十年一日のごとくという「非凡」

◯ 週のはじめに愚考する(拾七)~ 「十年一日」などといいます。多くは「進歩」や「発展」のない、停滞や惰性の連続を貶めるような意味合いで使われるでしょう。長い期間、まったく変わらない生活をする様を否定しているようにも聞こえます。「君は、まるで十年一日のごとく、日を送っているではないか」と。若い頃、ぼく自身もこのような「変化・進歩」のない(と見られる)生き方や状態を呪ってみたくなっていたと思う。(ヘッダー写真は「御母衣ダム完成以前の水没地域の写真から」:https://kaerigumo.jimdofree.com/) 

 なんの根拠もなく、「平凡」は「陳腐」で、それを恥じるような思いを持っていた。それがいつの頃からか、おそらくは三十過ぎてからだったと覚えていますが、「平凡」であることが、けっして「平凡」ではないことに気が付き、むしろ、それは常人(じょうじん)のよくするところではないということに驚愕したのです。「平凡」に徹すれば、「平凡」である精神を否定しないこと、それこそ「非凡」だと気がついてきたんですね。それは、平凡も非凡も同じことの「裏表」なんだ、と。

 毎日毎日いささかの変わりもなく、同じ生活を重ねるということの難しさは「三日坊主」という、厭性(あきしょう)の他者への侮りや蔑みの言葉によっても表されているでしょう。これは大事なことだから、長く続けようと決心はするが、いつも長続きしない。いい例ではありませんけれども、「日記を書く」「禁煙する」「禁酒を続ける」などはその典型かもしれない。また、「ジョギング」「散歩」なども健康のためと長く続けたいとは思うが、気がつけば、いつの間にか挫折している。ことほど左様に、一つ事を長続きさせることは「平凡」であればあるほど、考えるほどは簡単ではないという、そんな経験は、ほんものの「三日坊主」にはできない相談なのでしょう。一万日(二十七年余月)、一日も欠かさず山に登り続けた超人がいました。もちろん、仕事は別にあった。交通事故で入院中も登りつづけた。ここまで来ると、狂気そのものか。

 昨日の「筆洗」に懐かしい人の名前を見出して「ああ、佐藤さん…」と口に出していました。この人のことを知ったのは何時のことだったか。もちろん、上京(大学入学)してからで、それでも三十歳前だったと思う。ある雑誌だったかで、「壮大な計画」を実行しようとしているバスの車掌さんがいるという記事を読みました。「破天荒」「驚天動地」、「なんと酔狂な」、それでいてなんとも言い尽くせぬ驚きをぼくは感じました。中学を卒業し「国鉄(当時)」に勤務。名古屋から金沢までの長距離バスの車掌をする。御母衣(みほろ)ダム湖の底に沈む村人の思いを残した「荘川桜」の運命に深く動かされ、その感動を胸に“太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぼう”と一念発起された。「壮途」と言うべきでしょう。あるいは、むしろ「無謀」と批判されたのだった。

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【筆洗】岐阜県白鳥町(現郡上市)に生まれ「奥美濃の桜守」といわれた佐藤良二さんの生涯は映画にもなった▼かつて名古屋から白鳥を経て金沢まで結んだ国鉄バス名金線の車掌。病で早世するまで自費で路線沿いに桜の苗木約2千本を植えた▼始めたのは、白鳥の北の飛騨の山あいに昭和35年に完成した御母衣(みぼろ)ダムのほとりで、ダムに沈んだ集落から移された桜が花を咲かせたことに感動したため。花は、電源開発のために故郷を捨てざるを得なかった住民を慰めた。山村の悲しみがあったから、奥美濃の桜守も生まれた▼佐藤さんを称(たた)え名古屋から金沢まで250キロを走るウルトラマラソン「さくら道国際ネイチャーラン」が先日、30年の歴史に幕を下ろした。最後の大会は名古屋をスタートし、佐藤さんの故郷、白鳥がゴール▼白鳥などの住民がボランティアで運営を支えてきたが、高齢化し人手確保が困難になったことが閉幕の理由という。先に民間組織が、人口減少が進んで自治体運営がたちゆかなくなる「消滅」の可能性があるとみなした744市町村を公表したが、郡上市も入っている。御母衣ダムの悲しみもあった昭和より、日本の山里は苦しくなった感がある▼佐藤さんは「花を見る心がひとつになって、人々が仲よく暮らせるように」と願っていた。それをこれからも続けるには何が必要か。試行錯誤を続けるほかない。(東京新聞・2024/04/27)

