臨済の喝、徳山の棒(「景徳伝灯録」)

 各地方紙含めて、本日の朝刊「コラム」は張本勲さんの訃報に触れて、「大絶賛」「あっぱれ」の山盛りでした。ぼくには意外だった。驚きの中身については言わずもがな、としておきます。各コラムに共通するのは、偉大な記録を樹立した野球人。幼児期に負った「右手の火傷」という不運、続いて「広島での被爆」という、連年の不幸。にもかかわらず、野球に打ち込む、想像を絶する心身の鍛錬。加えて、広島生まれの「在日二世」だった運命。そして、現役引退後のテレビにおける「歯に衣着せぬ発言」等々。まさしく、いろいろな面で、張本さんは「不世出」といわれてしかるべきだったでしょう。彼のデビュー時から、ぼくはよく知っていました。娯楽のあまりない時代、「三角ベース」や「軟式野球」に興じていた少年でもあったぼくには「東映フライヤーズ」というチームは馴染そのものでした。そんな中で、もともとのチームカラーに加えて、当時の同僚だった山本八郎捕手とそろって、「駒沢の暴れん坊」として張本さんは高名(悪名)を馳せていました。

 当時の東映フラーヤーズ(1954~1972;現「北海道ニチハムファイターズ」)の本拠地は都内世田谷にあった駒沢球場だった。張本さんの死去の報に、ぼく自身の感慨がありますが、ここでは触れません。各紙・各コラムが彼の足跡や功績を讃え、その人生に大いなるエールを送られていますので、ぼくも。ここでは右へ倣え、それだけであり、「合掌」するばかりです。

 「在日韓国・朝鮮人」問題は、今なお歴史の課題になって、この国・社会に残り続けています。それに関しても、たくさんの「在日プロ野球人」を交えて、どこかで詳述してみたいと考えています。この人々がいなければ、おそらく日本プロ野球は随分と貧相なものだったろうと容易に推察されるからです。(なお、張本さんを一気に「人気者」にしたテレビ番組での「喝!」「あっぱれ!」、その生みの親は元東映フラーヤーズの監督(長嶋茂雄さんの立教の先輩)だった大沢啓二さんだったと、ぼくは記憶しています。

 文字通りの「野球一筋」の人生を生き切られた張本勲さんのご冥福を祈るばかりです。(合掌)

 (以下は、地元中国新聞のコラム「天風録」です。

【天風録】張本功さん 生涯忘れられぬ短歌として、野球解説者の張本勲さんは評論家佐高信さんとの対談で石川啄木の一首を挙げている。〈たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず〉▲両親は朝鮮半島から日本に渡ったものの、父は早世。子ども3人を抱え、母は朝から晩まで働きづめだった。張本さんには母の寝顔を見た覚えがない。啄木の歌にこもる敬慕や感謝の念が、心の琴線に触れるのだろう▲その母が胸を痛め続けたのが、息子が4歳の時、目を離した隙に負った右手の大やけどである。何とか原形を保ったのは親指と人さし指くらい。翌年、やけどが癒えてきた頃、今度は原爆に遭う▲人間万事塞翁(さいおう)が馬という。2度の災いは「人の10倍、100倍やらんと負ける」との反骨心を育む。「安打製造機」として鳴らし、成し遂げた日本球界で唯一の3千安打もたゆまぬ練習のたまものに違いない。張本さんの訃報がきのう届いた。86歳▲黒手袋で隠してきた右手を引退後、「打撃の神様」川上哲治さんには見せている。〈これほどの努力を他人(ひと)は運と言う〉とわきまえる者同士、通じ合ったのだろうか。歯に衣(きぬ)着せぬご意見番役は見ものだった。「あっぱれ!」だ。(中國新聞・2026/09/11)

(ヘッダー写真:書道家 河邊 真(雅号:清花):https://shin-sheika-shodo.amebaownd.com/posts/34398984/)

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〇 臨済(りんざいの)喝(かつ)徳山(とくざん)の棒(ぼう)= 《「伝灯録」から》臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことから、禅宗の修行のきびしさのたとえ。(デジタル大辞泉)

〇 りんざい【臨済】読み方:りんざい=[?~867]中国、唐代の禅僧。名は義玄(ぎげん)。臨済宗の開祖。曹州南華(山東省)の人。黄檗希運(おうばくきうん)に師事し、3年の坐禅によって得道。みずから臨済と名のる。言行を弟子が集録して「臨済録」を編纂した。勅諡(ちょくし)号、慧照(えしょう)禅師。(同上)(左写真)

〇 とくさん‐せんかん【徳山宣鑑】[782~865]= 中国、唐代の禅僧。姓は周氏。初め律や唯識を学んだが、のち禅を学び、その修行は、徳山の棒と称されるほど厳格であった。諡号、見性禅師。(同上)(右写真)

〇 けいとくでんとうろく【景徳伝灯録】= 宋代の仏教書。30巻。道原著。1004年成立。禅宗の伝灯(正法を伝える意味)の法系を明らかにしたもので、過去七仏から始め、インド・中国歴代の諸師1701人の伝記と系譜を述べた書。中国禅宗史研究の根本資料。伝灯録。(同上)

 (以下、参考資料として)

【産經抄】張本さん逝く、愛ゆえの「喝!」を置き土産に プロ野球史上初の3000安打は、打った瞬間にそれと分かる本塁打だった。昭和55年5月。試合後に自身の快挙をビデオで見返し、張本勲さんは悔やんだという。ヘルメットを放り投げ、躍り上がる姿がはしたなく見えたからだ、と。▼「ガッツポーズは肩より下で」。自分に課した戒めをそのときは忘れていた。翌日、相手投手に「申し訳ない」と頭を下げたそうである。会心の一打であれ大記録であれ、必ず相手がいる。逆の立場ならどう思うか―。小紙のインタビューにそう語っていたのが忘れ難い。▼在日韓国人2世として広島に生まれ、5歳で被爆した。いつ発症するか知れぬ原爆症へのおびえは野球観にも投影されたようだ。現役生活23年で1万回以上打席に立ちながら、「打てなかったら生活はどうなる」の思いが胸を去らなかったという。▼4歳の頃に大やけどした右手には、薬指と小指がほとんどない。プロ野球記録の通算3085安打も7度の首位打者も、心と体に傷を抱えながら打ち立てた金字塔であることに驚きを覚える。数字が物語るのは、舞台裏で重ねた鍛錬の日々だろう。▼張本さんが86歳で亡くなった。球界OBが集う試合での壮健な姿を7月下旬に見たばかりで、訃報がいまだ胸に落ちない。辛口の評論も、凡プレーを叱り飛ばす「喝!」も耳を去らない。声の置き土産に思えるのだ。球界への愛情ゆえに買って出た、憎まれ役だったろう。▼大詰めを迎えた今季の米大リーグでは、日本から渡った長距離打者の活躍を見ない日がない。打棒の湿りがちなドジャース・大谷翔平選手が気にかかるものの、ほかの強打者はきょうも元気である。張本さんは、心置きなく旅立ったかもしれない。「あっぱれ!」と。(産經新聞・2026/09/11)

【新生面】張本さん逝く 終戦前の冬だった。貧しくて腹をすかせた4歳の少年は、掘ったイモをたき火で焼いていた。後ろから三輪トラックにはねられ、右手を炎に突っ込んだ。ひどいやけどを負い、指が曲がってしまった▼その手で握ったバットでプロ野球最多の3085安打を放った「安打製造機」張本勲さんが亡くなった。右手は決して人に見せなかったと、自著『最多安打で「喝!」』で明かしている。息子から目を離したばかりに、やけどを負わせたと悔やむ母を気遣って▼在日コリアンの子だといじめられ、5歳の時に広島で被爆した。理不尽な体験を語るようになったのは60歳を過ぎてから。現役中は苦難を力に代えるように、ひたすらバットを振り続けた。記録だけではない野球人生の重みを感じずにはいられない▼左打席にどっしりと構え、球をじっと見つめ、鋭い振りで捉える。安打製造を支えたのは毎日300回の素振りだ。厳しい練習が「あっぱれ」を生み、怠れば「喝」になる。自らの信念を決まり文句に込めていたのだろう▼張本さんはプロ入りの契約金200万円を使い、家族に2階建ての家を贈った。引退の前年、球場で観戦した母の目の前で節目の3千安打。左手で花束を掲げ、あの右手は母の背中に回した。6畳一間から始まった戦中戦後の労苦をねぎらう快打ではなかったか▼貧しさ、やけど、差別、被爆…全てに向き合い、逃げずに打ち返した。張本さんは強く、たくましく、優しかった。天国の母はきっと「あっぱれ」と迎えてくれる。(熊本日日新聞・2026/09/11)

