
言葉の<誤用><濫用>について 「その「漢字」の読み方が間違っている」と言われたことは何度もあります。もちろん、その使い方は誤りだと指摘されたことも数えきれないほどあったでしょう。でも、ある意味ではどうでもいいことで、それらはすべて忘れました。学校の教師に多いのでしょうけれど、「それは間違いだ」と、どうして偉そうに、自信をもって言えるのか、ぼくには不思議で仕方がなかったし、つねに疑問を抱いていました。コラム「日報抄」氏の「言葉を扱う職業に就きながら、お恥ずかしい限り」という低姿勢はなんなのだろうかと、ぼくは訝しく思った。「謙虚」「率直」だとは言えるでしょうが、さて、書いた人(記者?)の「本音」はどうだったでしょうか。時代と共に「ことば」の意味は変わるもの、それでも意味が通じるのは、ことばの力によるものです。これはなんだって同じことで、音楽であれ、絵画であれ、今昔の差は決定的ではないことを知るべきでしょう。
【日報抄】言葉を扱う職業に就きながら、お恥ずかしい限り。読者に小欄の言葉の誤用を指摘いただいた。今に至るまで、同じ誤用でどれほどの恥をさらしてきたことか。不明を恥じるほかない▼将棋の王座戦をテーマにした先週、〈勝負事は文字通りすべからく勝ちと負けを生む〉と書いた。「すべからく」を「すべて・例外なく・皆」の意味で使うのは誤りだった。本来は「当然なすべきこととして・ぜひとも」などを意味する▼「学生はすべからく勉学に励むべきだ」とするように、一般的に「べきだ」「べし」などを伴う。元々「そうすべくあることには」といった意味の古語「すべくあらく」を語源とする▼文化庁の国語に関する世論調査で、2020年と10年の設問になっている。「すべからく」に「すべて・皆」の意味があると思い込む人は両調査とも4割を超えた。なぜか高齢者の方が誤解する割合が高かった▼国語辞典には〈「すべて」の意に解するのは誤り〉とわざわざ注釈するものもある。三省堂の複数の辞書は、俗語に分類するなどし「すべて・例外なく」の意味も載せているが、作家の井上ひさしさんの言う通りなのだろう▼井上さんは自著「ふかいことをおもしろく」で〈言葉は少しずつ世の中に合わせて動いていかないといけない〉と書いた。その上で、元々の意味をしっかりと理解する大切さも説く。言葉の変化にルーズだと〈わけのわからない国になってしまう〉とくぎを刺す。すべからく指摘は胸に刻んでおくべし。(新潟日報・2025/11/06)

表向きは素直・謙虚に見えても、決してそうだとは言い切れないのは(文化庁の国語に関する世論調査で、2020年と10年の設問では)、「すべからく」に「すべて・皆」の意味があると思い込む人は両調査とも4割を超えた。なぜか高齢者の方が誤解する割合が高かった」という反証ともいいたそうなものを持ち出しているからです。「須(」すべか)らく」は、もともとは「当然なすべし」「是非そうすべき」という意味合いの語だったけれど、今では「すべて」「ことごとく」という意味に使われることもかなりあるというのは、「ことば」というものの、いったい何を示しているのか。要するに「意」が通じることが何よりで、そうでなければ、ことばは無用となるはずでしょう。とするなら、「正しい使い方」「間違った使用法」は誰が決めますか。世間というか、その語を使う無数の人々の「使い方」が決めるのであって、政府や学校教師の権限を振り回すべきものでは断じてありません。当用漢字とか常用漢字(いずれも漢字使用の「目安」)としか言えないのは、万古不易ということが言語に関してはあり得ないからです。時代の差異はいくらでもありますが、その「差異」こそが、その言葉の歴史であり、意味内容です。時には「白」が「黒」になり替わるような驚くべきことも起こります。

