憲法は、みなさんのつくったものです

【新生】「世界の世話やき」 「時は来た」と、先月の自民党大会で高市早苗首相が、憲法改正に意欲を示した。大会で発表された党の新ビジョンでは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」との憲法前文の前提が、ロシアによるウクライナ侵攻で崩れたことを必要性の理由に挙げている▼この前文に対して高市氏は、2000年の衆院憲法調査会でも「この非常におめでたい一文を真っ先に変えたい」と主張していた▼憲法の基軸にある国際協調による平和主義について、熊本市出身の山室信一・京都大名誉教授は幕末以来の日本の思想家にも源流があるとしている。『憲法9条の思想水脈』(朝日新聞出版)でその筆頭に挙げているのが、熊本藩士で「明治維新の陰の指南役」と称された横井小楠だ▼小楠は日本の使命として、「世界の世話やきにならなければならない。一発で一万も二万も戦死するというような事は必ず止めさせなければ」と、大量破壊兵器による現代の戦争を予見したような言葉を残している▼その平和主義のパートナーとして米国を挙げ、「一和協同して、然[しか]る後に各国を説き、遂[つい]に四海の戦争を止めん」とも訴えていた▼高市氏は3月の日米首脳会談で「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」と持ち上げて、「私は諸外国に働きかけて、しっかりと応援したい」と述べた。これは「平和を愛するトランプ大統領の公正と信義に信頼して」、「世界の世話やき」を果たすことを表明した言葉だったのか、どうか。きょうは憲法記念日。(熊本日日新聞・2026/05/03)

 ⁂「週のはじめに愚考する」(117)~ 現行「日本国憲法」を目の敵にするような人間が首相を務めるというのは、笑えない「冗談」、ではすまない、ウルトラジョークだと思う。本日は「憲法記念日」です。これまでにも、この駄文録では何度も触れてきた「憲法」に関して、いろいろなことが語られてきましたが、要は「政治権力」の越権行為や逸脱・暴走を戒めるための最高法規です。だから、だれかれの区別なく、「国民」たるものには憲法順守が求めらてきました。 

 熊日新聞コラム「新生」の中に現首相の発言が出てきます。 「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と、この非常におめでたい一文を、もし改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている」(「高市議員(2000年9月 衆院・憲法調査会))「憲法前文」を嘲笑(あざわら)う人が「首相」であるという、嘲笑えない「現実」に、ぼくたちは、その日を生きています。強烈な「自家撞着(self-contradiction)」(「自己矛盾」)のようなものを感じないでしょうか。

(蛇足 コラムの中で横井小楠のことが書かれています。熊本という同郷の誼(よしみ)だということでしょうが、ぼくは小楠からたくさんのことを学んだ。時代の状況を考えれば、この劣島という狭い世界を衝く抜けて、世界視野の「政論(「有道論」)」を持っていた人として、まことに稀有の存在だったと思う。若いころに「小楠論」を書いたこともある。忘れてはいけない人物でしたね。機会を見つけて、駄文を綴りたいと、長く思い続けている)

横井小楠(よこいしょうなん)(1809―1869)= 幕末維新期の思想家、政治家。熊本藩士。名は時存(ときあり)、小楠は号。藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、実学にも関心を寄せた。1839年(天保10)江戸に遊学、佐藤一斎(さとういっさい)、藤田東湖(ふじたとうこ)らと交渉をもったが、過失あり帰藩逼塞(ひっそく)を命ぜられた。ペリー来航時攘夷(じょうい)論を唱えたが、その後世界地理書『海国図志』(ブリッジマン著、魏源編集)を読んで開国通商による富国強兵論を主張するに至った。1858年(安政5)福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の招聘(しょうへい)を受け藩校明道館で講学、ついで江戸へ行き、政事総裁職となった慶永の補佐にあたり、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。1862年(文久2)刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剥奪(はくだつ)の処分を受け蟄居(ちっきょ)。明治政権成立後、徴士、参与、制度局判事となり、岩倉具視(いわくらともみ)の信任を受けたが、病気のためたいした活動はできなかった。しかも洋風化の中心としてキリスト教を広めるとみた旧攘夷(じょうい)派のため暗殺される。彼は外国語に通じなかったがよく西洋文物を理解し、勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らを敬服させたが、その教養の根底には政治と学問とを連続したものとみなす朱子学の理念が強く流れていたといわれる。(日本大百科事典(ニッポニカ)

