巻き戻して反省する共同作業

 碁・将棋はまったく駄目でした。将棋を何とかしようと、いろいろと「プロ」の本を買って読んでは見たりしましたが、ついに将棋に引き込まれることはなかった。碁に関しては更に悲惨で、いかにしてもものにならなかった。親父や兄貴は、夕食後などにしばしば将棋を指しているのを横で見ながら、ぼくには才能がないと諦めていたものだった。大学生になり、暇な時間が多くなったのを幸い、今度こそと「碁盤」「将棋盤」を揃え、碁石も将棋の駒も買い求めて、本格的な練習体制を作ろうとしましたが、結局はダメでした。大学の通用門のすぐ横には「碁会所」などもありましたが、何時だって岡目八目の域を出ないままで終わり、碁盤・将棋盤は使われないままで古びてしまいました。ある時期は、テレビ観戦で、碁や将棋の対局を観ていたこともありましたが、そこから分かったことは、あまりにも時間がかかりすぎることで、若かったせいで、その時間の浪費ができなかったのだった。碁・将棋とは別の遊興のために、たくさんの時間を浪費したことになります。

 その碁・将棋の対局後にある「感想戦」、これは、ぼくとしては割合に真面目に見たものでした。もちろん、そこから何がわかったか怪しいものでしたが、棋士たちの指し手の「妙手」や「悪手」に驚いたり感心したり。「感想戦は敗者のためにある」という。そうかもしれません。負けた道筋を捉え直す、それを自分一人でするのではなく、対局相手との「共同作業」であるところに、何とも言えない興味を覚えます。なぜ負けたのか、どこがいけなかったのか。「この負けを糧とする姿勢が、希代の名棋士の強さの源泉なのだろう」とは藤井七冠に対するコラム氏の感想です。この「感想戦」という作業に関して、ただに碁・将棋について言えるだけではなく、あらゆる「戦い」にも妥当する検証作業でしょう。碁・将棋なら「次の勝利のため」「負けないため」の不可欠の作業だし、その他の「戦(闘)い」でも、よりよく戦うため、あるいは決して戦(闘)わないためには、どうしても欠かせない作業でしょう。それもたった一人でするのではなく、「共同作業」で行う、そこに大きな意味や示唆があるように思われます。誰と作業するかは、もちろん重要な要素になるでしょう。「たった一人」ではだめなんですね。

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【新生面】感想戦 棋士は対局後に指し手を振り返る感想戦を行う。負けた側には酷な作業に思えるが、むしろ「感想戦は敗者のためにある」との格言もあって、藤井聡太七冠が好きな言葉に挙げている▼「改善すべき点をフィードバックして、次につなげていくことが大事だと思います」と、ノーベル賞学者の山中伸弥さんとの対談でその理由を語っていた。この負けを糧とする姿勢が、希代の名棋士の強さの源泉なのだろう▼その伝で言えば、参院選総括で自ら敗因として挙げた「政治とカネ」の問題は最優先の改善点のはず。それなのに自民党総裁選の論戦が低調なまま、きょう投開票を迎えてしまうのはどういうわけだろう▼「#変われ自民党 日本の未来を語れ!」が、党広報による総裁選のキャッチフレーズである。都合の悪い過去は石破茂・現総裁に背負って去っていただき、私たちは表紙をかえて前向きに未来を語ります-ということなのか▼その石破氏は、「戦後80年見解」という日本の過去を語る「感想戦」を、首相としての最後の大仕事と定めたようだ。党内にも不要論があるが、「なぜあの戦争を止めることができなかったのか」という論点は国内のみならず、止めることのできない戦争が続く世界に向けても、強くアピールする見解となり得るのではないか▼「いつまでも過去を軽んじていると、やがて未来から軽んじられる」。広報に当たっては、作家の井上ひさしさんが、戦争責任を問う戯曲に自ら付したというキャッチフレーズを推奨したい。(熊本日日新聞・2025/10/04)

