
【筆洗】『尾州不二見原』は浮世絵師葛飾北斎の『富嶽(ふがく)三十六景』の一つ。桶(おけ)を作る職人を手前に描き、背景に富士を配す▼場所は尾張国の富士見原で今の名古屋市中区富士見町周辺。富士見という地名だが、実際に富士は見えない▼岩波文庫の『北斎富嶽三十六景』で日野原健司さんが書いた解説によると、富士見原の名の通り富士が見えたとの記録が残るが、南アルプスの聖岳を富士と誤ったもの。見えぬ山だが、恐らく北斎は富士見原という地名から富士を描く着想を得たと推測する▼見えなくても富士見と名乗る例があるほど富士を敬う日本人。実際に見える東京都国立市の富士見通り沿いで、完成間近だった10階建て分譲マンションの解体が決まった。「富士が見えなくなる」という周辺住民の声に業者が配慮したという。引き渡し予定は7月。土壇場での転換に驚く▼工事が進むに連れ、富士が隠れたと怒る声がインターネット上に拡散した。以前にもマンションの高層階撤去を求める訴訟が起き、景観への意識が高い国立。「富士の眺望を奪った」と言われイメージが悪化するのを業者は恐れたのかもしれない▼北斎の尾州不二見原は手前の桶が巨大で、背景の富士は小さく目立たぬ構図。北斎の狙いは、鑑賞者に富士を発見させることにあったと日野原さんはみる。見つけたら「富士だ」とうれしくなる山。やはり特別である。(東京新聞・2024/06/15)

北斎について何かを言う力もなければ、勇気もありません。ひたすらその「絵」を凝視するばかりです。もちろん、このような姿勢は北斎に限らないので、ほとんどの画家に向かった時に、ぼくはいつだって強いられます。どこが凄いとか、何が傑作だとか、それを越えて、描かれた世界そのものが、一面では「雄弁」に、他面では「寡黙」を通して、おのずから画意や絵心が観る側に伝わってくる。いや伝わってくるまで見る他ないという気がしますね。
それにしても、北斎、です。彼は、「超人」だったと思う。大胆不敵というべきか、「非常識」でさえも乗り越えて、彼の「画業」が成立したと言いたい。ある種の「画鬼」とでも表する他にないような生涯を送ったのが北斎でしょう。彼の描くものが「画」「絵」だと思う理由はどこにもないのであって、それは北斎その人の「肺腑の言」ならぬ「肺腑の絵(表現)」だったとも言えるものでしょう。だから、それに接するぼくたちは、いつだって「肺腑」を抉られるのだ、そんなことしか言えません。「独創」とか「着想」という言葉が、北斎の前では一気に色が褪(さ)めていきます。青白くなるというのがふさわしいか。
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付け足しに言っておくなら、国立のマンション取り壊し問題など、どうということはないのです。大方出来上がった段階で建築中の建物を取り壊すというのも、無駄な話だし、なんという無計画かと、思い切り詰(なじ)りたい気がします。建築確認を承認した方もまた、何をしいるんですかと問いたいね。また、建物が出来上がりつつあるに応じて、「富士が見えなくなる」という現実感。危機意識を持った、多くの野次馬もいたのでしょう。
コラム氏も触れられている国立市における「上層階撤去」問題の顚末も、ぼくはよく覚えています。住民訴訟は二転三転し、結果的には最高裁で「住民の訴えを認める判断」が示されました。「景観利益」という問題が本格的に適応・判断された裁判として注目を集めたことをぼくは、よく記憶しています。「権利」問題が、いよいよ行き着くところまで来たんだなという感慨を持ちました。その昔は、江戸のどこからでも、富士は拝めた。「富士講」の所以です。
東京・国立市の高層マンションが地域住民らの「景観権」ないし「景観利益」を侵害するとして、住民らがマンションの建築主などを相手取り、マンションの高さ20メートルを超える部分の撤去や慰謝料などの支払いを求めた訴訟の上告審判決が3月30日、最高裁でなされました。本件を巡る一審判決(東京地裁)は景観利益の法律上の保護を認めてマンションの一部撤去まで命じ、大いに議論を巻き起こしました。ところが、控訴審判決(東京高裁)は一転して、景観に関する法律上の保護を認めず、原告の請求を棄却しました。
そして、最高裁は次のように述べて地域住民らの景観利益を認めました。「良好な景観に近接する地域内に居住し、その恵沢を日常的に享受している者は、良好な景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり、これらの者が有する良好な景観の恵沢を享受する利益(以下「景観利益」という。)は、法律上保護に値するものと解するのが相当である。(「東京・国立マンションの最高裁判決-景観利益の保護」(2006年06月01日)栄光綜合法律事務所・https://www.eiko.gr.jp/lawcat/7-4/)
景観(眺望権)は誰のものか。言わずとしれたこと、「だれのものでもない」「みんなのもの」でしょう。しかしこと住宅等に関わっては先住権、あるいは先望権とでも言うものがあるという判断が当たり前に適応されています。「日照権の侵害」なども同様でしょう。富士山は誰のものか。富士山を含む景観は誰のものか。おそらく地主(多方面にわたっていて、特定できない)のものだというのが相場でしょうが、では、それは誰かとなると、時代とともに変わってきたのではないでしょうか。まして景観となると、なかなか権利の主張が交錯して、裁判でも簡単に判断は定まらないと言っていいでしょう。今回の「マンション解体」問題は建主(積水ハウス)が会社の名誉が傷つくことを恐れて「早とちり」したのかもしれません。土台、家の中から「富士山一望」などというのはふざけた話、ぼくはそんな気がします。「よく言うよ、富士山は君のものか?」とね。