 「独立した主権国家の国民としてのプライドにかけて『日本の心と言葉を持った憲法』へと書き直すべきだと思っている」「まず、前文には、目指すべき国家像を書き込む。『国家はどうあるべきか』『国民はどうあるべきか』を冒頭に示すのだ」「日本国は自衛の為の戦力(国防軍)を持てる」「日本国民は、国防の義務を負う。有事の際(中略)私権の一部制限に協力する」(「高市氏の論文(2004年))などと、とても勇ましい憲法改正論を展開している。(【報道特集】・TBS・2026年5月2日(土))(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2640528?display=1)「日本の心と言葉を持った憲法」とは、『日本列島を強く豊かに』とかいう、やたらに国家だけを強調する、観念過剰憲法だというのですか。「主権国家」とは「徒(いたずら)に米国尊重、迎合至上主義」を言うのでしょうか。

 そして、今や総理大臣になったのだから、まさに「時は来た(The time has come.)」と叫んだ次第で、何の違和感もないというところでしょうが、さて、どうしたものか。この人は、その場その場で「向こう受けする言辞」を吐き出してきただけであり、ある意味では「腰が軽い(軽躁な)」「口も軽い(出任せ)」というほかない振る舞いに満ちている人だと、ぼくは見てきました。「憲法」と雖(いえど)も、それこそ「不磨の大典(「明治憲法」の美称とされた表現)」などではありません。それゆえ、修正すべきところが出てくるのは避けられない。ぼくもいくつかの条文の見直しは必要だと考えているものです。何年も前に国会に呼ばれて憲法調査会だったかで発言した際にも「改正条項」に触れたことがありました。(左写真は「あんたのバラード」???)

 しかし、「憲法前文」を「この非常におめでたい一文」、これこそ真っ先に抹消したいというほどの、まさしく「憲法蔑視」「前文敵視」を隠さない人間は、「首相」になるべきではなかったのではないでしょうか。「独立した主権国家の国民としてのプライド」という「まともな矜持」を今も、当時も持っている・いたというのでしょうか。米国随従は誰の目にも明らか、だからこそ、その「独立」の第一歩を標(しる》すべき立場にあるにもかかわらず、さらに「盲従」の歩を進めているという自覚(反省)もないのですから、何をか況(いわん)や、です。(右写真では国旗と自民党(ロゴ)が並べられているけれども、自衛官は「自民党」に向かって国歌を歌唱しているんですね。「ファッショ」を誇示しているのでしょうか)

《自民党は12日、高市早苗首相(党総裁)の就任後としては初めてとなる党大会を都内のホテルで開いた。首相は「日本人の手による自主的な憲法改正は党是だ。時は来た」と主張。「改正の発議にめどが立った状態で来年の党大会を迎えたい」と語り、国会での改憲議論を加速するべきだとの認識を示した。具体的な改憲項目は言及しなかった。/首相は改憲について、「議論のための議論であってはならない。国民の負託に応えるためには、決断のための議論を行うべきだ」と述べた。改憲の発議には衆参両院で3分の2の賛成が必要で、自民は衆院で単独で3分の2を超えるが、参院では半数に満たない。与党内での議論はまとまっておらず、野党からの賛同のめどは立っていない。期限に言及することで、首相は党内外の動きを促す狙いがある。》(朝日新聞・2026/04/12)

 「右へ右へと、草木も靡(なび)く」(異説「佐渡情話」)