【春秋】安打製造機に「大あっぱれ」を 1本、また1本とヒットを重ねた。プロ野球で最多の3085安打を放った張本勲さんが亡くなった。安打製造機と呼ばれたハリさんは在日コリアンであり、被爆者でもあった▼韓国から移り住んだ両親の元、広島に生まれた。4歳の時、友達と空き地で芋を焼いていると、後退してきたトラックにはねられ火の中へ。右手の小指と薬指がくっつくほどの大やけどを負った。交番に訴えても「何言ってるんだ、朝鮮人が」と一蹴された▼翌年8月6日、爆心地から約2キロで被爆した。長姉の点子さんが見つかったのは数日後。全身やけどで「水…」とうめく口元にブドウを1粒含ませた。最後の言葉は「勲ちゃん、ありがとう…」だった。つらい被爆体験を公に語り始めたのは、還暦を過ぎてからだ▼野球に目覚めたのは小学5年。自由が利かぬ右手を補うため左投げに変え、めきめきと頭角を現す。18歳で東映フライヤーズに入団し、3年目には首位打者に。同じ年、42勝を挙げた鉄腕稲尾からサヨナラホームランを打った。西鉄ライオンズのファンには、憎らしくもほれぼれする大打者だったに違いない▼右手は妻子にも見せなかった。引退後に川上哲治さんに見せると「よくもまあ、この手で…」と涙ぐんだという▼差別に耐え、戦争の傷を抱え、プロの厳しい競争を走り抜いた86年。「大あっぱれ」と人生をたたえるたくさんの声が届いていることだろう。(西日本新聞・2026/09/11)

【有明抄】時代に「喝」を おなかをすかせた子どもたちが、たき火でイモを焼いていた。戦時中のことである。そこへ三輪トラックがバックしてきた。背中から突き飛ばされた4歳児は、火の中に右手をついた◆母親は病院へ駆け込んだが、満足に手当もしてもらえなかった。朝鮮半島から渡ってきたばかりの家族に世間は冷たかった。右手は薬指と小指が焼けてくっつき、親指と人さし指も曲がったままになった◆広島出身の張本勲さんの記憶である。さらに原爆で被爆し、貧困の中で少年時代を送った張本さんは野球に出会う。遠征にきた巨人の宿舎をのぞきに行くと、選手たちは大きなステーキをほおばっている。財布も分厚い。絶対プロになろう、そのとき心に決めたという◆ハンディを克服するには誰よりも努力するしかない。いちばんに登校して練習し、帰宅後も毎夜300回バットを振った。昭和34(1959)年、プロ入団の夢をかなえた張本さんは新人王に輝く。「右手が動いたら、もっと成績は良かったのに」。ふと愚痴をこぼすと、母は泣き出した。治してやれなかった自分を責めるように◆以来、右手のことは語らず、安打の山を築いた。そんな張本さんの訃報が届いた。貧しさ、試練、血のにじむ努力…野球の面白さやこの国の強さを支えてきた言葉が煙たがられる時代に、「喝」を入れるひとはいない。(桑)(佐賀新聞・2026/09/11)

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誰に恥じるでもなく、あなたはそれでいい

【天声人語】シンデレラじゃないけれど 埼玉県に暮らす30歳の女性の話だ。いまから6年前、彼女は悩んでいた。人との付き合いがうまくいかない。大学院に通っていたが、言葉に傷つき、体もしんどくて、休学し、自宅にこもっていた▼ああ、将来、どうしよう。私、仕事できるかな。不安で、不安で、でも、誰にも相談できなくて、何か「通気口」がほしい。そう思って、朝日新聞の人生相談コーナー「悩みのるつぼ」に投書した▼〈自分らしくいればいるほど浮いてしまうのは、どうしたら良いでしょうか〉。回答は美輪明宏さんだった。〈誰に恥じることもありません。そう。あなたは、それでいいのです〉▼新聞を読んで、涙がこぼれた。自分の人生を肯定してもらった気がした。切り抜いて、何度も読み返した。大切な宝物、踏ん張るときの支えができたと思った▼今夏、美輪さんの訃報(ふほう)が届いた。当欄がこの相談に触れ、異才の死を悼むと、女性から連絡があった。筆者は会いに行った。喫茶店でコーヒーを飲みながら彼女は話してくれた。学校はやめたこと。うまく働けないこと。でも、やっと少しずつ、前を向き始めていること。「人生ゲームで新しいマスを自分で作っているみたいです」▼あなたの話を書いてもいいですかと尋ねると「どうぞ」。生きづらさを感じているのは自分だけではない。いま苦しんでいるどこかの誰かに、そう気づいてもらえたら……。「私はシンデレラストーリーじゃなくて、道半ばですけど」。小さく笑って、彼女は言った。(朝日新聞・2026/09/10)
(ヘッダー写真:https://kids.disney.co.jp/)

 人は、時には誰かに自分の話を聞いてもらいたい、自分のことをわかってもらいたいという心境になるものでしょう。ところが、自慢でも何でもなく、ぼく自身は誰かに何かを聴いてほしいと思ったことはあったでしょうが、それを実践したことはないと思う。自分の言い分を、必要ならば、ぼくはきっと言葉にしていたからでした。あるいはこっちの方が本当かもしれませんね、誰かに聞いてもらいたいほど、ぼくには深刻な「悩み(worries)」がなかったということです。しばしば、ぼくは「真面目は恐い」と言い触らしてきました。余裕や遊びがないと、生きることがつらくなる、そんな経験をした人は多いでしょう。真面目よりも正直に、それがぼくのモットーみたいになっていた。よく言えば、ぼくは「冗談の多い」人間だったことになります。深刻ぶるのは性に合わないし、仮につらい目に遭っても、「気分を変える」そんな方法をいつだって見つけ出していたと思う。「雨の日には笑え!」って。(もちろん「線状降水帯」に襲われて、笑ってなんかはいられませんが)

 「ああ、将来、どうしよう。私、仕事できるかな。不安で、不安で、でも、誰にも相談できなくて、何か『通気口』がほしい。そう思って、朝日新聞の人生相談コーナー『悩みのるつぼ』に投書した」とコラム氏は、一人の女性の煩悶ぶりを紹介している。「〈自分らしくいればいるほど浮いてしまうのは、どうしたら良いでしょうか〉」という「苦衷の想い(bitterness)」を新聞に投書された。ぼくにはできないことだと、こんな人を見て、いつだって驚くばかりです。新聞への投書ができるほどに、相談者は世界(世間)への通用・通気口を持っておられたからでした。そしてまた、回答者は美輪明宏さんだったことも、相談者にはよかったかもしれません。

 「〈誰に恥じることもありません。そう。あなたは、それでいいのです〉」といかにも美輪さんですね。これが「説教好き」の回答者だったり、こうしなければという「高飛車」な回答者だったらどうだったか。もちろん「悩みのるつぼ」もまた、「新聞種」の一つですから、ぼくは、あくまでも「話半分」として読んだ。新聞に投書するのですから、この相談者は自分で物事を判断できる力があると思えば、回答者もそれを知ったうえで回答するのでしょう。面倒ですから、端折りますが、紙上における「人生相談」というのは、ある種の「その場しのぎ(の読み物」」みたいなもの、ではないですか。でも、だからと言って、何の効果もないというのではありません。似たような状況にある読者がそれを読んで、意外な力を与えられることはあり得るからです。(でなければ、百年以上も新聞欄(コラム)で続くこともなかったでしょうから)

 「新聞を読んで、涙がこぼれた。自分の人生を肯定してもらった気がした。切り抜いて、何度も読み返した。大切な宝物、踏ん張るときの支えができたと思った」そうだったんですね。よく、世間では「あの人は自己肯定感が強い(弱い)」と言います。ぼくにはよくわからない「感情」です。自己中心でもなければ、他人本位でもない、自分を尊重する心持を言うのでしょうが、なかなかにわかりづらい感情だと、今だってぼくは思っています。

 ところで、我が強い、我を張る、そんな人は嫌われるのでしょうけれども、にもかかわらず、世の中には「ガンバル」「ガンバレ」がいつだってどこにだって蔓延(はび)っている。「頑張る」は「我を(に)張る」でしょう。元来は「眼張る」という意味からだったとされます。とにかく、この「ガンバル」はぼくのもっともも嫌いな言葉(表現)です。自分の口から「頑張ります」といったことは、おそらくないでしょう。それくらいに、言うのも聞くのも嫌な言葉だし、誰かが頑張ると、その分、誰かが迷惑したり悲しんだりするのではないでしょうか。

〇 がん‐ば・る〔グワン‐〕【頑張る】読み方:がんばる

[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「―・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」(デジタル大辞泉)

 コラムで紹介されている女性は「頑張る自分」を願っていたのでしょうか。そんな自分をうまく制御できないままに「落ちこむ」ことに窒息しかかっていたのかもしれません。「人との付き合いがうまくいかない。大学院に通っていたが、言葉に傷つき、体もしんどくて、休学し、自宅にこもっていた」のは、世間に自分を合わせようとしていたからだったかもわからない。「〈自分らしくいればいるほど浮いてしまうのは、どうしたら良いでしょうか〉」仔細はぼくにはわかりません。しかし、「自分らしく」という、そのこと自体がなかなかにめんどうなことです。いくらかの時間をかけてみて、ようやくわかる気がする、そんなものでしょう。「自分(汝)自身を知れ」という、ある種の哲学的な問いは、いつの時代にあっても問われ続けてきました。

