【三山春秋】▼生成人工知能(AI)が目覚ましい進化を遂げ、急速に暮らしやビジネスに浸透するようになった。最近は動画生成や作曲もでき、人間の映像は表情や動きまで本物と見まがうほどである▼便利さゆえに仕事を奪われるのではないかとの懸念が尽きない。事務作業や窓口業務といったマニュアル通りに進められる作業、データの処理や分析などAIの得意な分野では代替が進みつつある▼創作物もしかり。既存作品から盗用の恐れがあり、AIを使った作品募集を禁止するコンテストは少なくない。上毛新聞社は小学生から高校生までを対象に俳句や詩、短歌を募集しているが、AI作品は受け付けていない▼「かえりみちくさのにおいでいっぱいだ」(前橋細井小3年・角田櫂世(かいせ))。ジュニア俳壇の2025年優秀作品である。寄せられた作品は学校生活や登下校の情景、家族や友人との関わり、自身の内面と向き合ったものなど多彩で、どれもみずみずしい感性に満ちている▼記者の仕事もAIには務まらないものの一つだろう。「足で稼ぐ」と言われるように、靴のかかとを擦り減らして人と会い、社会の裏にある喜びや悲しみをすくい上げる▼各地の新聞社は蓄積された情報とAI技術を組み合わせ、地域活性化に向けた研究や生成AIサービスの提供に乗り出している。新聞とAIはどう共存していくのか。われわれの姿勢もまた問われている。(上毛新聞・2026/01/31)

「わたしはAI(人工知能)は好きではありません」という人が、スマホは自分の快適な日常生活に不可欠のアイテムととらえていたり、パソコンがなければ仕事ができないというとき、「あなたは頑固な人ですね」というのだろうか。それとも「知らぬが仏」とでも評判を立てるのか。「知れば腹も立つが、知らないから仏のように平静でいられる。また、本人だけが知らないで平然としているのを、あざけっていう語」と辞書(デジタル大辞泉)にはあります。
ぼくは、このところ、とても憂鬱な日々を送っているのですが、その理由は「Windows11」を使っている限り、否応なしに日々新たにたくさんの「AI(汎用・仕込み)のアプリ」が頼みもしないのにインストールされているからです。油断すると、あっという間にぼくのパソコンはAIに拉致されてしまう、いや、もうすでに占拠されているのです。きわめて限られた世界ですけれど、パソコンやスマホは、あるいは「AI開発」の戦場であったり、実験室でもあるのです。だから、パソコンソフトの何%にAIが使われてしまえば、「ぼくはパソコン利用」を断念すると、少し前に断言しました。もう、その時期は過ぎているのかもしれませんから、この駄文濫作も締め切りが来ていると考えてもいます。
ネットのニュースや動画を見ていても、音声はほとんどがAI(依拠型)であり、時には映像もそうだと思われます。それに気が付くと、ぼく自身は興ざめするというより、だんだんと「人間不要の時代」の端緒の到来を痛感するのです。AIが進化すればするほど、人間は歴史の後景へと遠のき、やがては消えてもだれもなんとも思わない、そんな時代や社会が目前に来ているともいえます。ここの領域においてそうだという以上に、この先何年かの後に、今からは想像できないような<No man’s land(無人地帯)>が出現しているに違いありません。人類は退化してしまうのではなく、退化することが進歩だとみなされる、そんな価値観に支配される文明が生まれるはずです。今日だって、その片鱗が見えるでしょう。生活の万般に「自動化」が導入されると、これまでも「人間のはたらき(Human activity)」「人間の領分(Human territory)」とされていたものは極度に細分化・微小化されていき、その過程そのものが進化だと受け入れられるともいえるでしょう。
