里も山も門前雀羅に閑古鳥

【有明抄】飛び立ち距離 ひところ人気や権勢を誇っていたのに、今は落ちぶれて訪れる人もない。そんな浮き沈みを、むかしの人は「門前雀(じゃく)羅(ら)を張る」と言った。門の前にスズメが群れ遊び、網を張って捕らえたほうがいいくらい閑散としてわびしい、と◆実際にはスズメを捕まえるのは簡単ではない。そっと近づいてもすぐ飛び去ってしまう。鳥たちが外敵に気づいて逃げる間合いを「飛び立ち距離」というが、スズメはとりわけ遠く、人を寄せつけない。ヨーロッパでは手に乗ってえさを食べるほど人なつっこいというから、お国柄の違いは大きい◆警戒心を抱いたまま、相手がちょっと近づいただけで背中を向けてしまう…。人間同士にも似たような「距離」がある。昨年の推計で県内は28年ぶりに、転入が転出を上回った。外国からの労働者や留学生が増えたおかげという。そんな隣人たちとの距離は縮まっているだろうか◆コンビニのレジ、農業、工場と外国人材は暮らしに欠かせないパートナーになりつつある。人口減少と人手不足にあえぐ「門前雀羅」のこの国で、ともに生きる社会をどう描けばいいだろう◆電線に並んだ小鳥が互いの羽根をつくろっている。自分のくちばしが届かないところを、もう一羽が手入れする。仲間で弱さを補う姿に、人のいとなみを重ねてみる。思えばきょうから愛鳥週間である。(桑)(佐賀新聞・2024/05/10)

 (ヘッダー写真提供・茂原市役所:https://www.seaside-otsuka.com/bosokanko/2018/2018070602.html

 文章を読むというのはなかなか難しいですね、ということを改めて感じている。上掲のコラム「有明抄」はぼくの愛読するものの一つです。時には、「あれっ(?)」と腑に落ちないこともあるけれど、気軽に読んで楽しんでいるのです。この短文の中に使われている「門前雀羅」という熟語、出典は「史記」の「汲鄭伝」にある。「翟公(てきこう)」という人が引退した後、家の門外に雀羅(雀取りの網)を張れるほど寂れたという故事から。それほどに「権勢」を誇った人の寂れる様を言い当てたものなんですね。この言葉(漢語表現)を初めて見たのは、今でもよく覚えている。

 柳田國男さんのなにかの本を読んでいて、珍しい物言い(熟語)だと感心したのです。柳田さんは、理由があって、小中学校と、ほとんど学校に行かなかった。近所の読書家の書庫を自由に使わせてもらったおかげで、和漢の万刊の書に通じていた。驚異的な記憶力の持ち主でもあった。博覧強記という形容を背負って存在している人に初めて出会ったという感慨がぼくを柳田ファンにしたとも言えます。お礼をこめて、後年に一冊の柳田本を書くことになった。「門前雀羅」にお目にかかったのは、おそらくその時以来ではないでしょうか。すでに半世紀以上も経過しましたから、まさか、こんなところ(コラム)で出会うとはという驚きがありました。この「桑」さんという人(記者)の文章には、何度か注文をつけたり電話をしたり。本日の文章から、彼はかなりの年齢の人とお見受けしました。

 珍しい「文章表現(言葉)」に出会った喜びだけにしておけば問題はないのですが、それに加えて、いささか、疑問に思うところを駄弁りたくなりました。「昨年の推計で県内は28年ぶりに、転入が転出を上回った。外国からの労働者や留学生が増えたおかげという。そんな隣人たちとの距離は縮まっているだろうか」と書かれ、「コンビニのレジ、農業、工場と外国人材は暮らしに欠かせないパートナーになりつつある。人口減少と人手不足にあえぐ『門前雀羅』のこの国で、ともに生きる社会をどう描けばいいだろう」と続けます。

 ぼくの誤読かも知れませんが、どうも「門前雀羅」の国、日本の、ひいては佐賀県の寂れた門前にも屯(たむろ)している「雀たち」、実際は「外国人材」と受け取れないでしょうか。そう読ませようとはしてはいないか。せっかく近づいてくる「雀たち」、網を張って捕まえて逃さないようにする、魚類なら「一網打尽」とすべきでしょうね、そのためにはどうすべきかと嘆かれているようにも見えます。