 「私はシンデレラじゃなくて」と漏らされたという。どういう意味でしょう。世間から自分は「継子」扱いを受けていると思い込んでいたのか、あるいは「成功譚」を夢見ていたのでしょうか。勝手な推測に流れますが、「世間から継子扱いを受けている」と疑えば、なかなか生きづらさは消えないし、「シンデレラ」になるという夢物語に浸っていたのだとすれば、これもまた、滅多に実現することはなさそうです。人生は、いつだって「道半ば」だという意識を失わなければ、この先も、何んとか折り合いがつけられるのかもしれません。ゆっくり歩く。

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〇 シンデレラ(しんでれら)(Cinderella)= 昔話の女主人公の名。本来は口伝えの継子譚(ままこたん)だが、フランスではシャルル・ペローが『過ぎた昔の物語ならびに小話』(1697)のなかに『サンドリヨンまたは小さなガラスの靴』として再話している。継子が家のつらい仕事ばかりさせられ、台所の灰の上に座っているので、サンドリヨン(灰かぶり)とよばれる。王子が舞踏会を催すと、継母の実子たちは正装して出かける。継子も行きたくて泣いていると、名付け親である仙女が現れ、カボチャを杖(つえ)でたたいて馬車にし、二十日鼠(はつかねずみ)を馬に、太った鼠を御者に、トカゲを従僕に変身させ、継子の服も豪華なものに変えて、舞踏会に行かせる。そこでは王子に注目されて、ともに踊るが、夜中の12時前に帰宅して、元どおりの姿になる。翌日も美しい姿で行って踊るうち、12時の鐘が打ち始めたので急いで帰る。そのときガラスの靴の一方を置き忘れ、王子は、その靴に足のぴったりあう娘を妻に迎えるという。高貴な女性には靴があわず、嘲笑(ちょうしょう)のうちに継子が履くとぴったりあう。名付け親が現れ、服を杖でたたくとふたたび豪華な服になる。継子は王子の妻になる。ドイツではグリム兄弟が、その口伝え童話集のなかに『灰かぶり』Aschenputtelと題してドイツの類話を入れている。(↷)

 この型の継子譚は世界的に分布があるので、変化も多い。継子の祭り見物を妨害するために、継母が継子に、灰の中から豆を選び出すなどの難題を課するが、いつも親切にしてもらっている動物たちがきて手伝ってくれるという話もある。また、実母の墓に生えた木から美しい着物などが与えられるという話もあり、これは、日本の御伽草子(おとぎぞうし)の『鉢かづき』のモチーフに通じる。シンデレラの発見は、王子のスープに入れた指輪によるということもある。スウェーデンのビルギッタ・ルートの研究によれば、この話はオリエント起源で、西と東に分かれて伝播(でんぱ)したものと考えられている。日本の昔話では「米福糠福(こめぶくぬかぶく)」がこの系統で、「姥皮(うばかわ)」も部分的には対応がみられる。(日本大百科全書(ニッポニカ))

〇 落窪物語(おちくぼものがたり)= 平安時代の物語。4巻。題名は、継母が姫君を寝殿の一段低い部屋に住まわせて落窪の君と呼ばせたことによる。成立時期、作者とも未詳であるが、およそ一条(いちじょう)朝の初期、寛和(かんな)~正暦(しょうりゃく)(985~995)ごろ、男性によって書かれたものと考えられる。
 内容は、継母に虐待される薄幸の姫君が左大将の子息に救われて幸福になるという継子(ままこ)いじめの物語。中納言(ちゅうなごん)には北の方との間に2男4女、亡き王孫の女君との間にも美しい姫君があった。北の方はこの姫君を寝殿の落ち窪んだ部屋に住まわせ、召使い同様の仕打ちをして虐待した。姫君の忠実な侍女阿漕(あこぎ)は左近少将の乳母子帯刀(めのとごたてわき)と恋仲であったので、姫君のことは少将の知るところとなり、やがて少将は阿漕の手引きで姫君と契りを結んだ。継母は姫君を一室に監禁し、好色な老人典薬助(てんやくのすけ)に与えようとしたが、姫君は阿漕の機転で難を免れ、少将に救出される。少将は継母への復讐(ふくしゅう)として、四の君の婿に面白(おもしろ)の駒(こま)という痴者(しれもの)を逢(あ)わせたり、継母一行の清水詣(きよみずもう)でや賀茂祭(かもまつり)の見物を妨害したり、中納言が移ろうとした三条殿を先取りしたりした。その後、中納言は姫君と対面して事の顛末(てんまつ)を知り和解する。少将は中納言のために七十の賀を催したり大納言に推挙したりし、継母にも大納言死後の邸(やしき)を伝領させた。少将はますます栄達し、姫君は3男2女をもうけ幸福を極めた。
 以上の内容から、この物語の構成は、第1部継子いじめと少将の救出、第2部継母への復讐、第3部少将、姫君の栄華と中納言方への心尽くし、という3部に分けられよう。全編に勧善懲悪的な道徳観や一夫一婦の理想性や権力謳歌(おうか)的な性格などがみられるが、しかしこれらは副次的なもので、この作品の主張ではなく、むしろ作者は主観的な思想感情を抑え、冷静な知的態度で即物的に筆を運んでいる。その点、継子いじめという類型的な話型を枠組みとしつつも、叙述は写実的、現実的で、『源氏物語』出現以前の構成の整った王朝家庭小説として、物語史上の価値は少なくない。
 伝本は、九条家旧蔵本など室町期にさかのぼる写本が数本あるが、大部分は江戸期の写本で、共通の祖本から派生したものと認められる。版本には寛政(かんせい)6年(1794)版、上田秋成校の寛政11年(1799)版がある。(日本大百科全書(ニッポニカ))

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 参考資料として、美輪さん(本年6月20に死去)のある時の「相談者」への「回答」を出してみました(2025年6月21日号)。回答そのものにも「賛否」があるでしょうが、美輪さんは「当節の誹謗中傷」罹患者に対して、一刀両断ぶりを発揮されていました。ある時期、それもごく初期の美輪さん(当時は丸山姓)に魅了されたことがありました。それにしても、美輪さんは「一を以て之を貫く」、そんな生き方をされましたね。

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季節を先取りしますが(重陽・十句)

 歳を取ったということでしょう、「今日は何の日」ということにまったく興味が湧かない。過ぎてしまえば、いつも通りの「一日」です。それで不満も喜びも感じることはないのですから、「やれやれ」という気分になるのでしょうか。一時間は一時間、一日は一日、同じだというのではなく、それに身を任せる心持ちは常の心という程度のものです。気が付けば本日は「重陽の節句」だとか。この一か月や二か月は、劣島各地で「災害」が降って湧いたり、地下中から突き上げ、飛び出したりで、それこそ、「応接に遑(いとま)なし」の体でありました。どこそこに地震だ、彼の地では集中豪雨だなどと訊けば、まるで「わがこと」のように、気ばかりは漫(そぞ)ろになり、安閑としておられないのです。これもまたもって生まれた性分かと、自らを慰めるほかに手もないことではありますね。8月9月の砌(みぎり)は、それこそ連日のように集中豪雨に痛めつけられ、まさに天井が破れ、床が抜けたような日々の連続でした。今日もまた、何とか無事に過ぎることに、事々しい関心を持つのですから、いったいどういうことでしょうか。

 この季節、京都時代には、しばしば見事な菊花を観賞したことがあります。子規ったか、「菊」は見ないで「菊人形」とかいう句がありましたが、ぼくは反対に、菊人形は見たことはありませんし、ぼくの好みには合わなものでした。作りすぎという、わざとらしさが嫌でしたね。近所の庭先に、それこそ「丹精を籠めた」菊花を見るだけで、もう胸がいっぱいという気分になったものです。ぼく自身は一度だって菊を育てようとしたことはなかった。ぼくにはそれだけの根気も愛情もなかったということかもしれませんが、それでも観賞することは欠かしすことはありませんでしたね。

 本日は9月9日、いわゆる「重陽の節句」です。旧暦では10月19日に当たります。近所に菊花を育てている粋人がおられるのかもしれませんが、まだ未見です。もう少しすると、よく行くスーパーなどでは「菊花展」が催されることがあります。何度かその折に目にしたことがあります。でも、「菊花」を展示するには場所柄が、とか何とか言って、ゆっくり堪能することもできず。結局は、いにしえの多くの俳人・文人の秀句佳句の痕跡に縋(すが)るという芸のなさです。ひたすら鑑賞に浸るのみ、それでぼくは満足する。旧暦の「重陽」にはかなり早いのですが、よりどり10句、ぼくの偏向した好みで選んでみました。解説は無用でしょう。

・山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ(芭蕉)

・菊の香や奈良には古き仏たち(芭蕉)

・わがいのちさびしく菊は麗はしき(秋櫻子)

・白菊のしづくつめたし花鋏(蛇笏)

・白菊のあしたゆふべに古色あり(蛇笏)

・これよりは菊の酒また菊枕(青邨)

・重陽や天日変はりなく廻り(福島清恵)

・小座敷や袖で拭ひし菊の酒(一茶)

・重陽や嵯峨野直ぐなる道あらず(長田等)

・重陽の日と知るのみの菊を買ふ(川上百合子)
季節のことば(ちょう よう 【重陽】)筆者: 三省堂編修所 2007年9月9日

どういう意味?

