自然・文化・文明の鼎立とその帰趨

【三山春秋】▼生成人工知能(AI)が目覚ましい進化を遂げ、急速に暮らしやビジネスに浸透するようになった。最近は動画生成や作曲もでき、人間の映像は表情や動きまで本物と見まがうほどである▼便利さゆえに仕事を奪われるのではないかとの懸念が尽きない。事務作業や窓口業務といったマニュアル通りに進められる作業、データの処理や分析などAIの得意な分野では代替が進みつつある▼創作物もしかり。既存作品から盗用の恐れがあり、AIを使った作品募集を禁止するコンテストは少なくない。上毛新聞社は小学生から高校生までを対象に俳句や詩、短歌を募集しているが、AI作品は受け付けていない▼「かえりみちくさのにおいでいっぱいだ」(前橋細井小3年・角田櫂世(かいせ))。ジュニア俳壇の2025年優秀作品である。寄せられた作品は学校生活や登下校の情景、家族や友人との関わり、自身の内面と向き合ったものなど多彩で、どれもみずみずしい感性に満ちている▼記者の仕事もAIには務まらないものの一つだろう。「足で稼ぐ」と言われるように、靴のかかとを擦り減らして人と会い、社会の裏にある喜びや悲しみをすくい上げる▼各地の新聞社は蓄積された情報とAI技術を組み合わせ、地域活性化に向けた研究や生成AIサービスの提供に乗り出している。新聞とAIはどう共存していくのか。われわれの姿勢もまた問われている。(上毛新聞・2026/01/31)

 「わたしはAI(人工知能)は好きではありません」という人が、スマホは自分の快適な日常生活に不可欠のアイテムととらえていたり、パソコンがなければ仕事ができないというとき、「あなたは頑固な人ですね」というのだろうか。それとも「知らぬが仏」とでも評判を立てるのか。「知れば腹も立つが、知らないから仏のように平静でいられる。また、本人だけが知らないで平然としているのを、あざけっていう語」と辞書(デジタル大辞泉)にはあります。

 ぼくは、このところ、とても憂鬱な日々を送っているのですが、その理由は「Windows11」を使っている限り、否応なしに日々新たにたくさんの「AI(汎用・仕込み)のアプリ」が頼みもしないのにインストールされているからです。油断すると、あっという間にぼくのパソコンはAIに拉致されてしまう、いや、もうすでに占拠されているのです。きわめて限られた世界ですけれど、パソコンやスマホは、あるいは「AI開発」の戦場であったり、実験室でもあるのです。だから、パソコンソフトの何%にAIが使われてしまえば、「ぼくはパソコン利用」を断念すると、少し前に断言しました。もう、その時期は過ぎているのかもしれませんから、この駄文濫作も締め切りが来ていると考えてもいます。

 ネットのニュースや動画を見ていても、音声はほとんどがAI(依拠型)であり、時には映像もそうだと思われます。それに気が付くと、ぼく自身は興ざめするというより、だんだんと「人間不要の時代」の端緒の到来を痛感するのです。AIが進化すればするほど、人間は歴史の後景へと遠のき、やがては消えてもだれもなんとも思わない、そんな時代や社会が目前に来ているともいえます。ここの領域においてそうだという以上に、この先何年かの後に、今からは想像できないような<No man’s land(無人地帯)>が出現しているに違いありません。人類は退化してしまうのではなく、退化することが進歩だとみなされる、そんな価値観に支配される文明が生まれるはずです。今日だって、その片鱗が見えるでしょう。生活の万般に「自動化」が導入されると、これまでも「人間のはたらき(Human activity)」「人間の領分(Human territory)」とされていたものは極度に細分化・微小化されていき、その過程そのものが進化だと受け入れられるともいえるでしょう。

 本日の「三山春秋」氏が指摘されている、そのほとんどは、実は「知らぬが仏」であるという、誠に皮肉な事態を示していませんか。「かえりみちくさのにおいでいっぱいだ」という作品がAI制作ではないという証拠はどこにあるのでしょうか。「AI作品は受け付けていない」という規則は確かでしょうけれど、それにもかかわらず「AIの要素」が入っていない作品をいかにして見つけるか。ここまで来ているんですね、「AI」侵略・浸食は。いい悪いの話ではなく、いやも応もなく、ぼくたちは「現代の英雄」である「生成AI」抜きには社会生活が成り立たないというところに来ている。機械化・技術化を総称して「科学化」とよべるなら、もはや時代は「新たな科学化」の時代を開いているのです。それを、これまで通り「進化(evolution)」「進歩(progress)」と呼べるでしょうし、人間が作り出してきた歴史観は、この「進歩史観」に著しく支配されてきたのも事実です。これをある文明史家の言い分に倣うなら「第四の波(the Fourth Wave)」とでもいえるのでしょうか。

◎ 第三の波(だいさんのなみ)The Third Wave= アルビン・トフラーが提唱した概念および著書(1980)。現代文明が,第一の波(農業革命),第二の波(産業革命)に続く第三の波(情報革命)のうねりのなかにあるという考え。第三の波が押し寄せる社会では,情報革命の結果,電子情報機器を装備したエレクトロニック・コテージが在宅勤務を可能にし,家族と地域社会の役割を再活性化する。また,生産過程への消費者の直接参加が可能になり,生産と消費が同時に行なわれるとするプロシューマーが復活して経済構造が変動する。第三の波の文明は,第二の波の文明の規格化,専門化,同時化,集中化,極大化,集権化の原則を脱し,プラクトピアと呼ばれる社会に到達する。(→情報化,情報社会)(ブリタニカ国際大百科事典)

 「歴史の地層(Strata of History)」などといいます。過ぎ去った過去は歴史の「舞台」からは消えてなくなりますが、舞台の袖というか、花道の先というか、あるいは舞台の底部というか、きっとそこにとどまって次の舞台の準備となり、下支えとなっているに違いないのです。江戸時代という「古層」の上に大正・昭和・平成時代(元号を使っているのは天皇制の約束だから)というそれぞれの「地層」が重なります。「明治は遠くなりました」というのは、令和いう層の下のその下の層にとどまって、表からは見えませんが、現代社会というものをいい面でも悪い面でも支えている。その昔、明治時代の中頃だったか、鉄道敷設が社会問題となったときに反対を唱えた人々がいました。それを「社会党」ではなく、「車界党(人力車の働き手集団)」とか言ったそうでしたが、新たな交通手段が登場して、否応なく「現役を退場」することを強いられた。しかし、それは歴史の舞台からは消滅したのではなく、今もなお、方々で「人力車」は活動しています。

 したがって、茄(なすび)の蔓(つる)に胡瓜(きゅうり)はならないのは道理で、今日の「AI技術」もまた、歴史の産物であるというところに視点を据えると、この先の展望が見えてくるかもしれません。あらゆるものを飲み込んで歴史は動いています。飲み込まれるものは前世紀の遺物ばかりではなく人間たちも、その運命(歴史の舞台からの退場)を避けられません。現段階で、「AI」のもたらす「進化の内容」の全体像を見通すことはぼくにはできませんが、好き嫌いとは別次元で、人間社会に必要とされるものは残り続けるでしょうし、不要なものは退場するでしょう。この科学技術といわれる「文明」の時間の単位は少なくとも百年単位です。何世紀経過しようが、必要なものは残る、農業という「第一次産業」は人類の生存には不可欠の要素です。これこそが、実は「文化」だと僕は考えています。ついには科学化されつくせない領域で、人間の生活の方法そのものに重なる部分です。このような長い時間(歴史)感覚で見なければ、ぼくたちは、自らの将来(行く末)を見誤るのですね。ここにおける課題は「自然」と「文化」と「文明」という三つの層からなる「地層」の質と量の問題になるはずです。(この問題については、いずれ別の視点で述べたてみたい)