(参考資料)《問題のマンションは「グランドメゾン国立富士見通り」(10階建て、総戸数18戸)。JR国立駅前に伸びる富士見通りからの富士山の眺望を阻害するとして、市民らから懸念の声が上がっていた。 これに対し積水ハウスは、高さを若干低くするなど対応したうえで、建築計画を進めた。だが、今月4日、市に事業の廃止届を提出。11日には「富士見通りからの眺望を優先するという判断」から、7月に引き渡し予定だったマンションの解体を決めたとするコメントをホームページ(HP)上で公表していた。 永見市長は12日の市議会で、「突然廃止届を出され、問い合わせてもそれ以上の内容は得られなかった。それなのに突然、HPでコメントが出た」と積水ハウスへの不信感をあらわにした。そのうえで「一義的には事業者が何が課題だったのか、住民に説明すべきだ」と述べた。 また永見市長は、景観に配慮してマンションの規模を縮小するよう求める指導書をこれまでに積水ハウスに交付するなど、「(市として)最大限のことをやってきた」と主張。「周辺住民がどれだけ不安かを踏まえて指導してきたのに、急に(建設が)中止となった。再び解体工事に直面する。その影響は必ずある」と指摘した》(朝日新聞・2024/06/12)(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7f3a17bd2b297b352b60b51b187841a8918d403)
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(ヘッダー写真文化遺産オンライン「富嶽三十六景《尾州不二見原》」:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/174954)

● 葛飾北斎 (かつしかほくさい) 生没年:1760-1849(宝暦10-嘉永2)= 江戸後期に活躍した浮世絵師。本姓は川村氏で,江戸本所割下水(わりげすい)に生まれる。幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となり,幼名時太郎,のち鉄蔵と改める。〈北斎〉とは一時の画号で,生涯に30回ほどの改号をする。〈画狂人〉とも号して,画三昧の生活を送り,浮世絵師中で最も作域が広い。1778年(安永7),勝川春章の門に入り,翌年に春朗と号して役者絵を発表,以後,役者絵,角力絵,浮絵,黄表紙の挿絵を描く。94年ころ,勝川派を破門された後,狩野,住吉,琳派,洋風画派を学び,2世俵屋宗理を名のり,30歳代後半に至って自己の画風を確立,97年に北斎と初めて号した。このころ,《東遊》《東都名所一覧》等の絵入狂歌本に優れた挿絵を描いて注目され,《くだんうしがふち》等では洋風の遠近・陰影表現による風景版画シリーズも発表する。次いで北斎の声価を決定づけたのは,文化年間(1804-18)の初めころから流行する読本(よみほん)の挿絵の仕事である。中国伝奇小説の影響を濃く反映し,荒唐無稽な内容をもつ読本の世界を絵画化するため,北斎は和漢洋の三体を融合し想像力を駆使した画面を展開した。木版墨摺技術の可能性を極限まで追求した北斎の読本挿絵の成果は,小説家曲亭馬琴と組む時に最も大きく得られ,《新編水滸画伝》(1806)や《椿説弓張月》等の傑作が生まれた。この読本挿絵で培われた北斎の新生面は,錦絵風景版画の分野でより効果的に発揮され,代表作《富嶽三十六景》をはじめとして《諸国滝廻り》《千絵の海》《諸国名橋奇覧》等の揃物シリーズに結実した。一例を挙げると,ゴッホが〈鷲の爪〉と呼んだ《富嶽三十六景》中の〈神奈川沖浪裏〉のすさまじい波の表現は,読本挿絵の経験の中から生まれた。この〈リアルな絵空事(えそらごと)〉の世界が北斎後期作品の核心部をなすといえるが,これは後に歌川広重に批判される(絵本《富士見百図》序文)。版画以外でも,肉筆の美人画および花鳥画に傑作が多く,中でも《二美人図》《雪中美人図》《酔余美人図》が代表作。その他,絵手本の刊行が注目されるが,山水,花鳥,人物,器物,図案等あらゆる題材を対象とした《北斎漫画》13編(1814-49)は彼の総決算ともいえる成果で,フランス印象派のドガらにも大きな示唆を与えた。(改訂新版世界大百科事典)
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蛇足 それこそ自由自在に富士(不二)山を操った北斎。彼にとって富士山は何だったでしょうか。おそらく、稀代の浮世絵師の脳細胞を占拠した「霊峰」、いや「霊感」であったかもしれない。そこまでになれば、現実に見えるか見えないか、まず問題にはならなかったとも言えます。件(くだん)の「尾州不二見原」は、見えるはずのない「富士(不二)」を描いたものです。そこでは富士は「樽(桶)職人」の力技の一つのエピソード(添景・点景)になっていたということでした。誰が名付けたのか、この尾州不二見原の一職人をモチィーフにした絵を「桶屋の富士」と呼ばれるようになったらしい。彼は九十まで生きた絵師だったが、「富獄三十六景」を始めたのは七十からでした。九十の声を聞くようになったとき「後十年、いや五年あれば、本物の画工になれるのに」と言ったという。こういう存在が人間の仲間にいたとは、ひたすら驚愕すべきことだったと思う。

