「短文化」は何を得、何を失ったか

【有明抄】短文化する時代 長くなればなるほど短くなるものがある。それは夫婦の会話だと、ある人生の先達に教わった。なんとなく互いの気持ちがわかるせいか、「あれ」とか「それ」で会話が成り立つものらしい◆往年の名優中村伸郎さんはある日、長年連れ添った妻から話しかけられた。「留守番がないから、出られないって言うのよ」。いったい誰のことか、唐突すぎて話がよくわからない。短い会話が習慣になって、いちいち説明しなくても伝わると思うのか、こんな不思議なやりとりが日常になる◆SNSの普及で略語や短いことばのやりとりが増えている。最新の「国語に関する世論調査」で89%の人が、そんなSNSの影響を感じていた。「了解しました」は「りょ」、「お疲れさま」は「乙(おつ)」…。すぐに返信しなければ、とスピード重視の言語感覚である◆こうした若い世代のやりとりは意味が伝わらなかったり、ときに相手を傷つけたりもする。短文をぱっと書いてぱっと送ることに慣れ、学校では長文の読み書きが苦手になっているという。誰もが自由にことばを発信できる便利な通信網が皮肉にも、ことばの豊かさを奪っている◆短いやりとりでは大事なことをつい言いそびれる。感謝の気持ちとか、いたわりとか。老夫婦の不思議な会話がなんとなく成り立っているのは、聞く方がうわの空だから、である。(桑)(佐賀新聞・2025/10/03)

(ヘッダー写真「PRTIMES」・2018年5月15日 11時01分)(左グラフも)(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000015.000023974.html

 このところ、スマホなどで使われるSNS類の通信文がやたらに簡素化(simplification)、短文化(popularity of short sentences)しているという傾向について、いろいろな指摘がなされています。何よりも「短文化傾向は拙いね」と言うか、「それでは意を尽くせない」などという批判が大半のようです。その反対に「手間がかからない」「分かりやすい」などと肯定する意見も負けてはいません。どっちだっていいではないですか、SNS未利用派のぼくなどは、そう思うのですが。

 ヘッダー図や右上図の調査時期は2028年5月時点のもの、かなり早い段階から、連絡や挨拶や報告などは「短・簡・易」に限るという大方の好みが示されているとみていいでしょう。当然の流れで、小さな画面で漢字交じりの長文など、いったい誰が読みたいと思いますか。毎日だらだら綴っている、この「駄文」「雑文」がその悪い例の見本です。雑文・駄文・悪文・拙文、しかも長々と書かれたものなど、誰だって見向きもしないでしょう。短文、簡潔文、それでどこが悪いと、スマホを持たないぼくなどでさえ思う。短文の最たるものは「漢字一字」でしょうから、「乙」「草」「動」「楽」「繋」「難」「忙」などなど。これなどは究極の「ピストグラム」ではないでしょうか。即・効というわけです。「早い・安い・拙い」は「▼□●屋」の牛丼でしょうが、「短・兵・急」は当節の通信文利用者の事情に見合った型式だと思う。それで結構だという人が多いから、今は用をなしているのでしょ。やがて死ぬ、気配も見えず、今盛ん。「りょ」でしょうか。

 なによりも、そんなお手軽が嫌いだから、ぼくは携帯・スマホは持たない人間。それで生きづらくもなければ、生きやすくもない。そんな機器の有無にかかわらず、人生は苦楽、相存す。つまり「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言うだけのこと。それに対処するに「先憂後楽」か「先楽後憂」か、「前払いか、後払いか」です。「有明抄」に引かれた「「留守番がないから、出られないって言うのよ」という妻の言に、夫はどう反応したか。ぼくにはとても興味がある。まるで鋭い将棋指しの一手の趣きがあると思われませんか。妻は、何手も先を読んで一言を放った(一手を指した)、夫は凌げないで、投了となったかもしれません。(妻は、自分(あるいは誰か)は留守番じゃないと思い込んでいます、だから「出られないって」)「短い会話が習慣になって、いちいち説明しなくても伝わると思うのか、こんな不思議なやりとりが日常になる」というのは、何時の時代にあっても変わらない世相・世情だと言いたいですね。まるで耳が遠いもの同士の会話、「誤解し合って、それで正解」なんですから、まるで見事な芸の域に達しているのですね。

