
中國新聞のコラム「朝凪(あさなぎ)(Morning Calm)」を読んで、いくつかのことを思い浮かべました。新聞記者が同僚ら聞いたという話。学生が「昨日の事が書かれた紙」と新聞を評したという。間違いなしに、これは「嘘」だとぼくは思う。記者自身が新聞の現状を自嘲した話として仲間に語ったか、学生はそういう意味の表現をしたろうが、それは学生が新聞を「揶揄」したか、「嘲笑」したかであろうし、そんなまた聞きを「今時の学生は、新聞をしらないなんて。何と思っているか」と、大げさに驚いてみせただけのこと。だとしたら、嫌な話ですね。いや、そんな学生がいないとも限らないということだったかもしれないが、だからどうなんだと思うだけ。無知や未開な人間は文明社会に、いくらでもいるのは不思議でも何でもありません。その反対の可です。言い直すと、文明社会の中にも野蛮状態や野蛮人がいるという現実を照射しているのですよ。ぼく自身も、下らぬことを喋り散らしているけれど、その実、「(実在するかどうかわからない)アンポンタン学生」と似たり寄ったりですから、その「幻影の学生」を笑うことはできません。

中國新聞という企業の職場では「(こんな、化石のような学生がいるって)本当か」と驚きざわついたというから、お目出度いというか、何というナイーブは職場かと言いたくなります。「確かにスマートフォンでニュースを読める時代。新聞の発行部数が減り、紙で読めることすら知られなくなったのか」と、本当に記者氏がこの学生の存在を認めるのなら、もっとまじめに問題の核心を掴む必要があるんじゃないですか。新聞記者として、大変に深刻な問題ネタであるはずで、今どきの「学生」の生態・正体を明かすべく取材をされたらよかったのにと、ぼくは残念がっている。「一方で、どこか前向きにも捉えた。『すごい便利』と、新聞の良さを認識してくれている気がしたから」と、惚(とぼけ)けたこと、寝惚けたことを言っています。「山崎さん、あなた本当に記者ですか?」と問いただしたくなりますね。(この後で、実際に電話をかけるかもしれない)
【朝凪】昨日の事が書かれた紙 驚いた。ある同業者から聞いた話だ。「すごい便利なサービスがあって、昨日の出来事が書いてある紙が毎朝配られるんです」と最近、学生が言っていた―。新たなサブスクリプション(定額利用)かと一瞬思った。ん? それって、どう考えても新聞じゃないですか。◆当事者として悲しくなるこの話。同僚たちも「本当か」と驚き、職場はざわついた。確かにスマートフォンでニュースを読める時代。新聞の発行部数が減り、紙で読めることすら知られなくなったのか。◆一方で、どこか前向きにも捉えた。「すごい便利」と、新聞の良さを認識してくれている気がしたから。15~21日は新聞週間。知らない情報に触れ、身近な誰かと話題にしてもらう。少しでも暮らしに役立てば言うことはない。そんな紙でもありたい。(社会担当・山崎雄一)(中國新聞・2025/10/16)

昨日から、「秋の新聞週間」が始まったと、いくつものコラムが触れ太鼓を叩いています。その始まりは1948年でしたから、もう七十七年続いてきたことになります。「十年一日」とはこんなのを言うのでしょね。「立派な標語」が毎年掲げられますが、意に反して新聞の評判・部数は右肩下がりです、それも急激に。その「新聞週間」創設当時の事情を東京新聞は以下のように書き残しています。「「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」(1948年)、「自由な新聞と独裁者は共存しない」(1949年)と、まさしく昔日の感を深くするばかりです。「今を知り 過去を学んで 明日を読む」(2023年)という新聞の果たすべき役割を常に自己検証しているのだと、東京都新聞は書きます。ぼくはこの新聞をずいぶん長く購読し、教えられもしました。何人かの知り合い(卒業生を含めて)も記者のなかにはいました。それもこれも、今は昔になりましたな。(右は東京新聞創刊号・1942(昭和17)年10月)
<ぎろんの森>過去を学んで 明日を読む 「春の新聞週間」がきょうから始まりました。新聞社などが加盟する日本新聞協会の行事で、進学や就職の機会をとらえて新聞購読を呼びかけています。初日を4月6日としたのは「新聞をヨム日」の語呂合わせ。少し宣伝になりますがお知り合いに新聞購読の輪を広げていただければ、私たちの励みとなります。
新聞週間は秋にもあり、秋は1948年、春は2003年に始まりました。秋は毎年、新聞の在り方を示す標語を皆さんから募集、発表しています。23年度の代表標語は「今を知り 過去を学んで 明日を読む」でした。
東京新聞では春と秋の新聞週間を前に毎年2回「新聞報道のあり方委員会」を開き、識者の委員に本紙の報道について検証していただいています。詳しくはこの朝刊の8、9面をお読みいただきたいのですが、報道、論説に携わる私たちには自らを振り返る貴重な機会となっています。
新聞週間が始まったのは戦後間もない時期でした。当時の代表標語には二度と戦争の惨禍を繰り返さない決意があふれています。例えば第1回の1948年度は「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」、同年10月1日の東京新聞1面、第2回の49年度は「自由な新聞と独裁者は共存しない」という具合。当時の紙面には戦中、真実を伝えず、戦争に協力したことへの痛切な反省を感じます。
新聞協会の一員である東京新聞は今年9月、創刊140周年を迎えます。東京新聞は国民新聞と都新聞の戦時合併で戦中の42年に生まれましたが、140年の年月は前身の「今日新聞」以来、積み重ねてきた歴史でもあります。
東京新聞の社説は戦後日本の平和国家としての歩みをとても大切に考え、少しでも戦争に近づく動きがあれば警鐘を鳴らし続けています。それは本紙を含む新聞が、かつて戦争に協力した歴史への痛切な反省にほかなりません。
私たちの新聞が読者の皆さんにとって標語のように「今を知り 過去を学んで 明日を読む」指針たり得ているのか。深く考える1週間にしたいと思います。(と)(東京新聞・2024/04/06)(ヘッダー写真も)