『全訳読解古語辞典辞典 第三版』には、「(易で陽の数である「九」が重なるところから)陰暦九月九日の節句。菊の節句」とあります。
もう少し詳しく…
『全訳読解古語辞典』では、語釈のあとに「読解のために」というコラムがあります。そこでは以下のように書かれています。
易では奇数を陽とし、偶数を陰とする。五節句の一月七日(=人日じんじつ)、三月三日(=上巳じょうし)、五月五日(=端午たんご)、七月七日(=七夕)、九月九日(=重陽)の、いずれも奇数月・奇数日であるが、九は陽数の極であるところから、九月九日を特に重陽と呼ぶのである。(後略)
ちなみに…
同じく『全訳読解古語辞典』で「菊」をひいてみるとその周辺には菊の節句にまつわるいろいろなことが載っています。
「菊」には「①植物の名。中国から渡来し、奈良時代にはすでに、重陽(ちょうよう)の節句(=陰暦九月九日)に不老長寿の薬とされる菊酒を飲むことが宮中で行われた。『万葉集』の歌には詠まれず、秋を代表する花となるのは平安時代から。とくに白菊が、寒さで赤く変色するのを賞美した」との情報が。
「菊の酒」「菊の露」(菊の花の上にたまる露)は長生き、「菊の綿」(菊の花にかぶせて、花の香と露をしみこませた綿のことだそうです。なんとステキな!)は体をぬぐうと老いをぬぐいさる…「菊」の効用が「古語辞典」でわかるというのはおもしろいですね。(ことばのコラム:https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kisetsu05)

〇重陽= 9月9日の節供。陽数(奇数)の極である9が月と日に重なることからいい,重九(ちようきゆう)ともいう。中国行事の渡来したもので,邪気を避け,寒さに向かっての無病息災,防寒の意味もあった。菊花宴ともいい,685年(天武14)を起源とするが,嵯峨天皇のときには,神泉苑に文人を召して詩を作り,宴が行われていることが見え,淳和天皇のときから紫宸殿で行われた。菊は霊薬といわれ,延寿の効があると信じられ,この日,菊酒を飲むことも行われた。また,茱萸(しゆゆ)(カワハジカミ)の袋を柱に菊とともにつけ,悪気を払う風習もあった。5月5日の薬玉を,この日に茱萸袋ととりかえるのが平安時代の後宮で行われている。また,宇多天皇のときをはじめとする菊綿(きくわた)と称する風流な慣習がある。8日の夜に綿を菊花にかぶせ,その露にぬれた菊の香のする綿で9日の朝,肌をぬぐうと,老をすてるといわれ,これを贈物としたことが《紫式部日記》などにくわしい。平安末期には,天皇の出席もなく,平座(ひらざ)が多くなった。(改訂新版 世界大百科事典)

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 今ではことさら「重陽の節句」を祝うということはなくなったでしょうか。「菊酒」とか「栗ご飯」など、それを思わせる、微(かす)かな痕跡は残りますが、さて、この先はどうなりますか。よく「麗しい伝統」とか我が国固有の「順風美俗(「すなおで人情の厚い、美しいい風俗・風習」デジタル大辞泉)」などと、多くの人々は日本の「文化」を寿(ことほ)ぎ、論(あげつら)うものです。言われるまでもなく、どこの社会にも、そのような「美点」とされるものはあるんですがね。

 考えてみるまでもなく、この国に長く残されてきた「伝統」「慣習」「年中行事」の、その多くは、極めて早くから印度や中国、あるいは韓半島からの伝来(舶来)ものでした。さらに明治以降には怒涛のように洋風の文明が流入していきました。早期のものは「和漢混交」とでもいうべき受け入れ方であったし、ことに明治以降は「西洋技術、東洋道徳」(佐久間象山)という呪文で、いわば近代国家の一員たろうと必死でした。統治の方法や機能・制度だった。都は洛陽・長安に似せて作られ、政治の方面では「天皇制」なども、その最たるものだったとぼくなどは考えますが、だからどうだというのではありません。日本の独創に与る(あずか)ものは皆無ではないでしょうが、その大半は輸入されたもので、それを、いわば「和風」に拵(こしら)えあげたところに、この国の「賢(さか)しら」があるのではないでしょうか。洋服に下駄とか、丁髷(ちょうんまげ))に背広、これなどは最も異国人が「異(い)なり」として関心を持つのではないでしょうか。和洋折衷をして日本の「ゆかしい伝統」となる図ですね。それはそれでいいのですが、いわば「加工文化」、それがこの国の伝統だったと言ったらどうでしょう。インバウンドが引きも切らないのは、「円安」だけではないといわるるかもしれませんが、さて、そうでしょうか。

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過去に拘るのを「イデオロギー」という

【新生面】スイートホーム テレビアニメや絵本にもなった、こなみかなたさん作の漫画『チーズスイートホーム』は、好奇心旺盛な子猫のチーが主人公だ。親きょうだいとはぐれ、迷い込んだ公園で山田家に保護される▼母猫を思い「おうち かえう(帰る)」と鳴いてばかりのチーだが、次第に山田家を「おうち」と認識するようになる。その後も方々で迷子になっては他の猫に助けられ、おうちに帰るのが定番のエピソード▼こちらからも助けを求める鳴き声が聞こえるようだ。熊本地震後、県内でペットの犬猫が数多く迷子になっている。発生から約1カ月間に動物愛護センターや保健所に寄せられた行方不明の相談は計272件。半数以上はまだ見つからず行政や民間団体が捜索を手助けしている▼突然の激震に驚いて、壊れた扉や窓から外に出てしまうケースが多いという。懸命に捜す飼い主はもちろん、犬や猫たちもさぞ心細かろう。交流サイト(SNS)や本紙のミニ広告にも情報を求める投稿が相次いでいる。何とか見つけ出して、家族の元へ帰してやりたい▼今回は無事だった飼い主も備えを再確認する必要がありそうだ。連絡先を書いた迷子札は欠かせない。個体識別番号入りのマイクロチップ装着も推奨されている。GPS機能付きの首輪もあると聞く。しっぽの形や体毛の柄などの特徴を細かく撮影しておけば、痩せて顔つきが変わっても判別できる▼ペットもスイートホームの一員だ。命尽きるまでずっと一緒に。その願いを全うできるよう手を尽くそう。(熊本日日新聞・2026/09/08)

ぼくは、ある時期からテレビも漫画も見たり読んだりしない人間になりました。だから「チーズスイートホーム」についても何も知らない。コラム「新生面」で書かれているだけの内容を知っても、少なくとも猫とともに暮らす生活がどんなものかは、いやでもわかります。拙宅には、今でもおよそ20匹の猫たちがいる。もともとは「野良」の親から生まれた猫たちだし、「野良猫」も、その前は飼い猫だったと思われます。

 拙宅の隣の家に、たくさんの猫がいることを知ったのは、ここに越してきて何年かたってからだった。 その家のかみさんが「うちにたくさんの猫がいるのを知っていますか」と奇妙な聴き方をしたのを覚えている。その当時でも少なくとも20匹は超えていたはずです。満足に食餌を与えていなかったことがその後に判明します。たくさんの猫と暮らしてわかるのは、次々に生まれるのは同じ両親からではない、猫同士は全くの他人、あるいは片親が同じというケースがあったりする。言いたいのは、一緒にいると「相性が悪くて喧嘩」「弱い子は追い出される」、こんなことがよくあるのです。家の付近をうろうろしている猫に、五年遅れで越してきたかみさんが「食餌」をやるのを見て、面倒なことになるなあ、と嘆息したことを覚えている。その後からは、次々に林の中で産んだ子どもを家に連れてきたり、親ともどもが家にやってきて、多い時では20を超えたことがありました。しかし、家にいつかないで外で寝る子も出る始末。食事だけは家で摂るのですが、ほとんどは外で生活する。拙宅に猫がき出してから7年ほどが経過します。少なくとも家に来た猫たちは全員が避妊や去勢の手術をしている。

 何日も家に帰らず、ついに行方不明になる猫たちもしばしば出る。だから、家にいる・くるネコである限りはいつだって満腹状態にしておこうというの、ぼくの猫との付き合いの第一原則です。今では、隣の家の猫や、そこを追い出された猫も、食餌時には必ずやって来る。家の猫たちと分け隔てなく、欠かさずに食餌を与えています。猫の食餌代だけでもなかなかのものです。当節の「物価高騰」時代では、猫用品は浅ましいほどの値上げが続いています。足元を見るというのか、人間の分を減らしてでも食べさせてやりたいという気になります。「猫と暮らす」であって、ぼくは「猫を飼う」という気持ちになったことはない。結果的には一緒じゃないかといわれそうですが、それははっきり違うといいたいですね。ぼくにとって、猫はペットではない、愛玩すべきもの(存在)じゃないんですよ。「猫と暮らせば」、この世は天国とは思いません。猫が家に来て以来、七年間、夫婦のどちらかが必ず家にいる生活を続けています。夫婦で一緒にどこかに出かけることは全くない。(ここに越す前にもいつだって猫たちが多く、我が家にいました)