● 佐藤 良二(サトウ リョウジ)= 昭和期の市民運動家 元・国鉄バス車掌。 奥美濃の桜守。生年昭和4(1929)年 没年昭和52(1977)年1月25日 出生地岐阜県郡上郡白鳥町 経歴昭和20年16歳で国鉄に入り、41年名古屋から金沢まで、岐阜の山間部を走る国鉄バス・名金線の車掌に。「自分はどう生きるべきか」を考え続けていた時、沿線上で樹齢400年の“荘川桜”に出会ったのがきっかけで、“太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぼう”と30万本の植樹を計画。52年難病で47歳の若さで命を失うまで、11年間に2千本を植え、“奥美濃の桜守”といわれた。59年NHKでその生涯をたどるドキュメンタリー「桜紀行―名金線・もう一つの旅」が制作され、好評を博す。62年同作品のデレクター・中村儀朋(NHK名古屋放送局)により、遺作の手記などを再構成した「さくら道―国鉄バス車掌佐藤良二さんの生涯」が出版された。平成6年には映画「さくら」(神山征二郎監督)が故郷で封切られる。また、姉のてるさんによって“桜守”の夢が受け継がれている。(20世紀日本人名事典)(⏩️写真は「荘川桜・今年のもの」:http://www.shokawa.net/introduction/452)                                                         

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 佐藤さんが「昭和35年に完成した御母衣(みぼろ)ダムのほとりで、ダムに沈んだ集落から移された桜が花を咲かせたことに感動した」、その桜の移植に尽力した人が笹部新太郎さんだった(⏪️写真)。笹部さんについては、稿を改めて書いてみたいが、この国の「山桜」を語るには忘れてはならない、怪物であり、「桜守」でした。今でも「伝説の人」のようにみなされています。若い頃、佐藤良二さんの「一念発起」を知るのと同時期に、ぼくは笹部さんについても学び始めました。親父の遺言を守り通した「平凡一徹」の人だった。「いくらも財産はあるから、勤め人などにはなるな」「人のため、世のために、全部使ってしまえ」という恐るべき「父の遺言」でした。息子は、それを忠実そのものに、使い尽くした。凄い父子がいるものですね。

 ぼく自身は貧しい「桜体験」しかなかったが、そんな人間にも、もう一人忘れられない「桜守」がいました。佐野藤右衛門さん(第十四代)です。家業は京都仁和寺居付きの植木職人で、寺の近くの「山越」に広い苗床を所有していて、その近所に住んでいた、小学性のぼくは隙さえあれば、そこ(苗床)に入り込んでは、時に、桜について佐野さんから話を聞くことがありました。

 一つ仕事をなし続けることは端倪すべからざる偉業だと思う。並外れての「厭性」であるぼくには考えるだけでも気が遠くなるのです。「この道何十年」と評される人は、たくさんいるでしょう。しかし、佐藤良二さんや、その師匠に当たる笹部さんは、職業としての「桜守」などではなかったところに、ぼくは「偉大さ」「敬意」すらを覚えるのです。樹齢何百年という桜木の寿命から見れば、人間の生涯は短すぎるし、その短い人生の中でも「余業・余技(無償の行為)(今で言うンボランティア活動)」に割ける時間は極めて限られてきます。にも関わらず、短い人生を生きて桜に繋いでいった人々に、ぼくは限りない敬意と哀惜の念を忘れられないのです。

 「十年一日のごとく」、これは、ぼくの生活(生き方)の背骨になっています。

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*少し長い蛇足 大学に入学した年にT書房の雑誌「展望」が再刊された。その第一号で「D賞」を設けたという記事が出ていました。ぼくは、その当時は「小説」の真似事を書き初めていましたので、できれば応募したいと、翌年だったかに出すつもりで書いてみたが、締め切りまでには間に合わなかった。当選作が発表されたのを後日知りました。受賞者は吉村昭さん。当時でも、すでに高名な作家だった。受賞作は「星への旅」だったと思う。1966年、大学三年生だった頃でした。長い間、「星への旅」は読まなかった、というより読めなかった。(⏪️移植後の荘川桜)

