「自分は強い」というのは虚勢の表れ

【斜面】強さと強引の履き違え 経済や政治に提言を続けた松下幸之助は「軍事大国でも経済大国でもない」日本の在り方を模索している。たどり着いたのは「海外や人類に力強く奉仕、貢献できる国家」。著作「遺論(ゆいろん)・繁栄の哲学」で「精神大国」との言葉で示した◆幸之助設立の松下政経塾を20代に卒塾した高市早苗さんが、首相として初めて臨んだ臨時国会が閉幕した。掲げたのは「強い経済、強い外交・安全保障」。閉幕後の記者会見でも「強い」という言葉を9回使っている。高市さんの言う「強さ」とは何か◆対中強硬派で知られる高市さんは、衆院予算委員会で台湾有事を巡って従来の政府見解を踏み越える答弁をして、中国側が反発。日本維新の会との連立協議では、維新側が求めた衆院議員の定数削減を、党内の議論がないまま合意書に盛り込んで「乱暴すぎる」との声がやまない◆「政治とカネ」問題は「そんなことより定数削減」と追いやる。防衛費は増やし、武器輸出のルールは緩和方針。非核三原則見直しもにらむ。政治姿勢は「強さ」より「強引」か。気になるのは安倍晋三首相時と同様の「忖度(そんたく)」が生まれつつあることだ◆政府の男女共同参画会議で、高市さんが選択的夫婦別姓議論で掲げる「通称使用法制化」を、議論を全くしていないのに事務局が答申案に盛り込み、出席者が反発する事態に。氷海を突き進む砕氷船のごとく船出した「高市丸」はどこへ? 幸之助が夢見た「世界に範を示す国家」は遠い。(信濃毎日新聞・2025/12/19)

 誰に限ることではありません。「自分は強いのだ」と言いたがる人間は、押しなべて「隠しようのない弱さ」を示しています。人間(に限らない)の「弱さ」「強さ」はいろいろにとらえられましょう。他人に対してこれ見よがしに「俺は強いのだ」「強い私よ」と言いふらすものに、本当の「強さ」を示す何物も持たないものがほとんど。「強い」という表現を使いたがること自体、強さの実態を持たない空虚(虚勢)な言葉を操って、「自分は強い」と思い込みたがる、自己に暗示をかけているに過ぎすぎないでしょう。コラム「斜面」に「対中強硬派で知られる高市さん」とあります。そうでしょうか。「中国何するものぞ」と、内向きに言うだけなら、歴史認識を著しく欠いた「愚見」「極論」にすぎないし、「こう言うと、相手はどう思うだろう」という配慮がないのに、強がりを言って自己満足をしたり、取り巻きの機嫌を伺ったり、そんな人間が「強い」はずもないです。

 「強い経済、強い外交・安全保障」と勇ましいことを語るが、その実態は何か。ぼくに言わせると「騙るに落ちた」話でしかないというものでしょう。あなた好みの「首相」になりたいとばかりに、アメリカのご機嫌を伺うことが首相の役目だと只管(ひたすら)思い込むという近視眼の人間。ぼくは「現首相」の悪口をひたすら喋っているように思われるでしょうが、案に相違して、嫌いなのは「嘘つき」「自己自慢」「他者への無配慮」に長(た)けている人間であって、それが「今の首相」にぴたりと重なるというだけのことです。なってはいけない人が「首相」になると、迷惑を被(こうむ)るのは自国民であり、他国の人々でしょう。この人は相当の「嘘つき」です。大体が「政治家は虚言」で生きているところがありますから、恐らく、彼女は政治家に向いていたのでしょう。だから総理大臣になっていい、とはぼくには思えない。もっと言うなら、一日も早く辞めてほしいと願うばかり。

 「高い支持率」が言われますが、その支持者の群れを見ていると、空恐ろしくなります。支持の第一の理由に「女性だから」と言うのが上げられていました。恐ろしいですね。中身(人品)は問わない、女だから、これが支持の理由になるなら、政治的センスも何もあったものではない。しかし、支持率が高いのは事実ですから、その事実をこそ、ぼくたちはよく考えなければならないと思います。たまたま、今回は「女性だから」であって、「ほかに(信頼できる)人がいないから」という理由だって「高い支持率」の根拠にもなります。でも、ぼくたちは、よほどでない限り、「この政治家「あの政治家」がどういう人か、ほとんど知るところがない。政治信条も政治活動(履歴)も含めて、何も知らないのに、見た目の印象で「支持する」となるのですから、考えるまでもなく、実に空恐ろしい。(ありていに言う、首相への忖度の度合いを測るなら、すでに「大政翼賛」体制は出来上がっています)

 自分が総理大臣(首相)になるためなら「悪魔と手を結ぶ」と言うほどに、まともな人間集団とは思えない「維新」という「半グレ政党」(評論家の佐高信氏の表現)と盟約を結ぶ。誰でもよかった証拠に、いま拘置所に入っているN国党党首の率いる党とも手を結んだ。いずれ、そのためには参政党とも国民民主党とも連合(野合と言うべきか)するに違いありません。政治信条や政治姿勢に賛同するからではなく、首相の地位を守るためだけに徒党を組むという無節操。一体、この風潮・風儀をどうしますか。「政治姿勢は『強さ』より『強引』か。気になるのは安倍晋三首相時と同様の『忖度(そんたく)』が生まれつつあることだ◆政府の男女共同参画会議で、高市さんが選択的夫婦別姓議論で掲げる『通称使用法制化』を、議論を全くしていないのに事務局が答申案に盛り込み、出席者が反発する事態に」(コラム「斜面」)という具合で、ぼくは泣きたくなるほどの、そこの浅い「空虚な政治(ごっこ)」だと言いたい。「裸の女王様」に取り入るうちに、すべてが、自分を失うんですね。

 余計な一言です。もともと「松下政経塾」を出たということ自体、ぼくには信用ならないという気分がある。何人かの政経塾出身政治家を知っていますが、信を置く気にはなれなかったですね。(もちろん、これはぼくの「偏見」です)いつも言うことですけれど、「惻隠の情」を失している政治家がそもそも存在し得るということ自体、矛盾しているでしょうね。ぼくには「だれ一人取り残さない」という政治家の甘言(「人の気に入るような口先だけのうまい言葉。甘辞」・デジタル大辞泉)は、現実においては「例外なく、すべての人を取り残す」となって表れるのがオチです。孟子の言う「惻隠之心」とは、そもそもが「仁の端なり」と言われたもので、「仁(rén)」という、他者への愛情(思いやり)を持たないで政治にかかわること自体、実に不遜千万だというべきでしょう。「惻(そく)」も「隠(いん)」も、「他者を労(いた)わる」「心配する」という意味合いを持った言葉です。