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立ってる地面の底が抜けたんですよ

【春秋】菊池事件 青天白日の身を願った年月 再審で名誉が回復されぬ限り、私たちは人としての尊厳を回復できない-。ハンセン病差別と闘った菊池恵楓園の自治会長志村康さんは「菊池事件」の再審を願いながら、昨年他界した▼願いは司法の厚い壁にまたも阻まれた。おととい、熊本地裁は菊池事件の再審請求を棄却した▼1952年に熊本県で起きた殺人事件。ハンセン病患者とされた男性は死刑判決を受けた。冤罪(えんざい)を訴えたが、3度目の再審請求の棄却翌日に刑は執行された▼隔離された法廷で裁判官らは白衣に身を固め、証拠品を汚物のように箸でつまみ、弁護人は潔白を叫ぶ声を無視した。差別でしつらえられた「特別法廷」を地裁は憲法違反と認めたが、執行後の死刑判決をやり直す判断は避けた▼8歳で父を失い、家族を支えるため小学校をやめた男性。読み書きもできぬままに司法手続きが進んだ。獄中で六法全書や辞書に学び、再審を求める意見書を書いた。その姿は「狭山事件」で被差別部落への偏見から犯人視された石川一雄さんに重なる▼男性は小学1年で別れた娘のことをずっと気にかけ、手紙をやりとりした。こんな歌が残る。<再審の却下されたる吾(わ)れなるを君よりの文(ふみ) やさしさに満つ>。再び「青天白日の身」となり、娘の成長を慈しむ父として、母を支える息子として暮らす日を信じた。40歳で途絶えた命。差別を裁く扉は固く閉ざされたまま、無念の年月が過ぎた。(西日本新聞・2026/01/30)

(菊池恵楓園:https://www.keifuen-history-museum.jp/

* 菊池事件= 1952年7月、熊本県の山村で刺殺体が見つかり、ハンセン病とされた男性が殺人罪などで死刑判決を受け執行された「菊池事件」について、熊本地裁(中田幹人裁判長)は28日、裁判のやり直し、再審の請求を棄却した。男性を裁いた裁判に憲法違反があったと認めたが、再審開始の理由にはならないと判断した。弁護側は福岡高裁に即時抗告する方針。/事件をめぐっては男性本人が判決確定後に計3度の再審請求をしたが、いずれも棄却。62年9月に死刑が執行された。今回は執行から約60年を経て2021年4月に遺族が申し立てた4度目の請求だった。/争点は主に二つあった。ハンセン病を理由に隔離施設内で開かれた「特別法廷」の違憲性をめぐるものと、そもそも男性が無実か否かだ。/男性の「特別法廷」について弁護側は、差別で憲法に違反しており、それを理由に再審を認めるべきだと訴えていた。/地裁はまず、裁判が違憲だったことをもって再審を認める規定はないとする一方、違憲の裁判が男性を有罪とした判断に大きな影響を及ぼした場合には再審をするべき余地もあると言及した。(↷)

(↺)その上で「特別法廷」の違憲性を検討。当時はすでにハンセン病の特効薬が広く普及していたことなどに着目し「特別法廷」を開くには慎重な判断をすべきだったのに、それをしなかったことは「合理的な理由のない差別」だとして、「法の下の平等」を定めた憲法14条1項に違反すると述べた。/ただ、憲法に沿う形で裁判をしても男性が有罪となった裁判の証拠に変動はないと指摘。憲法違反を理由に再審を認めることはできないとした。
 男性が無実か否かをめぐっては、弁護側が事件の凶器とされた短刀や、男性から「犯行を告白された」とする親族2人の供述について鑑定意見書を提出。凶器については、事件当時の鑑定書から読み取れる遺体の傷の大きさと矛盾し、供述については変遷があって信用できないと訴えていた。/だが地裁は、弁護側が問題とした傷の大きさは推測に基づくものだと指摘。事件当時に鑑定した医師が、凶器についてあえて虚偽の記載をする事情も見当たらないと述べた。/また、親族の供述についても核心的な部分で一貫していることなどを理由に信用できるものだと判断。弁護側の請求を退けた。/熊本地検は同日、「請求棄却の結論は妥当と考えている」とコメントした。(朝日新聞・2026/01/28)(https://www.asahi.com/articles/ASV1X02MFV1XTLVB00QM.html

 この駄文収録では、これまでに何度か「ハンセン病」の歴史について触れてきました。詳細には触れませんが、この現代社会に於いてなお、「ハンセン病」問題は、ある種の「忌避」すべき問題としてとらえられていないかという大きな疑いをぼくは持っています。今回の「菊池事件」裁判に関しても、国(裁判所)は「木を見て、森を見ず」という姿勢をあからさまに示していると思われます。「ハンセン病(その昔は「癩(らい)病」と呼ばれ、それこそ長く続く「差別」の象徴(典型)ともいうべきものとして扱われてきました。上に示したいくつかの資料(著作・映画・芝居)に関しても細かくは触れられませんが、神谷さんや小川さんは、戦後の早い段階から、「ハンセン病」の実際問題に積極的にかかわってこられましたが、その姿勢や理解の深いところでは拭い去れない問題を抱えていたと思われます。映画「あつい壁」を監督された中山節夫さんには、直接ぼくが担当していた授業で「ハンセン病への偏見・差別」の本質ともいうべき課題・核心を語っていただいたし、「地面の底がぬけたんです」という一人芝居の女優、結純子さんにも授業の一環として上演してもらったし、親しく厚情いただいていました。この芝居の原作ともなった、藤本とし著「地面の底がぬけたんです」についても語るべき逸話がありますが、今回は話しません。藤本さんは自らの「病気」の実態を見知った瞬間に「地面の底が抜けたんですよ」と思われたといいます。

 人類史とともに存在し続けた「ハンセン病(「業病」とまで言われてきた)」にはいくつもの歴史が編まれ、かつ刻まれてきました。そのすべてをトレースすることはできませんが、この「感染症」は終息した病気ではなく、いまなお罹患者が絶えない病でもあります。この感染症に有効な薬剤や、経験と知見に基づいた治療法の進化も相まって、今では「治る病」とみなされています。しかし、世界の各地ではなお「感染中」ともいえるような事態が見られます。「偏見と差別」はいろいろな部面で見られますが、それに対してぼくたちはいかなる姿勢を取ることができるのか、この問題を通して、深く静かに考察を重ねて行きたいと、ぼく自身もなお願っています。(この駄文を通っている間にも、これまでに出会ってきた何人もの「元患者さん」の面影がありありと浮かびます。機会があれば、そのような人々から学んだ事々を綴りなおす機会を見つけたいと念じている)