 「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と言われました。「稼いだ日銭は、その日のうちに使うのさ」「金を貯めるなんて、そんなみっともないことできるかい」と、ケチ臭い「上方もん」を笑ったのかもしれません。もちろん、江戸っ子の気前良さを自慢した啖呵でもありました。落語で知った科白で、旬のカツオが出回ったと聞いた「職人さん」、早速戴こうと店に入ったが、あまりにも高価で手が出ない。それでも喰いたいので、着ている褞袍(どてら)を質に入れて食ったとさ。それを自慢したそうです。「お前、カツオ食ったってねえ」「どうだった味は、旨かったか」「ウーン、寒かった」といったとさ。じつに簡潔で、要を得ていますね。

 簡にして要を得る、これが言葉使いの極意だと、散々教えられてきました。短ければ短いほどいい、それが嵩じて、「不立文字(ふりゅうもんじ)」まで行きつきます。(「禅宗の根本的立場を示す語。悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。仏の教えは師の心から弟子の心へ直接伝えられるものであるという「以心伝心」の境地を表したもの。ふりつもんじ」)(デジタル大辞泉)禅宗の極意とSNSのお手軽通信文が同じ値打ちだとは思わないけれど、願わくば「以心伝心(以簡電信)」でありたいのは変わらないのでしょう。数日前にも駄弁ったことですが、芭蕉さんなら「不易流行」と言われるでしょう。いつの時代にも優勢な傾向は、すべからく「一時流行」に外なりません。繰り返し、寄せ返す波のように、行ったり来たりの「漣(さざなみ」「荒波」、人間の好む傾向もまた、それに同じ。流行(はや)り廃(すた)りは、世の常であるという話。(右「教外別伝不立文字」一休宗純筆)(釈迦の教えを以心伝心で伝えるほかに法はないということ、加えて仏教の真意は言葉なんかでは伝えられぬ、そのことを「不立文字」という)

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 以下のコラム「国原譜」では、「モノの進化」について云々されています。上の「ことばの簡素化」「短文化」の時代と同じ傾向がそこに伺えないか、それがわかれば、「進化」とか「進歩」などという表現は、実は、人間社会における「何もの」かの「退化・退歩」であり、衰退(堕落)」を暗示し明示しているとは言えるでしょう。「進歩」は「変化(へんか)」、それだけなんだ。モノとコトは密接不離で、相離れがたく抱擁し合っているのですから、どちらかが短絡に走れば、片一方もその「道連れ」になるというばかり(牧村三枝子、だ)。ここで重用される「価値」は、「効果」「便利」「速さ」でしょうか。そしてぼくは思う、「狭い日本、そんなに急いでどーすんの」節約された時間は、どこに消えるのでしょうか。「タイパ」と言って、何を得て、何を失ったか。その得失は、ご当人にとっても小さくない事柄だとぼくなどは考えてしまう。 

【国原譜】生活に直結したモノの進化も万人にとって肯定的とは言い切れない。そんな思いが頭に浮かぶ話を聞いた。/県経済倶楽部の自動車産業の将来に関する講演会で、県出身の自動車ライターの西川淳さんが提示した。デザインや音など旧車が有した魅力は進化とともにどんどん削られ、個性や特徴を見つけるのが難しくなったと。/確かにかつてはエンジン音を聞けば車種が知れるクルマがあった。独創的な内外装をうんちくを交えて自慢気に語るオーナーもいた。/操作や駆動での扱いにくさ、パーツのもろささえ個性と捉えることも。出来の悪さの失敗談には、多分に愛情が含まれていた。/衝突を避け、手放しで目的地に行ける自動化は安全、利便性を高め、電動化は環境保全へ寄与する。これも魅力十分なのだが、同方向の流れの中で犠牲にした何かがあるのかもしれない。/西川さんはクラシックカーの催事などを通して豊かなクルマ文化を奈良に根付かせ、発信し、趣味を生かした古里のまちづくり、活性化を描く。クルマに限らず、人生の彩りは進化と同調するものばかりでもないようだ。(智)(奈良新聞・2025/10/03)