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 ここで、一人の「芸人」を紹介しておきたい。「松本ヒロ」さん。鹿児島出身の「芸人」(「誰もが言えないこと、言いたくても言えないこと」をいうのが「芸人」だと、故立川談志氏に言われての「芸人」人生だという)。もう一つの勲章は、あまりにもキワドイ政治ネタの速射砲なので、テレビ界が敬遠、いまや「テレビで会えない芸人」という称号で、番を張っています。彼の出し物(特異・得意演目)「憲法くん」は、よく演じられる「一人芸」であり、ぼくはこれまで何度聴いたことか。現首相との比較を云々したいのではありません。「憲法」とはなんであるかという、「基本の基」を笑いながら教えられるという意味で、まれな「芸人」の秀逸な「芸」だと、ぼくはいつも感心しながら笑ってきた、。いや、笑いながら感心してきたものです。

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笑い、闘志と希望生む 松元ヒロさん 連載企画「憲法 マイストーリー」第1回 「こんにちは、憲法くんです」「憲法くんは、個人の自由が奪われないように、国を治める人たちが自分勝手な政治を行わないように、歯止めをかけているのです」/コメディアンの松元ヒロさん(1952年生まれ)による、この一人芝居「憲法くん」は20年続いてきた。7分間で憲法の制定過程や役割を説き、前文を全て朗読する。作家の故井上ひさしさんは「感動した。あらゆるところでやってほしい」と語った。/2017年も月に2~3回は演じたが、こんなせりふを加えている。「変なうわさを耳にしたんですけど、本当ですか。私がリストラされるかもしれないという話」 ▽焼け跡から  自民党が9条など改憲4項目の論点とりまとめを公表する前日の17年12月19日夜。松元さんは東京・池袋にある東京芸術劇場プレイハウスのステージに立った。834の客席はほぼ満員で、その多くが40代以上だ。(中略)》

 《「直近の時事ネタをテンポよく続けた後は、母校鹿児島実業高のネタに。松元さんは駅伝選手として活躍した。「当時、高校には二つのグループがあったんですよ。グラウンドを走るグループと非行に走るグループ」/大笑いの客に「憲法くん」が絵本となり、出版されたことを伝える。/「本には焼け跡の絵があります。二つの原爆を落とされ、(第2次大戦で)310万の日本人が死にました。アジアでは2千万人です。こんな戦争が二度とあってはならないからできたんですよ、日本国憲法は」/「押し付けられたという人がいるけど、マグナカルタや米独立宣言、フランス人権宣言などのいいところを集めたんですよ。例えば、ご祝儀は押し付けられたからいらないと言う人がいますか。日本独自の憲法がほしいなんて、了見が狭いよ。『日本会議』は『地球会議』になりなさい」と畳み掛ける。1時間50分、笑いを取り続けた。(後略)》(共同通信・2018年10月18日 14時44分)(https://www.47news.jp/2881381.html) 

 (⁂ 松元ヒロさん「憲法くん」ダイジェストhttps://www.youtube.com/watch?v=Pw8kAKmOODc

 (ヘッダー写真「東京芸術劇場プレイハウスのステージに立つ松元ヒロさん」)(2017年12月19日:撮影・稲葉拓哉)

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(参考文献: 「文部省 あたらしい憲法の話」

《これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。(↷)

挿絵2


 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。(↷)

 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。》(1947(昭和22)年8月2日文部省検査済)

◎ あたらしい憲法のはなし=旧文部省が1947年8月に発行した社会科教科書。同年5月3日に施行された憲法の基本原則である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などについて解説している。文体はですます調で挿絵が多用され「天皇陛下」や「地方自治」といった章もある。当時のものはB6に近いサイズで53ページ。童話屋(東京)が2001年に復刊した本は、今も年間2万~3万部売れているという。(共同通信ニュース用語解説

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君よ憤怒の河を渉れ(永田町界隈)

