
【日報抄】「棺桶(かんおけ)まで歩こう」。刺激的なタイトルに目を奪われ、一冊の本を手に取った。著者は在宅緩和ケア医の萬田緑平さん。2千人以上のみとりに携わった経験から、こう断言する。「人間というものは、歩いている限りは死にません」▼本書には、重い病を抱えながら、命の火が消える直前まで自分の足で歩いていたケースがいくつも紹介されている。歩くことは生きること-。読み進めるにつれ、そんな思いを強くした▼作家の島田雅彦さんは、歩いて考える「散歩哲学」を提唱する。同名の著書で「よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ」と宣言した。歩行は根源的な移動手段であり、移動の自由は基本的人権の一つと言える。それゆえ、島田さんは歩行の大切さを説く。「たとえ、杖(つえ)や車椅子を使っても、移動の自由と権利だけは手放してはならない」▼「歩み」という言葉は「歩くこと」だけでなく「物事の経過」や「歴史」という意味でも使う。人の場合なら「歩み」は「人生」や「日々」と言い換えられる。2025年、自分自身や社会の歩みは、どんな様子であっただろう。振り返ってみたくなる時節だ▼わが1年の歩みは「ぼちぼち」だったか。けっこう「ふらふら」していたかもしれない。「よろよろ」「よれよれ」でもあったような。顧みれば反省ばかりだが、どうにか年の瀬にたどり着いた▼初歩、譲歩、歩合、牛歩…。「歩」の字が付いた言葉は多い。多少は進歩することを願いつつ、新年も歩みを続けたい。(新潟日報・2025/12/27)

歩いている間は死なないと言われるのは当然のようにも思うし、歩いている間に死ぬということだってあるでしょうとも言いたくなります。「行き倒れ」って言うでしょ。あるいは「ゆき倒れ」、それはどういう状態を指すのでしょうか。例によって、目前の辞書によると「ゆき‐だおれ〔‐だふれ〕【行(き)倒れ】読み方:ゆきだおれ 病気・寒さ・飢えなどのため、道ばたで倒れたり死んだりすること。また、その人。行路病者。いきだおれ」(デジタル大辞泉)とあります。確かに道を歩いていて、何かの不都合で歩けなくなった人を指すようですから、やはり「歩いている限りは死にません」となるのでしょうか。
ぼくはこの「コラム」の掲載紙は購読していないが、それこそ「折々に」ネットなどを通して読んできました。若い頃は三十年近くは毎日読んでいました。高校生の頃に、将来は新聞記者になろうかなと思ったことがあるくらいに、なぜだか新聞記者に憧れた時期が思い出されます。同級生や後輩が新聞社に勤めだした時期も、ぼくの中にはある種の「憧(あこが)れ」は燻(くす)ぶっていましたね。今はその反動のような態度で新聞と付き合っていますが、なかなかに平衡感覚が育たないのはどうしたことでしょうか。戦後昭和のある期間は「新聞紙全盛時代」だったともいえるでしょうが、その時代には「新聞広告(折込も含めて)の量」に閉口したことも覚えています。たくさんの広告を取らなければならないから、紙面(頁数)が増える、紙面が増えるからさらに広告費を求める、この「いたちごっこ」の末に、新聞は記事・紙面内容よりも頁数増を選んだから、必然的に紙面の内容(質)が極度に薄まったのです。新聞批判をしたいのではなく、「ジャーナル」という語の当たり前の意味に思いを寄せたいということです。

「日刊の印刷物」「日刊新聞」、それをここでは「ジャーナル」といっておきます。そんな「日刊新聞」の中で、ぼくが最も好んで読んだのは「生活面」であり、小さな小さな「コラム」類でした。いまでもその形跡は残っている。「社説」「論説」よりは「コラム」です。「社説」には目を通すけれど、ほとんどぼくの視野には入らないものが圧倒的す。しばしば「社説は盲腸だ」と揶揄されてきましたが、今はどうでしょうか。ぼくも気を取り直して読み続けますが、その書きぶりが好きにはなれませんね。命令調で「~せよ」「~するな」と、いかにも上から目線で、いったい誰に向かって贅言を放つのでしょうか。そこへ行くと、「コラム」は読みやすいし、その短文(多くは500字内外)がいいですね。
引用している「折々のことば」、何もこのコラムに刺激されて、こころを入れ替えるとか、反省しきりというのではないんですね。いろいろな「箴言風」「覚書程度」の言葉に出会って、ぼくは「あっ、そうなんだ」とか「えっ、たしかにね」と思わず驚嘆の声をあげる、そんな経験が嬉しいのでしょうね。若い頃に学んだドイツ哲学者の言葉に「あっ、体験 !」(Ach, Erfahrung(Erlebnis)!」という言葉に甚(いた)く感じ入ったことがあります。「なるほど、そういうことだったんだな」という、自分のみに語り掛け、呼び掛ける、そんな経験・体験こそが教育の原初だということだったと思いました。
本日の「日報抄」は旧臘27日のものですが、何時か触れたいと保存していました(このような記事は何百と取ってあります)。とにかく、足を動かす、それは体全体を動かすことであり、脳の働きが機能している証拠でもあるでしょう。作家の幸田文さん(1904~1990)に「歩くとは考えることです」という体験談があります。彼女は一時期、千葉県市川に住んでいて、そこから都内の女学校に通っていたという。その往復はいつも徒歩だった。その往復の歩く時間こそが、彼女の思考鍛錬時間だったと、その経験を偲ばれています。コラム氏が紹介している島田正彦さんも御同様の「あっ、体験」をされたのでしょうか。萬田緑平さんの「在宅ケア」の、ある意味では偉業といってもいいような行為に甚く動かされもします。「寝たきり」に行くまでに、とにか歩くことに挑む、そんな人生の醍醐味がこちらにも伝わってくるようでもあります。

本日掲載させてもらった三編の「折々のことば」です。岡田惠和さん。「夢や望みを横において」、「とにかく動き出せば」何かに触れる、何かがやってくる。まるで「犬も歩けば棒に当たる」ような気分になります。解釈には諸説芬々(ふんぷん)ですが、どうぞご随意に。
ソローさんの「あっ、体験」にぼくはもっとも共感を覚えます。その昔、山に登っていたころ、何度か、登山の達人とされる人から教えてもらった。山登りの醍醐味は「自宅から歩きだすことだよ」には仰天したし、富士登山は「一合目(富士宮本社」から」という先達の言葉にも驚き、五合目までバスで、という我が身を恥じたものでした。ソローの語にある「未知のものと遭遇する機会」とは「犬も歩けば棒に当たる」、その「棒」でしょうね。
ピアニスト反田さんの恩師二人の言葉。一人は「大失敗したら道を直してあげる」といい、もう一人は「君の核は無邪気な子ども。童心に帰ってピアノを弾いてごらん」と諭されたという。
反田さんは、2021年のショパンコンクール2位だった人。昨年のコンクールで卒業生の娘さんが第4位でした。(コンクールは、ぼくの好みには合いませんが)二人の恩師の「失敗してもやり直せる、だから縮こまるな、自分を偽るな」、そんなことを教えられた、かけがえのない恩師に恵まれましたね。こちらも「犬も歩けば棒に当たる」でしたかしら。これと全く反対の不幸・不運という「棒」にぶち当たることもありますが、なあに、いつだってやり直せるさ。人生で、取り返しのつかない過ちはないと思うね。
ただ今、午前7時。朝日が高く上り、山の端が煌(きらめ)いていきました。
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