今を知り 過去を学んで 明日を読む

◉ 週の初めに愚考する(拾四)~ 面白いと言うべきか、当然の成り行き(現象)と言うべきか。もはや旧聞に属するが、中國新聞の以下の記事には大いに考えさせられた。【地方紙年頭社説を読む】問題は「社説」(「論説」)の存在の可否自体を直撃している。以前からぼくは「社説は盲腸だ」「単なる大言壮語」「後出しジャンケン」「対岸の火事視」「自分のことは棚に上げ」などと、無責任に茶化し揶揄すような気持ちを隠さなかったが、ここまで来ると、「盲腸」どころではない。そもそも、それはあってはならぬもの、存在価値はどこにもないとは言い過ぎだが、現に「社説」のない新聞もあるほど。となれば、新聞そのものの値打ちが問われることにもなろう。もちろん、新聞記事(「社説」)は予想でも願望でもないはずで、まして、「年頭社説」なら尚更その感は強い。一月元日の紙面は前日には大方が作られている。その後に、何が起ころうが、掌握しきれないのは当たり前だが、「内外情勢を見渡し、張った論陣は新年早々、震災で問い直された。『羅針盤』に、油断や死角はなかったか」と問う中國新聞の指摘・批判は一考に値する。

 ジャーナリズム・メディアの著しい劣化が指弾されて久しい。「報道と論評」からなるその役割機能に言及されることが多いが、むしろ、内容そのもの以前に「姿勢」が問われているのだ。「羅針盤」がその使命を果たしていると思われないことしばしばであり、「報道」の方向や姿勢が著しくお座なりになっていないか。素人の偏見や誤解を承知で言うなら、地方紙は「町内会報」で十分という気もしている。(その関連で言うと、いわゆる「全国紙(大手紙)」は、せいぜい県報(市報)ぐらいが関の山だ)「天下国家を語る」のは野暮とは言わないが、あまりにも荷が勝ちすぎる。「書くだけ」のことなら、書かぬがいい。地方紙の「社説」に求められるものは多様だろうが、何よりも地域に根ざした「(他にない)感覚と理知」だと愚考している。その一例だが、百五十年前、「自由民権は土佐の山間から」と「論陣」を張った一新聞は、直ちに権力の弾圧を受け廃刊に至るが(高知自由新聞・明治十五年七月十四日)、だからこそ、「論陣(土佐人の「感覚と理知」に拠る)」の使命は存(ながら)えたとも受け止められよう。

 いま「国会議員」の退廃堕落が空前の規模(深さと広がり)に達していることに鑑み、各地区選挙民の「選挙・投票意識」をこそ問い糾さなければならない。「政治資金パーティ」という虚偽看板による「裏金」搾取を許す選挙民体質が全体に蔓衍しているからこそ、国家存亡の事態を迎えているのだ。それでありながら、巨悪盟主国との付き合いを断ち切れないまま、現政権及び政権党はその命令を諾々と受け入れている。全体の危機は、各地域に存廃の危機をもたらさないはずはない。まさに「運命共同体」なのだから。とするなら、「地方紙」の役割はおのずから明らかにされるのではないか。「選良」がその任に耐えずして、過ちに過ちを重ねており、しかもそれを、地域において等閑視するようでは、社会に「民主主義(デモクラシー)」の機運は生まれないし、ましてや健全な社会(人権の尊重される時代状況)の創出は絵空事(画餅)となろう。「羅針盤」の機能不全の主因は何処にあるか、毀損箇所は奈辺にありや、それが見つかるとして、はたして、回復・修繕は可能かどうか、改めて質されなければならないだろう。(satoshai yamano・2024/04/07)

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元日の震災 「羅針盤」問い直す【地方紙年頭社説を読む】 元日の夕べに大地震に見舞われた今年、3日付の新聞は、元日付紙面とは天と地のような開きを見せた。年頭社説も例外ではない。内外情勢を見渡し、張った論陣は新年早々、震災で問い直された。「羅針盤」に、油断や死角はなかったか―。新年紙面を交換した地方紙各紙の年頭社説を読んでみる」「ジャーナリズムの両輪は報道と論評だと、元通信社記者で創価大教授だった故新井直之さんがかつて論じていた。/〈いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う〉。前段が報道、後段が論評である。/いまは各紙とも被災地の実態に目を凝らし、耳を澄ます、時々刻々の報道が先行している。今回の震災を踏まえ、いずれ論評の「羅針盤」を点検する必要もあるだろう。(以下略)(ヘッダー写真も)(中國新聞・2024/01/18)(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/412816)(⏪️写真は中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター・2023/01/12)