 一昨日の「駄文」で、ぼくは「先国後民」と題して、現首相には観念上の「天皇制」はあっても、現に同席している、生身の天皇夫妻にはいささかの礼節心も持っていないという趣旨のことを述べました。煩瑣をいとわず、駄文を再録します。ご寛恕のほどを。今の時代、一国の舵取りをたった一人の「宰相」に委ねることはありそうにもないでしょうが、就任半年、それ以前の言動をも重ねてみれば、彼女に任せて大丈夫と、とても言えた義理ではないように考えられます。繰り返して述べているように、何よりも「惻隠の情」に著しく欠けている、いかなる躊躇(ためら)いもなく「嘘を吐く」、間違いを指摘されて、憎んだり恨んだりすることはあっても、「訂正」することには激しく抵抗する、そんな性情の人間が、誤りない国政運営の要路にあること自体に、大きな危険性が伴うのは目に見えていました。(右写真は(「首相主催の昭和100年カラオケ武道館大会」で今にもマイクを握りかねない。右横に天皇ご夫妻が着席されている)首相:毎日新聞・2026/04/29)

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 《私は、日本と日本人の底力を信じてやみません。日本の誇るべき国柄を、未来を担う次の世代へとしっかりと引き継いでいく」と空々しく・白々しく語る(騙る)。「昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした」というのが、彼女(首相)の「昭和100年」観でした。満州事変以来の「十五年戦争」で、国内外に二千数百万人の犠牲者が出たことには一語も触れません。(それにしても、あの「気味の悪い微笑(媚笑)」、とても背筋が寒くなった。醜悪だと思う)近隣諸国がこの「式辞」を知れば、どう思うでしょうか。この人は歴史を観念として、あるいは「物語(作り話)」としてしか理解できない稀有な人物なのだと思う。これが日本(二ホン)の総理大臣だというのですから、この国は「ちんけ」な、つまらぬ国とみられても致し方ないでしょう》ぼくはこれを「国家」があって、「民衆」「国民」が不在の、教条的・観念的「国家主義」だと断じてきました。

《はっきり言って、時代が時代ならば、生身の「天皇」を前にしては、きっと『不敬罪』に当たる振る舞いと非難されたはずです。(『不敬罪』とは『天皇および皇族・神宮・皇陵に対して不敬の行為をする罪。昭和22年(1947)刑法改正で廃止』・デジタル大辞泉)」(中略)/もちろん「式典」ですから、内容はいりませんとはいかない、ひたすら「厳粛」であればいいというものでもないでしょう。でも、昨日は「厳粛」の雰囲気など、どこに吹く風か、というほどの不始末・不首尾な「式典」でした。まさに「首相主催の昭和カラオケ大会」だった。恥ずかしいという感覚も観念も持ち合わせていない御仁だと、改めて確認した次第。この連中に付き合わされた天皇ご夫妻の「ご感想」を賜りたいものですね。「最高」と言われるか、「最低」と言われるか。「別に~」とスルーされるか。》

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 ぼくの願いが通じたのでしょうか。宮内庁は「記念式典」の翌日(4月29日)に「両陛下の『式典』への感想」を公開された。「過去の歴史から謙虚に学び、深い反省とともに平和を守るために必要なことを考え、将来へとつなげる努力を続けることが大切との思いで式典に臨まれた」と、いまさらのように述べられたという「感想」を公表した意図は何だったでしょうか。「『激動と復興の昭和時代』を改めて振り返り、『戦中戦後に人々が味わった悲惨な体験や苦労を後の世代に伝えていくこと』を大切に思ったという」、言わずもがなの「感想」を、改めて出されたのです。その真意はどこにあったか。難しいことは抜きにして、「首相主催のカラオケ大会」に呼び出されて、このまま黙ってはおられないという「内心の吐露」だったでしょうか。「昭和100年を蔑(ないがし)ろにした」首相たちへの怒りだったか。当日、宮内庁は、「今回の式典で天皇陛下の『お言葉』がなかったことについて、宮内庁は『政府の考え方に基づいた』(黒田武一郎長官)としている」と報じられていました。何月何日にどこそこで「記念式典を催すので、ご臨席を賜り、しかも、終了まで着席・沈黙していて下さい」とでもいうような申し入れを内閣はしていたのでしょうか。