そして今年、「ネット社会 それでも頼る この一面」と赤面するばかりの標語が掲げられています。ぼくは毎年のように掲げられた標語(松明・たいまつ)と、新聞の実情(そのほとんどはネット版を通じて)をつぶさに見てきたたつもりです。松明(たいまつ)というのは、先年亡くなられたむのたけじさん(1915~2016)が、敗戦直後、朝日新聞を辞めて郷里の秋田に帰り、小さなタブロイド判の新聞を発行した、その時の紙名が「たいまつ」でした。むのさんについては何度もこの駄文集録で触れています。世の中が敗戦直後の暗い時代だから、ささやかでも「たいまつ」を掲げるのだと言われていました。
今はどうでしょう。標語は明るく、新聞紙面は付和雷同、それでは困るのですが、この社会の新聞の多くは、特に大手と言われる新聞は権力の足下に平伏している惨状を目の当たりにしている。既視然とした感覚は、ぼくの中にはっきりとあります。大手も中小もないもので、すべからく新聞は「社是」というか、社訓というものをもって始められたはずですから、今一度、「初心」に戻るべし、と言いたいですね。ぼくはなんどでもこの愚論を訴えていきたいと考えているものです。戻るべき「初心」がわからなくなった、そもそも最初からなかったのなら、潔く廃業したらどうでしょうか。

大学に入学して早々、学内の掲示板に「入学おめでとう」という大学総長名で、一枚の掲示が出ていました。その文中に、大学は「真理の殿堂」、「学問の府」であるという、驚くべき時代錯誤(anachronism)の「ことば」(表現)を見出し、ぼくは息が詰まりかけたというか、卒倒しそうになりました。とんでもない所に入ったもんだという、驚嘆の叫びをあげそうになった。その時までに何回か授業を経験していましたから、授業の飛び切りのお粗末さが本当なら、掲示板では嘘を書いていると思ったし、掲示で示された総長の「挨拶」が本当なら、実際の授業は「幻」だったかと、不覚にも自らの錯覚(不明)を恥ました。大学が「学問の府」であり「真理の殿堂」であったためしなど、東西古今、一度だってなかった。そうありたいと願った大学はあったでしょうが、ね。
わざわざ京都から出てきて、大枚を払って何年もいるところではないと、ぼくは直感・直観したのだった。「真理の殿堂」「学問の府」と書かれているけれども、それは真っ赤な嘘、あるいはとんでもない冗談かと思ったほどに、若い(二十歳前)青年の心は傷つきました。もちろん、ぼく自身の「不明(物事を見抜く力がないこと)」や「無思慮」をこそ責めるべきだったでしょう。その段階で退学しているべきだったと思っている。

今から六十年以上前に、大学に抱いたぼくの直観(直覚)は、今日の「新聞」をはじめとするメディアに対して、多くの人が抱いている感覚と同じようなものだったのではないでしょうか。六十数年後、はたして「大学」はなくなっていない、確かに建物も、教員も学生も変わらないままで存在していますが、「教育」はとっくにそんなところには見いだせなくなった。「教育不在」のその何割かの影響は、社会の今日の惨状、頽廃の遠因になっているように思われます。新聞はどうでしょうか。政治は相変わらず「椅子取りゲーム」、その実は「椅子盗らせゲーム」に興じて、国会は機能せず、経済は「我が世の春」と大企業ばかりが資本を蓄積し、他は塗炭の苦しみに喘いでいる始末です。新聞は何を報じようとしているのでしょうか。そんな我が世と我が身に、捨て鉢にならず、なお、できる範囲で、助け合う心持ちを失わないで、自然体そのままで生きて行こうと、心身共に貧しい老体は覚悟している。
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