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 感想戦は実体験を通じた最大の勉強の場 【将棋と教育】「感想戦の意義――巻き戻して反省する共同作業 将棋には「感想戦」があります。スポーツの世界などをはじめとして、勝負事のほとんどは、その場で振り返り、自分の反省点を点検することは困難でしょう。野球の投手がなぜ打たれたか、その場でビデオテープを巻き戻し、反省して次の回に投げるということはないでしょう。また、試合後に反省するとして、打たれた球やそれまでの配球の組み立てなどを見直したり、チームメンバーやコーチなどから意見をもらったりすることは出来るかもしれません。しかし、対戦した打者からの意見やそのときの感じたことを一球一球シェアしてもらえることはありません。/将棋の感想戦は、勝負の直後に、お互い今まで対戦相手だった同士が自分の指し手の善悪を検証し合います。そのときに、どんな心境であったか、どんなことを考えていたか。次回は同じ失敗をしないように、あるいは次はもっと良い手を指せるように、お互いの意見を出し合い、高め合っていく。将棋にはそんな振り返りの機会が仕組みとしてあるのです。

 反省する作業を共同で行う感想戦が、実体験を通じた最大の勉強の場になるのです。/社会では、すべてのことを経験できるわけではありません。ですが、勉強過程である子供たちには、実体験できることはその機会を与えることで、自力で学び取ることや、自分のこととして感じるという体験をしてほしいと思います。「自分の責任でこれをやって、その結果こんな風になった」ということを、身をもって体験していってほしいものです。(以下略)」 (ライター:安次嶺隆幸「日本将棋連盟」・2017/10/09)(ヘッダー写真は「羽生善治王座と中村太地六段の王座戦第一局」:https://www.shogi.or.jp/column/2017/10/post_246.html

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 「その伝で言えば、参院選総括で自ら敗因として挙げた『政治とカネ』の問題は最優先の改善点のはず」とコラム氏は目下の「焦眉の急」として、ある政党の総裁選びに結び付けて、大事な忘れ物をしている候補者たちに苦言を呈されている風にも思えます。加えて、韓国産の「カルト集団」との長い深い付き合いにも一切触れないというのは、どういうことか。「『#変われ自民党 日本の未来を語れ!』が、党広報による総裁選のキャッチフレーズである」この「党首選」に、最初から、ぼくはまったく関心がありません。誰が選ばれようが、「#変われ自民党」という野放図かつ能天気な「キャッチフレーズ」の致命的な欠陥に、ご当人たちが気付かないのですから、この党には先がないというか、後がないというか。つまりは「もう終わっている(It’s already over)」のです。

 「#変われ自民党」と、誰が号令をかけているのでしょうか。「変えようよ」とか「変えたいね」と、仲間内で互いに語り合うのなら、まだしも、「変われ」と命令口調で、正体不明者が「呪文」を唱えたところでどうして変われようか。「日本の未来を語れ」と、誰が誰に言ってるんですか。第一、この国の、底の抜けた「現在」をそのままに、まだ「未来」があると考える、その浅はかさ・無思慮に、有権者は興ざめしているということに気が付かないのか、気が付かないふりをしているのか。要するに、有権者、あるいは国民を舐め切っている、その自らの傲岸不遜ぶりに気が付かないのですから、付ける薬はないのです。「バカは死ななきゃ治らない(Stupidity can’t be cured until it dies)」、あるいは「死んでも治らない(Stupidity is not cured even by death)」でしょうね。