 「生活に直結したモノの進化も万人にとって肯定的とは言い切れない」というのは、一面での「らくちん」は、他面での「手数がかかる」に通じているという話です。相手に何かを伝える手段は、第一義は「ことば」によりますが、できれば、それは短く済ませられるに越したことはないという。「短文化」の時代の理由です。でも、そこから「誤解」や「不信」という、人間関係における「事故(accident)」が生じることは避けられないとすれば、何のための省略だったか。便利は不便と背中合わせだという心理・真理を表してもいます。さる自動車ライター曰く「旧車が有した魅力は進化とともにどんどん削られ、個性や特徴を見つけるのが難しくなった」と。進化は、車においては何かの喪失、いわば「個性や独創性」が失われることを意味しているのでしょう。車に個性も独創性も要らないと思えば、やがて、人間にも同じ(無)価値を求めるでしょう。人間の非人間化ですね(dehumanization of humans)。

 「衝突を避け、手放しで目的地に行ける自動化は安全、利便性を高め、電動化は環境保全へ寄与する。これも魅力十分なのだが、同方向の流れの中で犠牲にした何かがあるのかもしれない」、その「何か」とはなにか。いわば、一台の車の持つ歴史であり「個性」、さらに加えれば、人間と車の掛け替えのない関係ですよ。それらが失われたといっても間違いではないでしょう。個性喪失の時代、歴史不問の社会で、人々は「自分らしく」生きていけますかという、とても大きな問題、そんな難問にぼくたちは直面させられているのです。人間関係の中で、互いを結びつける「ことば」が省略されてしまえば、おのれの意向や思いを相手に伝える方法は極めて限定されてしまう。その一つは「以心伝心(電信)」でしょうし、他の一つは、他ならない、怖い「暴力」でしょう。夫婦仲・親子間においてさえ「以心電信」が困難な時代(すなわち「誤解の時代」です)、言葉が通じないとどうなる・どうするか。手っ取り早く、おのれの意を相手に伝えるには「暴力」「腕力」です。したがって、「短文化の時代」は「暴力の時代」と軌を一にしているというわけですね。「国原譜」のコラム氏の言、「クルマに限らず、人生の彩りは進化と同調するものばかりでもないようだ」とは、仰せの通りと首肯します。

 ぼくは現在2002年初年度登録の「愛車」に乗っています。二年ほど前、娘(横浜在)のところに用事があって、東京湾アクアラインを初めて利用したのですが、愛車のナビでは、この海中高速道路は表示されませんでした。仕方がないので、我が「眼力」「脳力」(自家製ナビ)を駆使して、驚くほど時間がかかりながらも、目的地に行けました。娘宅も、この車生産、かなり遅れて開発された住宅地にありました。だから、ナビには影も形も映りませんでした。後この「経験」は得難いものだと、痛感した次第。また、かみさんとは結婚53年目を二人三脚中。山あり谷あり、ときには落とし穴もあったかも。それでも続いた理由は何だったか。「愛車」と同じと言えば怒られそうですね。でも、長く継続することはいいことでもあるということ。人間も車も、長く存在すれば「時代おくれ」になるのは避けられない。その昔の「アイドル」たちも軒並みに、還暦や古希になるのは人の世の定め。それにしても、その今昔の感は凄い、凄すぎる人もいますね。人生の流儀(要諦)もまた、「不易流行「一時流行」であることを忘れたくないですね。

 人間は有史以前(文明生活を始める前の時代)、無文字社会を生きてきました。その痕跡(印)は、ぼくたちの中にも刻印されていると思う。だから、ときには「無文字」「不立文字」に憧れ、「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)」に舞い戻りたくなるのでしょう。その一抹(いちまつ)の表出・顕現が、この時代にも浮き出ているだけのことではないでしょうか。(*父母未生以前=「自分はもちろん、両親もまだ生まれていない以前のことをいう。本来の自己をいっている。禅語」(世界宗教用語大事典)(左・右上は一休さん筆「「教外別伝不立文字」)(先述したように、これは達磨大師が残したとされる「教外別伝、不立文字、直指人心、見生成仏」という禅の根本を示す言葉(のうちの二つ))。

◉  不易流行=蕉風徘徊理念の一つ。新しみを求めてたえず変化する流行性にこそ、永遠に変わることのない不易の本質があり、不易と流行とは根元において一つであるとし、それは風雅の誠に根ざすものだとする説。芭蕉自身が説いた例は見られず、去来・土芳・許六ら門人たちのハ徘論において展開された。(精選版日本国語大辞典)*蛇足「不易を知らざれば基立ち難く、流行を知らざれば風新たに成らず「枯朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮」「この道や行く人なしに秋の暮」(芭蕉)

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、かみさんとは半世紀以上

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)