先輩の口演を必死で聴き覚えた

 講談師も名人となると、売り物にちなんだ異名をとった。「鼠(ねずみ)小僧」など白浪(しらなみ)物を得意にした二代目松林伯円(しょうりん・はくえん)は「泥棒伯円」、怪談が評判を呼んだ七代目一龍斎貞山は「お化けの貞山」といった具合だ▲当代で「怪談の貞水」と言われたのが、講談界初の人間国宝となった一龍斎貞水さんだ。「四谷怪談」など音響や照明効果を使ったおどろおどろしい演出の立体怪談で人気を博した。今月初め、81歳で亡くなった▲講談は「冬は義士夏はお化けで飯を食い」という川柳があるくらい、討ち入りのあった12月をはさんで冬は赤穂義士伝が、夏は納涼で怪談が好まれるのが通例だ。ところが、貞水さんの立体怪談は1年を通して全国各地から声がかかったという▲映画やテレビが台頭する前、講談は落語や浪曲以上に身近な庶民の娯楽だった。だが、東京・湯島で生まれ育った貞水さんが10代半ばで入門したころには人気は低迷し、楽屋は老大家がほとんどだったという▲当然、客席も若くはない。けれども40年、50年と年季の入った常連客の小言が、芸となって身についた。「うまくいったことは3日たつと忘れる。失敗が人間を作る」との言葉は、芸に限ったことではないだろう。楽屋では先輩の口演を必死で聴き覚えた▲かつて自嘲気味に「絶滅危惧種」と言っていた講談師だが、今は東西で約90人を数える。有望な若手も育っている。「老大家の先輩方から教わったものを次に伝えるのが仕事」と語っていた貞水さんの大いなる遺産である。(毎日新聞2020年12月13日)

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  訃報  一龍斎貞水さん 81歳=講談界初の人間国宝

 怪談などを得意にした、講談界の大看板で人間国宝の一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい<本名・浅野清太郎=あさの・せいたろう>)さんが3日、肺がんのため死去した。81歳。葬儀は近親者や一門の関係者で営んだ。後日、しのぶ会を開く。喪主は長男丈太郎(じょうたろう)さん。/ 東京・湯島生まれ。1955年、都立城北高入学と同時に、五代目一龍斎貞丈に入門。同年5月、貞春を名乗り、上野の本牧亭で初舞台。66年、真打ちに昇進し六代目貞水を襲名した。/ 活動は多岐にわたり、特殊効果を駆使した「立体怪談」は高く評価され、「怪談の貞水」と呼ばれるようになった。講談師として初の全編読み切り「四谷怪談」(全5巻)、「赤穂義士本伝」(全15巻)をCD化。2005年には講談界初の欧州ツアーを行った。(毎日新聞2020年12月10日)

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 講談はぼくの歴史の授業(教室)でした。さまざまな主役(講談師)が登場しましたが、いずれも学校の教科書などは決して味わえない醍醐味を持っていたと実感します。落語が行業間休みや昼休みの楽しみだったとしたら、講談はまじめな教室の正規の授業のようでもあったと、ぼくは小さなころから経験してきました。貞水さんのうんと若いころ、おそらく四十代前後からよく聞いたと思う。もっぱらラジオが定番でした。これは落語も同じだったし、浪曲もラジオが、ぼくの定席でした。こういった語り芸が振るわなくなった背景には、時代の流れというものが大きな影響を与えたことは確かですが、ぼくにはテレビの登場が何よりの衰退を招いたと思われます。テレビは芸を腑抜けにし、骨粗鬆症を引き起こしてしまったのです。肝心のカルシウムが奪われたからでした。骨格が崩れるままに、「話芸」が死に絶えてしまったのです。(左上写真 貞丈師)

 落語の寄席にはよく通いましたが、講談は一度もなかった。上野本牧亭の復活移転などもあり、しばしば通おうかと思案したこともありましたが、結局はラジオで聞き通した。貞水さんの語りについて、生意気なことは言えません。でも声は太く、腹に響くような豊かな声量を誇っていたといえますし、しぐさには独特の張りや見どころがあったと、ぼくには映りました。怪談物、歴史談など、いろいろなジャンルを聴きました。殊に、世話、白浪など。ぼくは怪談物は苦手だった。また彼の師の貞丈さんもよく聞きました。

 ぼくの青春時代は「語り芸」によってつくられていたと思う。それもラジオによって、演じられたものでした。テレビと違って、ラジオがよかったのはやたらな動作が目に入らないから、聞く側の想像力の高まりが働き、語りに集中させてくれたことです。今では想像もできませんが、ラジオが果たした役割には大きなものがあった。真面目一方の貞水講壇・講談でしたが、だからこそ、たまさかの「くすぐり」がたまらなかった。今も演芸としての講談というより、タレント業化した語りが流行しているし、女性の講談師も輩出されて、一見して大賑わいの様相が見て取れます、にもかからわらず、ぼくには興味が湧かない。

 理由は簡単明瞭です。聴かせる「語り(口演)」が感じられなくなったということ。これはぼくだけの実感ですから、どうということはないんですが。この先に、どんな展開があるか、燦燦とした陽がささないように思う。落語となれば、もっと悲惨でしょう。理由はやはりテレビかもしれない。いや、師匠(先生連)がダメだからか。

 最後に一言。貞水さんが講談界初の「人間国宝」になったのは2002年。因果関係があるはずもないのですが、そこからもぼくの興味は失せてしまいました。これは落語の柳家小三治師についても言えそうです。ぼくにかぎることでしょうが、「国宝」に指定されてからの落語にぼくは面白みが感じられなくなりました。「国宝」が演者と聴き手の距離というか、間隔を疎遠な、あるいは白けたものにしてしまったと、ぼくが感じてしまうからでしょう。そのうちに「国民栄誉賞」を受ける講談師や噺家が生まれることでしょう。

