Does College Still Have a Purpose in the ChatGPT Age?

 時代は確実に「生成AI」「人工知能」大躍進の波に洗われているとおもわれます。この先どうなるのかという、AI万能時代の幕開けを迎えて、あらゆる局面で、それを歓迎しながら、行き過ぎは阻止したいという矛盾(アクセル(促進)とブレーキ(抑制)の同時駆動状態)が日に日に露わになっています。内外を問わず、マスメディアは否応なしに「AI」旋風に翻弄されていると言えなくもありません。議論すべき方面は多様であり、至る所で「アクセルオンリー」、いや「ブレーキ踏み通し」という極端な事態が進行しています。数日前のBloombergの「社説(Editorial)」に、以下の記事が出ていました。ぼくはこの二、三日、それを何度も読み返して、(AI時代という)事の始まりは驚くべき新奇さ(novelty)に彩られているけれど、よく見れば、これまで何度も繰り返し経験してきた事柄の「再来(second coming)」だという印象を持ってしまいました。

 (詳論は避けますが)内外の大学は、果たしてこのAI時代に存在意義を保てるのかという、実に大きな難題に直面しているという風に見られます。「大学の存在意義」と言われて赤面しますが、いろいろな意味で「意義(異議)」があるから大学は存在しているのでしょうが、なにせ、少子化時代のただなかにあるこの国にとって、議論の順序が間違っているような気もします。このところ、各地の私立大学の学生数の確保難、学生募集停止(閉鎖)のニュースが連年のように報じられています。何しろ私立大学の半数近くが「定員割れ」を起こしているのですから、こちら「危機の時代」を乗り切る方が先決で、果たしてこの直面する課題に対して「AI」は名答・名案を出してくれるか、そちらの方にぼくは関心を持つ。

 「人工知能(AI)時代のアカデミアにようこそ」、とコラム氏は現下の問題とその当面の解決策を指摘します。大学教育の状況に関して、学生ばかりが非難(議論)の的になっていますが、果たしてどうでしょうか。非難されるべきは学生だけなのでしょうか。これまでも存在した「大学教育」の諸問題に、AIという新機軸によって、新たな問題が一つ加わっただけなんじゃないですか。昨日、横浜に住んでいる娘親子が遊びに来たが、その際に、孫が言うには、「AIに答えを求める」生徒の話が話題になっている、と。孫は中学2年生。宿題の多くは人工知能が代役を務めているかもしれないという、学校の風潮の一端を語っていました。それ以上に、教師がAIに依存していないかどうか。

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1⃣ AIが変える学びの形、ChatGPT時代に問われる大学の存在意義-社説
  多くの大学生にとって、学生生活はこれまでになく楽になっている。かつては何日もかけて調査や準備が必要だった課題も、今では数分で片づけられる。あらゆるテーマに関するエッセーがオンラインで即座に手に入り、ディケンズやデモステネスの長文を苦労して読む必要もない。チャットボットにたった一言命じれば、関連資料は瞬時に要約されて手元に届く。
  人工知能(AI)時代のアカデミアにようこそ。最近の複数のリポートで示されたように、学生が課題をAIにアウトソースするのは今や日常の一部となっている。皮肉なことに、真面目に努力している学生のほうが、AIに頼る同級生と比べて見劣りすることすらある。教授たちは、生成AIの文章と人間が書いた文章を見分けるのがほぼ不可能になっており、さらに言えば、自らもAIを使って学生の課題を評価し始めている。
  これはもはや持続可能とは言い難い状況だ。コンピューターが書いたレポートを別のコンピューターが採点し、学生も教授もそれを傍観する。その「特権」のために、親は年間数万ドルの学費を支払っている。アカデミアが多方面からの圧力にさらされている今、これは新たな危機の兆しに映る。

 AIの出現によって、大学は深刻な影響を受けているのでしょうか。「コンピューターが書いたレポートを別のコンピューターが採点し、学生も教授もそれを傍観する。その『特権』のために、親は年間数万ドルの学費を支払っている。アカデミアが多方面からの圧力にさらされている今、これは新たな危機の兆しに映る」という。ちなみに、ハーバード大学の年間授業料(学費)は、約5万ドル(2020-2021年度)から7万ドル(寮費や食事代、健康保険を含む)程度です。近年、ハーバード大学は、世帯年収が20万ドル以下の学生の授業料を無償化するなどの支援も行っています」(AI による概要)日本円で、約870万円~1015万円(1ドル145円で計算)です。これは多くの私立大学の「水準」でもあるでしょう。コンピューターの使用代金を学生も教員も支払っている、その金額のかなりの部分が授業料ということになります。(嘘か真か、「AI」は非常に電気を使うそうです)