本日の「三山春秋」氏が指摘されている、そのほとんどは、実は「知らぬが仏」であるという、誠に皮肉な事態を示していませんか。「かえりみちくさのにおいでいっぱいだ」という作品がAI制作ではないという証拠はどこにあるのでしょうか。「AI作品は受け付けていない」という規則は確かでしょうけれど、それにもかかわらず「AIの要素」が入っていない作品をいかにして見つけるか。ここまで来ているんですね、「AI」侵略・浸食は。いい悪いの話ではなく、いやも応もなく、ぼくたちは「現代の英雄」である「生成AI」抜きには社会生活が成り立たないというところに来ている。機械化・技術化を総称して「科学化」とよべるなら、もはや時代は「新たな科学化」の時代を開いているのです。それを、これまで通り「進化(evolution)」「進歩(progress)」と呼べるでしょうし、人間が作り出してきた歴史観は、この「進歩史観」に著しく支配されてきたのも事実です。これをある文明史家の言い分に倣うなら「第四の波(the Fourth Wave)」とでもいえるのでしょうか。

◎ 第三の波(だいさんのなみ)The Third Wave= アルビン・トフラーが提唱した概念および著書(1980)。現代文明が,第一の波(農業革命),第二の波(産業革命)に続く第三の波(情報革命)のうねりのなかにあるという考え。第三の波が押し寄せる社会では,情報革命の結果,電子情報機器を装備したエレクトロニック・コテージが在宅勤務を可能にし,家族と地域社会の役割を再活性化する。また,生産過程への消費者の直接参加が可能になり,生産と消費が同時に行なわれるとするプロシューマーが復活して経済構造が変動する。第三の波の文明は,第二の波の文明の規格化,専門化,同時化,集中化,極大化,集権化の原則を脱し,プラクトピアと呼ばれる社会に到達する。(→情報化,情報社会)(ブリタニカ国際大百科事典)
「歴史の地層(Strata of History)」などといいます。過ぎ去った過去は歴史の「舞台」からは消えてなくなりますが、舞台の袖というか、花道の先というか、あるいは舞台の底部というか、きっとそこにとどまって次の舞台の準備となり、下支えとなっているに違いないのです。江戸時代という「古層」の上に大正・昭和・平成時代(元号を使っているのは天皇制の約束だから)というそれぞれの「地層」が重なります。「明治は遠くなりました」というのは、令和いう層の下のその下の層にとどまって、表からは見えませんが、現代社会というものをいい面でも悪い面でも支えている。その昔、明治時代の中頃だったか、鉄道敷設が社会問題となったときに反対を唱えた人々がいました。それを「社会党」ではなく、「車界党(人力車の働き手集団)」とか言ったそうでしたが、新たな交通手段が登場して、否応なく「現役を退場」することを強いられた。しかし、それは歴史の舞台からは消滅したのではなく、今もなお、方々で「人力車」は活動しています。
したがって、茄(なすび)の蔓(つる)に胡瓜(きゅうり)はならないのは道理で、今日の「AI技術」もまた、歴史の産物であるというところに視点を据えると、この先の展望が見えてくるかもしれません。あらゆるものを飲み込んで歴史は動いています。飲み込まれるものは前世紀の遺物ばかりではなく人間たちも、その運命(歴史の舞台からの退場)を避けられません。現段階で、「AI」のもたらす「進化の内容」の全体像を見通すことはぼくにはできませんが、好き嫌いとは別次元で、人間社会に必要とされるものは残り続けるでしょうし、不要なものは退場するでしょう。この科学技術といわれる「文明」の時間の単位は少なくとも百年単位です。何世紀経過しようが、必要なものは残る、農業という「第一次産業」は人類の生存には不可欠の要素です。これこそが、実は「文化」だと僕は考えています。ついには科学化されつくせない領域で、人間の生活の方法そのものに重なる部分です。このような長い時間(歴史)感覚で見なければ、ぼくたちは、自らの将来(行く末)を見誤るのですね。ここにおける課題は「自然」と「文化」と「文明」という三つの層からなる「地層」の質と量の問題になるはずです。(この問題については、いずれ別の視点で述べたてみたい)
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