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私らの内部の塵埃はどういう…

 かがやく未来を 大甕、常陸多賀、勿来-全て読める人は熱烈な鉄道ファンではないか。正解は順に「おおみか」「ひたちたが」「なこそ」。東京・品川と仙台を結ぶJR常磐線にある駅名だ。東日本大震災で途切れた鉄路が全線開通したのは、震災からちょうど9年たった今年3月だった▼先週、廃炉作業が進む福島第1原発を視察するため乗車した。詳細は改めて紹介するが、取材の合間に、沿線の富岡駅(福島県富岡町)周辺を歩いた▼太平洋の海岸線から300メートルしか離れていなかった駅舎は、周辺の商店や住宅などとともに震災による大津波で流失した。新設された現在の駅舎が営業開始にこぎ着けたのは3年前。ただ、更地になった周辺に住宅はまだ少なく、人影もない殺風景な様子に津波のすさまじさを実感した▼北に約9キロ離れた福島第1原発の事故による帰還困難区域は一部を除いて解除されたものの、住居や仕事を失った住民の避難先からの帰還は鈍い。町内の学校を統合して2年前に再開した、富岡町小中学校の児童生徒数は20人足らずという▼それでも復興への決意は伝わってきた。校舎の窓ガラスに掲げられた張り紙に、こうあった。「みんなで作ろう おもいでの故郷に かがやく未来を」。全ての駅がつながった常磐線は「かがやく未来」に向けた一歩だろう。あの震災からもうすぐ10年を迎える。「ようやく」であり「まだまだ」でもある。(健)(山陰中央新報・2020/12/14)

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 ぼくは初めて、山陰中央新報のコラムに触れています。社史によれば「1882(明治15)年5月1日  山陰新聞社創立」とありますから、やがて百五十年になろうとする老舗です。明治初期、表現は適切ではありませんが、雨後の筍の如くに「新聞」は発行され、各地で開明の志を開いていたのです。さて、このコラム氏が常磐線に乗られて富岡まで出かけられた。どんな思いをいだいたのかに興味がありましたので引かせてもらいました。コラムの内容に否やはありません。島根から(だと思われます)、出張られたのはそれなりの取材目的があってのことでしょう。詳しい取材記事は他所に書かれたのかもしれませんが、ぼくが不審に襲われたのは「放射線量」のことです。今春開業した区間に電車が入ると「線量計」が警告音を発し、線量が危険値を示すといわれていたからです。(この部分については他の雑文で触れました)

 さらに魅かれたのは、コラム名でした。「明窓浄机(几)」とは、「明るくて綺麗で勉強に集中できる書斎のこと。明るい日の光が入る窓と塵一つ無く清潔に保たれている机という意味から」出典は欧陽脩「試筆」とあります。(「四字熟語辞典on line)このコラムを書く場所は、きっと字義通りに、整然として、なお陽光の入る部屋であるなどとは言いません。新聞社の机がどういう状態であるのかを知らないではありませんし、コラム氏は喫茶店で書いておられたかもわかりませんね。

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*欧陽脩[1007~1072]=中国、北宋の文学者・政治家。廬陵(ろりょう)(江西省)の人。字(あざな)は永叔。号は酔翁・六一居士。仁宗・英宗・神宗に仕えたが、王安石の新法に反対して引退。北宋随一の名文家で、唐宋八家の一人。詩の評論形式の一つである「詩話」を初めて書いた。著「新唐書」「新五代史」「集古録」など。欧陽修。(デジタル大辞泉)

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 じつは、羽仁さんの文章(上掲)をいつか使いたくて、鵜の目鷹の目みたいにコラム「明窓」を読んでいたところでした。「私らの内部の塵埃(ちりほこり)というのは、どういうものでしょうか。人を憎んだり、あの人はこれこれだと勝手な推量をして、とんでもないことを考えたりする。そういうことは、みんな塵芥(ごみ)と同じことです」と、子どもたちや教師たちに向かって話されたのでしょう。初出は今から六十五年前でした。敗戦後十年。「心も明窓浄几に」という願いや祈りを語られたともいえるでしょう。(ヘッダー写真は「自由学園」サイト:https://www.jiyu.ac.jp/100th/history.html

 いまは、如何に浄化しようとしても、たちどころに「塵芥」がぼくたちの内部に沈殿し、それを放置して、ついに「埃に塗(まみ)れて後病む」ということになりかねません。自分の机に塵をためるように、机上に埃がたまるように、心の奥にも塵埃をためてもそれに気づかないことが多い。この内面の埃や塵の量や質を調べる専門家も看板を出して店を構えています。そこに通えば、処方箋を書いてくれ、薬を出してくれる。その結果、一時は「心は晴れた」ようになるのかもしれない。しかしまた、何かわからないもので、内部に重圧がかかる。羽仁さんは、きっと子どもたちに向かって話されたのだとぼくは見るのですが、これを、子どもたちはどのように受け止めたか。当時の子どもたちに会って、伺ってみたいですね。「内部の塵埃」をいかにして掃除するか、そもそもどうして塵や埃が内部にたまるのか。