2⃣ 大学のカリキュラムにAIを取り入れることには多くの点で合理性があり、学生の関心を高める効果も一部で示されている。また、AIはすでにさまざまな業界で、求められるスキルや仕事の進め方に変化をもたらしている。今後は、卒業生に一定のAIスキルが求められる場面も増えるだろう。生産性の向上やイノベーションの加速という観点から見ても、概して好ましい流れではある。
  しかし、大学での学びの多くは職業訓練ではない。とりわけ人文科学には、批判的思考の促進、思考習慣の形成、知的視野の拡大といった、より高次の目的がある。マシュー・アーノルドの言葉を借りれば、それは「人類が考え、語ってきた最良のもの」に触れることにほかならない。アリストテレス、アクィナス、アダム・スミスといった知の巨人たちを理解するには、AIへの一行のプロンプトでは不十分であり、時間をかけた深い思索が不可欠だ。そこから得られる学びには深い価値がある。
  こうした教育は、単なる教養主義にとどまるものではない。対立する意見を統合し、熟慮の上で判断を下す力。文学作品を評価し、批評的に応答する力。努力を重ね、現代の価値観の哲学的背景を理解する力。これらの能力は、就職に有利になるだけでなく、人間性を養い、視野を広げ、良識ある市民を育てる。

 この時代における「大学教育」の問題(課題)は何処にあるのか。もちろん、この課題も表面的のようで、世の中をうつす鏡のようで、時には変わることは当然でしょうが、変わらない「核心部分」もあります。いつでもいうことですが、大学における「学生教育」の核は、眼前に生み出されるさまざまな問題に対して「自分の頭で考える」、その考える力を養うことであると断言できるでしょう。AIに限らず、よそからの借り物(の知識)で、みずからの思考や判断の代役を果たせることはあり得ますし、あるいは、そんな大卒者によって社会は成り立ってきたともいえそうです。つまりは、暗記能力(記憶力)が学力の代名詞であり、そのような与えられた知識(記号)の正確な記憶の多寡によって「優劣」が決められてきたのです。これは何処の社会でも変わらない部分です。何も見てはいけないとされる「試験(テスト)」でいい成績を獲得することが、第一の務めとされています。

 世界の古典であれ、歴史であれ、地理や天文であっても、その教育内容は試験に出るから記憶するばかりで、試験がなければ、先ず出会うことすらない事々で学校教育は満たされているのです。「大学での学びの多くは職業訓練ではない。とりわけ人文科学には、批判的思考の促進、思考習慣の形成、知的視野の拡大といった、より高次の目的がある。マシュー・アーノルドの言葉を借りれば、それは『人類が考え、語ってきた最良のもの』に触れることにほかならない。アリストテレス、アクィナス、アダム・スミスといった知の巨人たちを理解するには、AIへの一行のプロンプトでは不十分であり、時間をかけた深い思索が不可欠だ。そこから得られる学びには深い価値がある」

3⃣ 大学側にとっての第一歩は、本腰を入れて対応することだ。多くの大学はAIに関する方針が曖昧なままであり、問題が自然と収束することを期待しているように見える。こうしたツールの使用がどのような場面で許容されるのか、また誤用や不正利用が確認された場合にどのような処分が科されるのかを明文化すべきである。理想的には、教育的な意図が明確で、教授の指導の下で活用される場合に使用は限定すべきだ。
  もう一つの有効な手段は、対面形式での評価を増やすことだ。紙とペンによる試験は、不正行為の抑止に資するだけでなく、学生が学期を通じて真剣に学習へ取り組む動機付けにもなる。同様に、口頭試問も有効な手段といえる。AIの存在を前提にした上で、大学は創造的かつ厳格な評価手法の導入を試みるべきだ。こうした対応は教授にとって負担増となるが、最終的には教育の質を守るという点で、自らの利益にもつながるだろう。
  長期的には、テクノロジーそのものが解決策の一端を担う可能性もある。ブルームバーグ・ビジネスウィークが昨年実施した調査によれば、AIが書いた文章を見分けるツールは依然として精度に課題があり、誤検出のリスクも高いとされる。しかし、大学側が取り締まりの強化に本腰を入れれば、検出ツールの市場は成熟し、ソフトウエアの精度も向上して不正の抑止につながるとみられる。すでに一部の学生は、自ら課題に取り組んだ証拠として画面録画などを活用し始めており、こうした手法が慣例化すれば、より望ましい環境の構築につながるだろう。