 ぼくは「天皇制」に対しては、物心がついて以来、賛成していません。今でも反対です。理由は単純。「法の下の平等(equality under the law)」に反すると考えているからです。とは言いながら、現存の「天皇」の存在は、当たり前のことですが、敬意をもって認める・受け入れるものです。「制度」に反対するのと、その「制度」が法的に存在するのは、現実にはいくらでも起こりえます。その「象徴天皇」の果たされる「役割」の大きさを思えば、まさしく恣意的と思われるような天皇の政治的利用(式典への「お言葉」なしの参加・隣席)など厳に慎むべきだと考えている。いずれの日にか、現行の制度は廃止(憲法改正)されることを願っている。

 それはそれ、ともかく天皇制(直系男子のみ)維持派でもある首相の、当日の振る舞いは目に余るものがあったと、ぼくのような人間でさえ思ったほどに「はしたない」「品のない」「無礼な」ものだったと、誰かがはっきりというべきではなかったか。「メディア」の名に値する報道機関は、残念なことですけれど、この社会にはまず存在していない。ほとんどが政権の「軍門」に下ってしまっているのです。だからこそなおさらに、式典当日に、「この連中(首相・衆参議長)に付き合わされた天皇ご夫妻の『ご感想』を賜りたいものですね」とぼくは書きました。

日本国憲法第14条
1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

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註❶「君よ憤怒の皮を渉れ」(きみよふんぬのかわをわたれ)は1974年発行の西村寿行の小説。またそれを原作として大映・永田プロが製作し、1976年(昭和51年)2月11日に松竹系で封切り公開された日本映画は『君よ憤怒の河を渉れ』(きみよふんどのかわをわたれ)と漢字表記は同じだが異なる振り仮名である。註❷『怒りの葡萄』(いかりのぶどう、英語: The Grapes of Wrath)は、アメリカ合衆国の作家ジョン・スタインベックによる小説である。初版は1939年。1930年代末に発生した干ばつと砂嵐を契機とした農業の機械化を進める資本家たちと、土地を追われカリフォルニアに移っていった貧困農民層との軋轢闘争を素材とした小説で、1930年代のアメリカ文学を代表する作品として評価されている。この小説により、スタインベックは1940年にピューリッツァー賞を受賞した。後のノーベル文学賞受賞(1962年)も、主に本作を受賞理由としている。/発表翌年の1940年にはジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演により映画化され、ニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞、監督賞、またアカデミー賞の監督賞、助演女優賞(ジェーン・ダーウェル)を受賞している。  

註➌『阿修羅のごとく』(あしゅらのごとく)は、向田邦子脚本のテレビドラマ。1979年1月13日 – 27日に『土曜ドラマ (NHK)』枠の向田邦子シリーズとして3話、続編の4話を1980年1月19日 – 2月9日に同枠で放送され、脚本は文庫本として出版された。家族でちゃぶ台を囲み、庭先で白菜を漬け、日常のひとコマにちらっと覗く人間模様を「阿修羅」とし、「嫉妬」や「男と女」に投影しながら、ホームコメディとして描いた作品。註➍「怒りの日」はイギリス軍に妻子を殺されたアイルランド人の孤独な報復戦を描くAIP(American International Pictures)創立20周年記念作品。製作はサミュエル・Z・アーコフ、監督はドン・シャープ、脚本はジョン・ゲイ、原案はリチャード・ジョンソン、撮影はアーネスト・スチュワード、音楽はジョン・スコットが各々担当。出演はロッド・スタイガー、リー・レミック、リチャード・ジョンソン、トレヴァー・ハワードなど。1975年製作/103分/アメリカ 原題または英題:Hennessy 配給:東宝東和 劇場公開日:1975年10月25日(いずれもWikipedia