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政治道徳の法則は、普遍的なものであり

【金口目舌】日本列等を豊かに 埼玉県の川口市長選挙は外国人政策が争点だ。外国人との共生、在留資格厳格化を巡って論戦が交わされている。市民60万人のうち在留外国人は約5万人。その中の2千人に満たないトルコ出身の少数民族クルド人への排外的な言動がやまない▼選挙を巡る興味深い記事が東京新聞にあった。交流サイト上のクルド人に関する最近の投稿の発信地は東京が約30%、埼玉が約7%。県外が多いのだ。川口市に絞ればさらに限られよう▼大阪大大学院の辻大介教授がかつて同様の調査をした。ネット利用者全体のうち、「中国と韓国への排外的態度」をとるなどの「ネット右翼」層に該当するのは2007年で1・3%、14年は1・8%に過ぎなかった▼県出身者が営む神奈川県の建設会社を思い起こす。社長が言うには東南アジアからの技能実習生は給料の大半を母国へ送るそう。「彼らがいとこや弟、奥さんを呼んでいいかと言ってくる」。それがうれしいと言う▼とげとげしい言葉は実習生を傷つけ、異国への愛着を踏みにじる。母国の家族にも見せたくなる国、小さくとも厚みある友好が国の豊かさではないか。(琉球新報・2026/01/29)

 つい先日、飛んでもない「猥褻(わいせつ)事件」の責任追及を受けて辞職した「知事」に代わって、新たな福井県知事に就任した某氏の選挙期間中の発言が物議をかもしました。このような「化石発言」を誇らしげに口にする政治家が、今もなお「生き生きと生息している」ことに驚くようでが、「君は日本人を辞めたほうがいい」と批判・非難されそうですね。この国は、ただいま現在、「化石(地質)時代」にあるんでしょうか。年齢が若とか年を取っているというのは、賢さや知恵のあるなしには関係はなさそうです。

 「『私は移民政策には反対です。理由はまず日本は単一民族国家です』」 25日に投開票された福井県知事選で初当選した石田嵩人氏(35)が選挙期間中にこうした発言をする動画をSNSに投稿しており、批判されている。石田氏は、当選から一夜明けた26日、『この発言については訂正したい』と述べた。  政治家による『日本は単一民族』という発言は、これまでも繰り返され、アイヌ民族や朝鮮半島をはじめ海外にルーツがある人たちの存在を否定し、差別、排除するものだとして、その度に批判されてきた。2019年には、アイヌを「先住民族」と明記したアイヌ施策推進法が施行された。  昨年6月時点で、日本には400万人近くの外国籍住民がいて、人口の約3%を占める。このうち在留資格で最も多いのは永住者で、かつて日本国民だった朝鮮半島・台湾出身者ら特別永住者を含めると3割を超える。  日本国籍者でも、国際カップルの子どもや国籍取得者など、多様なルーツの日本人は増えている。国立社会保障・人口問題研究所の是川夕さんの推計では、こうした「移民的背景」がある人と外国籍住民を合わせると、20代前半ですでに1割を占め、2040年には30代前半で17%を超す見込みだ。(↷)

 (↺)石田氏は26日の記者会見で発言についての見解を問われ、『移民や外国人労働者を無秩序に受け入れてしまうと問題が生じてしまうという文脈で申し上げた。単一民族という言葉自体がひとり歩きしている』『完全単一民族ではないので、そこはしっかりと訂正させていただきたい』などと答えた。  だが、国士舘大の鈴木江理子教授は『アイヌ民族やダブルなどの日本国籍者を含め、現に日本にいる多様な背景を持つ人たちの存在を否定することと、外国人の受け入れは別の問題だ』と指摘する。  石田氏が、『日本人ファースト』を掲げて昨年の参院選で躍進した参政党の支援を受けていたことにも、鈴木教授は注目する。『地方の選挙においても、当選するためには、移民や外国人に厳しい態度を示した方が有利だ、という風潮が広がっていくことを懸念している』と言う。(以下略)(朝日新聞・2026/01/27)

 自らの無知をさらして、間違いを指摘されると、「間違っていました」とはまず認めない、誤らない、いうにこと欠いて「単一民族という言葉自体がひとり歩きしている」と二重の間違いを犯すことになっても、平然としている。恥ずかしいし、醜悪ですよ。不勉強を恥じないどころか、それを誇示するんでしょうか。、頭の上にハエが止まっている、それに気が付かない。けっして「言葉自体」は独り歩きしないし、「私は無知でした」という現実は訂正もされない(無知のまま)のだ。こんな往生際の悪い政治家(まがい)は、至る所で跳梁跋扈しているし、何よりも現首相はその代表格であり「典型」です。嘘をついて、「それは嘘だ」と批判されると、「そんなことは言っていない」とごまかし、「そんなつもりで話したのではない」と自己弁護し、挙句に「言葉尻をとらえられた」と負け惜しみを言う始末。品性下劣で、醜悪この上ない人品だというべきでしょう。

【春秋】きょうは人口調査記念日 日本の総人口は1億2300万人。明治政府が戸籍調査を実施し、初めて人口を数えたのは1872年のこと。当時の人口は3300万人だった。150年余りで4倍近くになった▼明治初期から今の世を見れば、人の数だけでなく、身近に暮らす外国人の多さにも驚くだろう。在留外国人は今や400万人に達する。近年は政情が不安定なネパールからの来日が急増し、福岡市では中国人を上回る数になった▼<優秀な人なのだろう親元を離れ異国のレジに立つ人>。以前、まちの変化を映す読者の一首が本紙に載っていた。あちこちで当たり前に見かける光景に温かい親心がのぞく。ただ、受け入れてきた国の姿勢は転換しつつある▼政府は先日、新たな外国人政策を打ち出した。日本語教育の充実を掲げながらも、永住や国籍取得の要件は厳しくする。税の未納チェックや不動産取得ルールの見直しなど「共生」よりも「管理」に重心を移し、「秩序」を最優先している▼外国人政策は昨年の参院選で争点に急浮上し、ネット上には根拠のない言説が飛び交った。今回の衆院選でも、各党が公約に盛り込んでいる▼日本人の人口はこの16年、ずっと減り続けている。その流れは止まりそうにない。規制や選別を過剰に重ねるうちに、気付けば外国人から選ばれない国にならないか。先の短歌を読み直す。レジに立つ人の姿を思い浮かべ、論戦に耳を傾けたい。(西日本新聞・2026/01/29)

 現下の選挙中にも、各党・各候補者は「外国人政策」なるものを掲げています。その場しのぎであり、歴史の事実を一切顧慮しないものであるというほかありません。おそらく「世界における孤立」を望んでいるからこそ、「外国人は来るな」「外国人は出ていけ」というばかりです。「共生(symbiosis)」ということばがこれほど不似合いな国民(性)は珍しいと、その「国民の一員」であるぼくでさえ面食らうのです。訂正します、「国民の一員」というのは正しい表現ではない、「一人の国民」と表現を改めます。ぼくはこれまでにも「日本の中の外国人」問題については多弁を弄しています。おそらく「生来の主題」となっているからです。ぼくは自分の立場を「在日日本人」と広言してきました。それを詰(なじ)られたこともあるし、批判されたこともありますが、事実ですから、訂正はしなかった。それと同じレベル(水準)で、「在日外国人」ということに問題があろうはずもない。事実を事実として指摘しているだけのこと。多くの政党の面々は、その「外国人」に、きっと等級をつけるのでしょう。「いい外国人」と「悪い外国人」などと。これも現首相初め、多くの政治家は使い分けるのです。「いい日本人」もいれば「悪い日本人」もいるのも現実です。また「いい、悪い」はある種の価値判断ですから、ある人には「いい」であっても別の人には「悪い」ということも、ある時は「いい」であっても、違うときには「悪い」ともなり得ますから、いつだって、自分にとっては相対的な事柄です。固定してとらえることの誤り、あるいは危険性を忘れたくありません。「外国人は犯罪を犯す存在」というような、醜い固定観念(偏見)。