富士山は誰のものでもない、みんなのもの。それを実践したのが北斎でした。脳裏に焼き付いた富士があればこそ、彼は超人的な画法で富士山と対峙しようとしたのでしょう。いかなる手法をもってしても富士は富士、いささかのゆるぎもないからこそ、彼にとってその魅力はいよいよ増したのだった。
山梨のコンビニの背後に見える富士山が観光客の撮影騒動で話題を呼びました。行政が富士山を見えないように黒い膜・幕を張って意地悪をした。そうされればされるほど、また騒ぎ出したくなるのが人間です。今回は外国人観光客が「富士の再発見」をなし、それが日本人にも伝染し、必要以上に騒動が広がったのでしょうか。これについてもぼくは語る言葉がない。いずれまた、どこかで「黒幕」が話題になるのでしょう。政治や金融の世界で年がら年中、「黒幕」騒動で持ちきりです。それにしても「落ち着きのない社会」「軽薄な社会」になったものですね。今日は江戸末期か、明治初期のように「日本再発見」が外国人観光客によって生み出されています。

「日本はスバラシイ!」「神秘的デスネ」と言われてもさ、眉唾なんだと浮足立たないこと。今のような為体(ていたらく)では、やがて、だれも見向きもしなくなるさ。
(文部省唱歌「ふじの山」:https://www.youtube.com/watch?v=eHz07mYdeLU&ab_channel)
それにしても、いささか迂闊でした。この唱歌「富士の山」は巖谷小波の詩(詞)によるものだったと。小波に関してはそれなりに調べたり読んだりしていましたが、「富士は日本一の山」の唱歌の作詞者だったとは。ど忘れしていたとは思われませんが、ともかく迂闊だった、と恥じ入る始末です。
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●巌谷小波(いわやさざなみ)(1870―1933)= 小説家、童話作家、口演(こうえん)童話家。本名は季雄(すえお)。漣山人(さざなみさんじん)とも号し、別名に大江小波(おおえのさざなみ)がある。明治3年6月6日、高級官吏で書家としても知られた巖谷一六(いちろく)の子として東京に生まれる。家業の医師を継ぐべく育てられたが、10代より文学に興味をもち、故意に大学予備門の入試に落ちて杉浦重剛(しげたけ)の称好塾に入り、尾崎紅葉らと硯友社(けんゆうしゃ)を結んで小説書き始めた。『五月鯉(さつきごい)』『妹背貝(いもせがい)』などの小説を発表したが、1891年(明治24)に博文館『少年文学叢書(そうしょ)』の第一編として出版した子供向きのおとぎ話『こがね丸』が圧倒的な好評を得、これを契機に児童文学の開拓者として登場した。その作品の多くは自身の編集した雑誌『少年世界』に載せたもので、思想的には日本の軍国主義的な行き方を肯定し、文学的には江戸戯作(げさく)の残滓(ざんし)をぬぐいきっておらず、真に近代的な児童文学とみることはできない。世の要求に応じて『日本昔噺(むかしばなし)』(全24冊)、『世界お伽噺(とぎばなし)』(全100冊)など伝承文学の再話もしており、明治30年代の後半からは自作のおとぎ話の口演にも力を注ぎ、その門下から久留島武彦(くるしまたけひこ)、岸辺福雄などの口演童話家を出してもいる。その作品量は膨大で、『小波お伽全集』(全16巻)に収められているが、ほかに『桃太郎主義の教育』(1915)などエッセイ類も多い。自伝『我が五十年』(1920)がある。昭和8年9月5日没。 (日本大百科全書)
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