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 とんでもない人間が、何の因果か、首相の座を占めている。この国の現在や将来を考えれば、その辞職・辞任は一刻の猶予もないと思っている矢先に、週刊誌の報道が、それもとんでもない首相陣営のおどろくべき「姦計(vicious plot)」とその「敢行(execution)」報道が出てきました。それに関する論評はしませんが、このまま放置しておけば、間違いなく「国も民も」共倒れになることは避けられないでしょう。「私には関係ありません」と、公設秘書がかかわったとされる事案に首相は「白(しら)」を切り、嘘をつくでしょう。そして、どんなことが起ころうが、「権力」だけは握っていたいという、常軌を逸した「首相」の宿願は、ここぞとばかりに、あろうことか「独裁権力」を手に入れようとしているのです。もはや、これまでの不行跡は、間違いなく「犯罪者」の範疇にあるとも言えそうです。

 今が「ファシズム(fascism)」なのか、あるいは「全体主義」になっていくのか、それは、はっきり言ってあり得ないことと、ぼくは考える。けれども、首相周辺に生まれつつある、大小さまざまな「親衛隊(SS)」の芽を早期に摘んでおかねば、やがては行くところまで行くでしょう。何度でも指摘しておきたい。ネット時代は、たった一人で数百人分の「フェイク」「非難中傷」を発信することが可能です。現首相が所属政党の「総裁選」で勝ったのも、総選挙で「圧倒的議席数」を獲得できたのも、今から思えば、その多くは「架空の動員力」と、その「訴求力」のなせる業だったということになります。彼女一味の「陥穽(trap)」に多くの有権者はまんまと「一杯食わされた」のだった。 (ファシズム= 極右の国家主義的、全体主義的政治形態。自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。(デジタル大辞泉)

 憲法を踏みにじり、法律を曲げ、さらには「人倫」にまで汚い手をのばし、嘘に嘘を塗り固める、そんな「総理大臣」を、この時代、この国に認めていいのですか。まさに、これこそ「国難(national crisis)」ではないですか。何度でも声に出して言いたい。稀にみる「魔性の女(femme fatale)」(その女を裏で動かしているであろう存在を含めて)に、わが身・わが心を預けるわけにはいかないのですよ。

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両陛下「深い反省と平和守る努力大切」 昭和100年式典で感想 宮内庁は30日、政府主催の「昭和100年記念式典」に出席された天皇、皇后両陛下について「過去の歴史から謙虚に学び、深い反省とともに平和を守るために必要なことを考え、将来へとつなげる努力を続けることが大切との思いで式典に臨まれた」と明らかにした。/式典は昭和天皇の誕生日にあたる29日、日本武道館で開かれた。国会議員や各界功労者ら約5600人が出席。高市早苗首相があいさつしたが、天皇陛下のおことばはなかった。/宮内庁によると、式典に出席した両陛下は「激動と復興の昭和時代」を改めて振り返り、「戦中戦後に人々が味わった悲惨な体験や苦労を後の世代に伝えていくこと」を大切に思ったという。【柿崎誠】(毎日新聞・2026/4/30 18:19:最終更新 4/30 21:56)(右写真「昭和100年記念式典に参列された天皇、皇后両陛下=東京都千代田区の日本武道館で2026年4月29日午後2時21分(代表撮影)》 

両陛下、昭和100年式典に出席 東京 天皇、皇后両陛下は29日、東京都千代田区の日本武道館で行われた政府主催の昭和100年記念式典に出席された。 式では高市早苗首相ら三権の長があいさつ。続いて海上自衛隊東京音楽隊が「上を向いて歩こう」「なごり雪」「Get Wild」など昭和の名曲計6曲を演奏・歌唱し、両陛下は笑顔で拍手を送った。  1968年10月の明治100年記念式典も日本武道館で開催され、昭和天皇と香淳皇后が出席。昭和天皇は「わが国が近代国家として目覚ましい発展を遂げ、本日の記念式典を迎えたことは、誠に喜びに堪えません」などと述べた。/今回の式典で天皇陛下の「お言葉」がなかったことについて、宮内庁は「政府の考え方に基づいた」(黒田武一郎長官)としている。》(右写真《「昭和100年記念式典」で海上自衛隊東京音楽隊による演奏と歌唱が終わり、拍手される天皇、皇后両陛下=29日午後、東京都千代田区の日本武道館(代表撮影)》(時事通信・2026/04/29)