(☚表は京都新聞・「外国人政策、対立軸鮮明」2026/01/27)(https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1644551

 「名誉白人(honorary white)」という呼称というか「カテゴリー(階級分け)」は今でも使われているのでしょうか。もともとは「アパルトヘイト(apartheid)政策」をとっていた南アフリカで起こっていた歴史があります。

◎ 名誉白人= 南アフリカ共和国で1948年から1994年まで実施されていたアパルトヘイト(アフリカーンス語で「分離」の意味)制度の下では、外国人を含めて、有色人種は総じて差別的な扱いを受けてきた。ただし印僑やカラードは議会の議席など、黒人には認められない一定の権利が認められ、有色人種の中でも待遇の違いがあった。/日本国籍を有する者は、1961年1月19日から、経済上の都合から「名誉白人」扱いとされていた。これは欧米諸国がアパルトヘイトを続ける南アフリカとの経済関係を人道的理由により縮小する一方で、日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国になっていたからである。国際的に孤立していた南アフリカと数少ない国交を持っていた中華民国(台湾)籍の者は白人として扱われた。また、香港からの華僑と華人も名誉白人と扱われた。ただしこれらの扱いはあくまで国策上の法的措置であり、決して非白人を人種・民族的に思い遣ってのことではなく、民間における差別感情や、それにともなう差別行為が無かったわけではない。(以下略)(Wikipedia)

 歴史の視野を少し長く長くとってみる。一例として「水(H2O」という化学式(表記)、そこにあっては水は純水(混じりけなし)でしょう。しかし、現実の世界(ぼくたちの生活範囲)では、純粋な水など存在しないのが「普通」です。人種や民族こそ、「不純(混血)」であり、混血であることが「普通」でしょう。この島に「純粋日本人」が最初からいたわけではないし、日本という国号が唱えられて以来(定説は「大化の改新」以降)、その地に住んでいる人間を「日本人」と呼んだだけのこと。そのもとは誰であり、どこから来たかは、明らかにはできないことでしょう。恐竜がいた時代、まだ「人間」は存在しなかった。「原日本人とは誰のことか」と問われても、今では答えるすべもないでしょう。そんな中で確かなことは。縄文人や弥生人たちも繰り返し「混血」「雑婚」を繰り返し、いつの日にか「純(原)日本人」と呼ぶように・呼ばれるようになっただけの話です。

 それだって怪しい限りで、この「日本劣島」と称される島に住み着いた人間たちが「日本人」であったという事実から、すべては出発しているのです。今日、少子高齢化時代といわれて、毎年の人口減少(自然減)は約百万人前後です。このままで推移していくと50年後には5千万人が減少する計算です。画期的な人口増加政策(例えば、五人子政策の導入)を強制しない限り、やがてこの国は百年も持たないで滅んでしまう傾向にあります。「外国人はいらない」「単一民族国家だ」「名誉外国人だけを受け入れる」などという、お風呂の中でオナラをするような間の抜けたことを言っていて、政治家が務まるのですから、もはや命脈は尽きているといいたくなります。もちろん、拙者もその例外ではなく、間もなくぼくは消え去るのみです。後顧の憂いを残してか、残さないでか言わないが。(国内で取られようとしている外国籍の人々に対する政策は、海外に移住している「日本人」にも、当該国でその規制を受けているはずです。

 注1(「自国」をよく知るためには「他国」という視点が不可欠ですね)注2(政治、政治家に「政治道徳・政治道義」が欠けていれば、もはや政治ではなく、「リヴァイアサン」(英: Leviathan)の地になるほかない。政治的不毛、統治の不在状態を意味します)注3(世界の政治家は、どれもこれもがトランプ似だというのではありませんが、「アメリカファースト」といい、「日本人ファースト」という、その姿は、だれであっても、ぼくには見苦しくも浅ましい限りに映ります。なんで、「自分が一番」「私が最初」などといわねばならないのか。こんなダウbンを何年も綴り続けていながら、その都度に、ぼくは「学校教育の醜さ」を考えてしまう。他者を敬い、自他の人格を尊重するというのは、ある種の言葉遊びでしかないような、それでいて、現実に繰り広げられているのは「同級生」との成績競争。くだらないといってのければ済む話ではないのが、残念ですね。1ミリとか1点の差が絶対だと、なぜ言えるんですかね。)

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(日本国憲法「前文」より)

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* 余話ながら(As an aside) 十数年前、半世紀近く勤めた職場(学校)を退職する際に、同僚たちから「『名誉教授』の称号を授けるから、申請書を出せ」といわれました。「そんなものはぼくには不要です」と断ったら、ちょっとした騒ぎになりました。どうしても「受けてくれ」という懇願だったか、執拗に薦められました。職場(全員一致)で決めたことだからと、強引に説得してきましたが、「あなたたちに推薦されること自体、ぼくには心外です」と(大人げなく)返事を返し、最後には「いらないというぼくの意思を踏みにじらないでほしい。権利(人権)の侵害に当たる」と勝手な理屈をつけて、その後はだんまりを決め込んだ。「名誉白人」と呼ばれて嬉しいのでしょうか。「白より黄色(論より証拠)」というではないですか。「名誉の白」があるなら、「不名誉の白」もある。それが人間の住む世界の実情ですよ)

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「同じ穴の狢」の(860億円の)火遊びか

 選挙戦が始まりました。といっても、拙宅付近に「候補者」が来る気づかいはありません。当地に住んで十数年、これまでどれくらいの選挙(国政と地方と合わせて)があったか。計算すれば一年か一年半に一回の割合だったかもしれません。そんな選挙に際して、候補者が自宅前(昔の農道・林道)を通るというのは町会議員や町長選ならいざ知らず、県会議員選挙や国政選挙では影も形も見たこともありません。候補者の選挙カーからの声すら聞いた試しはない。こんな乏しい数の住人の住む「臨界集落」は、行くだけ無駄とおもわれているのかもしれないですね。この大寒波襲来中の劣島における「大難儀な選挙」になんと860億円余が費消されるという。当初は6百数十億円と報じられていましたが、いろいろな点で予算は膨張するのがこの社会の悪魔(金の亡者)の原理・法則です。とにかく、「民主主義には金がかかる」のではなく、わざわざ、金をかけるんだね。

 文句を垂れているのではなく、候補者の主張や生の声を聴かなくても、少なくとも「投票してはいけない候補者」に「清き一票」を入れるなどという過ちは犯しようがないということでした。ぼくは占い師(prophet)ではありませんから、姓名判断で人間(候補者)を深く知るなどという芸当はできません。ごく当たり前にその主張なり政治家歴なりを見るだけで、おそらく候補者判断には足りるのではないでしょうか。卒寿を迎えるまでに数えられないほどの「選挙に参加」してきました。その結果を考えてみると、まずぼくが投票した候補者の当選率は極めて低いということです。たぶん、高くても一割か一割五分ほど。野球の選手なら、こんな打率(打撃成績)では、とてもではないけれど、並み(平凡)以下の、無能選手と即断されるでしょう。ところで、従来は「出たい人より出したい人を」というのが公職選挙のキャッチフレーズだったと思いますが、それを多くの有権者は固く順守して投票してきたつもりで、結果的には今日の惨憺たる国情・国勢を招いたのではなかったかという、やりきれない(慙愧の)念が消えません。悪いのは候補者なんだか、有権者なんだかという、こじれた国情の、やりきれない政治的遅滞(未発達)、ですね。