 「網羅」するという熟語がありますが、この「網」は魚を獲るあみ、「羅」は雀を取るあみだそうです。人口減少を補うためには、国を上げて、あの手このの手で、外国人を「網羅」すべし。時給もかなり水準の低い国に成った今、それでも「外国人材」を「打尽」するには「電線に並んだ小鳥が互いの羽根をつくろっている。自分のくちばしが届かないところを、もう一羽が手入れする。仲間で弱さを補う姿に、人のいとなみを重ねてみる」と来る。異国の人にも優しく愛して(「Love Me Tender」)…、こう書かれる意図ははわかりますが、外国籍の人とうまくやるだけの訓練が十分でないのをどうするか。果たして「和洋」「内外」の常民同士が「仲間」になる、「仲間」であるという繊細な距離を築くことができるでしょうか。「飛び立ち距離」が必要なのは誰(和と洋の)でしょうか。

++++++++++++++

 ところで、毎日のように出向く茂原駅近辺。往時は実に賑わったらしい。(人口減少の傾向は他地域並みに右肩下がり)ある時までは、仙台や平塚などと張り合って、「茂原七夕祭り」を誇っていました。今日でも実施はされていますが、ぼくは一度も見たことがない。人混みが嫌いだからという性分ですから、それは仕方がないにしても、とにかく、その寂れようと来たら、目も当てられないほどです。これを「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」と言うのでしょうか。「郭公(かっこう)」は、人里離れた山で鳴くのですから、まるで寂しい山の中、そんな雰囲気が漂っていると言えば、商店街の人に叱られるかも知れません。(ぼくの居住している場所は、まさに「閑古鳥が鳴く」地であり、拙宅は、まさに「門前雀羅」状態の「荒屋(あばらや)」であります)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 (起きがけから(本日は五時前)、いつも通りに駄文を綴ろうとしてはいたのです。しかし、このところあまり自分用の車に、車検を受けたばかりなのに、乗っていないのでバッテリー(新品)が気になり、エンジンを掛けたままで、車庫を掃除しだしていました。車庫は、まるで猫小屋同然で、車の上には足跡だらけ、棚の荷物類は蹴落としてある、まさしく乱暴狼藉の後が見え見え。シャッターの下部が少し開いているので落ち葉を含めていろいろなものが侵入する。ここをきれいにとやりだしたら、庭の落ち葉が気になり、これも掃除。枯れ葉の山がいくつもできるほど。作業をやり始めたのが、八時前。それから、簡単に朝食を取って、また続きを。(写真右はどこにあるのか、「スナック 閑古鳥」だとか。いい声が響いているでしょうね)

 一区切りつけて、水分補給を、とコップに天然水を注ぎだした途端に、立ち眩(くら)むと言うか。気分も体調も突然に悪くなった気がした。血圧が上がったせいかも知れないと、ベッドに横になって休んでいた。しばらくして、京都の友人から電話だという。Tさんという、北山杉の産地(周山)近くで製材・木工所を経営している高校の同級生。昨晩も電話がありました。「近々会いたいね」「千葉まで行ってもいいか」との話。「どうぞ、いつでも」と話が展開、奥方が銚子の温泉などに入りたいと所望されているので、その帰途にでも訪問したいと言う。今月中にも。日程が決まったら連絡を、と電話を切った。電話を切った後で駄文を書き出しました。午前十一時ころだったか。もう少し書き直したいのですが、調子がよろしくないので、本日はここまでにします)(茂原の「七夕まつり」の写真は、六年前のものです)

______________________

投稿者:

dogen3

 駄文の心 ~ そんな洒落たものがあるなら「蔕(へた)は蔕なり」という線は外せぬと願う。だが「無根無蔕(むこんむたい)」の身、まるで根無し・浮き草そのもの。それこそ「下手は下手なり」にです。「蔕」は「萼(がく)」であり、古風には「臍(ほぞ・ほそ)」とも。植物の生育には不可欠の機能を持つ。人間の「蔕」は「臍(へそ)」で、即ち「いのち(母子)の絆」の印。故に「背に腹は変えられない」のです。駄文の心らしきものは、「蔕」つまりは「臍」の如き。(2024/05/16)