 漫画やアニメで描かれるものを茶化す気もなければ、過大に評価するのでもありません。漫画やテレビアニメとは比較を絶した「ともに暮らす」の明け暮れには、想像もつかない「恩典」というか、一種の「余禄」がある事だけは確かでしょう。余禄(余得)とは、人間との付き合いだけでは学べない、猫からの贈り物がいつでもあるということ。世話とか面倒というのも、その「余録」の一種でしょうか。

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 <猫のいる日常に共感 「こねこのチー」フランスで人気 「チー、ボンジュール!」。海外での日本製アニメ・マンガに対する見方を変える作品となるか。常人離れした主人公が異世界で戦うファンタジー、ではなく、猫のいる家庭の何げない日常を描いたアニメ「こねこのチー」(原作マンガ「チーズスイートホーム」=こなみかなた作、講談社刊)がフランスで人気だ。7月にパリで開かれた、アニメや漫画など日本文化を紹介するイベント「ジャパンエキスポ」はチーを公式ゲストとして招待。着ぐるみのショーに大勢の子供が声援を送り、キャラクター文具や日用品などが並んだ物販コーナーもにぎわった。/「こねこのチー」は、親兄弟と生き別れた猫のチーがマンション住まいの山田一家に拾われ、猫の目から見た人間の暮らしなどを描いた作品。現在3DCGアニメがテレビ東京系列で放送され、Amazonビデオでも配信されている。(左写真;「」ジャパンエキスポで踊る「こねこのチー」=2017年7月、フランス・パリ(講談社提供))

 講談社によると原作は米国や中国など23カ国・地域で累計350万部を出版。2010年から出されたフランスでの評判は特に高く、「名探偵コナン」「ドラゴンボール」などを抑えて2016年まで5年連続で子供向けマンガのセールス1位を記録しているという。ジャパンエキスポの企画を担当した講談社ライツ事業部の北本かおり副部長は「若者に人気のバトルものとは異なる、広い層に親しまれる21世紀の古典に育てたい」と期待する。

 もともと猫を飼っている家庭が多いフランス。エキスポ会場でチーのデザインTシャツを買った女性(24)は、「チーはうちの猫と同じようなしぐさをして可愛い」とほほえんだ。フランス語版を出版するグレナ社のブノア・ユオ漫画部編集長は「作品で描かれた家庭の姿が、自国のことのように違和感なく受け入れられ共感を集めている」と話す。フランスではチーのヒットの影響で、ほかにも猫を主人公にしたマンガが生まれているとい>。(朝日新聞・2017年8月16日)(右写真;「フランスの子供たちには身近な存在のチー。絵本やマグカップ、文房具など様々なキャラクターグッズが作られていた=2017年7月、フランス・パリのジャパンエキスポ会場」)

〇 TVアニメ= 本作『今日のこねこのチー』は、TVアニメ『こねこのチー ポンポンらー大冒険』を原作としている。原作TVアニメ版は2016年10月2日から2017年9月24日にかけてテレビ東京系列で放送された。これは、こなみかなたの『チーズスイートホーム』のTVアニメ版『チーズスイートホーム』シリーズの第3期にあたり、第2期『チーズスイートホーム あたらしいおうち』の続編で、第4期『こねこのチー ポンポンらー大旅行』に続く。監督は草野公紀、キャラクターデザインは鴻巣智、皆川恵美香が務めている。キャストは、チーをこおろぎさとみが演じている。(漫画ペディア)

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 「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男・昭和6年、作者30歳の作)父の仕事(外交官)で中國厦門(アモイ)で出生。三歳で帰国。後に、松山で成人。大学休学中に虚子に師事、「ホトトギス」で活躍。水原秋櫻子の指導を受ける。中村さんについては、この駄文録で何度か言及しています。ぼくの大好きな一句に「はまなすや 今も沖には 未来あり」が。

 それはともかく、です。「文化の日」を「明治の日」にしたいそうです。変えたらどうでしょうか。今時、永田町国会に屯(たむろ)している「総与党」の輩(あるいは「親族(うから)」かもしれません)が、そう願っているそうです。圧倒的多数の議席を支配しているのですから、自由にどうぞという気分です。休日とか祝日とか祭日とかいうけれど、「明治の日」を作りたいというのは、要するに、過去の「栄光」(があったかどうか、ぼくには疑わしいのだが)の気分(感覚)だけでもを取り戻したいという「歴史離れ」した連中の寝言です。でも、寝言は「本音」であることもないわけではないのですから、面倒なことになるのです。あるいはいっそのこと、「明治節」とか「明治天長節」としたらどうでしょう。それに倣ってて、「大正節」「昭和節」「平成節」と、元号を愛(め)でる「祝日」を、それこそ「粗製乱造」したらいい。どこかの国などから、何を馬鹿なことをするのか、そういわれても気づかないでしょう。太陽歴を廃止して「太陰暦」に変更すこともお忘れなく。

 草田男さんの「明治は遠くなりにけり」をよく鑑賞すると、何が見えてくるか。そこからは決して「安っぽい感傷」などは見ることはできない。ひたすら「月日の経つのは夢のうち」という浦島太郎の心境でもないでしょう。この句は昭和6年、卒業以来20年ぶりに母校(都内南青山小学校)を訪れたときの、折からの降る雪に促されて、懐旧の情、もだしがたく、雪の降る校庭を急ぎ足で行きかう、雪に遊ぶ子どもたちに、ふと我に返らされた、草田男さんの歴史意識だったと思う。昭和6年9月「満州事変」が起こります。日本軍の謀略(による南満州鉄道の爆破)が発端でした。

ここで一休み。以前にも触れましたが、 鴎外の評論に「歴史其儘と歴史離れ」という小文があります。ぼくの好きな一編です。鴎外は小説家であり、しばしば歴史小説を書いています。つまりは「歴史(事実)と小説」という問題に関するエッセーです。特に「山椒大夫」執筆した経験・意識を材料に、この主題を早口で論じています。

 「わたくしの作品は概して dionysisch (情念的)でなくつて、apollinisch(理性的) なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである」と鴎外は述べます。これはニーチェの「悲劇の誕生」に詳しく使われていた「概念」であり、ある種の「芸術論」でしょう。この二者を総合したと解されるのが、ワグナーの「楽劇」だとされます。ぼくにはよくわからない音楽でしたね。理性と情念、ですね。

【国原譜】現在は「文化の日」となっている11月3日。この日に「明治の日」を併記する、祝日法改正に向けた動きが進んでいる。来年の施行が目標という。/運動の主体は超党派の議員連盟。年間16日ある「国民の祝日」の中に「昭和の日」(4月29日)があり、これにも関係しているようだ。/4月29日は昭和天皇の、11月3日は明治天皇の誕生日だ。1927~1947年には、11月3日は「明治節」と呼ばれていた。戦後の日本国憲法の公布を受けて「文化の日」になった。/日本映画の傑作に数えられる2本、『東京物語』(1953年)と『ゴジラ』(1954年)が公開されたのも11月3日だった。偶然でもあるまい。/「あの戦争」の終結とともに「明治節」は記憶の片隅に追いやられたのであり、復活を望む声も大きくはないだろう。ただし、歴史にはしっかり刻まれるべきだ。/それにしても、なぜ「明治の日」か。「一世一元の制」を尊重して「大正の日」もつくるのか。愚案だけれど、「明治の日」は9月8日にしてはどうか。1868年のこの日が「明治」改元の日(旧暦)だから。(北)(奈良新聞・2026/09/08)

 つまりは、現在国会に議席を占めているほとんどの議員諸君は「ディオニュソス的(「情念」「狂気」(陶酔」などなど)」にいかれているのであって、小さな国の小さなサークルが「世界」そのものであるという、まさに「神話」か「物語」あるいは「作り話」の世界の住人なんですね。もちろん、ぼくはそんな世界に住むのはお断りですよ。「歴史」ではなく「歴史物語」をこよなく愛する(偏愛する)人々は、きっと司馬遼太郎さんが大好きだと思う。「小説」で描かれた世界が「自分の住む世界」であると、見事に錯覚するのです。一人で錯覚するならまだしも、国民を巻き込もうとするのですから、質が悪いし、今から見れば、司馬さんも「罪作り」な作家でしたね。ニーチェいうところの「アポロン的」なものとは、「秩序」「理性」とでもいうような、「事実」に立脚した「歴史館」を尊重する姿勢です。 