(余話です 新たなカテゴリとして「浅瀬(あさせ)に徒波(あだなみ)」などという無粋な「面目『めんもく・めんぼく・めいもく・めいぼく)」を加えました。まったく新味はありません。それでも、筆者としては、これを開いて「一種の精神の体操」にはしたいとの浅慮からのもの。「思慮の浅い人間ほど、おしゃべりで些細なことで騒ぎ立てるということ。『徒波』は『仇波』とも書き、浅瀬が徒(いたずら)にさざ波を立てる意から」ことわざ辞典ONLINE)「浅瀬あさせ仇波あだなみ《古今集・恋四の「底ひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」から》思慮の浅い者ほど大騒ぎをすることのたとえ」デジタル大辞泉)誰彼のことを非難がましく言い募るのではなく、もっぱら筆者自身への「あてつけ」「自戒の念」としたい、そんな願いを込めたつもりです)

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消費者に必要性を考える時間を与えず、…

【斜面】すぐ購入の代償 2500時間だった電球の寿命を1000時間に縮める-。欧米の大手企業が1925年に結んだカルテルだ。寿命が短ければ買い替え需要が増える。この「計画的陳腐化」によって企業は大もうけする一方、大量の電球が廃棄された◆現代にふえんし問題を提起した英国のドキュメンタリー映画がある。「今すぐ購入 購買意欲はこうして操られる」。頻繁なモデルチェンジや部品交換できないなどの陳腐化戦略、クリックすれば商品が届くシステムが操る過剰消費の構造をえぐり出す◆アップル、アマゾン、アディダスなどの元役員の告白が生々しい。アマゾンのアパレル部門の注文画面を立ち上げたという元社員の女性は自戒を込めて振り返る。「消費者に必要性を考える時間を与えず、衝動的な購入を促す。大量の商品がどこに行くか考えたことはなかった」◆世界ではいま、1時間当たり靴が250万足、スマホが約7万台、衣服は毎分19万着も製造されるそうだ。不用品は途上国に押し寄せる。人口約3千万人のガーナには「寄付」された衣服が週に1500万着も届く。大半は廃棄され海岸にあふれている◆電子廃棄物の行方を調査している男性はタイにたどり着く。そこでは住民が手作業で分解し、大量の有害物質が漏れ出ていた。過剰消費の代償は「貧しい国の人々の健康で払われている」。ブラックフライデーからクリスマスへと商戦が続く折、クリックの前に想像してみたい現実である。(信濃毎日新聞・2025/12/18)

 「過剰消費の代償は『貧しい国の人々の健康で払われている』」という指摘が、我が身に甚(いた)く応えるかのように、やり場のない怒りが自分の胸中にも生じるのを痛感しています。この過剰生産と過剰消費の悪循環の鎖にぼく自身も長年にわたり掴まえられて来たからです。「経済発展」とか「経済成長」などという、一種の「マヤカシの言霊」で、ぼくたちはすっかりその「虜(captive)」にされてしまったのでしょうか。その昔、世界は「東西問題(何よりも「米ソ」の対立)」で危機的状況を過ごしていましたが、「冷戦時代」の雪解け(thawing)で、その後は一挙に趣を変えて、それまではまるで隠されていたかのように等閑に付されていた「南北問題」が広く語られ始めました。以来、少なくとも70年近くになります。南北問題の核心は「経済拡張」、あるいは「経済格差」にありました。今も、その傾向は変わらないままでしょう。端的に言うなら、「南北間の極度の格差」問題です。

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◎南北問題【なんぼくもんだい】= 1960年以降顕著となった北半球の先進国と南半球の発展途上国との間の諸問題。拡大する経済格差の是正が中心課題だが,それを通じて新興独立国の結束が強まり,国際政治の面では両者の緊張が問題となっている。1964年国連貿易開発会議(UNCTAD)開催後,先進国による資本・技術援助や1次産品中心の貿易拡大策が進められている。1971年に発展途上の77か国グループが,より効果的な国際協力による南北経済格差の是正を要求(リマ宣言)。資源ナショナリズムの高揚を背景に,新国際経済秩序卯(NIEO)宣言が1974年の国連資源特別総会で採択されるなど,北側に対する南側の圧力は著しく強まった。しかし1980年代にかけて急増した累積債務は南側各国にとって重圧となり,また一方では,資源問題は南側諸国間の経済格差(南南問題)を進行させ,南北問題をより複雑化している。さらに1980年代末からは地球環境問題が南北問題の重要な一環をなすことが明らかにされ,〈持続可能な発展〉という方向が提示されている。(百科事典マイペディア)

◎ 南北問題(なんぼくもんだい)north-south problem= 地球の北半球温帯地域以北に集中している先進資本主義諸国と,以南に多く位置する発展途上国との間の著しい経済的格差から生じる経済的,政治的諸問題の総称。この言葉は 1959年末にニューヨークを訪問したイギリスのロイド銀行会長 O.フランクスの「いまや世界の中心問題はこれまでの東西問題から南北問題に移ったのであり,したがって資本主義諸国は南の世界,すなわち発展途上国の開発援助をその対外政策のかなめに据えるべきである」との提言に由来するといわれている。南北問題はその後,単なる発展途上国の経済的開発=工業化問題ではなく,発展途上国による国際経済秩序変革の要求と,それに対する先進資本主義諸国の対応という2側面を含むにいたった。それは経済的であると同時に政治的問題でもある。なお南北問題を討議する国際会議の場として,国連に直属する国連貿易開発会議がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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(「今すぐ購入: 購買意欲はこうして操られる」| 日本語の予告編 | Netflix)https://www.youtube.com/watch?v=Yqh7gAQboBw

(<Buy Now: The Shopping Conspiracy>の「コンスピラシィ(conspiracy)」のおおよその原意は「陰謀」「結託」「悪巧み」というところです。ネット通販企業のやっている経営の一番の根底には、考え方によれば、それこそ「陰謀」が働いているというほかなさそうな状況にあるとも思われます。これをいかにして「抑制」「節度」のあるものに換えることできるのでしょうか。おそらく、それは不可能で、いかなる配慮や良心が企業や消費者の側に働いても、現状の南側の国々を抑圧し、貧困状態のままに閉じ込めて置くという驚くべき惨状は変わりえないような気もするのです。

 それにしても、いまやネットの世界では「Netflix」が我が物顔で「現場」を徘徊し、睥睨しています。昨年でしたが、このドキュメンタリーを見ようとしたところ、「今すぐ購入」と強いられて、何度も購入を辞(止)めてしまいました。その後は、いろいろな映像に当たり、各種の史料を漁りつつ、この「大量生産・大量消費・大量廃棄」問題をていねいに考えようとしたところでした。何を隠そう、ぼくもこの歳になるまで、「大量生産・大量消費・大量廃棄」の渦巻きに巻き込まれて、それを「よしとしていた」のですから、いまさら「大企業の陰謀」を知るまでもなく、その企みの隅々までを、これまでに嫌というほど知らされてきた。今だって、ぼく自身は頻繁にアマゾンを利用して通販の品物を受け取っていますから、少なからず、この問題にはわが心も疼いていたのです。

