」の軋轢です。

 彼女はさらに指摘します。

 「欧米の書物もふくめて、人類遺伝学やヒト・ゲノムに関するものを読んでいると『社会にとって悪い遺伝子』という表現をよく目にする。しかし、個人にとって悪い遺伝子はあるかもしれないが、社会にとって悪い遺伝子という考えはあってはならないのではなかろうか。遺伝子プールの構造を考えれば、それはつねに存在するものなのである」(同上)

 かりに「社会にとって悪い遺伝子」という考えがあるとするなら、それは社会の考え方が悪いのであって、遺伝子ではないと明確にいわれます。ときには「優性思想」が勢いを増す場合があります。これもまた、人間存在の「古層」部分をなしているのでしょう。

「社会から差別感情をなくして、障害をもつ人にあたたかい手をさしのべることも、個人と社会の成熟のあかしであろう」と、ご自身が難病に罹患されているからこそ、実感が強く伝わってくるのです。

「あとがき」では、次のようにいわれます。

「科学を科学者だけにまかせておいてはならないと私は強く思う。科学者も、何がおこなわれているかということを一般の人に語る義務があるし、一般の人も、努力をしても、科学の分野で何がおこなわれているかを知る義務がある。お互いに努力して、取り返しがつかないようなことをしてしまわないように気をつけようではないか」

 まさに柳澤さんが指摘されているとおりだと思います。何ごとも専門家の独占にゆだねてはいけないと、だれしもが考えているでしょうか。無条件で頼ってもダメではないでしょうか。「素人のくせに」という言い草は、科学者も素人もともに不幸にならないために、ここらでご用済みにしたいものです。

 この瞬間に困難の渦中に置かれているぼくたちは、「新型コロナウイルス感染症」のさまざまな問題について、いわゆる「専門家」と称される人々の見立てがいかに多様(甲論乙駁)であるか、同じ人でも時間の経過とともに自論をどのように変化させてきたか、それを目の当たりにしました。何が正しいか、それは「だれにもわからない」という問題に対して、ぼくたちの取るべき姿勢(態度)はどのようなものか、それぞれがじゅうぶんに注意して考えなければならないでしょう。

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●5月22日0:00現在、PCR検査陽性者16,513例が確認されている。●PCR検査陽性者(国内事例16,339例、チャーター便帰国者事例15例、空港検疫159例)(厚労省HP)毎日のように、この数字を眺めるのですが、それが何を具体的に示しているのか、ほとんど参考にならないとさえ思ってしまう。(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#kokunaihassei

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〇 お断り これまでのコラム名「今週のことば」を「平談と俗語」という名称に変更します。なかみは代わり映えがしませんが。冬服から夏服への衣替えの類です。内容浅薄はいかんともしがたい。拙者は娑婆に未練を持つ身じゃありませんが、世相も世情も頓に悪辣至極になってきましたね。ネット(網状)栄えて、夜郎自大の季節は酣(たけなわ)というべきか。功罪もまた著しい。だからこそ、ひそやかに平談を俗語で。この作業もまた、ぼく自身の「自主トレ」用の練習台です。(山埜記・20/05/24)

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