 面倒なことは言わないつもりです。大きな犠牲を払って、今日までたどり着いたのに、もう一度「明治の御代」に戻り、その歴史を踏襲するつもりなのか、いや、明治の一時期に戻ったまま、一歩も進まないで、小さな狭い世界に閉じこもり、要するに「鎖国」状態を国是としたいのでしょうかね。ぼくはご免被るよ。あくまでも「猫と暮らせば」を続けたいし、そうであるなら、大事な時には目を覚ましていなければならないんですよ。猫を見ていると、やはりアポロん的、それが目を覚ましているということですね。過去のある時代に拘る、そこに「理想郷」を観るのを「イデオロギッシュ(ideologisch)」という。過去に拘(こだわ)る、未来を観ない、それは「教条主義」というものでしょう。国家主義もまた、一つの(イデオロギー」にほかなりません。

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この星のどの子もたんと食べて秋

 中日新聞のコラム「夕歩道」、むかしから、読めるのを楽しみにしていました。その昔は東京新聞を、千葉に住みながら読んでいました。その東京新聞の本家は「中日新聞」でしたね。中日新聞を購読したことはありませんが、東京新聞の血縁という意味では時々眺めてはいました。このコラム「夕歩道」は、特別に優れているからというのではなく、何でもない「日常風景」を映し出していると思えば、おのずから安心して、あるいは自分の生活に重ねながら読むことができるからでした。大上段にかかめて物を申すのではなく、普段着のままの振る舞いを忘れないところが好きでしたね。で、おやはり新聞人というのか、時には大上段に構えて「天下国家」を論じるのですから、分不相応のきらいはありますね。

 でも、このコラムの魅力の一つ、いや魅力の第一はその「タイトル」です。「夕歩道(evening sidewalk)」、もちろん『遊歩道(walking path)』ではありません。夕暮れの歩道、黄昏(たそがれ)時の歩道。夕方の報道 … 。いろいろに解釈はできますが、要するに昼日中でも深夜でもない、そのあわい(間)の時刻の、一瞬を切り取った景観を思ってみます。

 この社会には余計なもの、邪魔なもの、景観を損なうもの等々、数えきれないほどありそうですが、中でもぼくは「歩道橋」を第一に数えたいですね。無駄であると同時に、人間(や他の生き物)を粗末にしている、その見本ではないでしょうか。だから、ぼく自身は、歩道橋を上ったり下りたりした経験はあまりというか、ほとんどありません。少々遠回りでも、あたりまえに「歩道」を歩く。ぼくに言わせれば、確かに必要性のある歩道橋も中にはあるでしょうが、その多くはまさに「辺野古移設工事」とに「右へ倣え」で、文字通りに、終わりのない「公共事業」という名の「税金の垂れ流し」です。

 「夕歩道」にはいろいろな場面・景色があります。横断歩道でも横断歩道橋でもなく、ごく当たり前の「歩道」の夕暮れ時。渋谷の、例の「スクランブル交差点」、あれは「夕歩道」では断じてないでしょうね。あの光景(雑踏)を見ると、ぼくはああいうところにはぜったに紛れ込まないぞという、気持ちを強くするのです。雑踏もまた、人間の避けられない場でしょうが、できればそこには足を踏み入れたくないぞと、ぼくは強く思うのです。新宿近辺に半世紀以上もうろうろしながら、おそらくこの「スクランブル」を渡ったのは1~2回じゃないでしょうか。

〇 ちゅうにち‐しんぶん【中日新聞】= 中日新聞社が発行する日刊ブロック紙。同社の本社は名古屋市にある。愛知の新聞2紙が昭和17年(1942)に統合し「中部日本新聞」として発刊。昭和40年(1965)に現紙名に改題。愛知・岐阜・三重・静岡など東海地区で広く読まれ、傘下に東京新聞などをもつ。発行部数は約163万部(2025年6月)。(デジタル大辞泉)

 【夕歩道】
 名古屋にあるまちの本屋の店員さんから聞いた話。そのお店にはよく来る子どもがいる。来るが、何も買わない。本や文具をとても欲しそうに眺め、いろいろ触る。しばらく滞在し、黙って帰る。
 おうちの家計が厳しいのかな。いつも気になっていたその子が、夏休み中のある日にやって来た。100円ちょっとの品物を一つ、うれしそうに買った。店員さんは心の中でひとり喜んだという。
 その子の家の実情は知らない。けれど、貧困に苦しむ家庭が多いことは事実だ。かつて本紙で掲載した「平和の俳句」を思い出す。「この星のどの子もたんと食べて秋」(津市・田中亜紀子さん)(中日新聞・2026/09/05)

 コラムに書かれている「まちの本屋」には、いろいろな文房具類や玩具類が置かれているのかもしれません。「そのお店にはよく来る子どもがいる。来るが、何も買わない」「いつも気になっていたその子が、夏休み中のある日にやって来た。100円ちょっとの品物を一つ、うれしそうに買った」という。たぶんこれは「本」ではなく、友だちの持っているようなおもちゃだったでしょうか。ぼくの生育環境は、およそ都会風でもなく、まさに野蛮・野生人のそれでした。もちろん近所には「書店」はあったでしょうが、まったくの無関心で、ひたすら野外を飛び回っていました。町の本屋さんに入るようになったのは東京に出てきて大学に入ってから。これもまた極端な話で、ほぼ毎日、夕食後、あるいは日曜などの習慣になったのが「本屋回り」でした。住まいは文京区本郷、目の前には旧帝国大学がありましたので、そのメインストリートの本郷通りには、それこそ、「本屋」が目白押し。新刊旧刊取り混ぜて、おそらく数十件の本屋があったでしょう。これほどの「本屋買い」が方々にあった時代は、どんな時代だったのかと、時々不思議に思うので宇s。

 これまでの「本読まず」が、一気に「本の虫」になったのですから、本の溜まる速度には驚異的なものがありました。活字に見放されていた人間が、好き放題に活字(本)に触れられるのですから、まさに狂気じみた「本読み」「本好き」になったと思う。現在のぼくには、もう残された「持ち時間」がいくばくもなくなったけれど、買い集めた本の始末をどうするか、ひとしきり悩みの種のようになったこともあります。時代はまさしく、どこも本(個人蔵書)の引き取り手がないという今の風潮が蔓延している。数えたことはありませんが、優に「万に届く」蔵書の処分の大方は、必要とされるところに「寄贈」することです。特に文庫や新書本は、それこそ、長年少しばかりサポーターのようなことをやっている団体(両親と生活できない・あるいは施設暮らしの人、ひとり親家庭などの支援団体)のいくつかに、提供することを決めています。ある団体には文庫本などを、およそ一千冊ほど、差し当たっては送る手はずを整えています。この種のNPO団体に、ぼくは何か所か末端のサポーターとして参加していますので、たぶん、あらかたは蔵書(文庫・新書)の大部分は捌(さば)けると思っている。

 ネット時代、あるいはSNSの時代だといいます。時の総理大臣までが、暇がありすぎるのか、無知・無教養満載の「ポスト」を連投しています。この恥ずべき現象は世界的に話題になっているという。米国大統領と双璧をなす、無知蒙昧の有閑すぎる「政治家」として。だから、こんな手合いには「読書」などどこ吹く風なのかもしれません。米国大統領が本を読むの姿を想像できない。もちろん日本の首相も、その姿は脳裏に描けません。「たばこ蒸(ふ)かして、ポストをすれば」、支持率が上がるのでしょうから、この国は摩訶不思議な堕落の国ですね。一冊が、浩瀚600ページを超えるような著作集(全集)、全十五巻を持つ総理など、未曾有の存在だったでしょう。

 ぼくたちがものを考えるのは「文字(ことば)」の組み合わせによるのですから、どこまで行っても、自分の心身を通じて、「本を読む」ということが不可欠でしょう。本を読まないとどうなるのか、どうなるものでもないでしょう。犬や猫を観ればわかることです。あるいは「日本の現首相」を一瞥すれば、いやでもわかろうというものです。

 「(お店によく来る)その子の家の実情は知らない。けれど、貧困に苦しむ家庭が多いことは事実だ。かつて本紙で掲載した『平和の俳句』を思い出す。『この星のどの子もたんと食べて秋』」。もちろん「たんと食べる」のは食事・食料だけではありません。ある詩人が言われていました。「人間は何でできているか」「人間は本(ことば)でできているのです」と。「世界は一冊の本」であるともいわれました。

 学校の教師(大人たち)は子どもの顔を見れば「本を読め」というでしょう。そういう先生はどうなんですか。「『SNS』に嵌ってるんじゃないですか」子どもたちに「本を読めよ」という前に、「お前さんは本を読んでいるか」と、自問自答したらどうでしょう。本を読まないとどうなるのかなどと、子どもたちは問うことはしないでしょう。毎日のように、教師や親や総理大臣の様子を見ているからね。いい年をして「ジョギング」なんかしていないで、「本を読め、と大人たちにいたい」と、その詩人は言いましたよ。

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「徒然に日乗」(1207~1213)

◎2026/09/06(日)「日経平均65,020.94 +806.46 NYダウ53,414.25 -271.86 ドル円156.23-25 -0.80円高 NY原油91.22 -0.08 長期金利2.900 -0.065」(日経新聞・2026/09/05)▼本日は早くから警戒レベルの降雨の気配が濃厚である。関東地方も深夜から明朝にかけて「線状降水帯」を含む、短時間大雨警戒情報が出されている。ただ今、午後9時半だが、夕刻から間断なく強雨が続いている。お盆前の再来が心配される。(1213)