 この「お話」の肝心な部分は「それを皆さんと一緒に是非したいと思います」という結語にあります。子どもに命じるだけではなく、あるいは「説教を垂れる」ことで終わるのではなく、いっしょに「心の埃を払う」教師がそこにいる、「私もそうしたいと思っています」という、この姿勢・態度においてこそ、教職の核心があるのでしょうね。「子どもといっしょに」です。いうまでもないこと、その昔のギリシアでは教師に叶う人を「子どもといっしょに歩くひと」と言いました。パイダゴーゴス、そこからpedagogyという言葉(実態)が誕生したのです。

●羽仁もと子=[生]1873.9.8. 八戸[没]1957.4.7. 東京,東久留米|教育家。南部藩士の家に生れる。東京府立第一高等女学校,明治女学校高等科に学び,1899年報知新聞社に入社,日本最初の婦人記者となった。夫羽仁吉一とともに 1903年『家庭之友』 (1908年『婦人之友』と改称) を創刊,「思想しつつ生活しつつ」をモットーに主筆として健筆をふるい,生活改善・生活合理を訴えた。 21年に自由学園を創立し,高等女学校によらない各種学校に甘んじてキリスト教に基づく自由主義教育の立場を堅持した。著書に『羽仁もと子著作集』 (20巻) がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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禁酒して見れば興なし雪月花

 本年で第34回を迎えた「サラリーマン川柳」の「歴代ベストファイブ」だそうです。主催は第一生命。ぼくもほんの数年前までは、しがないサラリーマンをしていましたので、この「みんなのサラセン」には思い入れも深く、応募したことはありませんが、いつも目にしては、一人笑ったり涙したりと、悲喜こもごもで、同情を禁じ得なかった。世相というものが自然ににじみ出てきて、時代を手っ取り早く知る機会にはなっていました。歴代のベストファイブといわれても、後期高齢者の身としては、詠みこまれた風景の実感とは著しく「時代遅れ」の感があります。それと同時に、なにか面白みに「へんな真面目さ」が匂ってくるのはなぜでしょうか、ぼくにはこれもまた、「遊びの少ない」「余裕が失われた」時節のしからしむるところではと、思案などするのです。真面目に川柳を、つまり「マジセン」ばかりが目に付くんですね。(https://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/index.html)

 第一位の「最強スクラム」、ぼくのところでは、たった一人のかみさんで手を焼き、舌を巻き、音を上げてきました。年々歳々、頑固になり、見下げられ、梃子でも動かない、威風堂々たる貫禄を感じさせられています。第二位「パプリカ」は見たこともないのですから、口に入る筈もありませんでした。今時、世に流行るもの、またはやりすたりが極端に短いのはどうしてでしょうか。従前は、「人の噂も七十五日」といいましたが、今ではどうでしょう、一週間ももちますか。だから何を咎められようが、言わず語らず、首をすくめていれば世間が忘れてくれるとばかり、人民を虚仮にする総理大臣がつづくのでしょう。

 良いか悪いかではなく、それぞれの社会的身分や地位にはそれなりに求められる「規範・期待」というものがあり、それにふさわしいものになるための精進が付随していました。敷居が高いとか、馬子にも衣裳など(これは関係なさそう)と、それなりの評価があったのですが。例えば「横綱」とか「総理大臣」とか。いまでは「八百長の成れの果て」という感がありますね。

 当節は、椅子やポストにつくばかりが目的で、ついたらついたで好き放題、後は野となれ山となれという、どうしようもない刹那主義、「自分第一」が瀰漫しているね。手段を択ばない目立ちたがりの世だろうね。ぼくにはその気が知れないが。高いところに登ろには注意がいります。落下するぞ、と。

 第三位、四位の「スマホ」をぼくは所有したことがない。見たことはある。でも、持つ必要性を感じないという以上に、他人から予期しないときに呼び出されるということが我慢できない性分であるということです。スマホ(携帯も含めて)を持たないという人に、ほとんど出会ったことがありません。サルにもスマホ、という時代。ここでもぼくは「時代遅れ」なんですね。何周遅れか。でもいつか時代がぼくに追いついてくる、そんな予感があります。自分は右往左往したつもりがないのに、お前は「左翼だ」、「お前は右だぞ」と言われます。位置を変えたのは時代なんですよ。止まっている時計は、下手に動いているのより正確です。一二日に二回は「時間が合う」んですから。

 第五位「たばこ」は学生(になる前?)の頃から相当に長く吸っていました。ぼくの喫煙はちょっと変わっていて、三年吸って、五年禁煙などということをくりかえしていました。中断・再会の繰り返し。気が付いたら止めていたり、吸い出していたり。これも性分ですね。「俺は絶対に禁煙しない」とも、「どんなに値上げされても、音を上げない。きっと吸い続ける」という、そんな気は毛頭ない。意志が強いのか弱いのか。いまはすっかりご無沙汰しています。ほしいとも思わない。

 この傾向は酒でも同じでした。若い時から、かなりの呑兵衛だった。自分でいうのもおかしいが、かなり呑んだ方かもしれませんが、これもあるときに口にしなくなり、何年もたってしまいました。酒の上の失敗もあるわけでもなく、一人で呑むのが好きでしたから、一人で止めるのにも何の抵抗もなかったというのでしょう。「酒なくてなんの己が桜かな」「酔覚めの水のうまさや下戸知らず」とは、今は昔の物語。