 現下の別口の問題です。「2027年末までに、一般照明用の蛍光灯の製造・輸出入が終了します。水俣条約締約国会議の決定を受け、水銀使用製品である蛍光灯は2026年1月より順次、製造と輸出入が規制されます。そのため、今後は、計画的にLED照明への切り替えをお願いいたします。なお、規制開始後も、蛍光灯の継続使用、在庫の売買及びその使用は可能です」(経済産業省)という呼びかけがなされています。例によって、この問題の発生は早い段階から分かっていたことですのに、企業側の論理や収益(利益)に配慮して、今頃になって、とにかく「早く交換」しなければ、と急(せ)かすのです。もちろん「電球」だけを変えればいいというわけにもいかず、場合によってはかなりの工事を伴うことにもなりかねないし、何よりも「使用済み」製品の途轍もない大量廃棄の行方が気になるところです。

 「過剰消費の代償は『貧しい国の人々の健康で払われている』ブラックフライデーからクリスマスへと商戦が続く折、クリックの前に想像してみたい現実である」とコラム氏は結ばれています。しかし、この「南北問題」はさらに長く深く続くに違いないと、暗澹たる思いに駆られる。「産業廃棄物(industrial waste)」という名の現代社会の「生活の質・水準」を如実に示す「象徴」を目の当たりにしながら、ぼくたちは生き続けなければならないのでしょう。昨日のニュースによると、「EU」は35年までに生産を禁止する予定だったガソリン車の扱いを取りやめたと伝えられていました。「(石油を)掘って掘って掘りまくれ」と言う米国大統領の命令一下、ガソリン車は地球環境をさらにひどく汚染し尽くすまで利用されるのでしょう。深刻に過ぎる問題を前にして、ぼくにはいかなる思案も手段もありません。

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教師は「教える人」ではないよ

【有明抄】憧れの先生 女優の岸田今日子さんは幼いころ、学校に行けない時期があった。母親に説得されて、いやいや2学期から登校した。夏休みの宿題も絵日記も手つかずだった◆そのまま提出すると、先生は「楽しいことがたくさんあり過ぎて、宿題をする暇がなかったのかな」と笑いかけ、白紙の絵日記に大きく「○」と書いてくれた。岸田さんはいっぺんに先生のことが好きになり、学校に通うのが苦にならなくなったという◆教師の存在が学校を楽しくする。おととい佐賀市の少年の主張大会を聞いた。「夢は先生」と語る小中学生が例年以上に目立った。勉強のつまずきや友達との悩みに、いつもやさしいアドバイスで教室を明るくしてくれる。そんな大人のうしろ姿にあこがれるのだろう◆一方で、夢を壊すような現実もある。書類作りや部活指導などに追われ、教師の勤務時間は世界最長という。多様な子どもの可能性を引き出す細やかな指導、保護者のクレーム対応…。AI(人工知能)に置き換えられない仕事だけに悩みも深い◆岸田さんの思い出には続きがある。デビュー後に再会したとき、「○」をもらった礼を言うと、先生は「?」。「あれは丸じゃないよ、零点」。やはり現実はほろ苦い。それでも教育には「ゼロ」をいつか大きな「丸」に変える力がある。なり手不足の救世主たちにそう伝えたい。(桑)(佐賀新聞・2025/10/16)

 昨日のコラム「有明抄」に出ている岸田今日子さんの「逸話」をどう読むか、読むことができるか。今ではほとんど忘れられた女優でしょうが、盛んに映画やテレビで活躍されていた場面をぼくはよく見ていたし、彼女の独特の雰囲気に、ある種の魅力を感じてもいました。不思議な存在だった。つまらない話ですが、たった一度だけ、電車の中で彼女を見かけたことがありました。まだまだご健在の頃だったと思う。所属劇団は違っていましたが、先ごろ亡くなられた仲代達矢さん(1932~1925)とほぼ同時期に活躍された人でした。懐かしさが込み上げてきます。

◎ 岸田今日子(きしだ-きょうこ1930-2006 = 昭和後期-平成時代の女優。昭和5年4月29日生まれ。岸田国士(くにお)の次女。岸田衿子(えりこ)の妹。昭和27年文学座にはいり,「狐憑」でデビュー。28年「大つごもり」で映画デビュー。38年テレビドラマ「男嫌い」,39年映画「砂の女」などで人気をあつめ,テレビ,映画,舞台で活躍。テレビアニメ「ムーミン」の声優としても知られた。平成10年「妄想の森」で日本エッセイスト・クラブ賞。平成18年12月17日死去。76歳。東京出身。自由学園高卒。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 それはともかく、岸田さんの不登校時代と、彼女が登校できるようになったきっかけに 一人の教師がかかわっていたという話。しかも、彼女は戦時中は長野に疎開しており(昭和21年飯田高等女学校卒)、戦後に上京し、最終的には自由学園高等部を卒業した(昭和24年)と履歴にはありました。だから、このエピソードの出どころは疎開先の長野県飯田にあった小学校時代のものだったかもしれません。(詳細を調べる手間を省きました)この逸話を一読し、ぼくは直感的に「嘘だ」「作り話です」「盛り過ぎだ」と思いました。つまり岸田さんは「天性の役者」の才能を持っていた、と。もちろん、これはぼくの勝手な想像(推測)ですから、「『楽しいことがたくさんあり過ぎて、宿題をする暇がなかったのかな』と笑いかけ、白紙の絵日記に大きく『○』と書いてくれた」先生がいたというのは本当だったかもしれません、いや、そんな教師が「本当にいたかなあ」という気もする。それはどうでもいいことです。その「憧れの先生」と再会したのが「デビュー後」とありますから、舞台女優としての初舞台後のことだったと思います。彼女の父親は岸田國士氏(右写真)で劇作家であると同時に、劇団文学座創設者の一人でした。彼女はそこの研究所を出て初舞台(「キティ颱風」昭和25年)を踏んだとあります。小学校卒業後、数年を経ずしての再会だったでしょうか。

 「デビュー後に再会したとき、『○』をもらった礼を言うと、先生は『?』。『あれは丸じゃないよ、零点』。やはり現実はほろ苦い」とコラム氏は書かれている。履歴によると、彼女は文章もかなりの程度嗜(たしな)まれており、エッセィ集「妄想の森」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(平成10年)されたとありました。「白紙の絵日記に大きく『○』」と先生が書いてくれた」というところで終わっていれば、この逸話は完成していたと思います。でも、「あれは丸じゃないよ、零点」と教師が岸田さんの「思い込み」を訂正された、その段階で、この「逸話」は別のステージに変ったのだとぼくは思ったりしています。「零」と「〇」を取り違えることは、よくあることなのか、滅多にあるものではないことか。これもまた、岸田今日子さんにしてみれば、どうでもいいことでしょう。「取り違えた」結果、学校へ行けるようになり、先生が好きになったというのですから、めでたしというところで留めておけばいいこと。それにしても、このような物語として「想い出の教師」を語られるというのは、やはり「教師冥利」に尽きることでしょうね。(余計なことながら、「窓際のトットちゃん」にも、この種の逸話が頻出しています。みなさん、役者ですな)