◎2026/09/05(土)終日雨模様の天気。台風24号と秋雨前線の張り出しの影響で、劣島各地で「線状降水帯」が多数回発生。大きな被害が出ていなければ幸いだと思う。▼日経平均65,020.94 +806.46 NYダウ53,414.25 -271.86 ドル円156.23-25 -0.80円高 NY原油91.22 -0.08 長期金利2.900 -0.065」(日経新聞・2026/089/05)米国からの強い要請もあり、円安がやや小康を保つっている状態だが、けっして安心できる状態ではないのは、米国経済も万全ではないからだ。「日米共同発」での世界同時金融危機もありえる事態が進んでいるともいえる。円安、政策金利上昇をめぐって「一進一退」がまだしばらくは続くのか。「責任ある積極財政」という名の放漫経済政策を止めろという米国からの「勧告」も無視して、政府は「インフレ増税政策」を継続する覚悟(破れかぶれ)のようでもある。「金利を上げるも、上げないも」、いずれも地獄という状況に置かれているのが事実なのだと思う。▼「2027年度予算の概算要求総額は過去最大の143兆円となった。要求上限のない投資枠は12.1兆円が計上された。人工知能(AI)や宇宙予算などが盛り込まれた。防衛費をはじめ金額を示さない要求が続出するなど、一段の歳出拡張を巡る火だねはつきない。/8月31日までに各府省庁が27年度の政策経費を要求した。財務省が4日、一般会計の総額が143兆656億円だったと発表した」(同上)(1212)

◎2026/09/04(金)午前中に茂原まで、少し遠回りをして買い物に。長柄、長南、市原、大多喜近辺の稲刈りが真っ盛りである。新米が古米より相当に値段が安いという可笑しな現象が生まれているが、実態はどうなのだろうか。米の需給見通しができない「農政」とは何か。▼「日経平均65,020.94 +806.46 NYダウ53,686.11 +624.16 ドル円156.35-37 -0.68円高 NY原油90.87 -0.43 長期金利2.900 -0.065」(日経新聞・2026/09/04)「[東京 3日 ロイター] – 20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議を転機に円安シナリオが揺らいでいる。ベセント米財務長官が表立って日本にリフレ政策をやめるよう発言、日銀の利上げ加速が意識され、投資家センチメントが円高方向に向き始めている。/9月1日に160円程度で推移していたドル円相場​は、この2日で4円程度円高が進行した。あおぞら銀行の諸我晃チーフ・マーケット・ストラテジストは、日銀の連続利上げや大幅利上げ‌など「具体的な言及があったため、海外勢を中心に反応したのではないか」と指摘する」(Reuters・2026/09/03)▼おりしも、アメリカで各国金融担当者による「G20会議」が開かれている。日米の現状(円安、ドル売りなど)に認識にちがいはないのだろうか。▼この間に、日米で「レートチェック」をしたらしい。(1211)

◎2026/09/3(木)午前中、ほんの小一時間ばかり敷地周りの除草作業を始めた。日差しがなく、作業日和と判断したからだが、徐々に気温も上昇し、とても蒸し暑かったせいもあり、体が悲鳴をあげ始めたので、ただちに辞めることにした。驚くばかりの体力衰弱に愕然としている。▼「3日の外国為替市場で対ドルの円相場は一時、1ドル=155円台に上昇した。8月3日以来1カ月ぶりの円高・ドル安水準となった。日銀の利上げ加速観測に加え、ベッセント米財務長官の発言をきっかけに円安是正への思惑が広がり、円買いが膨らんでいる。/午前から徐々に円高が進んだ。夜には155円台半ばまで上昇し、1日での上げ幅が4円に達した。/円買いの背景には日銀による利上げ加速の思惑がある」「日経平均64,214.48 -111.16 NYダウ53,459.02 +397.07 ドル円155.42-43 -4.27円高 NY原油92.02 +1.01 長期金利2.965 -0.045」(日経新聞・2026/09/03)(1210)

◎2026/09/02(水)「ベッセント米財務長官「リフレ政策やめるべきだ」と日本に伝達【アッシュビル(米南部ノースカロライナ州)=川手伊織】ベッセント米財務長官は1日の記者会見で「日本に(財政拡張と金融緩和に前向きな)リフレ政策をやめるべきだと伝えた」と明かした。8月30日に日銀の植田和男総裁、翌31日に片山さつき財務相と会談していた。/米南部ノースカロライナ州アッシュビルで開いた20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議が1日に閉幕した後、記者会見した」「債券11時 長期金利、3.015%に上昇 日銀の利上げ観測一段と高まる 2日午前の国内債券市場で、長期金利は低く始まった後に上昇(債券価格は下落)に転じた。指標となる新発10年物国債の利回りは前日比0.010%高い3.015%と30年ぶりの高水準をつけた。日銀の早期利上げ観測が一段と高まり、国内債の売りを促した。中東情勢悪化への懸念から米原油先物相場は上昇しており、世界的にインフレ圧力が増すとの懸念が利上げ観測を後押ししている。」(日経新聞・2026/09/02 )(1209)

◎2026/09/01(火)「日経平均66,215.34 -96.59 NYダウ53,185.90 -374.09 ドル円160.10-12 +0.54円安 NY原油87.75 +1.99 長期金利3.005 +0.065」「高市政権の政策縛る金利上昇、財政拡張に市場警鐘 首相の発信響かず **長期金利の指標となる新発10年物国債利回りが一時3%まで上昇した。高市早苗政権の政策を縛る要因となる。国債の利払いが膨らみ、減税や歳出拡大の余地が狭まる。財政規律を巡る高市首相の発信は響かず、市場が財政拡張に警鐘を鳴らした。/2025年10月の首相の就任時、長期金利は1.6%台だった。1年もたたないうちに30年ぶりの水準まで上がった」(日経新聞・2026/09/01)(1208)

◎2026/08/31(月)「日経平均66,311.93 -93.63 NYダウ53,559.99 -9.45 ドル円159.73-74 +0.23円安 NY原油86.27 +2.87 長期金利2.940 +0.015」▼「027年度予算を巡る各省庁の要求が31日、締め切りを迎え要求額は過去最大の143兆円前後に膨らんだ。金額未定の「事項要求」も多く、年末に向けた予算編成で歳出圧力を管理できるかは見通せない。市場は財政懸念や金融政策への警戒を解いていない。/長期金利の指標となる新発10年物国債の利回りは31日、一時前週末比0.030%高い2.950%まで上昇(価格は下落)した」(日経新聞・2026/08/31)▼野党の「中道改革連合」が四分五裂状態に。真面目に「国政」を考えているとは思われなかった「中道勢力」、呉越同舟というか、大半が「寄らば大樹の陰」では、政治に光明が差す気づかいはないのさ。多くの議員さんたちは有権者の意思や願いを嘲笑するような振る舞いだと思う。皆さん、政界引退されてはどうかね。いつまでも「政権」への未練を持ちながらではまともな 政治などはできないと思うよ。(1207)

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第三代象徴天皇、それが今上天皇です

⁂「週のはじめに愚考する」(135)~ 今日の「天皇制」はさまざまな要素が込められて出来上がっているもので、これを「歴史」として理解したり提示したりすることは簡単ではないでしょう。第一、「天皇」という呼称からして、さまざまな呼び方がされてきたものです。そのいちいちを述べませんが、実に煩わしいこと限りなしです。ぼくは津左右吉さんのお説に随分と教えられ、今もなおそれによるところは大ですが、神代は神代、人の世は人の世。これをいろいろと脚色し、苦心して粉飾してできたのが「記紀神話」というもので、その「神話」のベースは中国の文明にありました。(ヘッダー写真は江戸東京博物館所蔵「神武天皇」絵葉書・喜多川周之コレクション)

 「神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、… 。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話のある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと臆断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経略の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根柢には一種の浅薄な Rationalism が伏在する」

 「すべて価値あるものは合理的のもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にお伽噺
おとぎばなし
というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋
ろう
とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽
おお
われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである」(津田左右吉「神代史の研究法」: 初出「歴史と地理」 四ノ三 1919(大正8)年9月)(参照・「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店 2006)

 どこまで行っても神話は神話、歴史(事実)は歴史です。それを混同するのも合体させるのもご自由ですが、国の姿を歪めてまで、脚色するのは政治家としては、まともではないでしょうね。「天皇」という呼称は中国由来です。その他、天皇制に限らないことですが、この国の歴史や文明には数えきれないほどの「中国文明」の成果が取り入れられています。第一、この「漢字」自体が、その代表・典型でしょう。中国を罵る、その武器が「漢字」だというのは、おかしいですね。記紀神話もまた、中国文明が存在しなければ、あるいはそこから多くを学ばなければ、成立することは不可能だったんじゃないですか。