 「#変われ自民党」、それは呪文と言うより寝言(nonsense)と言い換えたいくらいです。どうしてこんなにひどい状況に落ち込んだのか、自らの責任で担ってきた政治の偏向や不在がもたらした負の側面について、真面目な「反省」(「感想戦」)がなくて、この国に「未来」なんかあるはずもなかろうに。揃いも揃って、「解党的出直し」と口裏を合わせながらも、「みんな仲良く」とくるから、実に「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の衆というべきでしょう。「鶏鳴」は鶏の鳴き声を真似ること、「狗盗」とは「狗(いぬ)」のようにこっそりモノを盗む輩のこと。姑息な騙しで選挙民を虚仮にし、気が付いたら、税金を収奪することに邁進・精進・進一歩という、「省察」「反省」を抜きにして、これまでの、この政党の「政治不在」を、これからも続けるらしい魂胆、それしか能がないのだからと、選挙民(有権者)はいたずらに気を許してはならないでしょうに。「裏金」脱税はどうするんですか。重加算税を払いなさいよ。それにしても、政治家という輩はなんと「金に汚い」のでしょうか。

 「都合の悪い過去は石破茂・現総裁に背負って去っていただき、私たちは表紙をかえて前向きに未来を語ります」という戦術かなどと、分かりきったことをコラム氏は書かれます。自分たちの「政治=利権本位」に都合が悪いから、何かと口実を設けて(現首相)を「総裁の座」から引き摺り降ろした、大手新聞・テレビ局もいっしょになって。笑うべきか、泣くべきか。つまりは、この国は少なくとも政治・経済、加えて報道の面では詰んでしまっている(「王様」の逃げ場がないという意味)ということです。「解党的出直し」ではなく、「解党して、出直し」を図るべき時だということに気が付いていないのです。「♯変われ自民党」ではなく、正しくは「♯代われ自民党」なんじゃないですか。野党に代われというのではない、本音を言うなら「♯変われない自民党」であり、「♯もう、いらない自民党」なんですよ。ここまでこの党を腐られたのは誰か、それを明らかにするための「総裁」選びじゃなかったんですか。

 石破さんに関しても、ぼくは何度か言及しました。「自分から辞めると言うな」、そうすれば任期三年は続くから、と。しかし、彼もまた並みの「権力亡者」でしたね。「選挙に負けた責任をとれ」と詰め寄られ、それでもなお「辞める、辞めない」で迷った挙句、遂に「引き摺り降ろされた」という次第。残念だったろうというより、情けないことよ、というのがぼくの実感。あるいは、もう少しやれるかもしれないと、腐った議員連中からの支援に淡い期待を持ったこと自体が、根性が座っていませんでしたね。腹を据えて、居座りつつ、「衆議院を解散」すればと、できもしないことを願ったりした当方も、まったく情けないと思うね。

 それはともかく、彼は「一言居士」たらんとしてきた男でした。「80年談話」ならぬ「80年感想」を出すという。これもまた、出すについては迷いに迷ったことは明らかです。この国の政治の現状と、アジア諸国との友好親善(善隣外交)のためにも、はっきりと、憲法(第九条)改正や軍備増強を目論む、今の自民党右翼政治と決別すべく、集団的自衛権などという憲法違反の軍事行動をとろうという戦争したがり集団とはきっぱり絶縁することを内外に明らかにし、みずからの旗幟を鮮明にすること、これこそが現総理の為すべき最後の課題(もちろん、彼のことですから、この先の「捲土重来」を期しているのは疑いのないところ)ではないでしょうか。

 そして新たな総裁が選出された段階で、何人もいないでしょうが、仲間と語らって「解党し、出直し」を決断すべきだと思う。「元総理・三爺(さんじじ)」という阿保たちの見ておれない挙動に加わるなどしたら、恥の上塗りだし、自らの存在を否定することにつながるでしょう。耄碌し、前後の見境もなくなった「元総理・三爺」どもが棲息して(できて)いること自体、この政党の腐敗のあからさまな証拠ですぜ。現首相はこれまでも政権党を離れた経験があるのですから、それを生かさない手はない。つまりは現職首相の渾身からの「感想戦」が求められているのです。「感想」という名の「歴史(少なくとも、戦後政治の歴史)の再考察」、「日米安保体制の見直し」等々、つまりはこの国のこれまでの振る舞いをたどりつつ行う「内なる戦い」を交わす(共にする)相手はいるのか。心配無用、たくさんの無辜の国民がいるではありませんか。

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)