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 教師になりたいと思う若い人が驚くほど少ないという深刻な事態がこの社会を覆っています。高知県だけが特別ではなく、これは全国的な傾向です。「なりたい」職業ではなく、「なりたくない」職種の、あるいは筆頭かもしれません。もちろん、そこにはいろいろな理由が考えられるでしょう。しかし、誰が見ても教師の仕事が「上意下達」に縛られ、際限のない長時間労働に流され、おちおち睡眠も食事も獲れ(摂れ)ないほどの不健康状態に教師たちを追い込んでいることにあるでしょう。どこかの女性首相が、のめり込み勢い込んで口にしたのが「働いて働いて働いて…」でした。つまりは長時間勤務も休日をも、つまりは「プライべーとな時間」を犠牲にするのもいとわないほどの覚悟のない人には無理な職業と言うのでしょうか。こんな働き人の姿を「滅私奉公(Selfless service)」と、その昔は持て囃された。「ワーカホリック(workaholic)」だけが教職に就くということかもしれません。ここでいう「公」とは国家、公けのことしか意味しないでしょう。個人個人の集合体である「社会(society)」の存在する余地はないことになっているのです。

 「《work(仕事)とalcoholic(アルコール中毒)との合成語》家庭や自分の健康をなおざりにしてまで、仕事をやりすぎる状態。また、その人。働きすぎの人。仕事中毒。1970年代に米国の作家オーツによって作られた語」(デジタル大辞泉)(下の書「近衛文麿による「滅私奉公」の揮毫)

 小学校の教員採用、合格者の約6割が辞退 高知県教委、追加選考へ 高知県教育委員会が今年実施した2026年度の小学校教員の採用試験で、合格を通知した260人のうち約6割が辞退した。採用は130人程度を予定しており、不足分を補うため、今月14日に追加で選考を行う。
 県教委によると、1次試験は5月末に高知市と大阪府の会場で実施し、計468人が受験した。辞退者らを見込んで採用予定の2倍の260人を合格とし、9月に通知したが、12月3日までに61.5%にあたる160人が辞退したという。
 現時点では、県外の現職教員や教職を離れている人らを対象とした別の選考の合格者1人を加え、101人の来春採用を見込んでいる。
 追加選考は40人程度の募集枠に対し、56人が応募。今城純子教育長は「予定人数は確保できるのではないか」と期待を語った。
 県では昨年、25年度採用の合格者の約7割が辞退、12月の追加選考などを経て春採用の129人を確保した。24年度採用分でも約7割が辞退していた。
 今城教育長は「教員サポートの取り組みや高知県で教職に就く魅力をしっかり発信することが辞退者を減らす有効な対策だと考えている」と述べ、採用候補者同士の交流会なども開く予定だとした。
 一方、人材確保に向け、県教委は今年度の試験から大学3年生に事実上の内定を出す新たな仕組みを導入。3年の14人を27年度採用の候補者名簿に載せた。(斉藤智子)(高知新聞・2025/12/04)《work(仕事)とalcoholic(アルコール中毒)との合成語》家庭や自分の健康をなおざりにしてまで、仕事をやりすぎる状態。また、その人。働きすぎの人。仕事中毒。1970年代に米国の作家オーツによって作られた語。

 少子化時代、だから学校統廃合が当たり前に進められています。一つの学校が消えるということは、そこで学んだ教師や子どもたちの歴史・経験が、あるいは学校が存在した地域の歴史が消えることを意味しないでしょうか。今時、「二十四の瞳」(松竹、1954年公開)は流行らないかもしれませんが、何でもかんでも「千の瞳」にしなければ始まらないという、法律や組織の論理が幅を利かせて、教師や子どもを窒息させているのではないでしょうか。教師になりたい若者が消えてゆく現実に、為政者も教育経験者も、ぼくに言わせれば「拱手傍観」のだらしなさです。学校教育が壊滅し、同時に高齢者の生命が脅かされている、これは同時進行の出来事(現象)であって、学校教育の閉塞感極まる事態に密接に連携しているのです。教師に「滅私奉公」を強いる社会は、子どもたちにも「社会的存在」になる前に「公に尽くす」心構えを徹底して鍛える。その「公」とは何ですか。そもそもの「公」とは「国」なんかではありませんね。国よりも、もっと大事な個々人の命の尊厳をこそ、教育が最も避けている、その危険な兆候を教職につかない・つきたくない若者は直覚しているのではないでしょうか。

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 次のコラムに「教師冥利」という語が出ていました。その意とするところは「仏・菩薩(ぼさつ)が人知れず与えるる利益(りやく)。知らず知らずの間に神仏から受ける利益や恩恵。また、善行の報いとして受ける幸福。 ある立場にいることによって受ける恩恵。 職業や身分を表す語の下に付けて、それにかけて誓うという意を表す」(デジタル大辞泉)とあります。「教師冥利」とは、この辞書に示されるどの部分にもっとも近いのでしょうか。「恩恵(grace)」と言う言葉が出てきますね。教師冥利に尽きると、教師をして言わしめるためには、「児童・生徒」の存在はとても大切な契機にもなるし、両者の間に、おそらく「冥利」と「感謝」が生まれるのではないでしょうか。

【談話室】▼▽生徒の人生を照らす光となる。鈴木実さんは1958(昭和33)年、荒砥中で教師冥利(みょうり)に尽きる経験をした。新米教師として赴任した白鷹町の中学校でのことだ。生徒は、後の政治ジャーナリスト田勢康弘さんである。
▼▽転勤先の青森県で父が死亡し、田勢さんは中学1年の冬を郷里で過ごす。担任が鈴木さんだった。3カ月後の春、今度は東京に転校する田勢さんに、鈴木さんは文庫本を贈った。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」。神学校で学ぶハンスが周囲の期待や規則に懊悩(おうのう)する名作だ。
▼▽裏表紙に鈴木さんは記した。「ハンスのごとくなるな。ハンスのごとくさせるメカニズムに抵抗せよ」。田勢さんは本紙への寄稿で「僕の人格形成にはもっとも影響を与えた」と恩師に感謝を認(したた)めた。その鈴木さんが93歳で旅立った。本県を代表する児童文学者でもあった。
▼▽個人的な思い出を記せば、読書感想文の課題図書だった鈴木さんの「オイノコは夜明けにほえる」を小学時代に読んだのが出会いである。後には文化担当記者として、ご寄稿の最初の読者になる僥倖(ぎょうこう)に恵まれた。山形文化の豊かな森に若輩者を導いてくれる温かな光だった。(山形新聞・2025/12/17)