 煙草は止められても、酒はダメだと勝手に信じ込んでいたのです。信じるよりも、止めるが易し。禁酒禁煙していても、かみさんには煙たがられるのは本当で、旧悪を暴かれるように「呑兵衛時代」を今でも非難されています。(ぼくは喧嘩はしない。しなければならないときはしますが、かみさんとの場合は、いつでも負けることにしています。「金持ち喧嘩せず」ということかなあ。「金持ちは利にさとく、けんかをすれば損をするので、人と争うことはしない。または、有利な立場にある者は、その立場を失わないために、人とは争わないようにする」とはデジタル大辞泉ですが、この意味でなら、ぼくの場合は違う。まず勝てない、連戦連敗の結果、喧嘩はしないにかぎるという処世訓。男とはよく喧嘩をしました)

 というわけで、もしぼくが川柳を詠んだらどうなるか。さぞかし、覇気のない、面白みのない、「出涸らしのお茶」の味がするかもしれません。本年は出だしから「コロナ流行り」が海外で認められ、あっという間に、この島にも飛んできました。以来ほぼ一年、今なお猛威が衰えないどころか、さらに勢いを増してきました。今年の「サラセンん」はすでに締め切られ、年明けの一月末に発表されるそうです。いのち存(ながら)えて、コロナ禍の「みんなのサラリーマン川柳」を味わいたいですね。

 憂き世にぞ 笑いはいのちの 晴雨計(無骨)

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ことばの種をまく人、それが教師かも

 教科書という「本(ほん・もと)」をもとにして、教師の仕事を考える                                      

 学校にあっては、必ず指定された「教科書」がついて回る。子どもにも教師にも。この習性は学校教育開始以来、百五十年間続いてきました。学校の、数ある不思議の一つです。参考書や好きな本を持ち込むのも可能でしょうが、かならず、そこには教科書が位置を占めています。その理由は何でしょうか。明治初期は「国定教科書」と呼ばれ、戦後は「検定教科書」と呼ばれてきましたが、要するに手続き的には根っ子の部分に変化はなかったといっていいでしょう。「教師が教えようとする、教えなければならないとされた内容」を国家が「過不足なく提示」したものです。それを使わない自由もそれを教師の考えに従って(自由に)「解釈」することも認められないともいえるほどです。

 世に「教科書裁判」と言われるものがいくつかありましたが、それは基本的には「教科書執筆者」が起こした裁判でした。細かいことは省きますが、国定・検定問わず、教育内容を国家が規定しているというものです。したがって、教科書を内容にそくして「教授」しなかったことで処分された教師もいるのです。戦前戦後を問いません。そこにこそ問題があるとぼくは考えますが、今はそれを問わない。別の機会に扱うことにします。

 教師にとって、教科書とは何か。言わずもがなの問題ですが、なかなかどうして、よくよく考える必要がありそうです。自明の表情をしている者こそ、強く疑え。「教科書を教える」といいますが、その中身を何でしょうか。どこまでが教えるの範囲に入るのか。また「教科書で教える」とも言われてきました。「…を」と「…で」とでは、内容も方法もかなり異なるに違いありません。問題は「教科書」をどのようなものとして受け止めるか、です。以下、いくつかの視点で愚考してみます。

 Ⅰ教科書を読む(教科書を読むという教師の仕事)

   教科書はどのような「ことば」で書かれているか。一冊の「本」として教科書をみると、だれにとっても同じ「ことば」で書かれています。それは他のどの本(書物)とも変わらない。だれにも同じ「ことば」を「わたしが読む」(I read・I understand)であり、その意味を考えたい。教科書を読むとはどのようなことか。「読書という概念」が求められていると思う。書かれていることを読む、簡単じゃないかとたかをくくらないこと。字面を追うことは読むことではないし、人それぞれの読み方があるのです。「雨が降ってきました」という短文も、読む側に応じて多様な場面に変容してくる。シトシト降る雨ばかりではないし、人間を憂鬱にさせるのが雨という相場を応用するのは安易に過ぎます。

 一見すると、教科書の「ことば」は情報のことばのようにうつります。しかしだれにもひとしい「ことば」を読むのはリテラシーの問題だといえます。教師(生徒)にとって教科書を読むというのは「伝えられる」(「読まされる」(教師))側の主体性が問われる行為です。

  教科書を伝える(教師の仕事としての授業とは?)

 漱石や鴎外の作品の「現代語訳」が違和感を持たれない時代になっています。子どもたちは『我が輩は猫である』も『舞姫』も、旧文では読めないという。江戸期を背景とした落語が古典になったのと事情は同じです。時代や環境の変化は「読む・伝えられる」側のリテラシーの変化をもたらすからです。歴史教育の問題も似た状況にあると思う。だれにも同じ「ことば」(情報のことば)をそのままに「教える(伝える)」のではなく、それを受けとる側が自分の「ことば」(問題)にするところまでふくむ、それが「わたしが伝える」(I teach・I communicate)です。人と異ならない「ことば」によって一人ひとりのちがいが生まれる「ことばのちから」を軽視したくない。授業というのは教師、生徒ともどもに「ことばのちから」をつけるかけがえのない経験です。(「ことばで自分をどう表現するか」ではなく、「ことばを自分はいかにゆたかにできるか」、それが大切だ。長田弘))

教科書を書く(教師が教科書をつくるとは?)

 いろいろな立場からつくられた教科書があっていいと思う。検定教科書はまかりならぬという立場をとりたくない。だから教師が自分の「ことば」(肉声)で書く教科書もあり、生徒たちといっしょにつくることも必要です。自由につくられた教科書から自由に選ぶという、その「自由」を尊重したい。自分でつくった教科書をつかって授業をする、それによって授業は(教師・生徒の)生きられた経験になるはずです。教育の極意は自己教育だと考えていますから、それが「わたしが書く」(I write・I compose) という意味です。

 我見を主張するために「書く」のは教育の本意にもとることはいうまでもありません。

ことばの種をまくひと(なにが教師のちから(力量)となるのか?)