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「国家」は「人民」を歯牙にもかけぬ

【卓上四季】水俣病が教えること 前の日まで元気だった5歳の女の子。翌朝、茶碗(ちゃわん)を持ったりする日常動作が不可能になった。2歳の妹も同じ。やがて激しいけいれんを起こし、ことばを失い、手足の指が変形した…▼似た症状の患者が、熊本・水俣のチッソ水俣工場付属病院を次々と受診する。驚いた医師は保健所に報告した。「原因不明の脳疾患患者が多発している」。水俣病の公式確認は70年前のきょうだった▼患者は不知火(しらぬい)海の豊かな魚介類を食べていた。母親のおなかにいた胎児も発症し、深刻な健康被害が広がる。原因はチッソが海に流した工場排水。メチル水銀で汚染された海の幸が人々をむしばんだ▼チッソや国は対策を怠り、被害を放置した。人の命や尊厳はないがしろにされ、いわれなき差別や偏見が苦難を深めた▼米映画「MINAMATA」(2020年)は、報道写真家ユージン・スミスの軌跡を通して被害の実態を描く。「数も知れぬ命を犠牲にしてなにが文明か、高度成長か。美しい海が死の海にされた」。真田広之さんが演じた患者の告発である。経済最優先の思想が公害を生んだ▼被害者の救済は道半ばだ。潜在患者は20万人に達するとも指摘されるが、実態解明は不十分なままである。さまざまな公害による被害が世界で後を絶たぬなか、水俣病の教訓はいまも過去のものとなっていない。(北海道新聞・2026/05/01)
【筆洗】水俣病で父を亡くした故・川本輝夫さんは患者の救済運動を率いた「闘士」。原因企業チッソの本社に仲間と乗り込み補償を求めた際、カミソリを社長に示し、一緒に指を切って血書を作ろうと迫った▼長時間の交渉で社長は具合が悪くなり担架に横たわったが、川本さんは「俺たちゃ、鬼か」と言いながら泣いて訴え続けた▼「わからんじゃろ、俺が泣くのが。うちんおやじは69歳で死んだ。精神病院の保護室で死んだぞ。しみじみ泣いたよ、俺は。そげな苦しみがわかるか」。病で意味不明のことを口走るようになった親を隔離された場所でみとった悲しみ。涙は、横たわる社長の顔に落ちたという▼患者発生が病院から保健所に報告され、水俣病が公式に確認されてから今日で70年。海への排水で汚染された魚を食べた人がかかったが、水俣病認定を求め多くの人が今も裁判で闘う。なお未解決の公害病である▼原因は工場排水に含まれるメチル水銀と国が認めたのは、病気の公式確認から12年後。究明の初動が適切だったらもっと早く、多くの人を救えただろうに。成長を優先し、企業に物を言わず、醜い現実から目を背けようとした社会の罪深さを思う▼記録映画作家に水俣病が起きた原因は何だと思うかと問われた川本さんは「人間の奢(おご)りじゃろうと思う」と答えたという。人も企業も謙虚であれという悲痛な叫びである。(東京新聞・2026/05/01)
【日報抄】山や川であれ地域であれ、固有の名前は指し示すものが何であるかを定義する大切なものだ。そのものとして存在する証しといえる。選択的夫婦別姓の制度を求める価値観に重なる▼阿賀野川流域で発生した公害病をなぜ新潟水俣病と呼ぶのか。「新潟病」あるいは「阿賀野病」などと言わないのか。一説としてその理由を聞いたことがある▼新潟水俣病は、熊本の水俣湾周辺での水俣病発見から9年後に公式確認された。工場排水で汚染された魚介類を介した同様の水銀中毒でありながら、10年近くを経ても再発を防ぐ措置が取られなかった。その不作為を厳然と示すため、繰り返された水俣病だと強調する意図があったという▼きょうで熊本での公式発見から70年になる。