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鹿もまた 早苗来ると 道空ける(愚)

【国原譜】鹿もまた 早苗来(きた)ると 道空ける―。奈良公園の鹿でさえも、高市早苗首相の迫力に思わず道を譲ってしまうとのユーモアを交えた川柳だ。 漫画家水木しげるさんゆかりの鳥取県境港観光協会主催の「妖怪川柳コンテスト」が今年で終了する。「AI(人工知能)が作った川柳を人間が考えたものと見分けるのが困難になった」が理由だという。 このニュースを聞き、試しに生成AIに「高市首相と奈良」をテーマに作らせたのが冒頭の川柳だ。素人の筆者には良し悪しは分からないが、それなりの句に思える。 川柳に限らず文学や芸術的な創造はAIの苦手なものとされてきた。しかし、技術発達は目覚ましく、同様の問題は他でも起こるだろう。 ただ、本紙「ニュース川柳」の選者一人は、AI利用をやみくもに禁止するのではなく、好機とすべきだという。読み手の技術向上とともに普及にもつながるからだ。AI活用で実力をつけたとされる藤井聡太六冠が人気の将棋は良い例だろう。 危険性も理解した上で恐れずに楽しむのが、AIとの正しい付き合い方かも知れない。(法)(奈良新聞・2025/12/16)

 時代は確実に変わってゆく。誰彼にもよりよく変わるのではない、その時代の優勢な者たちの意向に沿うように変えられていくというべきかもしれません。だから人心は必ずしも、それにつられるとは限らない。きっと「虜のされるもの」が出る。つまりは河島英五的にいう「時代おくれ」な連中というわけ。ぼくもその中の一人。その昔「歌は世につれ、世は歌につれ」と、歌謡曲も世情も、いわば一蓮托生、相身互い身で、互いが影響し合って(刺激しつつ、刺激されつつ)時を刻んできました。碁や将棋には「定石」「定跡」というものがあります。その「手」がどれだけあろうが、それをすべて頭に入れておけば、その次の一手が即座に打てる・指せるということでしょうか。一面では「AI(人工知能)」は百科事典みたいなもので、ひとりの人間であれば、その内容をわざわざ記憶に止めておいて、いざという時に役立つように使おうとします。「AI」は、人間がいちいち記憶するという手間や暇を省いてくれるので、とても便利に思われているのでしょう。それを常に繰り返していくと、人間の「知能」は空っぽになり、ひたすら「人工知能」に席を譲ることになる。それでもいいではないかという考えも成り立ちます。コンピュータによる制御で、ミサイルや爆弾が敵を滅ぼす作戦にかかりきりになる時、兵士の役割はボタンを押すだけになるのとよく似たような形をとるでしょう。「指先」の命じるがまま、ということです。

 「鹿もまた 早苗来ると 道空ける」は川柳かどうか、俄かには判断できません。作者は「AI」であると聞けば、それなりの反応をするでしょう。けれどもそうでなければ「なかなかの」という評価を受けるかもしれません。いろいろなところで、「人工知能」と「人間知能」が競合し、区別できないとなると、面倒な問題がさまざまな場面で生まれることでしょう。もうすでに始まっています。「SNS」では人工知能が開化・解放状態で、それこそ、人間知能ではとても追いつけないほどの、野放図な「作品群」を生み出しています。問題は、それをどう評価するかということですが、ぼくには、急いで答えを出すことはできません。一例として「裁判における量刑」問題が、今では「人工知能」の助けを借りて行われているといいます。「AI」のメリットでしょう。判例(前例)主義と言うのは、同種の犯罪の過去の事例を参考にして、当該事件の判決が書かれ・下されるということでしょうか。医療診断の場でも同じようなことが生じている。

 「危険性も理解した上で恐れずに楽しむのが、AIとの正しい付き合い方かも知れない」とコラム氏は当たり障りのない主張らしいものを書かれていますが、今はもう、そんな呑気なことを言っておれないほどに「人工知能」が「人間知能」を凌駕しているのですから、問題はさらに深刻だと思うのです。なぜ深刻なのか。モノによってはAIの汎用化が進めば、まるで「バラ色」の世界が生み出されるとみる向きもあります。

 どんな事柄にも「両面性」がある。「自動車」はどうでしょうか。物流の大量・加速化や長距離運行、あるいは生活の足として、いっそう快適な生活のためには不可欠になっている。しかしその反面、エネルギー源である石油の大量消費はさまざまな弊害を環境にもたらし、ひとたび交通事故が起れば大きな被害が発生ます。高速道路や一般道などのインフラ整備等にも莫大な経費を要する。どちらが、トータルとしてメリットがあるかということでしょう。そして、今の段階では否応なしに「人工知能万能」大歓迎の時代直前にあります。

 ぼくには「人工知能万能」は、まるで「原子力発電所・命」のようなところがあると思われます。原発設置やその維持費には莫大な投資が必要です。この党資金は「消費者」から、何時だって回収できる仕組みを作っているのですから、電力会社も経済界も「左うちわ」ですよ。しかし、それを回収して余りあるほどの「電力供給」が可能だというメリットが現段階では強調され過ぎているきらいがあります。福島原発事故で見られたように、いったん爆発事故が生じれば、人間の手では制御できないほどの恐怖と危険性がもたらされ、その解決はけっしてた短時日では終わらない性格のものです。

 「AI」時代が昂進すると、必要以上にその効用(メリット)ばかりが強調され、影の部分は隠されることも多くあるでしょう。今でさえ、人間の感情や性格形成に制御不能な事態を生み出していることも否定できません。人間は社会における経済活動によって生かされてはいますけれど、それだけでは十分に生活を満足させられないのも事実です。これまで、人間の活動によってもたらされていた「精神の安定性」が、「人工知能」に代替されることによって、必要以上に人間・人間性の無力化がもたらされることになるのではないか。

 「生成AI」「人工知能」がもたらす課題は、無数に挙げられています。これからますます開発されてゆく技術でもあるのですから、さらにこれまで以上の課題が生み出されるはずです。まるで「モグラたたき」のような具合に、功罪が飛び交いながらも気が付けば「人工知能」が人間生活を支配するということになるのかもしれません。さらに、時間をかけて、この課題に迫る必要がありそうです。(正直に言えば、ぼくは「人工知能」問題に関わりたくないのですよ。にもかかわらず、否応なしにぼくのような狭い生活圏に生きている人間にも「AI」が大きな顔をしだしています。その顔を見るのはいやですから、間もなく、ぼくは「コンピュータ」とも縁切りをするつもりでいます。マイコンのどこを開いても「AI」が、我が物顔で勢いを増しているのがいやでも目につきます。「Unplug」すれば、一巻の終わりで、それは原発も同じですね。