 ぼくの場合はそうではありません。選挙というのは当座を凌ぐ「第二の方法」であって、仕方なしにこの方法で「代議員」を選んでいるのです。(政治の第一義は、直接制ですね)こんな代議士(当選者)はすべて「選良」かというと、ご承知の通り、表街道というか「日の下」を歩けないようなやくざ顔負けの「破落戸(ごろつき)」も国会にはうじゃうじゃいます。だから、ごろつき(rascal)を選んでは、ぼくにとっても致命的になりますから、ぼくの投票時のモットーは「出したい人より出したくない人」という仕儀に至ります。ぼくが投票する候補者が議員になる確率が驚くほど低いのも、決して非難されることではないと自分では考えている。時には「白票(薄氷)」で済ませることも何度もありました。全体の投票率が五割そこそこで、その何分の一の獲得票があれば、議員(代議士)になれる。あまり褒められた選挙制度ではありませんね。まして【小選挙区比例代表制】など、この社会では最悪の制度でしょう。「裏金議員」が三十人も四十人も公認候補として小選挙区から立候補し、賢い有権者がその候補者を認めなくても、(賢くない有権者がかなり多いので)得票数によっては「比例復活(惜敗率というらしい)」を遂げるんですから、ね。「あの人はだめだ」「どうしても出したくない」という民意が、覆される制度は反民主的でしょ。

 選挙は始まったばかりですが、ぼくは期日前投票をするつもりです。さて、「白票」にするか「大谷翔平」「かみさん(の名前)」にするか(と書く)か、目下思案中。既成政党はまず、「運命共同体」というか、「呉越同舟」というか、あるいは「同床異夢」(「同じ床についていながら、別々の夢を見ていること。転じて、同じ行動を取りながらも、それぞれ別の思惑のうちに行動しており、意見を異にしている様子」(実用日本語表現辞典)の輩たちか、あるいは「『一族郎党』(《「いちぞくろうとう」とも》1 一家一族。家族。2 同族と家来。3 一族とその関係者。「選挙運動に—を総動員する」)(デジタル大辞泉)なので、党名・党派は異なっていても、同じ釜の飯や空気を吸って生きている連中です、互いに気心は通じ合っているんですね。だから、「政権交代(それは擬似)」は起こっても政治の手法も中身もいささかの変化もない。それには理由がありますが、ここでは触れません。この国は自立・独立していないのですから、「親方星条旗」の通弊・悪習が抜けないということ。

 民主主義というのは「地平線に向かって歩くことなんだ」、ぼく(だけではなく、誰彼)の生存中、そこに至る(と信じている)かどうかは別物で、とにかく歩くことです。垂直線(vertical line)ではなく、水平線(horizontal line)に向かって、ね。熱い胸中の想いを持ち続けながら、「水平へのあこがれ(Longing for horizontality)」を失わないこと、ですね。

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 「真冬仕様」の選挙戦略 街頭諦め屋内、SNS活用 今回の衆院選は36年ぶりに2月に投開票される。豪雪地帯を中心に多くの陣営が街頭演説を屋内の集会に切り替えるなど「真冬仕様」の戦略を強いられている。「雪国のことは頭になかったのだろう」と、高市早苗首相への恨み節も改めて聞かれた。選挙カーはスリップ事故への懸念が根強い。交流サイト(SNS)の活用も鍵を握りそうだ。/大雪に見舞われた福井県のある候補の関係者は「一番の活動場所である交差点の角に雪が積まれている」と顔をしかめた。/「街頭演説は選挙の大きな柱だが…」。青森県内の選挙区から立候補したある候補は、屋内での個人演説会を中心にすると決めた。/秋田県内の候補は「街頭演説以外の戦略も練らなければ…」。北海道の陣営関係者は「応援弁士は来たがらないだろう」。鳥取県内の候補陣営は「屋外で有権者を待たせられない」。/ある陣営は選挙カーのスリップ事故を心配し、交通量の多い通勤時間帯は走行を控えることを検討する。山形県内のある候補は「SNSが重要になる」と意気込むが、高齢者には訴えが届きにくいという課題が残る。(共同通信・2026/01/28)

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 【夕歩道」一時的な記憶の4割方は20分たつと消え始めるという。幸せな感覚や怒り、悲しみが意外と長続きしないのはそのせいか。人体がそう設計されているとしても、聞いた公約は覚えておきましょう。
 465議席(小選挙区289、比例代表176)を争う衆院選が公示された。2月8日が投開票。一番寒くて外に出にくいこの時期に、6日に冬季五輪が開幕して関心が移るこの時期になぜだか。
 忘却曲線という理論だと、覚えたことを忘れる度合いは1時間後に6割近く、1日後だと7割強、1週間後は8割近く。復習すると忘れにくい。12日間の衆院選。各候補が何を言ったか忘れずに。(中日新聞・2026/01/27)

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◎ むじな【狢・貉】〘 名詞 〙① 「あなぐま(穴熊)」の異名。《 季語・冬 》[初出の実例]「是の犬、山の獣名を牟士那(ムシナ)といふを咋ひて殺しつ」(出典:日本書紀(720)垂仁八七年二月)② 「たぬき(狸)」の誤称。狸の毛色が穴熊に似て、混同されることが多いところからいう。《 季語・冬 》 〔文明本節用集(室町中)〕③ ( ふつう狸の皮でつくるところから ) 「ふいご(鞴)」の異称。[初出の実例]「合槌は狐むじなは火をおこし」(出典:雑俳・柳多留‐三二(1805))④ ( 「同じ穴の狢」の略 ) 同類の悪党。[初出の実例]「むしなめらなぞと女房は寄せ付ず」(出典:雑俳・柳多留‐二七(1798))(精選版日本国語大辞典)

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どのように生きるかよりも、これだけは…

《いじめられている君へ》安西水丸さん 
本当は強くない連中だ
小学6年生だったかな。中学生3人にいじめられました。理由も分からず殴(なぐ)られて。悔(くや)しくてね。
暗闇(くらやみ)でリーダーの子を待ち伏(ぶ)せしたんです。堅(かた)いビワの枝を持ち、塀(へい)の陰(かげ)に身を隠(かく)して。まんまと1人で現れたので、足のすねに思い切り枝を打ちつけた。さらにもう一撃(いちげき)と思ったら、彼が悲鳴をあげたんです。
「ああ、この程度のやつなんだ」って思った。彼は二度と僕(ぼく)を殴ってこなかった。いじめをやめさせるには肉体的な恐怖(きょうふ)心を与えるのが一番。自転車で体当たりしたっていい。「あいつにはとんでもない仕返しをされる」と思わせるんです。相手が卑怯(ひきょう)なんだから卑怯な手段でもいい。
と言ってはみたが、今の時代、暴力はまずいです。何が言いたいかって、本当に強い子はいじめなんかしないんです。いじめる子って不良にもなれない中途半端(ちゅうとはんぱ)な連中。こちらの仕返しに反撃(はんげき)する根性もない。気持ちで負けないでほしい。
大人の対応を考えよう。実は大人にもいじめはあります。僕も会社員だったころ、口をきかないとか、郵便物(ゆうびんぶつ)を捨てるといったいじめをたくさん見てきた。
大人の処世術(しょせいじゅつ)の一つに「嫌な相手でも、いいところを見つけてほめる」ってのがある。相手に利益(りえき)を与えずしてこちらに利益はない。これは子どもでも使えるんじゃないかな。
「その帽子、格好いいね」と外見をほめるだけでもいい。ほめられたら悪い気はしないから。心の中ではアカンベーをしていればいい。相手をよく観察し、どうコミュニケーションをとるか考える。それをきっかけに打ち解けられるかもしれない。僕は、今でもこれで通用してますよ。(あんざい・みずまる=イラストレーター)(朝日新聞・2012年07月26日)