  ことばのふたつの方向

 (1)他者とやり取り(交換)できる「知識(情報)」のことば

 (2)自分を「確かにする(確かめる)」ためのことば

   どんな事柄もことばで表現できるというのは嘘です。ことばはたんなる道具ではないからです。たとえば「歴史」。これが歴史だと指でさすことも手で触れることもできない。「車」なら、ことばはいらない。現物があるからです。目に見えないけれど、たしかにある、しかもだれにも共通することばでは言い表せない、それを表現するのが「わたしのことば」です。「人権」ということばは読み書きできる、でもそれが何であるかは語りがたい。それを表すのが自分の経験です。経験をことばにする、ことばを経験する。それが欠如しているのが「情報化」といわれる時代です。知っているだけのことばが多くなると、自分を確かめることばはたえず失われてしまい、それに気づかないからです。(漱石も鴎外も、西郷も大久保も、すべからく「情報」としてしか求められない。その言葉の持つ歴史が欠如しているし、その作品に関わる「鑑賞」が失われてしまったところで、どんな歴史教育や文学教育ができるのでしょうか。

 わたしたちの現状は、いろいろな面で「貧しい国(社会)だ」といわれます。それは「心身ともには貧しい」であり、「物は、一見すると豊かそうですが、実のところは既製品の山であって、本当に求められるような物は貧しい」であるからです。その昔、この島は、自由主義圏第二位の経済力を誇っていたそうですが、今では誇るものが何もない島社会になってしまいました。別に「経済的な規模」だけが問題であると考える必要などありませんが、経済力が縮小すると、それに応じて精神力さえも縮小してしまった(貧しくなった)気になるのはどうしてでしょうか。必要以上に物品を持つことが「豊かさ」の中身だったということはなかったか。

 世界における経済的な地位が下降するにつれて、人間の質までが劣化してしまったというのかもしれません。学校教育の「空洞化」という指摘は、何時の時代でも言われたことですが、今日「空洞化」には拍車がかかっているように思われてきます「空洞化」ではなく、「空洞」になったからというのです。理由や背景には複雑な関連があるのですが、ぼくは「ことばの教育」が「情報教育」に堕してしまっていることが致命傷だと考えています。「教科書」は大切ですが、それをじゅうぶんに読みこなすことができなければ、「書かれた内容(情報)」を授受するばかりが教育のできること(すべて)になり、教師も子どもも、言葉を育てる契機を失って、次第に思考することに不自由を託つようになるのです。

 ひとは「ことばを使って考える」存在です。「ことば」を持たなければ「考える」働きは、ある種の習慣化されたものになるだけです。考える・判断する、これは未知の場面における身のこなし方でもあるのです。人間の体は一つの土地だとするなら、その土地の地味に見合った種や苗が求められるのですが、果してそのような繊細な選定を、「教室という畑」で教師は実践しているでしょうか。

 ことばに対する学校教育の状況は、まさしく「貧しい、あまりにも貧しい」のではないでしょうか。現実に「種子」や「種苗」を粗末にする島の状況は、学校教育の場面においても「タネ」「土」を、実に疎かにしているのです。ことばは育てなければ豊かにならない。育てるのは自分です。自分でことばの種をまいて、自分でそれを育てる。教育というのはそのような感受性(感覚)の問題でもあるのです。自分流の「ことばの感覚」をどこまで(子どもたちが)確かにすることができるのか、今こそと言いたいのですが、それが教師の(子どもたちに対して)なすべき仕事だとぼくはつたない経験から学んできました。

 子どもにとって、教師はことばの種をまくひとであり、まかれた種を自分で育てるのは生徒(自分)です。しかし、教師もまた自分で、自分の「ことばの種」をまいて育てるひとであるのはいうまでもありません。「種は命の源」というのは、単なる比喩なのではありません。

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(参考までに)

 言葉というのは、どこかに転がっているのではなくて、いつのときも心の秤(はかり)に載っています。秤はバランスでできているので、こちら側に言葉を載せると、反対側におなじ重さをもつ何かを載せなければならない。秤の反対側に載っているのは、経験です。

 経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかではなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。

 その言葉によって、自分で自分を確かめ、確かにしてゆく言葉。経験を言い表すことができる、あるいはとどめることができるのが言葉ですが、言葉にするというのは、問いに対して、正しい答を出すということとは違い、正しい答をこしらえるということではなくて、自分について自分で、よい問いをつくるということです。正しく問いを受けとめないで、正しい答を探すから、わたしたちは過つのです。

 言葉と経験を載せている心の秤が、感受力です。感受力というのは、だれかに教えられて育つというものではなくて、自分で、自分の心の器に水をやってしか育たない。そういうものです。しかし、自分で自分というものを確かめてゆく方法でしか、確かにしてゆくことができないとすれば、どうすればいいか。(長田弘「今、求められること」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊)

(お断り この駄文は、十年以上も前にある月間雑誌に依頼されて書いたものに加筆や修正を加えたものです。いかにも古証文だと羞恥心が沸きますが、それをここに持ち出してきたのは、今でもこの、偏った考えは、ぼくのなかでは変わっておらず、また、ひょっとして読まれる方(おられると仮定して)にとってはなにがしかの思考の材料になるであろうと判断したからです)