若いころに読み齧(かじ)っていた荻生徂徠に「学則」(享保12(1727)年刊)と題された著書があります。ぼくは学生時代に大学図書館で手にし、目にしたことがあります。そこに出てくるので有名になったのが「世は言を載せて以て遷り,言は道を載せて以て遷る」という表現でした。この経験は、学生時代のぼくの不勉強な生活の中でも特記すべき経験でした。徂徠と言う人は「古文辞」に執心した人で、儒教をよく学ぼうとするなら、そこに用いられている「古文辞」の意味をこそ丁寧に調べてからでなければ始まらないとし、その理由は「世は言を載せて以て遷(うつ)り,言は道を載せて以て遷る」からだというのです。「学問とは歴史に極まり候」とまで言いました。この曽良医学の奥儀が少しでもわかるようになりかけるにはぼくは何年も徂徠に向かう必要がありました。「変遷」「遷化」「孟母三遷」などと言う使い方に示されるように、ことばというものは一時代に、一空間に留まるものではなく、世の中は「辞(ことば)」と共に変わる、また「政治の手法=道」も言葉の変遷によって移り変わるものであると、徂徠さんは断定します。ことばは時代(使う人と)と共に変わるのは当たり前で、もし変わらなければ、「ことば」の面において、ぼくたちは「奈良」「平安」時代のままに生きていることになるはずで、また言葉は激しく変わるものだからこそ、とてつもない時間をかけて、辞書・辞典の編纂作業が、必然的に継続するわけでしょう。ことばは、とにかく生き物ですよ。だから「死滅」する者もありますし、「誕生」するものもあるのです。
「日報抄」氏が「お恥ずかしい限り」と断られている、「すべからく」の語意・語用・誤用に関わって、すこしばかり拘(こだわ)っておきます。「須らく」の用法として、「学生はすべからく勉学に励むべし」という表現と「学生は、(例外なく)みんな勉学に励むべし」の、どこに違いがありますか、あったとして、それは決定的な違いかどうか、俄(にわ)かには判じられませんね。「当然に、学生は…」「すべて学生は…」の差異は微少。同じことだといっても間違いはなさそうです。これを、「その使い方、それは間違いだ」と言う方こそが「間違いだ」とぼくは考える。

高校生の頃だった。国語の授業で級友が「これは全然面白い」と口にして、担当教師から「それは間違いだ。『全然』の後には、必ず「否定」が来るものだ」と友人を叱責した。教師によって、どこに「それは間違いだ」という権限・権利があるのか。ぼくは咄嗟に挙手し、「先生、それは可笑しい」と反撃したことがある。要するに級友は表現(の一部)を省略しただけで、「それは間違い」と言われる筋合いはないと思ったからです。「どうしてや?」と教師はぼくに向かって詰問した。「これは全然(ほかのものと比べられないほど)、面白い、ということや」と言って、教師をやりこめた。恐らくそれで間違いはなかったと、今でもよく覚えているのです。ことばは変わる、時と場所によって必ず変わる(徂徠流に言うなら「遷る」)。だから「これこそ正しい」などと断じる輩は捨て置くが、頑固に「正しい」「間違い」を断定する教師たちは後を絶たないのは困ったことです。漢字の書き方一つ、時代によって、ある部分を「はねたり」「はねなかったり」、「つけたり」「放したり」、要するに意味が通じれば問題はないのですよ。
勤め先の学校で入試の採点業務に付き合わされたが、その作業の場面でも「なんとも阿保草」と口に出していったことが何度かあります。「文意」を問う問題で、百人のうち「正答はたった二人」ということがあって、教師は、「なんでこんな問題ができないのだろう」と訝し気に語っていた。ぼくは「98人が正解じゃないんですか」と言ったので、その場は白けた。「作者の気持ち」だか、「主人公はどう思ったか」という、どうしようもない設問(愚問)でした。また、「漢字の書き取り」の採点では拡大鏡を持ち込んで検証していた教師たちもいた。こんな連中とは付き合いきれないと心を決めた瞬間の一つでした。「国語」においても、3+5=8の領域(世界)を否定はしないけれど、そうではないところだってあるでしょ、そう言いたかったが、通じそうにありませんでした。
すべからく 別表記:須く、須らく
すべからく(須く)とは、元々は「当然なすべきこと」「ぜひともそうすべきこと」という意味で用いられ、昨今では「全て」「ことごとく」という意味合いで用いられることも多い表現。/「すべからく」の元々の用法は漢文の読み下しにおける読み方である。もっぱら助動詞「べし」を伴って「必ず(行う)べきだ」という義務または当然の意味を示した。「必須」の「須」の語義と捉えればよい。/昨今では必ずしも義務・当然の意味が伴うとは限らず、「例外なく全員・全体」を指すような意味合いの表現として用いられることが多々ある。これは本来の意味用法とは違っており、したがって誤用といえるが、世間的な認識はこの誤用の方がむしろ一般的となりつつある。
すべからくの用例
生徒はすべからく勉学に励むべし
教育者はすべからく私情にかられることなく公平に指導にあたることが肝要である(実用日本語表現辞典)
すべから‐く【須く・応く】
〘 副詞 〙 ( サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる ) 当然なすべきこととして。本来ならば。
[初出の実例]「若し犯過の比丘尼須(スベカラク)治す応き者あらば、一月両月苦使せしめよ」(出典:四分律行事鈔平安初期点(850頃))/「徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし」(出典:徒然草(1331頃)二一七)
須くの語誌
( 1 )「須」を訓読する際に生じた語。中古初期には単に「べし」とだけ読まれることが多かったので用例が少ないが、中期以後盛んに用いられるようになった。「べし」のほか、「む」や命令表現で再読する例もみられる。
( 2 )中古後期の古記録では「須…、而(然而)…」(スベカラク…ベシ、シカルニ/シカレドモ)や「雖須…」(スベカラク…トイヘドモ)のように、下に逆接で続く用例が多い。これは、「本来、当然…であるべきところだが」という文脈に用いられた平安鎌倉期の古記録特有の語法と思われる。(精選版日本語大辞典)