 ぼくの素朴かつ率直な愚見を言うなら、今日の「象徴天皇制」は戦後の日本国憲法から開始されたもので、今上天皇(きんじょうてんのう)は第三代ですね。「今上天皇」を「こんじょうてんのう」と読まれた総理大臣がいますが、人並みの歴史感覚の持ち主だとはとてもぼくには思われません。「こんじょう」という読み方がなかったわけではありませんが、それはとても古い、今から数百年前の時代に見える呼び方です。どのように読もうが、それでもかまわないと思いますが、どうでしょうか。この首相は、「日本」をあえて「ニッポン」と発言される御仁ですから、お好きにどうぞといっておきます。精選版日本国語大辞典に、とても際どい(卑猥な)「読み方」があります。「『旦那様に日本国を撫られて』(出典:雑俳・太平楽(1724))」と。「にっぽんこく」と聞くたびに、ぼくはきみが悪くなるのです。ときには「にっぽんごく」とも発音する向きもありましたね。これに似た表現に「十八番(おはこ・御箱)」があります。ぼくは中学生の教師から教え垂れました。イヤーな感じがしたことを記憶している。(右写真は津田左右吉氏)

〇 津田左右吉 (つだそうきち) 生没年:1873-1961(明治6-昭和36)= 大正・昭和期の歴史家。岐阜県出身。東京専門学校(現,早稲田大学)卒業後,白鳥庫吉に師事し,中学教員,満鮮地理歴史調査室研究員などを経て早大教授となる。明治維新研究を生涯の課題とし,合理的思考方法に基づく日本,中国の思想史研究で,日本文化の特質を究明した独創的体系を築く。とくに《文学に現はれたる我が国民思想の研究》(全4巻,1916-21)は,〈生活〉本位の視点で〈国民思想〉の史的展開を論じた雄編であり,《支那思想と日本》(1938)では〈東洋文化〉の有機的一体性を否定し注目された。さらに《神代史の研究》《古事記及日本書紀の研究》(ともに1924)など一連の古代史研究は,厳密な文献批判によって記紀の成立過程を論証した画期的業績であったが,出版法違反に問われ,1942年有罪とされた(津田左右吉事件)。第2次大戦後は,保守的心情から皇室擁護論,時評,歴史論などを積極的に発表。49年文化勲章受章。《津田左右吉全集》(全33巻)がある。(改訂新版 世界大百科事典)

 これは何度も繰り返すべき主題ではないと、ぼくは考えています。ぼく自身は「現行象徴天皇制」には反対です。その理由は「天皇(や皇族)」に「法の下の平等」という観念(人権思想)が付されていないからです。つまりは「人権」そのものが認められていないといっていいでしょう。学生時代に、「天皇に対する名誉棄損」は成り立ちますかと、授業で担当教授(法学者)に訊いたことがありました。「ありません」と即答された。以来、それはおかしいという疑念がぼくにはついて廻っているのです。一人の国民として「法の下の平等」が等しく認められる「天皇」存在しうるか、それがぼくの課題となっています。いつか愚論を述べることがあるかもしれません。「天皇制」という制度問題の根幹にかかわるでしょうね。

 (以下は、参考文献・資料などとして提示ておきました。煩雑な成り行きをお詫びします)

 皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会(声明全文)

 今回の皇室典範改正に際して、2026年7月10日の衆議院運営委員会において、自民党の小林鷹之政調会長が、「皇位の男系継承は2600年以上にわたり先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統だ」と述べたことが伝えられています。小林氏に限らず、複数の政治家によって同趣の発言がくり返されており、私たちは、こうした状況に深刻な危惧を抱いています。こうした発言は、奈良時代に作られた史書、『日本書紀』にみえる初代天皇の出現と、その後の皇位継承の記述にもとづいています。『日本書紀』によると、紀元前660年にあたる辛酉(かのととり)年に初代神武天皇が即位し、皇位は男系により継承されたことになっています。
 しかし紀元前660年は、考古学の研究成果によれば、縄文時代晩期、または弥生時代早期にあたり、日本列島にはまだ文字を使用する文化は存在しませんでした。そもそも、辛酉年が歴史的事実ではなく、その年に大きな歴史的変革があるという中国の思想にもとづいて後世に造作されたものであることが、19世紀末、すでに明らかにされています。
 さらに、第2代以降の天皇にも実在しない人物がいることが指摘されています。その後の天皇につながる倭王の地位が世襲的に継承されるようになるのは、紀元6世紀以降とするのが、現在の通説的な見解です。
 かつて、天皇や皇室につながる学問的な研究成果を明らかにすることに大きな制約があった時代がありました。
 1889年に発布された明治憲法では、天皇による統治が「万世一系」の皇統にもとづくものとされ、同時に制定された皇室典範によって、皇位は皇統に属する男系男子が継承すると定められました。1940年、治安維持法をはじめとする一連の政策により、『古事記』や『日本書紀』の記述を疑問視した津田左右吉の学問的な著作が発売禁止とされ、大学教員の地位を追われるといった弾圧が行われました。
 1946年に制定された日本国憲法では、こうした過去の反省にもとづいて、学問の自由はもとより、思想・信条の自由が保証されました。以来80年、自由な空気の下で進められた研究は大きく進展し、古代の王族のあり方もさまざまな角度から検討が進められています。/今回の、「皇室2600年の歴史と男系男子による皇位継承」を謳(うた)う政治家の一連の発言は、連綿と続けられてきた古代史研究の成果を否定するもので、到底容認できません。またこうした学問的成果の軽視が社会を萎縮させ、思想・信条の自由が再び奪われる世界が訪れることを危惧します。/私たちは、皇室や皇位のあり方をめぐる政治的主張が、恣意的に語られるのではなく、これまでの学問的研究成果を尊重したものであることを強く求めます。
 2026年8月15日

 皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会 一同(毎日新聞・2026/09/05)

(https://mainichi.jp/articles/20260903/k00/00m/200/154000c)
 天皇
 地位
1.天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく(憲法第1条)。
2.皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する(憲法第2条)。
権能
1.天皇は、日本国憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法第4条第1項)。
2.天皇の国事行為(憲法第6条・第7条・第4条第2項)
(1)国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命すること。
(2)内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命すること。
(3)憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
(4)国会を召集すること。
(5)衆議院を解散すること。
(6)国会議員の総選挙の施行を公示すること。
(7)国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
(8)大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
(9)栄典を授与すること。
(10)批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
(11)外国の大使及び公使を接受すること。
(12)儀式を行うこと。
(13)国事行為を委任すること。
3.天皇の国事行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う(憲法第3条)。(宮内庁)

(https://www.kunaicho.go.jp/learn/institution/seido/seido01.html)
代数

第1代
諡号・追号
神武天皇(じんむてんのう)
御父
天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)
御母
妃玉依姫*
陵名陵形
円丘
畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)(宮内庁)(https://www.kunaicho.go.jp/visit/ryobo/001.html)

〇 天皇(てんのう)= 日本の歴代の君主の称号。元来は中国のことばで,万物を支配する皇帝の意味をもつ。日本以外では,中国で唐の高宗が称したほかに例がない。日本の初代の天皇は,『古事記』や『日本書紀』では神武天皇とされるが,天皇という呼称の成立期は推古天皇時代,天智天皇時代,天武天皇・持統天皇時代の三説がある。律令制のなかや,あるいは明治初期の外交関係の公文書では,皇帝という称号を用いたこともある。明治憲法下では,統治権を総攬する絶対権力者として規定されたが,1946年の日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定され(1条),国家の機関として果たす権能も象徴たる地位に相応する,きわめて限定されたものとなっている。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

〇 神武天皇(じんむてんのう)= 記紀に第1代と伝える天皇。神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。高天原(たかまがはら)から南九州の日向(ひゅうが)に降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(そうそん)で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ(東征)、方向を変え、紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦(がんたん)、畝火(うねび)(橿原(かしはら)市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた(大和平定)。(↷)

そして媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、在位76年、127歳(『記』では137歳)で没して畝傍(うねび)山東北陵に葬られたという。/ 記紀における神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどないといわれる。しかし、神武天皇の物語の核心をなす東征の部分には、皇室の遠い祖先が西方からきたという記憶が反映しているとみる説もある。(日本大百科全書(ニッポニカ))

〇 たまより‐ひめ【玉依姫】= ( 古く「たまよりびめ」とも。「たま」は魂、「より」は憑依する意 ) 記紀神話で、海の神の娘。姉の豊玉姫が天孫彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を産み落として去った後、其の子を養育した。その後、育てた彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と結婚して、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(=神武天皇)を含む四人の男子を産んだとされる。[初出の実例]「しらなみに多万余理毗咩(タマヨリヒメ)のこし事は渚やつひにとまりなりけむ〈大江千古〉」(出典:日本紀竟宴和歌‐延喜六年(906)) 玉依姫の補助注記 この名は、この外にも記紀で高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘万津幡豊秋津姫の子として、また「逸文山城風土記」所引賀茂神社の伝承に賀茂別雷命を丹塗矢で受胎した母として見え、元来は普通名詞的な巫女(みこ)の意であったか。(精選版 日本国語大辞典)

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