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「まさか」と、「やっぱり」と

 小学校長が覚醒剤所持 町長「まさかという思い」 覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで、兵庫県香美町立小学校長の楠田千晴容疑者が逮捕された事件を受け、同町は12日、記者会見を開いた。浜上勇人町長は「教育委員会の中枢にいた人物で、まさかという思い。町として厳粛に受け止め、信頼回復に全力で取り組みたい」と謝罪した。 町教委によると、楠田容疑者は、教育現場を指導監督するこども教育課の課長を経て、今年4月、児童数が町内最多の同小校長に着任。小学校長は初めての経験だったが、同小は教諭時代の初任地ということもあり、当時を知る保護者らの信頼も厚かったという。教諭の妻と母親の3人暮らしで、逮捕前に勤務した今月11日は午後から有休を取っていた。/ 藤原健一教育長は「覚醒剤に手を出したことは信じられない。職場での負担が原因になったとは考えられない」と話した。/ 保護者の女性(37)は「登下校時の声掛けを絶やさず、子どもとサッカーもしてくれる快活な校長だったのに」と驚いていた。/ 兵庫県教委教職員課は「事実であれば大変遺憾。詳細を確認し、適切に対処する」とのコメントを出した。(金海隆至)(記者会見で謝罪する(左から)今井雄治副町長、浜上勇人香美町長、藤原健一教育長=12日午後、兵庫県香美町香住区香住、同町役場本庁舎 右上写真)(2020/12/12 21:28神戸新聞NEXT)

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 自宅で覚醒剤を所持したとして、兵庫県警尼崎南署は12日、覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで、同県香美町立小学校長の楠田千晴容疑者(54)を現行犯逮捕した。「私が使うために持っていた」と容疑を認めているという。/ 同署によると、楠田容疑者は同日午前6時40分ごろ、同県新温泉町の自宅で、チャック付きポリ袋入り覚醒剤1袋を所持した疑い。薬物関連の捜査の過程で、同容疑者が浮上し、同署が調べていた。/ 楠田容疑者は香美町教育委員会こども教育課長を経て、今年4月に香美町立小学校に赴任。逮捕を受け、同町教委は職員らが急きょ出勤し、対応に追われた。12日午後にも記者会見し、経緯を説明するという。(2020/12/12 11:50神戸新聞NEXT)

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 まさか校長が、という周囲の反応は正常です。「やっぱり」というのだったら、「どうしてそんな人間を校長にした」と非難されること請け合いですから。例えが適切じゃないのですが、まるで「交通違反のように」薬物使用は蔓延しているとぼくは見ています。もちろん、薬物使用で逮捕されない者の方がはるかに多いのですから、まるで「薬物天国」という状態じゃないでしょうか。ぼくはこれまでに、何人もの薬物中毒者に会ってきました。薬物に手を出す理由はそれぞれでしたが、一番の目的は「現実逃避」というか、状況を変えたいという心理に駆られての「使用」だったと思います。

 教育委員会の「中枢」だった人が、初めての校長職で、いろいろと緊張や焦燥があったのかもしれない。しかし、そのような場面にある人はいくらでもあり、その人たちがすべて「薬物」に逃避しているわけではないことを考えれば、問題は「本人自身」にあったという、平凡なところに落ち着くのです。ぼくがこの事案を取り上げたのは、校長先生に「怒り」や「同情」を感じたからではありません。先ずはこの学校の子どもたち、さらにはこのニュースを知った多くの子どもたちが持たされる「不信感」の大きさを想定するからです。だれであれ、「薬物所持(使用)」は法律違反。しかし「えっ、あの校長先生が」、という時の驚きと落胆は半端じゃないと思います。「校長も弱い人間だから、仕方ないよ」という子どもがあるかもしれないし、それはそれでまともな反応だといえば、石をぶつけられるかもしれない。

 なにせ、この島では「最高権力者」と自他ともに任じていた人物が「真っ赤な嘘」を国会で、それも長期にわたってついていたのですから。「まさか、あの総理が」と驚いた人はいなかった、「やっぱりなあ」と、納得というのではなく、あの虚仮なら嘘もつきかねないとほとんどの人が知っていた。問題はそんな人間を「総理」に担ぎ通した政治屋・政治家への「不信」が異様に増大したという点です。「政治への信頼」といいますが、その政治を担っている政治家と称する個人への信頼が揺らいでいるのです。これは教師においても同じ。「教育への信頼・不信」「学校への信頼・不信」などではなく、教職にある「個人」への信頼の失墜こそが、子どもたちの内面に消えることのない「ひっかき傷」(外傷ではなく、内傷)を残すという、その後遺症に、ぼくは心を痛めるのです。「あの校長先生ならやりかねない」という、悟ったような反応も困るけど。

 総理が白昼堂々とテレビの国会中継で「嘘を吐く」「国民を愚弄する」、大臣が大臣室で「賄賂を受け取る」、そんなやりきれない時代にぼくたちは遭遇している。ホント、やりきれないね。(さらにぼくはがっかりしているし、いささか体調も心配になりだしてもいます。「アキタフーズ」とかいう広島の鶏卵屋が「贈収賄」事件の中心人物だったとされています。この三年ほど、ぼくはスーパーで、宣伝文句の「シェフにもおすすめ、このコクと旨味。特許取得」「きよら」「グルメ仕立て」「富士山ポートリー産直」「飼料に新旨味原料配合 ビタミン強化」につられたわけではないといいたいんですが、「アキタフーズ」の卵をせっせと買っていたし、食べていたんです、かみさんにも。「ポートリー」というが、「固定籠」じゃなかったのか) 

