せんせい、あのね もっと遊ぼう。

【春秋】届いていますか、「せんせい、あのね」 「せんせい、あのね」で書き出す作文は、今や全国の小学校で知られている。神戸市の小学校教員だった故鹿島和夫さんが半世紀前に始めた。受け持ったのは主に1年生。「あのね帳」と名付けられた先生との交換ノートに、子どもたちは毎日心のつぶやきをつづった▼衝撃の告白も。<しっこしようとおもって/ずぼんをぬごうとしたら/ぱんつをはいてなかった/だれもわかれへんのに/はずかしかった>▼先生への苦言も。<せんせいは/わたしがだいすき/とかいていました/だけど/せんせいは/みほじゅんがすきなんでしょう/おかあさんがおしえてくれました/せんせいは/あつかましいです>▼授業中に怒ってばかりの先生は嫌い。でも<たいいくのとき/おしりをふって/いっしょにおどってくれるせんせい><そんなせんせいが/だいすきです>。鹿島さんは自らありのままの姿を見せ続けた。そうすれば子どもも自分をさらけ出してくれる。「結局はぼくが子どもの世界に入り込むことができるのです」と自著に書いている▼本当は多くの先生もそんな濃密な時間を過ごしたいのでは。小中学校の教員の仕事時間は、今回も日本が世界最長-。先日公表された国際調査の結果は厳しかった▼記事で若い先生は「子どもと向き合う以外の業務が多く、もう手いっぱい」と嘆いていた。もっとゆとりを。きら星のような「あのね」が届くように。(西日本新聞・2025/10/14)

 この駄文録でも、何度か鹿島先生に触れています。もちろん、ほぼ同時期に教員をされていた灰谷健次郎さんにも。一人の人間であると同時に、その人は「せんせい」と呼ばれたり、慕われたり。また別の人は「先生」と罵倒されたり、非難されたり。同じ一人の人間でも、「せんせい」と親しく呼ばれ、また「先生」と厳しく批判される。世の中にはさまざまな人間がいろいろな想いで生きているのですから、誰もが一つ心で動くはずもありません。そんな面倒くさい集団の中で、「教育」とか「授業」とかを実践するのですから、教師というのはなかなかに大変な仕事だと思うばかりです。

 ぼくも、教師の真似事みたいな仕事を半世紀も続けてきました。そのなかで、「この人はぼくの先生だ」と心底、素直に「教えられた」人は数えるほどもいませんでした。敢えて言うなら、十指に満たないでしょう。もちろん、数の多寡が問題であるとは思いませんし、半世紀も教職を続けていて、本当に教えられた教師が十人もいなかったとは。その理由は、ひとえにぼくの怠慢の故であったと思っています。「この人は先生だなあ」と感心したり、惹きつけられたりした人は、就学期間中(小・中・高・大)にあっても、まず数人もいただろうかと、我ながら、暗然・暗澹とします。これもまた、学校や教師に対するぼくの拭い難い偏見が生み出した結果だったろう。早い段階から、学校には関心(魅力)が湧かなかったし、教師には不信の念こそ持ったが、信頼する気持ちは生まれなかった。その一番の理由は「学校は管理(抑圧)(強制)するところ」という、その機能や役割に馴染めなかったからです。立てとか、座れとか、何時だって命令しかしないんですからね。飼い犬」や「飼い猫」じゃあるまいし。

 「学校という組織」はいろいろなものを「管理する」ことを当たり前だと思い込んでいます。何を管理するのか。まずは「人間(教師や子どもや親まで)の心」です。さらに「子どもの成績(序列・順番)」「教師の勤務ぶり」を管理します。極端に聞こえるかもしれませんが、教師や子どもの「一挙手一投足」はおろか「内面」までをも管理するといっても過言ではないでしょう。箸の上げ下げ、ご飯の食べ方、挨拶の仕方、口の利き方、その他、「生活万般」を管理して当然という自己認識があります。それらは全部いらない「管理」「機能」だというつもりはありませんが、ひとりの教師、ひとりの子どもが自ら育てる判断力をないがしろにして、あくまでも「管理」が正当な教育行為であるという、その「学校の面付き(面構え)」が死ぬほど嫌だった。こんなひねくれ人間でしたから、「この人は素晴らしい教師だ」と思わされたことは稀(まれ)だったのは、返す返すも、ぼくにとっても不幸だったと思っています。(「管理する学校」は、その逆に「管理される学校」でもあります。教育委員会や自治体、更には文科省などの中央官庁によって、それこそ手足を縛られている。まるで軍隊ですね。これが変わらなければ、ひとりの鹿島先生すら生まれない、生まれようがないのです)

 そんな中で、「こんな先生いたら、かなわんで」というのが鹿島さんでした。理由は言う必要もないでしょう。「鹿島組」の子どもの表情を観れば、彼がどんな教師だったかは一目瞭然でした。そんな印象は、灰谷さんには抱かなかった。数回会ったり、書物を読んだりする中で、灰谷さんは優れた人だったと感じたのは事実でしたが、彼もまた「弱い人間」であったし、その弱さを偽りの強さと取り換えて生きていたように感じました。灰谷さんと比較して言うのではなく、鹿島さんは「作家」になろうとはしなかった、職場放棄をしなかった、その一点で「えらいせんせいや」という印象は強くなるばかりでした。何とも情緒的な言い方をしますが、一年一組の子どもたちは「のびのび」「せいせい」「いきいき」していたと思う(これはぼくの印象に過ぎません)。まだ、鹿島さんのような、今では「化石(fossil)」とされてしまうような、そんな教師が棲息できていた時代の「教師と子ども」、それが「一年一組」だったのでしょう。

【正平調】せんせい、あのね、わたしは、せんせいと会ったことはありません。だけど、せんせいの書いた本をたくさん読んで、大切なことをいっぱい学びました。だからせんせいの教え子です◆家にお金がなくて、つらい経験を何度もして「貧乏な家の人の気持ちが分かる先生になっておくれ」とお母さんに頼まれたそうですね。最初は「でもしか先生」でしたが、児童文学者になる灰谷健次郎さんと出会い、教育の魅力に気づいたと読みました◆せんせいが、1年生との交換日記をまとめた本「一年一組 せんせいあのね」は、日本中の教室でお手本になりました。複雑な家庭の子、障害のある子、話すのが苦手な子。どんな子にも伝えたい思いがあります。それを名人芸のように引き出しました◆毎朝、「あのねちょう」を受け取ると下校時には赤ペンで感想を書いて返します。ノートを開く時、子どもの心はどんなにときめいたでしょう。でも、最近の学校は忙しすぎて、交換日記はずいぶん減ったそうです◆そのせんせい、神戸の小学校で長く教壇に立った鹿島和夫さんが、87歳で亡くなった。現役の先生たちに、無理を承知で提案がある◆今こそ「あのねちょう」をやりませんか。聞こえにくい声を聴き取るために。せんせい、あのね。(神戸新聞・2023/02/25)

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)