河川敷 まっかっか 高知県四万十市入田でヒガンバナ見頃
四万十市入田の四万十川河川敷でヒガンバナが見頃を迎えている。春は一面の菜の花でにぎわうスポットは秋、真っ赤に染まり、訪れた人を楽しませている。
河川敷には柳の木が点在し、地面を覆い尽くすように自生のヒガンバナが群生。柳の木陰で赤が明るくなったり暗くなったりして、波打つような空間をつくり出す。秋風に乗って遠くからツクツクボウシの鳴き声が聞こえ、季節の変わり目を感じさせる。
高知市から友人2人と訪れた会社員、西川知佐さん(54)は「初めて来たけど、すごい、圧巻。一度にこれだけのヒガンバナを見られてよかった」と夢中で写真に収めていた。
市観光商工課によると、9月いっぱい楽しめる。(ヘッダー写真:柳の下に広がるヒガンバナ(四万十市入田、森本敦士撮影))(富尾和方)(高知新聞・2026/09/29)

生まれてこの方、自然の草花に親しんだなかで、このヒガンバナ(彼岸花)がもっとも早いものだったかもしれません。能登半島の田舎に生まれたので、至る所が自然そのもので、ひときわ鮮やかな赤い花で、幼い子どもの目を引いたのかも知れない。後年には、菜の花や桜などに強く惹かれますが、この曼殊沙華(マンジュシャゲ)だけは特別の花として、長く記憶に残りました。その思い出の中には、決して縁起のいい花ではないという知識も埋め込まれていたと思う。「しびとばな」「てんがいばな」「ゆうれいばな」「すてばな」などとというおぞましい呼び名は、小さいものの怖気を誘ったものと思う。
加えて、少し年長になって覚えた流行歌に「長崎物語」(昭和十四年発表)がありました。このことについてはどこかで書きましたが、ぼくの中に強烈な印象を残しました。この流行歌を覚えたのは5歳くらいだったでしょうか。「赤い花なら曼殊沙華 オランダ屋敷に雨が降る」今でも流行歌は好きですが、少しでも歴史性がある曲なら、どれも大好きですね。作詞家の「観念からの作詞」にはほとんど興味はありません。

拙宅の近所の田んぼの畦道(あぜみち)にも、至る所に「彼岸花」が咲いています。その理由はいくつかありますが、何よりも球根が含んでいる「毒性」でネズミや他の動物の被蓋から稲や野菜類などを守るということのようです。しかし、その毒性をとり除けば、そこに含まれるデンプンが食料にもなったのですから、何かと大事な植物だったことがわかります。
夜来の雨はまだ降り続いて言います。しかし風はほとんどなく、台風26語は、おとなしく、少しばかりの雨をもたらして、南海上に消えてくれるのでしょうか。そして、まだ安心するのは早いので、次の台風候補が発生しつつあるという。房総半島は、25号の痛手も癒えぬ間に、次々に台風の洗礼を受けているのです。台風よ、もう来るな! 来てもいいけど、これ以上の「暴風豪雨」はいらないぞ!
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◎ まんじゅしゃげ【曼珠沙華】=〘 名詞 〙 (「まんじゅしゃけ」とも ) ( [梵語] mañjūṣaka の音訳 ) 仏語。赤色(一説に、白色)で柔らかな天界の花。これを見るものはおのずからにして悪業を離れるという。四華の一つ、紅蓮華にあたる。日本では、彼岸花(ひがんばな)をさす。《 季語・秋 》 〔いろは字(1559)〕 〔法華経‐序品〕(精選版 日本国語大辞典)

◎ ひがん‐ばな【彼岸花】=〘 名詞 〙 ヒガンバナ科の多年草。中国原産といわれ、古く日本に渡来し、本州以西の各地の土手、路傍、墓地などの人家の近くに生え、また、まれに栽培もされる。高さ三〇~五〇センチメートル。地中にラッキョウに似た鱗茎があり外皮は黒い。秋、葉に先だって花茎が伸び、頂に六個の花被片をもつ赤い花が数個輪生状に集まって咲く。花被片は長さ約四センチメートルの披針形で外側に巻き縁がちぢれている。花後、鱗茎から線形の厚い葉を叢生する。古くは救荒作物の一つとされていた。全草に有毒成分を含むが、煎汁を腫れもの・疥癬(かいせん)などに塗ると効果がある。漢名、石蒜。まんじゅしゃげ。しびとばな。てんがいばな。ゆうれいばな。すてごばな。はみずはなみず。《 季語・秋 》 〔和漢三才図会(1712)〕(同上)
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◎ 長崎物語(ながさきものがたり)= ・長崎物語 (曲) – 1939年(昭和14年)に発表された由利あけみの曲。歌詞は「じゃがたらお春」をモデルとしている。・長崎物語 (映画) – 1947年(昭和22年)製作の日本映画。・長崎物語 (菓子) – 長崎県で製菓業を営む唐草が1967年(昭和42年)より製造・販売する菓子。(Wikipedia)

◎ じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年ごろ – 1697年)あるいはジェロニマは、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。偽作「じゃがたら文」は、彼女がジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙を装って書かれた偽書である。生涯 ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳(または15歳)で離日した。オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。/追放後の1646年11月29日、21歳のとき、オランダ人との混血男性でオランダ東インド会社の事務員補だった、平戸生まれのシモン・シモンセンと結婚。シモンは東インド会社で要職を歴任した後、貿易業を営んだ。お春はシモンとの間に三男四女(または四男三女)を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。(同上)

(⁑長崎物語:歌 谷 真酉美 作詩 梅木三郎 作曲 佐々木俊一 昭和14年)(⁑長崎物語(由利あけみ)
この歌に出てくる「じゃがたらお春」は、この島におけるもっとも早い時期における「ハーフ」だったと思われます。長崎で生きるのはなかなかに困難を極めたと思われます。彼女の生涯については、一度調べたことがあります。ここでは関係もありませんので、そのこおとは割愛します)
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〔今から300年ほど前のおはなし。当時、幕府は、外国人の妻や子を探し出しては、ジャカルタに追放していた。長崎の筑後町に住む娘・お春も、オランダ人の父と日本人の母との混血だったため、役人の目から逃れてひそかに暮らしていた。が、15才になったとき、ついにお春が混血であることがばれ、ジャカルタに連れていかれてしまう。その後も、お春は長崎への望郷の思いを抱きつつ、異国の地で暮らしたという。お春は「日本にかえりたい」という手紙を幾度も出し、当時お春が流された地をじゃがたらといっていたことから、その手紙は「じゃがたら文」と呼ばれるようになった。/-というかなしいお話の碑が、この聖福寺に建っている。この碑の文字は「広辞苑」の編者・国語学者の新村出の筆によるもの。裏には吉井勇の句が記されている。/左上の表紙写真は、福田清人・作、太田大八・画の長崎出身作家コンビによる短編民話集「じゃがたらお春」(さ・え・ら書房)。同書には「じゃがたらお春」のほか、長崎県下に伝わる民話が掲載されている。あとがきには、福田清人の長崎・大村での幼時期の記憶などが若干つづられている〕(「長崎の児童文学散歩」・http://www.mars.dti.ne.jp/~ginka/sanpo/NAGASAKI/Sanpo_OHARU.html)
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井(かんせい)の蛙(あ)」ともいい、単に「井蛙(せいあ)」「井底(せいてい)の蛙(あ)」ともいう。(日本大百科全書(ニッポニカ))