本日は別のことを書こうとしていましたが、【日報抄】に引き寄せられて、道草を喰った次第。その話題は、書くのも嫌になる「政治とカネ」の定番です。「身を切る改革」などと嘯いていた政党の代表の(多分、裏金つくりをしていたらしい)「公金流用(横領)」「脱税疑惑」報道についてでした。少し口をきいたこともある評論家のS氏は「自民党がヤクザ」なら「維新は半グレ」と言い触らしていますが、その「半グレ」の統領が「闇金蓄財」に勤しんでいたという(おそらく「事実」)報道が「しんぶん赤旗日曜版」で出されました。当人は「5日の党会合で、自身の『公金還流』疑惑を報じた共産党機関紙『しんぶん赤旗日曜版』に関し、『報道機関ではない。共産党の主張だ』と指摘した。『われわれの返答も恣意(しい)的に書く。記事ではなく主張だから、対抗していきたい』と語った。/ 藤田氏は10月30日、取材を受けた赤旗日曜版記者の名刺をX(旧ツイッター)で公開。赤旗側は4日、『正当な取材活動を萎縮させる』と削除を申し入れた。藤田氏は携帯電話番号やメールアドレスの一部を伏せたことを理由に『それ以外は公開情報だ』として応じていない。/ 共産党の田村智子委員長は5日、記者団に『不都合なことを取材すればこういう目に遭うとの脅しだ。そんなことを政権与党の代表がするのか』と非難。『批判を許さない危険性が言動に表れている』と断じた」(時事通信・2025/11/05)(左写真も)

「報道機関ではない。共産党の主張だ」という、その「共産党のプロパガンダ」紙の報道で、自民党の還流闇金問題が炙り出され、それがために「連立のお相手」が「半グレ政党」に巡って来たんでしょ。知らないふりをして、実は「戦々恐々」なんですね。肝っ玉がありますかと、お尋ねしたい気もするけれど、ないのは先刻承知。強がってはいるが、「引かれ者の小唄」でしたな。「虚勢を張っているだけ」、やはり「半グレ」ですね。この手の輩ばかりが、どうして政治家風情になりたがるんですか、ぼくにはトンと理解ができないけれど、やはり「金と名誉」なんでしょうね。ぼくの印象で言うなら、「清貧(poverty)」と言う生活態度の持ち主は、並みいる政治家連からは、絶えて見られなくなりましたね。「清貧に甘んじる」のではなく、「清貧を堅持する」という思想は消えてしまったのでしょうか。そして、それは「教育」の問題ですか、「家庭」の問題ですか、それとも、…。

この報道記事に関する「駄文」は書き終えていました。「タイトル」は「墓穴を掘る」と「人を呪わば穴二つ」としておきました。駄文と雖(いえど)も、こんな「半グレ」のセコイ裏金作りに言及したくなかったというか、気が進まなかったところに、新潟日報「日報抄」に出くわしたというわけ。「半グレ」には興味はないけれど、駄弁るネタがないならば、また明日にでも「掘った穴、二つを」ね。それにしても、❶「政治家たるものは、すべからく賤しいね」、いや、➋「政治家というものは、すべからく清廉でなければ」と言い換えましょうか。(問、「すべからく」の使い方、❶と➋、どちらが正しいでしょうか」連立は壊れ、政権は迷走必至ですね。「人を呪わば穴二つ」、それは君に対する勧告ですよ、と誰かが言っている気もするし、自覚もしていますよ)
◎ はんぐれ= 「はん‐ぐれ【半ぐれ】読み方:はんぐれ《多く「半グレ」と書く》暴力団に属さず、暴行や恐喝などの犯罪行為を行う不良集団。[補説] 名称は、暴力団を黒色、一般人を白色としたとき中間に位置するので「半分グレー」、または「半分ぐれている」からともい」(デジタル大辞泉)。
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