
【金口木舌】紙の教科書、デジタルの教科書
夏休みが始まった。8月末になり、宿題の日記やドリルを泣きながら仕上げた記憶があるが、今の子どもたちはどんな夏を過ごしているのだろう▼教室ではタブレット端末が当たり前となり、学びは変わった。デジタル教科書を正式な教科書とする改正学校教育法が成立し、2030年度以降は紙、デジタル、ハイブリッド型が導入される。一方、スマートフォンや端末に囲まれた生活は、視力や睡眠への影響も指摘される▼デジタル教育をいち早く導入した北欧で「紙の教科書への回帰」が注目される。スウェーデンは読解力や集中力低下への懸念から紙重視の政策へ転換した。環境の変化も踏まえ、紙とデジタルをどう使い分けるか模索が続く▼フランスに住む知人の娘が通う小学校では10日間、テレビや画面を見るのを控えようというプロジェクトがあったという。校内にチェスや将棋、カードゲームを教える場所が用意され、いい取り組みだったと教えてくれた▼デジタルの便利さを生かしつつ、紙のページをめくり文字を書く感触も大切にしたい。夏休み、画面から顔を上げ夢中になれる世界を楽しんでほしい。(琉球新報・2026/07/21)

午前4時に起床。それから何をするでもなくパソコンの前に座っています。ただ今8時過ぎ。室温は28.5℃、湿度84%。まるで蒸し風呂に浸かっているような気分。とても爽やかではない。新聞コラムも、例によって、ネット上での立ち上がりは遅いし、大半が有料になっている。それでも何紙かは購読料を払ってコラムを読むのですが、これがどういうわけか、まるで冴えていない。著しく不出来だといえば、記者諸氏に失礼極まる、無礼千万にあたるでしょう。でも正直に言うなら、そうなんだよ、というほかないんですね。3時間も4時間も、パソコンの前で、まるで茹(ゆだ)るような状態で座っているのも、コラムの記事がネット上に現れないからであり、掲載されているものも、ひょっとして訂正(削除)されて、新規のコラムになっていはしないかと夢を見るような面持ちで待つばかり、でも現実は現実。

そして、やむなく、本日のヘッダー記事にあるごとく、過去の時期の新聞の読者投稿欄の文章をひたすら眺め、読んでいる。引用したものの掲載年月日は不明ですが、おそらくコロナ渦中の時期のものでしょう。繰り返し読んでいる。「ひととき」は朝日新聞で1952年から始まったという。もう70年以上が経過します。ぼくは一度だって「投書」をしたことはない。ぼくの気質に合わないのだと思う。今朝は、過去の分をどれくらい読んだでしょうか。10編や20編どころではありません。新聞に投書したい人はいくらでもいるということでしょう。新聞社も、その健気(熱心)な読者のことに思いをいたし、もっと大事にしたらどうでしょうか。ろくでもない記事ばかりを書いては、ひたすら新聞をだめにするよりは、多くの読者の「投書」で新聞を作るほうが、はるかに「時代」にかなっていると思いますが、どうですか。
「白いスーツで凛と」を繰り返し読んでみます。投書の主よりも、その主が描かれた一人の女性(罪を犯した少年の母親)に思いが及びます。今どきの学校のクラスに、ひとり親は一人や二人ではないでしょうし、素行がいい子ばかりではないでしょう。時代の波に晒される・掬(すく)われる親や子たち、それを見て紙内でか、手を差し伸べられない学校教育、十年一日のような学校・学級風景です。それに比べて、琉球新報の「金吉木舌」に記されている、この国の学校行政の不変性、どうしようもないところに来ているにもかかわらず、それを変えようとする意欲も動きもないのは、言うまでもなく、学校における「教育不在」のあからさまな証明でもあるでしょう。

「デジタル教育をいち早く導入した北欧で『紙の教科書への回帰』が注目される。スウェーデンは読解力や集中力低下への懸念から紙重視の政策へ転換した」というのです。おそらく、教育の方面に限らず、いろいろな局面で、この国はあるべき方向への転換が、それを実践している諸国と比べれば、周回遅れが当たり前になっているようです。にもかかわらず、国の方向がより一層先祖がえりをするという「時代錯誤」「時代遅れ」を、あろうことか、政府は選択しているのです。政治も経済も教育も文化も、この社会では八方ふさがりを強いられている、その理由はどこにありますか。
それほど昔のものではない、投稿欄「ひととき」の記事と、本日のコラム「金口木舌」の記事を並べて、暑気あたりで疲れているであろう、ぼくの脳中にはいろいろなことが思い浮かんできます。その内容は書くまでもない。書く必要もない。いつだって、具体的に生活に苦しみ困っている人たち(親や子)がいるのです。学校はそこに目を向けることを頑(かたく)なに拒んできたでしょうし、その隙間を縫って、個々の教師が苦しみながらも寄りそおうと苦悩・苦闘しているのでしょう。明治初期に始まった学校制度の常に変わらぬ、宿痾ののような「隘路」だと思われてきます。国や自治体は、この事態に向かって、何かしなくていいのでしょうか。

(「ひととき」に触れたのは、まあ朝日新聞への、ぼく流の「惜別」というか、ひょっとしたら「墓碑銘」であるのかもしれません。この駄文集を書きだしたときにはそれほど鮮明ではありませんでしたけれど、今でははっきりと、「新聞の末期」を迎えていると、ぼくには実感できるのです。紙の媒体がなくなり、デジタル新聞もダメ、ハイブリッドも思わしくないという現状から、ぼくたちは、まともらしい情報をどのようにして手に入れることができるのでしょうか)
◎ ひゃくねん【百年】=河清(かせい)を[=黄河(こうが)の澄(す)むを]俟(ま)つ = 常に濁っている黄河の水の澄むのを百年もかかって待つの意。いつまで待っていても実現のあてのないことをいう。河清を俟つ。(精選版日本国語大辞典)
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