 それほど熱心な水丸党ではありませんでしたが、ぼくのようなショボクレタ人間からすれば、水丸人生は、なんだかゆったりしているなあ、といささか羨望の念が働いたことがあります。突然の死は驚きでした。ゆったり慌てずという流儀を持ちながら、どこかで無理をしていたのだろうと思う。水丸さんは7人兄弟の末っ子で、4人の姉に囲まれて育ったので、根っからの優しさがそこで育まれたのかもしれません。また小学生のころに重篤な喘息に罹患し、そのために千葉の千倉(現南房総市)に移住。そこが、いわば揺籃の地となったのでしょうか。 

◎ あんざい‐みずまる〔‐みづまる〕【安西水丸】[1942~2014]イラストレーター・作家・漫画家。東京の生まれ。本名、渡辺昇。都会的で温かみのある画風で人気を集めた。村上春樹との共著「村上朝日堂」シリーズでも知られる。他に、小説「アマリリス」、漫画「青の時代」、絵本「がたんごとんがたんごとん」など。(デジタル大辞泉)

 「本当に強い子はいじめなんかしないんです。いじめる子って不良にもなれない中途半端(ちゅうとはんぱ)な連中。こちらの仕返しに反撃(はんげき)する根性もない。気持ちで負けないでほしい」(引用文より)これはその通りでしょうね。ぼくは水丸さんより5歳の年下です。家庭の都合で石川県から京都に移住してきた。京都の小学校4年か5年生のころ、二人組に暴行を受けた経験がある。大きな子がぼくを羽交い絞めにし、小さいのがぼくの腹部にげんこつパンチを食らわせた程度だったが、田舎弁丸出しで、ぼくは怯(ひる)まずに抵抗した。その瞬間のことを今でもよく記憶しています。

 これは序の口で、中学校時代は大変な学校で、強請(ゆすり)にあったこともある。相手は学校も名の知れた「悪童」だったが、ぼくは言うことを聞かなかった。こんな逸話は腐るほどあります。だからぼくは学校にはなじめなかったし、教師にも信を置いてはいかなかった。悪餓鬼の連中は、卒業に際して在学中の教師の体罰等に「お礼参り」をするほどの悪党だったと思う。その悪態ぶりの根っ子には「人種差別」「人権抑圧」があったこ、やがて知るようになる。だから、京都には根深い人種問題や部落差別問題が至る所に仕掛けられていたのでした。人権問題の実学・実践の場となったのが、京都時代でした。

 後年、ぼくは学校の教師みたいなことをするようになった時、京都時代の「差別問題」の実体験は何ものにも代えがたい「教材」となったといえます。三十年ほど、ぼくは「人権への視座」という題目で一つの授業を担当してきましたが、そのベースになったのが民族差別や部落差別問題に、早くから遭遇していたからでした。水丸さんの「反いじめ考」から脱線していますが、ようするに「水平」の関係に「なれない・ならない」ことでいじめや差別が生まれるということです。上下(垂直)関係ではなく、左右、つまりは水平の関係です、そのような関係をいつだって見つけようとしてきた。教師まがいの時代、しばしば講演のようなものを頼まれることがありました。学校などの場合、まず生徒たちを講堂・体育館に集め、講師(話し手)は舞台上に設けられた演壇を前にして立つ。ぼくはこれが死ぬほど嫌いで、前もって断っておくのですが、舞台に上がらざるを得ない時もあったが、必ず、生徒たちと同じ板の上で話すことに徹したものでした。つまらないことですが、大いに拘(こだわ)っていましたね。

 本日「安西水丸」を主題にしたのは「折々のことば」にありました。「絶景ではなく、車窓の風景のような人間でいたい」(画文集「一本の水平線」)なかなかに「含蓄」があるというべきか、何が言いたいのか受け止めるのは簡単ではなさそうですが、はっきり言えば、「人生の勝負に勝つ」ような生き方ではなく、日々の暮らしの中に根を下ろして育ちたい・行きたいということではないでしょうか。一本の草花のように、土に根を張り(これをして「ねばり」という)、ひっそりと、見られることを期待しないで自らの生活のリズム(調子)を忘れないような生き方、です。彼がそう望んだのは、実際の生活は、あるいは自分の生き方が決して「その通り」にはなっていなかったということの反証でもあるでしょう。

 中学生の時、ぼくはテレビ映画「私は貝になりたい」を観ました。その印象は強烈なもので、戦争における「A級B級戦犯」の域を超えて、生き方の導きになったと思っています。町の理髪店の主(フランキー堺氏)が招集され、戦地において、上官の命令によって「捕虜刺殺」を実行し、それが戦後に「戦犯」として裁かれ「死刑」に処せられた。刑場に曳かれていく際、「今度生まれるときは、深い海の底のいる貝になりたい」と。安西さんの「折々のことば」として紹介されている部分に、このドラマの主人公の言葉が重なったのでした。

 こんな生き方をしたいと望んでも、いろいろな理由や事情でそうはいかないことのほうが遥かに多いでしょう。だからこそ、「目立つな」という姿勢は、ぼくには極めて貴重でした。ある画家兼作家は、生きた証しとして「地球に傷跡を残したい」といわれていたことをよく覚えています。興ざめしたことを覚えている。作家の三島由紀夫さんもそんなことを盛んに言われていたように思います。生まれた以上は生きる、生き続ける、それがぼくの願いです。でも「生きる」意味を取り違えたくないと、ある時期から強く考えるようになった。「目立つな」「評判になるな」「評価を求めるな」というのは、いつでもぼくの生き方の流儀でした。そんな生き方で他者と交わることができれば、この上ない喜びだとさえ思うようになったものです。

 左に引いた市原悦子さんの「言葉」も、なかなかに含蓄があるもので、ぼくには「生き方の規矩(きく)」(コンパスとさしがね)」になっています。「世の中って残酷だな」「人間ってちっぽけだな」という、そんな世の中で、ちっぽけなままで生きているうちに、その人の色が出てくるといわれる。彼女らしい表現ですね。「がむしゃら」なうちは、それは無理だというのも、その通りでしょう。「好きだったら、いつも真ん中ぐらいの順位でも、ひたすら走っていける…。」分を知るというのは、考える以上に難しいんですね。マラソンは人生になぞらえられます。どちらも「途中」を見る、楽しむ余裕を求めているでしょ。