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お粗末の一言、総理の経済認知水準は

 以下の予算委員会の質疑の模様(產經新聞・2025/12/11)を中継等で観ていて、T首相の「経済」や「経済運営」に対する無知・無理解がこんなひどいものかと、驚くばかり。並みの素人以下です。なんというお粗末な、経済政策の基本中の基本がわかっていないことがあからさまにされていました。それだけでも、この地位から即刻引き下がるべきだと思う。誰も何にも言わないのは、このままで『亡国への道」をいっしょに進もうではないかという「一蓮托生」の心理が災いしているのでしょうか。それとも、国が破綻することなどあるはずもないという「無根拠の安心感」を得たいという一心の現れでしょうか。まるで「対英米戦争」突入時の「神頼み」とそっくりではないですか。国民もメディアも、挙って戦争それ自体を大歓迎したものでした。(「存立危機事態」発言のお粗末もまた、経済無知と軌を一にしている)

 彼女が「師と仰ぐ」故元首相の「アベノミックス」が惨憺たる結果、壊滅的な打撃を日本経済にもたらしたことは犬や猫でもわかろうというのに、さらに新たに「責任ある積極的経済政策」と看板を書き換えて、幻想を振りまき、強い経済を取り戻すと息巻いている。恥の上塗りを世界に知らしめているようなもの。為替(対ドル、対ユーロ)相場の円売り(円安)基調、日本国債10年物(の長期)金利(2.0%直前)、インフレによる水膨れのGDP(Gross Domestic Product)規模の見せ掛けの増大(24年は634兆2260億円)、実質GDPの目に余る縮小(間もなくインドに、イギリスにも抜かれて世界第6位へ)、一人当たりGDPのランキングの止まらない下降傾向(2025年は世界38位)等々。そのほとんどの問題に対して、首相の理解というか正しい認識は無いに等しいにもかかわらず、「日本売りがさらに進めば、いっそう危機を迎える」という指摘に、「私は、日本が成長しなければ危ないと思う」と、頓珍漢な答弁。今現在のこの国に、経済成長の芽がどこにもないほどに寒々しい状況であることには目もくれず、「経済成長すれば、バラ色だ」という、寒中に裸体を強いるような精神論を垂れるだけ。それも、経済の実態を理解しているから、「無根拠の強がり」を口にするのか、それとも足元が震えるほどの恐怖を感じているから、上の空の「答弁」しかできないのか。ぼく如き者でも呆れてものが言えないのですが、そうとばかりも言っておられないので、言いたくはないけれど、ほんの一言だけ。

 いくつかの指標を出しておきます。新内閣発足(2025/10/21)後から、各種の経済指標は怪しい雲行きを示し始めました。にもかかわらず「私の政策だけで、それほどマーケットが大きく大きく反応する、長期にわたって影響が出るということを発信する方が、むしろマーケットに影響を与える気がする」という。これどどの「空恐ろしい無恥・錯誤」こそが国を誤るというほかない。「為替市場の動向についての具体的なコメントは、市場に不測の影響を及ぼす恐れがあることから、差し控える」と一端(いっぱし)のことを言うが、そもそも、総理の姿勢や広言・放言そのものが「市場に不測の影響を及ぼす」ことがあったということですよ。(あるいは、ここにきてやや「自信喪失」の様相がみられるのは、ぼくだけの気のせいか)

 この幼稚な、不勉強内閣を、なお支持するという有権者の無知・無為もまた、驚くべき低水準でしょう。ぼくも無知であることでは人後に落ちないが、今の政治的無為のもたらす状況が「安穏」「安心」「信頼」「希望」などと言う、およそ縋(すが)りたくなる何物も持ち得ない、恐るべき「無鉄砲」「無手勝流」で闊歩している風に見える。この内閣が幸か不幸か、一日長く続くと、より一層はっきりと「破綻(bankruptcy)」の度が深くなることだけは確かです。まるで「後発地震」の発生直後の事態のようでもあります。

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「誇張とまでは言わないが」高市首相、立民・今井氏の為替市場に関する質問に反発 陳謝も 高市早苗首相は10日の衆院予算委員会で、立憲民主党の今井雅人氏と長期金利の上昇や円安傾向について議論した。今井氏が現状を「恐ろしい」と批判したのに対し、首相が「誇張とまでは言わないが、マーケットに影響を与える」と反発する一幕もあった。首相は後に表現について陳謝した。
今井氏は、長期金利上昇は住宅ローンや設備投資の抑制など「マイナスの影響しかない」との認識のもと、「長期金利が高市政権になってから上がっている。危機感を持っているか」と質問した。
首相は「責任ある積極財政」を掲げていることを踏まえ、「私になってから、ということなので、財政政策について言いたいのだと思うが、財政政策のみを取り出して、市場に与える影響を一概に申し上げることは困難だ。市場の動向についてのコメントは、不測の影響を及ぼす恐れがあるので差し控える」と答弁した。
■首相「日本が成長しなければ危ない」
今井氏は、長期金利に影響を与える日本国債の市場価格を巡り、国内では引き受ける余力が乏しく海外投資家の比率が増えていくと説明し、「外国人投資家は利回りも求めるし、これから金利がじわじわ上がり、ボラティリティ(価格の変動率)がものすごく高くなる可能性が高い。だから財政は抑制的にやらないといけない。危機感が足りない」と主張した。
これに対し首相は「私は、日本が成長しなければ危ないと思う」と反論した。「高市内閣の補正予算が原因で不安定な状況が続いていくとか、(今井)委員の言うように、長期金利が上がり続けていくというよりも、これから日本が成長していく、どんなリスクにも強い国になっていく、それによって政府債務残高の対国内総生産(GDP)比率が下がっていく姿を見せる方が大事だ」と強調した。
今井氏は「びっくりした。『そんなことより』だ。金融市場が混乱することより、成長の方が大事だと言った。本当か。成長はもちろん大事だ。でも、金融市場が不安定な、金利が上がったりするより、成長のほうが大事だという感覚か。危ない。少し背筋が凍った」と批判した。円安についても言及。日米の金融政策によって「日米の金利差が縮んでいくことは確実になっているのに円安が進んでいく。恐ろしい」と述べ、首相に見解を求めた。
首相は「為替市場の動向についての具体的なコメントは、市場に不測の影響を及ぼす恐れがあることから、差し控える。為替市場における過度な変動や無秩序な動きについては、必要に応じて適切な対応を取っていく」と述べた。
■今井氏「混乱を招きたいわけではない」
そのうえで、今井氏の発言に反発した。「先ほど『恐ろしい』と言ったが、そのように誇張して、まあ、誇張してとまでは言わないが、私の政策だけで、それほどマーケットが大きく大きく反応する、長期にわたって影響が出るということを発信する方が、むしろマーケットに影響を与える気がする」と述べた。
今井氏は「その言い方はないと思う。いちゃもんをつけたわけではない。言い方を訂正してほしい」と反論した。
首相は「失礼があれば言い方を変える。お互いにこうやって為替や長期金利の話をぎりぎりとやっていくと、それもまた外に向けて発信されていくことになる。そういう心配から申し上げた」と説明。「お気に障ったら申し訳ない」と陳謝した。
今井氏は「私も混乱を招きたいわけではなく、予見できることは防止しなければいけないという観点で質問している。誤解しないでほしい」と引き取った。(產經新聞・2025/12/11)