 ぼくは四十年以上「教師紛(まが)いの稼業」を生業にしていました。期間は長かったけれど、大学教育に関しては、何事ももなすすべなく流れてしまったという後悔(慙愧)の念ばかりが残っています。だから、このような画期的なことをしましたと自慢の種になるようなものは何一つありません。そんなぐうたら教師だったが、徹底して意識的・意図的にしたのは「教室内でレポートを書く」(何を参考にしてもかまわない。時には隣の席の人のを見てもいい)という学生の作業を一貫して続けてきたことでした。教育の目的は「、学制も教師もともどもに「少しでも賢くなることにある」と信じていました。

 年間の授業ではおよそ5~6回程度、授業で扱った問題の中から選んだあるテーマ(主題)に関してレポートを作成する。時間の制限はあるが、必要に応じて、学生によってはそれを延長することもありました。もちろん、当時はAIなどは萌芽以前の段階だったから、今風の問題はなかったともいえますが、学生自身が手持ちの材料で「思考する」「判断する」という目標だけは維持したかったからです。それで成果があったかと問われれば、あったともなかったともいえないのは、学生がどれだけの思考力・判断力を育てたかに寄るからであり、その段階では簡単には判断はできないことでしたから。

 「もう一つの有効な手段は、対面形式での評価を増やすことだ。紙とペンによる試験は、不正行為の抑止に資するだけでなく、学生が学期を通じて真剣に学習へ取り組む動機付けにもなる。同様に、口頭試問も有効な手段といえる。AIの存在を前提にした上で、大学は創造的かつ厳格な評価手法の導入を試みるべきだ。こうした対応は教授にとって負担増となるが、最終的には教育の質を守るという点で、自らの利益にもつながるだろう」

 ここで指摘されている方式はある科目では徹底してきたともいえます。「卒業論文」(8単位)作成の期間には、学生の申し出にもよりますが、5~10回は個人との対面授業を採用していた。その際に、提示された論文を学生自身がどこまで自分の思考を駆使して書いたか、それは一目瞭然というほどに明らかになるものでした。ある主題に関してたくさんの「参考文献」を漁り、その内容や問題点を自分の判断で採用したり採用しなかったりと、あくまでも学生自身の主体性が問題とされたのでした。明らかに他者の文献を剽窃したりすることも、その段階で発見することができました。

4⃣ 大学生による不正行為は今に始まったことではない。そして今後も完全にはなくならないだろう。重要なのは、不正行為を困難にし、結果に対して責任を追わせる仕組みを整えることだ。そして何より、この新しくも奇妙な時代にふさわしいキャンパスの規範を確立し始めることが重要だ。大学の将来は、まさにその取り組みにかかっているのかもしれない。

原題:Does College Still Have a Purpose in the ChatGPT Age?: Editorial(論説委員室・2025年5月28日 22:13 JST)(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-05-28/SWZ063T0AFB400?srnd=cojp-v2

 この「AI導入教育問題」には決着がつくとは思えません。段階を踏むごとに新たな課題が生まれるでしょう。人間が自動車作り、それを個人が運転することから始まって、殊自動車運転に関しても、次々に新たな問題が見出されてきました。「人間は誤り犯す」ものですから、その誤りを防止するために技術の助けは不可欠です。今なら、さしずめ「自動運転」でしょうか。しかしそれでさえも「事故」が起こらないことはないのであって、いつでも人間の能力・判断力と機械(器械)のコンビネーションで物事が進められるほかないのです。道具は人間の手足(身体)の延長だとされ、それこそが文化であり、さらにその先は文明(機械力)だとされてきました。

 機械(器械)と雖(いえども)も故障や事故は防ぎようがありません。交通事故や原発事故など、その具体例に困らないほどに、人間の誤謬性と機械の故障(誤作動)とが相まって事故は生み出され続けるでしょう。永遠に問題は解決されないままで進むほかないのだと思う。いわば「二律背反(antinomy)」「矛盾(inconsistency )」というものを抱えながら、人間社会は進んでいる。より少ない不幸やより小さな争いで終わるように、個々人は、自らの注意力を絶やさないで、科学技術によって生み出さ会る機器類を同伴者として集団生活を営むほかないのです。

 「この新しくも奇妙な時代にふさわしいキャンパスの規範を確立し始めることが重要だ。大学の将来は、まさにその取り組みにかかっているのかもしれない」とブルームバーグの編集者は述べられているが、ぼくに言わせれば、これは今に始まった事態ではなく、これまでに何度も何度も人間社会・人間集団は経験してきたことなんですね。現下の事態を見ていると、まるで「赤子に銃弾を込めてある拳銃を与え、危ない危ない」と心配ばかりしている人間たちの困惑を見るような気がします。何をすることが大事か、ていねいに考えたいですね。

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)