 ここまで来て、安西水丸さんと市原悦子さんの「生き方の流儀」が重なるように思えてきませんか。「目立つな」「無理をするな」と、ね。

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◎ 私は貝になりたい= 『私は貝になりたい』(わたしはかいになりたい)は、ラジオ東京テレビ(KRT→TBS)の「サンヨーテレビ劇場」で1958年10月31日22:00 – 23:40に放送された日本のテレビドラマ。元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記「狂える戦犯死刑囚」の遺書部分をもとに創作された橋本忍脚本によるフィクションで、第二次世界大戦中に上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後B級戦犯として逮捕され処刑されるまでを描く。岡本愛彦演出、フランキー堺主演。第13回文部省芸術祭芸術祭賞[注 1](放送部門)受賞作。(Wikipedia)

◎ 市原 悦子(いちはら えつこ、1936年〈昭和11年〉1月24日 – 2019年〈平成31年〉1月12日[2]、本名:塩見 悦子)は、日本の女優・声優。千葉県千葉市出身。身長160 cm、夫は舞台演出家の塩見哲。(中略)演出家の浅利慶太は舞台『アンドロマック』『アンチゴーヌ』に市原を起用し、「戦後新劇の生んだ最高の女優」と賞賛した。俳優座の先輩にあたるな仲代達也は訃報を受け、「彼女の声のすばらしさは日本の演劇界の宝でした。ただきれいというだけではなく、声の質をもって、ものを言うという才能。1500席の劇場で、マイクなしで己の声を通していく力を、彼女は先天的にもっていた。本当に素晴らしい方だった」とコメントした。(Wikipedia)

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万歳の三条件(国旗・国籍・国語)

【斜面」万歳三唱令 基本姿勢ハ直立不動ナリ 万歳ノ発声ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ 同時ニ両腕ヲ垂直ニ高々ト挙クルヘシ-。明治12年の太政官布告と称する「万歳三唱令」が出回ったのは1990年代。一見もっともらしいが、実在しない偽文書である◆問い合わせが相次いだ国立国会図書館は、全くの偽造と断じた。けれど、本物と信じ込む人はいまだにいるようだ。そもそもは宴席でふらつきながら万歳をする人を見て思いついたのだという。2017年に熊本の3人が自分たちの創作だと名乗り出た◆実在した断髪令や廃刀令に続く「明治三大布告」と銘打ち、面白半分でいかにも本物らしく文面を練り上げたことを、地元の熊本日日新聞に明かしている。あくまで仲間内の酒席に限った余興のつもりが、やり方を知りたいと次第に評判を呼び、文書が独り歩きしていったようだ◆衆院の本会議場に響いた与党議員らの万歳の声に、偽の三唱令の騒動を思い起こした。解散の詔書が読み上げられ、万歳三唱が起きるのは、お定まりの光景だ。会議録で確認できる限り、明治30(1897)年が最初とされ、130年も続く慣例である◆けれど、いいかげんもうやめるべきだろう。憲法は国会を「国権の最高機関」と定める。全国民の代表として選挙された衆院議員が、今回は任期の3分の1も経ずに、「首相の専権」だとしてその資格を奪われた。万歳で応えるのは、議員自ら国会をないがしろにする振る舞いにさえ映る。

 衆議院議長による「国会解散」報告の際の「万歳三唱」の映像を見ていて、ぼくは「なんというグロテスクな」という、大きな違和感を持つばかりで、国会議員の「超時代の馬鹿さ加減」が議事堂の中に木霊(こだま)しているように感じました。「バンザーイ」の発生の前に、本来は「◎◎」が付きますね。国旗もそうですが、単に「白地に赤く日の丸染めて」という「即物(物自体・das Ding selbst)」ではなく、それは隠れもしない、ある「象徴(Symbol)」を明示しています。本日、掲示した最後の写真(最下部にある)は何でしょうか。「◎◎万歳」と声を上げているのは誰でしょう。いつであれ、どこであれ、「バンザーイ」と大声を発し、両手を挙げる姿勢は、すべての場合に共通しているでしょう。誰に向かって・誰に対して「バンザーイ」なんでしょうか。わけも分からずに「万歳三唱」している人が大半ですが、今回の「解散」時の議事堂内をよく見れば、立っているだけで「万歳三唱」をしない議員もたくさんいます。どうしてですか。

 今の「右翼首相政権」が続けば、「万歳三唱」は国民に対しては義務化され、「◎◎ バンザーイ」と口に出して唱和し、動作をとらねばならなくなるでしょう。公立学校の卒業式に際して「日の丸・君が代」が強制されている現実を見れば、祝日には各家の前に「日の丸(国旗)」を掲示し、あるいは万歳を唱えろということになるかもしれません。町内会で「君が代」唱和という事態があるかもしれません。やがて、国旗損壊罪も法制化されるでしょうし、学校教育では「教育勅語」が必修項目になるはずです、今の右寄り政権が続くならば、です。それに違反すれと「治安維持」「公序良俗」に悪影響を与えるものとして処罰されるでしょう。「スパイ防止法=治安維持法」を執拗に制定したがっている理由は、反権力的国民の摘発・処罰のためです。と、悪夢を語っているつもりですけれど、どうやらそうではなさそうで、悪夢は正夢になりかねません。

 「解散の詔書が読み上げられ、万歳三唱が起きるのは、お定まりの光景だ。会議録で確認できる限り、明治30(1897)年が最初とされ、130年も続く慣例である」「けれど、いいかげんもうやめるべきだろう。憲法は国会を『国権の最高機関』と定める。全国民の代表として選挙された衆院議員が、今回は任期の3分の1も経ずに、『首相の専権』だとしてその資格を奪われた。万歳で応えるのは、議員自ら国会をないがしろにする振る舞いにさえ映る」(コラム「斜面」) お説その通り、です。これ以上は駄弁りませんが、愚か者国家になっているという現状に、ぼくたちは目を覚まし、顔を洗って、生きなおさなければならないでしょう。「国」とか「国家」という言葉が多用されるとき、個人や「私」は蔑(ないがし)ろにされてきました。今も事情はいささかも変わらない。カルト教団に助けられて、腰を曲げて「票」をもらっていて、あるいは国民健康保険を逃れ利鞘(りざや)を稼いでいて、何が国会議員でしょうか。「反共主義」「反日教義(ドグマ)」に染まっているカルト教団に媚びを売る、その諂(へつら)いから立ち直らなければ、この国は死んだも同然です、議員諸氏よ。

(◎万歳三唱令=『万歳三唱令』(ばんざいさんしょうれい、旧字体: 萬歲三唱令)は、1990年代の日本で、「万歳三唱の作法を定めた太政官布告」と称して出回った偽文書。創作者の素性や動機、文書拡散の経緯が判明した数少ない偽書の例である)Wikipedia)

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「徒然に日乗」(983~989)

◎ 2026/01/25(日)午前中に買い物で茂原まで。帰宅の際に、バッテリー充電のためもあって、隣町などを走った。それでも20キロはいかなかった。長時間、自宅を離れることもできないために、せいぜいが20~30キロが精いっぱい。3月のはじめに車検があるので、それまでには何とか1000キロは走って、購入して日の浅いバッテリー(使用歴は2年未満だそうだ)を復活させたい。▶午後になって、給湯器の調子が、これまで以上に悪くなって、まったくお湯が出ないことになった。どうやら寿命のようだ。使用留守側も寿命のようだから、さてどうするか。予定している取り換え工事(契約済み)は2月5日(木)なので、まだ10日以上はお湯のない生活を強いられる。無事に超えられるだろうか。(989)