 どうしますか、この始末。さらに頭にくるのは、衆議院副議長の席を占めていた議員(赤松某)が、今季限りで引退を表明したという報道。彼もこの業者から「献金」を受けていたとされる。賄賂だったかどうかわかりませんが、「政治献金疑惑」のニュースがが出ると同時に「引退」という早業だ。与党も野党もありません、すべては「一蓮托生」であり、「家の子郎党」じゃないかと、ぼくは見てきました。「小選挙区制」は、この「一蓮托生」「家の子郎党」集団の結束を加速度的に強化したのです。いずれ劣らぬ、永田町の住民です。

 今期限りでの政界引退を十二日に正式表明した衆院副議長の赤松広隆さん(72)=愛知5区=は、名古屋市内で開いた会見で、「国会議員生活は波乱の三十一年だったが、政治家冥利(みょうり)に尽きる活動ができた」と振り返った。引退後は「現役の皆さんの邪魔にならない形で立憲民主党県連や各議員のお手伝いをしたい」と述べた。 衆院当選一期目で社会党書記長に抜てきされ、結成に携わった民主党政権では農相を務めた。会見で二度の衆院副議長就任などにも触れ、「県議時代を含めると四十二年間、一度も議員バッジを外さなかった。そういう政治家としての道を歩めたのも、支援者や仲間のおかげ」と感謝した。(中日新聞・2020年12月13日 05時00分)

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「復興を弄ぶ狂気」の止むときはあるのか

 首相、原発処理水先送りできず 福島第1巡り、認識表明

(右写真 高田松原津波復興祈念公園を訪れ、献花する菅首相= 10日午後、岩手県陸前高田市)

 菅義偉首相は10日、東京電力福島第1原発の汚染水を浄化した後の処理水の処分について「極めて重要な事であり、いつまでも先送りはできない」との認識を改めて示した。視察先の岩手県宮古市で記者団に語った。/ 処理水を保管しているタンクは2022年夏にも容量が限界となる見込み。政府は海洋放出を検討。10月にも処分方針を決定する方向だったが、調整に時間を要しており、結論を得ていない。/ 首相はこれまでも処理水への対応を先送りできないとの認識を表明。風評被害対策にも取り組む考えを示している。/ 首相は、被災地の復興状況に関して「内閣として全力で応援していきたい」と強調した。(秋田魁新報電子版・20年12月10日)

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 年が明ければ、福島原発事故発生以来、十年目を迎えます。「復興」は急ピッチで進み、各地に避難していた被災者もほとんどが帰還し、それぞれの地域はかつての賑わいを取り戻したように見える、よくここまで「復興」したものだ、さすがは「政府の力は本物だ」と、被災地では感嘆の声がしきりです、かくいうのは「真っ赤な嘘」で、復旧もしていなければ、復興などなおさらだという景観(証拠)がいたるところで見られるのです。被災地におられる方々には申し訳ありませんが、まるで「無人の荒れ野」ではないか。

「なんとか伝承館」が作られ、今夏(9月20日)開館しました。中味は空虚で、福島原発事故は遥か彼方に消えてしまったという「原発事故遮断。隠蔽記念館」のようでもあります。東京新聞の空中写真でもわかるように(右写真)、広大な無人の荒野に「伝承館」は位置し、その西側には福一がいまなお事故後の困難を極める処理作業に奔走しているさまが見て取れるのです。今でも日々、放射能は降り注ぎ、地下水は汚染され、場所によっては基準値(誰が設定したのか)を超える数値が示されているのです。「伝承館」もできた、「震災と原発事故」を「振り返りましょう」という旗を立てて、インバウンドにも誇らかに復興を誇示するかのように、人も住めない場所に「伝承館」は孤立しています。

 最後まで復旧が遅れていた常磐線。この春にようやく全線が開通した。この春でなければならなかった。まだ十分に安全だとは言えない状況にもかかわらず「全線開通」の日が三月に設定された。なぜか。いうまでもなく、東京五輪開催のためには、三月開通は至上命題だったのです。避難者がどれだけ残ろうが帰還者がまったくいなかろうが、被爆線量がどれだけ高くとも、とにかく「全線開通」で、福島は復興したのだと、世界に向けてアピールした(かったのだ)。驚くべき、政治の退廃。

 つまりは、島の中だけではなく、世界に対して「嘘」を発信していたのです。「原発はコントロール」下にある、汚染も減少した、復興住宅も召し上げる、とさんざんのごまかしや無理強いをして、荒れ地を更地にするかのごとく、そべて「汚染物」を地下に隠し、海中に投棄して、さあ「五輪開催」です、と既成事実つくりの一環で、あることをないことに、ないことをあることにされてきたのでした。とにかく「万難を排して、五輪を開きたかった」という前総理の企みだった。「この馬鹿が」、と今では誰もがみなしているだろうか。

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 常磐線、きょう全線開通 被ばくの懸念 根強い声

(写真左 帰還困難区域を通過する車両の線量測定などを訴える動労水戸の組合員ら=ひたちなか市で)

東京電力福島第一原発事故の影響で不通が続いてきたJR常磐線富岡(福島県富岡町)-浪江(同県浪江町)間の二〇・八キロで十四日に運行が再開し、茨城県民になじみ深い鉄路が九年ぶりに全線開通する。しかし、不通区間の駅周辺の避難指示は解除されたものの、一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままだ。県内の労働組合や沿線住民の間からは、放射線被ばくによる健康被害を懸念する声が根強い。 (佐藤圭、水谷エリナ)

 JR東日本の社員らでつくる労働組合「動労水戸」の調査によると、試運転で帰還困難区域を通過した車両のフィルターに付着したちりから一キロ当たり二三五〇ベクレルのセシウム137が検出され、放射能濃度は通常の車両より二十三倍も高かった。動労水戸は調査結果を踏まえ、帰還困難区域内を通過する車両の線量測定のほか、車両整備員の被ばく防止教育や防護用具の配備を要求したが、JR側は「車両の測定を実施する考えはない」と拒否している。