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「徒然に日乗」(941~947)

〇2025/12/14(日)当地では、予報通り、終日雨が降り、気温は10℃を下回っていた。しかし、思いのほか雨は大降りにはならず、気温も寒くてたまらないほどでもなかった。お昼過ぎに買い物に出かけたが、何時もの茂原のスーパーは何かイベントがあったのか大混雑していて駐車場にすら入れず、別の店に行くことになったほど。▶とにかく、風邪をひかないこと、睡眠を十分にとること、これをしっかり守っていきたい。▶三日前から、黒猫が帰ってこなくなった。たぶん2歳くらいの子。今まで、一度も、夜は外で過ごしたことがない子だから、とても心配。寒さが厳しくなるからなおさらだ。家の周囲は雑木林に覆われており、さまざまな動物の遊び場にもなっている。イノシシ以外に、アライグマやその他、なかなか手ごわい動物もいることだから、襲われていなければいいがと、気にしてはいる。しかし、探すべき範囲が広すぎて手が出ないのが正直なところ。今までも十日ほども帰らなかった子が帰って来たころもあるので、気を確かにして、待つ事にしよう。(947)

〇2025/12/13(土)今冬もっとも寒い一日だったようだ。都心でも10℃に届かない気温が続いた。当地では今にも雨が降りそうで、雨粒らしいものが落ちることもあったが、本格的には今夜半から降るらしい。湿度が異常に低く、カラカラに乾燥している劣島では各地で山火事や街中の住宅火災が方々で発生しているので、今夜からの雨で少しは乾燥状態も終わることになるのだろうか。▶日中関係の先行き不透明状態が続いている。とんでもない発言をした総理は誤りもしなければ取り消しもしないままで、右翼サイドの支持者の意向を伺っているのだろう。根拠のない強がりを言うばかりで、何か得られるものがあるとは思われない。自分の犯したミスを認める前に、エスカレートする中国の反応に意味不明の態度を取り、更には、何よりも、先ず最初にアメリカに伺いを立て、まるで頭をなでてもらいたいような行動にしか出ないのは、困ったこと。それにしても、これほど無知で無能な首相の支持率が7割8割もあるという、有権者たちの、この根拠のない高揚感はどういうことだろうか。当方には信じられないこと。▶「内閣支持、微減59.9% 5割超が補正予算評価―時事通信世論調査 時事通信が5~8日に実施した12月の世論調査によると、高市内閣の支持率は59.9%だった。政権発足直後の支持率として1960年以降で2番目の高さだった11月の調査から3.9ポイント低下した。不支持率は13.6%だった」/支持する人が挙げた理由(複数回答可)は『リーダーシップがある』が26.4%で最多。『首相を信頼する』20.3%、『印象が良い』18.2%、『政策が良い』12.5%などと続いた。支持しない人の理由(同)は『信頼できない』5.3%、『期待が持てない』4.9%などだった」(時事通信・2025/12/11)調査項目の「質問の立て方」はどうだろうか。これもまた「調査」「世論」と言うのだから、何をかいわんや、だ。(946)

〇2025/12/12(金)かなり寒い一日だった。一段と寒さが加わってきたという感じがする。そんな中で、また青森沖で震度4の地震が発生した。有感地震は相当程度続いているが、もっと大きなものが発生する危険性は否定できないという。厳寒のこの時期、被災地の方々には気の毒なことだし、これ以上地震が来ないように祈るほかない。▶「青森県東方沖でM6.5の地震 最大震度4 津波の心配なし 12月12日(金)11時44分頃、北海道と東北地方で最大震度4を観測する地震がありました。・震源地:青森県東方沖・マグニチュード:6.9・震源の深さ:17km 14時05分に北海道太平洋沿岸中部、青森県太平洋沿岸、岩手県、宮城県の津波注意報が解除されました。今後若干の海面変動があるかもしれませんが、被害の心配はありません。」(2025-12-12 14:10 ウェザーニュース)(945)

〇2025/12/11(木)午前中に灯油を購入に(今期は初めて)。ついでに、ガソリンを満タンに。1リッターあたり154円だった。ひところから見れば、十円以上は下がっているが、そもそも高くなっていたのだから、はたして年末に停止される暫定税率廃止分がいったいどれくらい下がるのか、大いに心もとない。すべてが増税基調のT 内閣政治だ。ますます財政破綻の方向に邁進しているが、それに拍車をかけているのが「積極的経済政策」だろう。高物価(インフレ)をそのままに、軍事費予算を更に高めるように米国から要請され、その前に3%までは約束している事態が明らかに(国会審議前の段階だ)。そしてアメリカの国防長官は「GDP比5%」を要求してきた。現在の規模からいえば総額30兆円になる。気が狂っているとしか思われな、こんな内閣だ。中国のレーダー照射問題でも、支離滅裂な説明に終始している防衛大臣。まず自らの知能水準をもっとあげるべきではないだろうか。無知無能な総理が、さらに無能な議員を防衛大臣に任命して、そろって国を売り渡すのだろうか、どこに?米・中に、だ。(944)

〇2025/12/10(水)午前中に近所の薬屋(万屋も兼ねている)で胃腸薬と天然水(2㍑×6)✖10箱、などを購入する。冬場になったせいもあり、天然水の消費量が上がっているかもしれない。その近くにあるHCで、いつも通りの猫のドライフードを購入。帰宅してしばらくすると、宅急便の荷物が届く。今回新たに求めた猫缶の通販である。いつも行くHCでは品薄状態が続いていたが(本社の商品仕入れの計画によるらしい)、この通販業者は製造会社の直販でもあるようなので、必要な分量は好きなだけ入る。宅配業者には申し訳ないことだが、わざわざ出かけて行って買う必要がなくなっただけ、大助かりである。▶昨日深更の北海道三陸沖地震、明けてみれば、思いのほか被害が多く出たようだ。地震の規模の凄さがわかろうというもの。まだまだ油断はできないようだ。(943)

〇2025/12/09(火)午前10時前に車検前の検査(見積金額の算定)。いつもの車検工場に。約30~40分で済む。登録十年になるし、走行距離もおよそ9万キロ超なので、それなりの金額が出た。本番は来年1月末。その車検の予約をしてきた。(942)