 吉村さんの作品で深く動かされたのは、その後に出された「水の葬列」だったと思う。黒四ダムが話題になっていた時期、ダムの底に水没する村人たちの「無言の行為(振る舞い)」が、とても不気味・凄烈に思われたのでした。ずいぶん後になって「星への旅」を読んで、ぼくは頭を金槌で殴られるほどのショックを受けた。以来、「小説」を書くなどとは言え(言わ)なくなった。

 当時、この国は「高度経済成長」期に入っており、電源開発は喫緊の課題だった(原発設置はまだ)。御母衣ダムは黒四ダムの直前の大工事でした。その際に大きな話題になったのが、「荘川(しょうかわ)桜」の移植だった。これを一人で受け入れたのが笹部新太郎さんであり、その「荘川桜」の見事さに打たれて、たった独りで、仕事の合間をぬって「桜のトンネル」を作る決意をされたのが佐藤良二さん。いわば、「笹部から佐藤へ」の因縁が「飛騨の桜守」を多くの人々に記憶させたのでした。(⏩️東名高速道建設)

 それ以降も「高度経済成長」という魔物は、この国のあらゆる場面に出没した、幹線道路、新幹線、高速道路などなどの建設は、それこそ「日本劣島」を完膚なきまでに改悪・改変してしまいました。「ダム湖底に水没」したのは、村の家屋や自然環境だけではなかったし、新幹線や高速道路建設で立ち退かされたのは、生活の基盤だった土地や家屋だけではなかった。それは「人間の生活」そのものであり、「人々の紡いできた歴史」それ自体だったと言わなければならない。単に桜が綺麗であるとか、桜の開花が見事であるるというのではなく、「桜の森の満開の下」に「人間の生きた証(死体)」が埋められているという安吾さんの、そんな思いがぼくには「桜」を見るたびに過(よぎ)るのです。

 もちろん、これは決して「桜」にかぎったことではなく、さまざまな場面における「歴史の否定」や「歴史の改竄」に繋がるのではないかという恐れを抱くのです。「文明という名の暴力」「時代の圧力」です。ぼくが上京したのは1963年3月だった。東京都内では「首都高速」建設の真っ只中。当時、ぼくは森鴎外の「普請中」という小説を読んだばかりだった。その後、長い間、頭の中には「普請中(Under construction)」という言葉がこびりついてしまった。「普請」するのは「破壊(destruction)」の後だとわかれば、それは無条件で喜ぶものではなくなったのです。ダム湖の底に沈むのは「土地や家屋」だけではなく、そこで生きて暮らしていた「人間の生活」「歴史」そのものも含まれる。まるで「生きたままの埋葬」だったと思った。(⏪️首都高・日本橋)

 上京以来、六十年近くが経過しますが、この劣島は今なお「普請(破壊)中」の看板を高々と掲げては、その周囲を無数の魑魅魍魎が蠢(うごめ)いている。浅ましい限り、とぼくには写ります。浮かれ気分で見ることができないのは「桜花」ばかりではありません。「時代遅れ」になるのもまた、ぼくの生き方の方法(文化)です。他人はいざ知らず、ぼくにとって過剰な「アップデート」は危険ですね。

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投稿者:

dogen3

 誰に読んでもらう当てもなく、何かの主張を声高に訴えるでもなく、日々息を潜めて生きている感覚そのままを、拙い言葉に置き換えるとどうなるか。それが、「駄文」書きなぐりの内情です。書き始めの際、一友人が「毎日書く? いつまで続くかね」と慢侮に及んだ。「朝飯を食べるように」と、応じた。そんな安気な姿勢をもう少し続ける。なけなしの記憶力の衰えは消えぬが、それをも意に介さず、私意そのままに。さて、「朝駆けの駄賃」と行くかな。(2024/04/03)