 JR東日本水戸支社の雨宮慎吾支社長は十三日の定例会見で、車両への放射性物質の付着について「(不通区間の空間線量が避難指示の目安を下回る)毎時二マイクロシーベルトだということから考えて問題ないと思う」と主張した。/ 動労水戸は十三日、ひたちなか市のJR東日本勝田車両センター前で抗議活動を展開し、約二十人が「会社は車両の線量を測れ」「労働者を被ばくさせるな」「乗客を守れ」などとシュプレヒコールを上げた。/ 車両センターでフィルターの洗浄作業に携わっている整備員は約五十人。木村郁夫委員長は「毎日のように放射性物質が付着した車両が入ってくるが、現状のままでは労働者が健康を害し、命を失う危険さえある」と警鐘を鳴らす。

 牛久市の主婦(62)は全線開通に疑問を抱き、勉強会を開いたり、JRに問い合わせたりしてきた。「JRは観光PRばかりで、帰還困難区域内を通過する点には触れない。車両を測定せず、社員の健康を守ろうとしない姿勢では、乗客の安全も心配だ」と不信感をあらわにする。

◆専門家ら疑問視 

 福島第一原発事故を経験した元首長や専門家も常磐線の全線開通を疑問視する。

 原発事故当時の福島県双葉町長で、町民の県外避難を指揮した井戸川克隆さん(73)は「原発事故の悪いイメージを早く払拭(ふっしょく)し、東京五輪という大行事に国民を熱くさせるためだ」と指摘した上で、「放射能汚染を示す数字はごまかせても、重要な交通インフラの鉄道が開通していない物理的実態は隠蔽(いんぺい)できないので、無理な開通をさせた」と断じる。

 原発の危険性を告発してきた元・京都大原子炉実験所助教の小出裕章さん(70)も「(不通区間は)本来なら放射線管理区域に指定しなければならない場所。公共の交通手段が乗り入れるなんてあり得ない」とあきれる。/ 放射線管理区域は、原発や放射性物質を取り扱う研究機関や医療機関で設定され、作業者や周辺住民の被ばくを基準以下に抑えるため、人や物の出入りを厳重に制限している。

 一般人に許容される年間被ばく量は一ミリシーベルトだが、福島第一原発事故による避難指示に当たって年間二〇ミリシーベルトに緩和。国は今月、緩和した基準に基づき、不通区間の夜ノ森(富岡町)、大野(大熊町)、双葉(双葉町)の三駅と線路、周辺道路の避難指示を解除した。/ 小出さんは「二〇ミリシーベルトというのは、かつての私のような放射線業務従事者が、給料をもらう引き換えにようやく受け入れさせられる線量。それを子どもも含めて適用するなんて論外だ」と指弾した。 (宮尾幹成)(東京新聞2020年3月14日)

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 人命尊重が何よりという。ホントにそう考えているのかと問えば、途端に怪しくなる。「国民のいのちを最優先にするのがわたしの政治」と現総理は啖呵を切った。詭弁を使うことは知っているんですね。口から出まかせとは言うまい。心底そう思っていることを吐露したまでだと言われるかもしれないが、それならもっと悪質だと言わなければなるまい。この総理が何をするか、ぼくは手に取るように見える。「汚染水」は海洋投棄を腹では決めているという。なぜそうなのか、理由や根拠は示せない。つまるは「問答無用」なんですね。俺のすること、言うことに文句をつけるなという、もっとも唾棄すべき手法です。「鬼に金棒」ではなく、「なんとかに刃物」の類で「権力」をふりまわされて困るのは、だれあろう「最優先で守らなければならない国民」であることを、この御仁は忘れたらしい。つまり、「口から出まかせ」の化けの皮、なんでこんなのばかりがまかり出すのでしょうか。それが政治家というものさ、とささやく声がする。

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 「政府は、『復興』の名の下に避難指示区域の解除を進める。住民の立場に立って考えてほしいと思うが、霞が関や赤坂のビルの中から、福島の住民のことを「我がこと」として考えるのは難しいのかもしれない。霞が関は、東大をはじめ有名大学を出ている人たちが仕切っている」「首長は避難指示の解除を求めるが、住民はほとんど戻らない」「家に戻りたい人たちもいる。しかし健康影響がわからず、廃炉が進まない中では戻れないという人たちもいる。今後の放出のリスクをどこまで引き受けられるか、被爆のリスクをどこまで引き受けられるかという判断は、すべて自己責任になる」「賠償は打ち切られる。原発事故避難者用につくられた復興公営住宅に入居した人や多くの自主避難者が避難者数から除外され、数字の上では避難者数そのものが急速に減っている。避難指示区域が解除されると、避難者は「強制避難者」から「自主避難者」へと呼び名が変わり、そればかりか、「帰らないわがままな人たち」とレッテルを張られるようになる」「『避難者を支持しよう』という言葉すら、言えなくなる日も近いかもしれない」(青木美希『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』講談社現代新書、2018年刊)

 青木美希さんについてはどこかで触れておきましたが、この間、つねに福島に通い詰めで、事故後の軌跡を丹念に報告されています。このような人の仕事に対して、ぼくは敬意を隠しません。彼女以外にも、何人もの方が取材を続け、事態の行く末を報道されています。青木さんも、どこかで言われていますが、このような取材や報道を快く思わない、語るに落ちた「選良たち」が大きな顔で闊歩している。

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