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【明窓】明窓・4月6日は新聞をヨム日 当欄を担当する論説委員になって丸12年が過ぎた。生まれたばかりの赤ちゃんが小学6年生になる歳月。手がけたコラムは500本を超えた。▽ただ上には上がいる。先日の本紙「新刊」コーナーで紹介したが、神戸新聞の1面コラム「正平調(せいへいちょう)」の執筆を通算16年間務めた林芳樹さんが手がけたのは1927本。同じ「コラム書き」ながら、とても足元にも及ばない。▽論を説かず、情けを語り、光の当たらない一隅を照らし続ける。林さんはそう心がけていたという。新聞の1面コラムは読者の喜怒哀楽に寄り添い、頭ではなく心に訴えかけるのが真骨頂。「情けを語る」とは言い得て妙だ。▽ただし「論を説く」のも文字通り、論説委員の役割。新聞社の考えを表す論説(社説)も担うが、コラムに比べお堅いせいか読者の覚えは芳しくない。小説家丸谷才一氏は新聞社の女性論説委員と政府の攻防を描いた長編作品『女ざかり』(1993年刊行)の中で<新聞の論説は読まれることまことにすくなく、一説によると全国の論説委員を合計した数しか読者がいない>と揶揄(やゆ)していた。▽他紙の仲間と顔を合わせると必ず話に出るのが「どうすれば論説を大勢に読んでもらえるか」。写真を付けるなど試行錯誤しているが、要は読み応えだろう。本紙では3面左上にある。試しに目を向け、頭で感じてほしい。きょう4月6日は語呂合わせで「新聞をヨ(4)ム(6)日」。(健)(⏫️写真は本紙3面に掲載している「論説」記事の一部)(山陰中央新報・2024/04/06)

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 「<ぎろんの森>過去を学んで 明日を読む 春の新聞週間」がきょうから始まりました。新聞社などが加盟する日本新聞協会の行事で、進学や就職の機会をとらえて新聞購読を呼びかけています。初日を4月6日としたのは「新聞をヨム日」の語呂合わせ。少し宣伝になりますがお知り合いに新聞購読の輪を広げていただければ、私たちの励みとなります。/新聞週間は秋にもあり、秋は1948年、春は2003年に始まりました。秋は毎年、新聞の在り方を示す標語を皆さんから募集、発表しています。23年度の代表標語は「今を知り 過去を学んで 明日を読む」でした。/東京新聞では春と秋の新聞週間を前に毎年2回「新聞報道のあり方委員会」を開き、識者の委員に本紙の報道について検証していただいています。詳しくはこの朝刊の8、9面をお読みいただきたいのですが、報道、論説に携わる私たちには自らを振り返る貴重な機会となっています。(⤵️

 (⤴️)新聞週間が始まったのは戦後間もない時期でした。当時の代表標語には二度と戦争の惨禍を繰り返さない決意があふれています。例えば第1回の1948年度は「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」=写真、同年10月1日の東京新聞1面、第2回の49年度は「自由な新聞と独裁者は共存しない」という具合。当時の紙面には戦中、真実を伝えず、戦争に協力したことへの痛切な反省を感じます。/新聞協会の一員である東京新聞は今年9月、創刊140周年を迎えます。東京新聞は国民新聞と都新聞の戦時合併で戦中の42年に生まれましたが、140年の年月は前身の「今日新聞」以来、積み重ねてきた歴史でもあります。/東京新聞の社説は戦後日本の平和国家としての歩みをとても大切に考え、少しでも戦争に近づく動きがあれば警鐘を鳴らし続けています。それは本紙を含む新聞が、かつて戦争に協力した歴史への痛切な反省にほかなりません。/私たちの新聞が読者の皆さんにとって標語のように「今を知り 過去を学んで 明日を読む」指針たり得ているのか。深く考える1週間にしたいと思います。(と(東京新聞・2024/04/06)

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余話として 新聞各紙の購読者数は激減しています。一市民として、現状と将来への不安と危惧を隠せない。ぼくは新聞購読をやめて二十年以上にもる。理由は単純。新聞が面白くなくなったのだ。「書くべきことを書き、言うべきことを言う」、当たり前の姿勢が著しく歪んでしまったと、ぼくには写ったし読めたのです。わざわざ偏向している(とぼくが判断した)新聞を読むことはあるまい。おのずから、その代替として「ネットニュース」に軸足を移しました。そこには既存の新聞以上に「偏向」「フェイク」「御用記事」などが溢れていました。状況は悪化の一途をたどっているとぼくには思われる。

 ではどうするか、「報道」のない社会、「メディア不存在」の政府は、物言わぬ集団の屍(しかばね)をもたらすしかないと思うばかりです。そこは、悪辣非道な権力保持者の独壇場であります。清濁合わせ存在する時代社会の現実と将来を見誤らないためにも、ぼくたちは、かしこい「読者」であり、かしこい「有権者」であるための義務を放棄・忘却してはならないでしょう。その「ささやかな義務意識」を喚起してこその「新聞(ネット版を含めて)」ではないだろうかと思う。ネット時代だからなおのこと、「報道」「メディア」の甦生を衷心から懇望している)

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)