〇2025/12/08(月)午後に陽射しが出ていたが、朝夕はかなり寒い日だった。本格的冬場という天気が続く。さらに予報は厳しくなりつつある。▶終日、自宅内に。油断すると、直ちに体調不良がぶり返しようそうに感じている。▶日中関係では、中国はさらに攻勢をかけて自衛隊機へのレーダー照射を。断固として抗議」を出せない状況が続いているし、レアアースの中国からの輸出が滞りつつあることが報じられている。一本足打法の「自動車産業」は、仮に輸出遅滞が決定的になると潰滅的打撃を受けることは不可避だ。政府は積極的経済政策を打っているようだが、さて、その内容には「金を配る」こと以外で何があるのか。軍事(軍需)産業を元気づけるための武器生産とそれの輸出もまた、言うところの積極的経済政策なのだろうか。それにしても、この、ある面では相当な「国難」ともいわれる時期に、この政府と総理大臣が…、よりによって、と言いたくなるような無知無能ぶりには目も口も覆いたくなる。(941)

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「自分ファースト という 貧しさ」

⁂「週のはじめに愚考する」(九拾八)~ ただ今、午前6時過ぎ。夜来の雨が降り続いています。昨日は強風が吹吹き荒れ、枯れ枝や木の葉が辺り一面に散乱しています。昨日の裡に掃除をやろうと思っていたのに、夜になってしまい、そのままに、雨の朝を迎えたという次第です。あれをしようとか、これをやろうと思うのですが、体や気持ちが動かないのが悔しいですね。ぼくは他人から「物臭だな」としばしばいわれてきました。面倒くさがること、あるいは不精と言うことでしょう。それは否定しません。モットーとしては「今日できることは明日もできる」と言い続けていましたからね。もちろん、他人を出し抜こうという魂胆は皆無で、「成績で一番」など、それこそ「いつも無精者でいたいな」というモットーに反しました。競争も嫌だった。勝ち負けを強いられれば、ぼくは、きっと負ける側にいることにしていました。

 (ヘッダー写真・お寺の掲示板大賞2021・https://x.com/matsuzakichikai/status/1442509203877208065/photo/1

 何よりも大事にしたいのは「無理をしない」、と言う姿勢(思想)でした。以下に引用した「朝の詩」、「人生」と言うタイトルで、この方も、ややニュアンスは異なりますが、無理をしない生き方を心掛けておられるように思われます。この「詩」の中に「頑張らないように/頑張る事が大切」と書かれています。この「頑張る」という言葉ほど、ぼくは嫌いな言葉はありません。いつからそうなのかわかりませんが、ずっと小さい時からそうだったのではなかったか。ある時期、国語教師のO さんから伺ったことがあります。「頑張る」は「我を張る」と言うことで、たとえば「扉の前であなたが頑張っているから、みんな迷惑するんです」と言う使い方が主であって、ある時期までは、特に女性は使わないように育てられたほどと、そんな話を聞かされたことがあります。「お前が頑張るから、みんなが迷惑する」、大変なニュアンスの言葉だと身に染みました。

 教師の真似事をしていた時代、驚くほど多くの学生諸君が「頑張ります」と言うのを耳にして、ぼくはほとほと食傷し、閉口した。「何をそんなに頑張るんです?」と、繰り返し聴いたものでした。恐らく、口にする方は、口癖になっていて、所かまわず「頑張るんだ」「頑張ります」と言ってしまったのかもしれません。そのつど、お節介でしたが、ぼくは「頑張らないマンです」と応答していました。「我を張る」と言うのは、余りにも美しくありませんからね。「働いて働いて働いて…」なども、「私はこれだけ頑張っていますよ」と見せびらかしているわけですね。少しは「頑張るのをやめてほしい。ロクなことにならないから」と、ぼくは言い続けます。 

 なんだか、この駄文集録も「ことばコンテスト」続き(三日連続)みたいになってきましたが、これも毎年行われているのでしょうか、「お寺の掲示板大賞」(公益財団法人仏教伝道協会主催・https://www.bdk.or.jp/kagayake2025/)という催事があります。ぼくは熱心ではありませんが、たまに覗くこともあります。25年度の「大賞」は「自分ファースト という 貧しさ」という「標語」でした。仰せの通りじゃないでしょうか。近年はやたらに「~ファースト」が目に付きます。どういうことでしょうか。声高に自分を売り込まなければ、「自分」が沈没したままであるという危機感からなのかもしれません。この句は、この社会では、総理大臣をはじめ、政府を挙げて「自分ファースト」の大流行です。他国もご同様で、まことにうるさく、かつ鬱陶しいことですよ。ここまでくると、重篤な難病罹患といってもいいかも知れません。世界の指導者が罹患している、ある種の「流行病(epidemic disease)」でもあるのでしょう。

 ところが「心の貧しい者は幸いである」と、またキリスト教は余計なことを言っていますね。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(「山上の垂訓」・マタイの福音書5章3節)ところがです、気を付けなければならないのは「心も貧しい者」と言われる真意ですね。ぼくのように「懐も貧しい者」ではなく、「心の貧しい者」とは、完璧な弱さから抜け出ることのできない人間の「ありのまま」のことであって、そのような人々は、キリストの教えでは「神に頼る(祈る)ほかない人々」と言うことになるのでしょう。「心の貧しい者である、この私をお許しください」と、自分の弱さを知っている人こそ、信仰に生きるほかないという自覚を持つから「幸いである」とされるのでしょう。その反対はどうでしょうか。自分は強いもの、自分は他人よりも優れている者と思い込んでいる人間は、真摯に神の前で額(ぬか)づくことができないでしょう。「パリサイ(ファリサイ人)人と税金取り(徴税人)」(ルカ18:9-14)の逸話を思い起こせば足ります。「だれでも高ぶる者はたかくされ、へりくだる者は低くされる」と言う、アンチキリスト者があまりにも多すぎて、ぼくにはじつに醜悪な世界と見えてしまいます。

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカによる福音書 18:9-14 新共同訳)

 自分には欠けたところがあるという自覚、自分には他者を羨むという心の貧しさがあるという自己把握、そんなことは誰にでもできるものではないことは、ぼくのようなつまらない人間でも嫌になるほど経験してきました。他者(世間)の評価を求める衝動というものが、どんなに自分自身を迷わせ、狂わせたか、今考えて汗顔の至りです。「本日のヘッダー写真」にも、「汝自身を知れ」と言う言葉が書かれていると読めます。「自分は正しい」という、迷妄に取りつかれてしまえば、あるいは怖いものはないのでしょうが、それこそ「もっとも心の貧しい者」と言うことになるようですね。「自分は強い」と思い込むのは、何によってでしょうか。これができる、あれもできる、そんな成果や達成主義に毒されていないかどうか、ぼくたちはいつだって吟味しなければなないのでしょう。「身の程を知る」と言うことの大切さです。

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