◎ 2026/01/24(土)いつもの自動車修理工場で車検前の予備検査・費用の見積もりをしてもらった。このところ、少しは乗るようにしているが、依然としてバッテリーの状態は充電不足が明らか。まだ交換して2年もたっていないので、これまで以上に走行距離を増やすようにと算段している。さらにタイヤの劣化が激しく、車検時には4本とも交換することにした。二十数年も乗っている車だから、それなりに維持費が嵩(かさ)むのは当然。今回で最後の「車検」になるか。検査終了後、走行距離を稼ぐために市原のホームセンターまで行き、猫の食料の買い出しをしてきた。この往復の走行距離が約20キロ。普段のお使いの生き返りとほぼ同距離であった。これを毎日続けて、月におよそ600キロ。十分に充電ができるかどうか。▶午後一時頃に大阪のS君に電話したが、連絡がつかなかった。その後、5時ころに向こうから電話あり。本日は「大学入試」だったという。彼から、新規に送っていただいたOS(2TBのSSD装着)等のお礼に「寸志」を届けておいたが、そのお礼があった。細かい修正が残っているが、何とかこの新しい器械を使いこなしたいもの。(988)

◎ 2026/01/23(金)朝方は冷え込んでいたが、日差しもかなりあった。天気予報にあるような寒さではなかったようだ。それにしても、西日本をはじめとする日本海側各地の大雪は相当なもので、かなりの雪害をもたらした。ぼく自身も、わずかながらこれまでに何度か雪かきを経験したが、ものの30分もするとへとへとになったもので、豪雪時の重労働に思いが及ぶと、「気の毒な」ということしか言いようもないのだ。テレビ報道では、東北地域のあるところで活躍している「雪下ろし隊(高齢者ばかり)」が数人がかりで、独居高齢者宅の屋根の雪下ろし作業をした、完了するのに6時間を要したという。数年来、高齢者社会などと声高に叫ばれているが、なすすべもなく様々な場面では現実の諸問題は放置されているのだ。ここにこそ政治・政治家の出番があるのだが、残念なことだが見向きもされていない。自らの利害には異常な関心を示すが、他者への配慮が著しく欠けている、現代政治の貧困問題の実態であろう。▶午前中に買い物で茂原まで出向く。今日は何の日だったか、思いのほか店内は混雑していた。ほぼ毎日のように出かけるが、買い物を済ませたら即座に帰宅する。▶午後早々に衆議院本会議が開開かれ、議長から「衆議院解散」が報告された。どうして「万歳三唱」するのか、その理由がわからない。旧令墨守の典型。無意味なことだ。無意味な解散を企てた首相の愚かさをしみじみと感じて、この時代の運の悪さと不幸を嘆きたくなる。堕ちても堕ちても、底には届かないのだろうか。現首相は「私は大統領だ」とはなはだしい錯誤に狂っている。「目を覚ませと呼ぶ声を聴いて」とはバッハの作品だ(コラール前奏曲BWV645)が、間違いなしに、この社会の国会議員の大半には決して聞こえない声だ。(987)


◎ 2026/01/22(木)夜間に、屋根や地面を白くする雪が、うっすらと降った。少しは出ている日差しの中で、温度がかなり低かったゆえに、地面に残った雪が氷となって残っていた。劣島の日本海側は相当に激しい降雪模様だった。この「最大かつ最長の寒波」は次週のはじめくらいまで続くらしい。当地でも最低気温は-4℃(午前6時)を記録していた。明日は少しは気温も上がると予報。▶元首相銃撃事件のY被告に対して無期懲役の判決が出された。いろいろな点で、この裁判は「事件の限られた部分しか裁けなかった」というべきだと思う。一面では「裁判の限界」でもあるし、これこそが刑事事件における「裁判の典型」であるともいえよう。「判決」には政治と宗教という、危険な関係を許していたことの問題指摘すらかけていた。(986)


◎ 2026/01/21(水)本日は厳しい寒波襲来の初日。4~5日は続くそう。各地では厳しい寒波が予想され、すでに始まっているところもある。冬場は寒いのは当然だけれど、なろうことなら、いずこにあっても、可能な限りは大過なく過ぎ去ってほしいと思う。▶新規パソコンの立ち上げはほぼ準備が終了したと思う。以後は、この機器を使っていい原稿を書いてみたい。さて、どうなるか。▶アメリカの財務長官から、日本の長期金利の上昇(10年債で0.237%)に対して、「このままでは世界同時金融危機になる、何とか手を打て」という趣旨の発言があった。にもかかわらず、市場の反応には、政府当局はほとんど無反応なのはどうしたことか。恐れをなして目をつむっているのだろうか。まさしく「トラスとショック」再来というべきだろう。「金融危機」(Crash)は始まっているのだ。赤字国債便りの予算編成、財源を明言できないままの消費税ゼロ戦減と、無責任の限りでの「放漫財政」は確実にこの国の破綻を招来するだろう。早く手を打て、財務当局・日本銀行といいたい。(985) 


◎ 2026/01/20(火)風の強い日だった。夜来の強風の続きで、庭には枯れ枝やら木の葉が乱雑に落下し、散り敷いていた。▶しばらく処理をしないままで溜まっていた段ボール等の焼却に、あるいは庭の落ち葉等の処理に時間をとられる。また明日は月に一度のビンカン類の回収日なので、その準備をする。もっぱら猫の缶詰の空き缶と、天然水の空ボトル。どこまで続くかわからないが、消費量は相当なもの。▶夜になってさらに風が強く吹いている。明日あたりから最大の寒、それも長期間続く寒波が劣島を襲うとの予報。来週のはじめ子悪露まで続くという。房総半島はどうであろうか。▶衆議院解散の首相会見を受けて、株価暴落、長期金利は2.4%近くまで上昇した、円安も収まらない。いよいよ、イギリスの「トラスショック」の再来だろうか。当事者の首相にいささかの危機感もないのが空恐ろしい。強がりばかりは言うけれど、それを担保するだけの学習能力は皆無。こんな無能政治家を高く買っていたという元総理(故人)も、いつも言うことだが、無能である点は同類。しかも、級統一教会新派だったことまでも。彼が「首相在任最長不倒日数」を記録したのは、これも言うように「時宜にかなった」だけのこと。現首相は、一日も早く「退陣」すべきだと思う。(984)


◎ 2026/01/19(月)午前中に買い物に茂原まで。控えめに買い物をしたつもりだったが、それでも5000円になった。総選挙を目前にして、それぞれの政党が「消費税」の減税やゼロ課税を叫び出しているが、さて、果たして選挙目当てではない政策になるのだろうか。財源はなく、特例国債(赤字国債)に依存することがわかりきっているだけに、マーケットは直ちに反応し、長期国債の長期金利は直ちに高騰している。物価高騰に円安の昂進、加えて長期金利のさらなる高騰で、経済運営は危機的状況に瀕しているのだが。夕刻に首相の「解散会見」を聞いたが、さて何のための解散決断だったかが明らかで、自らの権力維持の身を最優先したことが判明しただけ。一国の指導者としてのあらゆる資質に欠けていることだけは確か。これを大方の有権者が支持するという「トランプ現象」がこの社会でも起こっている。(983)

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