新潟水俣病にとってもまさに地続きの鎮魂の日である。怨念の日である。適切な対応を怠った国と原因企業の責任の重さに、思いを致すべき日である▼熊本での水俣病確認後に、国は原因企業と同種の工場で排水調査をしていたことが明らかになっている。調査は本県での発生以前だったが、結果は長らく秘せられていた。新潟の原因企業は調査対象ですらなかった。熊本での目を覆う被害を前に、国は緻密で確固たる安全対策を指揮する必要があった▼個人の幸福より国の経済発展を優先したかのような当時の実態は、過去のものとは言い切れない。国家としての力強さや豊かさを語りがちな現在の政治の下で、市井の一人一人の尊厳があまねく大切にされているか。(新潟日報・2026/05/01)
【春秋】ある官僚の後悔と自責 <最終解決なお遠く><認定、救済いまだ求め><進む記憶の風化>。紙面には毎年、同じような言葉が刻まれてきた。5月1日、水俣病の公式確認から70年を迎えた▼チッソの有毒廃水が原因と知りつつ、国や県の役人は命より経済成長を優先し、なすべき行動を取らなかった。公式確認50年の年、彼らを訪ね歩いた。連絡がついても取材を断られ続ける中、経済企画庁の元官僚に会えた▼公式確認から3年後の1959年。役人は皆、原因は工場廃水と知っていた。排水停止を主張したが、出向元の通産省に一蹴され、毒は流れ続けた。「そういう時代だった。腹が据わってりゃ辞めて訴えればよかったんだ」。都内の邸宅で82歳の元官僚は涙を拭った。後悔と自責。その4カ月後に他界した▼自分がもっとこうしておけば、強く主張していれば-。人として良心に向き合い、過去の記憶にさいなまれ、亡くなっていった役人やチッソ関係者もいただろう。戦後最悪の公害は彼らの人生も変えた▼不知火海沿岸の実態調査を求める声に、国は背を向け続けてきた。何が水俣病なのか、どこにどれだけ被害者がいるのか。全容はつかめていない▼悔いた元官僚は「もうあんなことにはならないだろう」とも話した。そうだろうか。経済や組織の論理に小さな声が置き去りにされる構図は、70年を経てどれほど変わっただろう。水俣病が投げかける問いは今も重い。(西日本新聞・2026/05/01)
【有明抄】ミナマタ 4年前、熊本市の熊本日日新聞社で開かれていた写真展を見た。水俣病をテーマに写真家9人が刻んだ記録である。まだ若かった患者たちを、40年近い歳月を経て再び同じ場所でとらえたポートレートが胸に残った◆撮影した石川武志さんは、水俣病を世界に発信した米国の写真家ユージン・スミスの助手として、昭和46(1971)年から3年間、水俣市に滞在した。サポート役に徹する石川さんにスミスは言った。「なぜ撮らないんだ。自分ならどう撮るか考えながらアシスタントしろ」と◆取材を終えたスミス夫妻が帰国したあと、石川さんは「私も水俣の写真を撮っていました」とばかりに自作を世に問うことに、長い間ためらいがあったという。2008年に水俣を再訪した石川さんは患者たちの「その後」にカメラを向けた。本人も環境も変化したが、「水俣病は続いている」とのメッセージを込めて◆写真展に添えられた、そんな石川さんの思いにふれながら「時の流れ」とは何か考えこむ。水俣病の公式確認から、きょうで70年。どこかにひずみを押しつけて手にした豊かさを「成長」と呼ぶのなら、地球温暖化も産廃も核のごみも、「ミナマタ」はかたちを変えて続いている◆「なぜ撮らないんだ」。ひとりの写真家に向けられた言葉は、見て見ぬふりをする社会への重い問いにも思える。(桑)(佐賀新聞・2026/05/01)

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