
【滴一滴】平櫛田中の代表作 代表作は何か、は作家と周りで見方に違いがあるようだ。ハードボイルド小説で知られる志水辰夫さんが本紙記事で先日、語っていた。「あれを代表作と言われるとね…。僕にとってはただの通過点だから」▼82万部のヒットを記録し映画にもなった「行きずりの街」のこと。その後、時代小説に軸足を移したが、19年ぶりに現代が舞台の長編「負けくらべ」を刊行した。現役ゆえに「新作こそ…」の思いもあろう▼こちらは自他ともに認める代表作である。井原市出身の彫刻家、平櫛田中(1872~1979年)の「鏡獅子」だ。その展示が同市の平櫛田中美術館で先月始まり好評を得ている▼制作には戦争による中断を挟み22年も費やした。「何が代表作かと問われたら、やはり『鏡獅子』をあげます。いい悪いより一番かわいい」と本人のコメントにあった▼モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。手足を左右に開いて腰を据えた姿には力がみなぎる。同美術館で常設されている小さな試作は目にしていたものの、完成品である実物は、やはり迫力が違う▼展示されていた東京の国立劇場の建て替えに伴い、5年半の予定で貸与された。同劇場の新施設は資材などの高騰により入札不調となり、再開場の見通しは立っていない。先行きは気がかりとはいえ、このチャンスに代表作を堪能したい。(山陽新聞・2024/03/21)(ヘッダー写真はRSK山陽放送・2024/02/06)(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rsk/984210?display=1)

強烈な印象を受けた。「衝撃だった」と言っていいかもしれません。大学生になった頃、美術雑誌を眺めていて、百歳の彫刻(木彫)家のインタビュー記事に目が釘付けになった。当時はとてもめずらしいことでしたから、百歳という年齢にも驚いたのは事実、しかも、その方はいまなお現役の作者だったから、驚きは大きかった。その時、写真を見たかどうか記憶にはないが、自宅の庭に「クスノキ」の大木が保存されていて、おそらく三十年分の仕事の材料だと言われていたことに、卒倒するばかりの一撃を食らったのでした。それが平櫛田中さんだった。それ以前には、この彫刻家の作品は殆ど目にしていなかった。もちろん「鏡獅子」は観ていたが。(右写真・六代目尾上菊五郎(1885―1949)「鏡獅子」)
上京したての田舎者でしたから、歌舞伎などはお呼びではなかったし、辛うじて洋画や日本画の展覧会に時々足を運ぶ程度だった。さいわいに、本郷に住んだことでもあり、上野は徒歩で出かける散歩コースだった。寄席(鈴本)や美術館には便利だった。平櫛さんの記事を目にしたのは、おそらく上京後二年ほど経った頃だったか。もちろん、彼が門弟になった高村光雲の作品は知っていたし、その他の彫刻家のものもよく観ていたと思う。それはロダンなどの影響だったかもしれない。上野公園の西洋美術館の前庭は「ロダンの庭」のようなものだったし、彼の生涯や芸術に関する小説などはロマン・ローランの手になるもので読んでいました。今ではすっかり堕落してしまいましたが、青春の意気軒昂というべきだったか、ぼくは方々に出かけ、まるで「野良犬」のごとし、と自嘲していたのでした。

とにかく、飄々と、あるいは淡々と、と言ったらいいのか、ごく普通のこととして「三十年分の木彫の材料です」と語られていたことに、二十歳すぎの青二才は腰を抜かした。その後、東京音楽学校や美術学校の歴史を学び、岡倉天心や横山大観その他の芸術家の生涯に大きな関心を持つようになっていきました。その中でも平櫛田中さんだけは、別格だった気がしました。岡倉天心は彼のことを高く評価し、あるとき、矢を番(つが)えた禅僧を作品(後の「活人箭」◀)にしようとしていた田中に対して天心は、「「そんなことでは死んだ豚も射れまい、彫刻の力だけで表現してみなさい」(骨董品・美術品買取こたろう・https://kotto-kotaro.com/news/detail/hirakushidencyu/)と忠言した。

持ち物(細工)なしで、「緊張感の表現」をいかにして実現するかと問われたのだった。「芸術の表現は理想」であり、それは「平櫛だけにできる」のだと天心は言ったそうです。この明治黎明期、よくぞ天心というパイオニアが存在したことに運命を感じます。(▶は「天心像」)
いつの頃だったか、茨城県の五浦海岸・六角堂に何度か遊んで、天心や彼の仲間・後輩たちの生涯を学ぼうとしていたことが思い出されます。(このことについてはいづれの日にか)

もちろん「鏡獅子」は彩色を施した「彩色木彫」です。その色の下に機能している筋肉どのような状態であるか、それを実際に繰り返した試したのが「鏡獅子試作裸像」(◀)当時は、彩色木彫は邪道だとされていたと言う。それを知りつつ、田中さんは筋肉の動きを確かめた木彫裸像に彩色を施し続けていったのでした。この木彫に彩色を、と依頼されたのが平野富山だった。衣装をつけるのだから、筋肉がどうだこうだということは無用というものだったかもしれない。しかし、「彫刻と彩色の不即不離の関係」を追求し続けていた平櫛田中さんは、全幅の信頼を寄せて富山(ふざん)氏に、すべてを委託したのだった。

「旧清水市江尻に生まれた平野富山(1911~89)は、日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872~1979)から絶大な信頼をおかれ、田中作品の彩色も手掛けた彩色木彫家です。18歳で単身上京した富山は、人形師・池野哲仙(いけのてっせん)(1880~1936)に入門。木彫の彩色法を学びます。/能や歌舞伎、神仏、歴史や神話、そして女性美と様々な主題に挑み、日本彫刻の伝統にある"彫刻と彩色の不即不離の関係"を追及した富山の作品は、まるで生けるが如く、見るものに迫ってきます」(「清水が生んだ彩色木彫の名匠・平野富山」常設展・静岡市:https://www.city.shizuoka.lg.jp/s9635/s005111.html)
よっ!鏡獅子 平櫛田中の代表作、21年ぶり「里帰り」 岡山・井原 岡山県井原市出身で日本近代彫刻界の巨匠といわれる平櫛田中(ひらくしでんちゅう、1872~1979)の代表作「鏡獅子」が、21年ぶりに「里帰り」を果たした。市立平櫛田中美術館で常設展示され、見る者を圧倒する力強さと美しさにあふれる姿を間近で楽しむことができる。/鏡獅子は高さ2・32メートル、幅2・46メートル、奥行き1・82メートルの彩色された木彫作品。新歌舞伎十八番の一つ「春興鏡獅子」を舞う六代目尾上菊五郎をモデルとする。64歳だった1936年に着手。戦争の激化などによる中断を経て、86歳となった58年に完成した。(後略)(朝日新聞・2024年2月27日 10時15分)

● 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872―1979)= 彫刻家。岡山県生まれ。本名倬太郎。大阪で人形師中谷省古に木彫技術を、1897年(明治30)上京して高村光雲(こううん)に木彫を学んだ。早くから日本美術協会、東京彫工会などで活躍し、文展にも第1回展(1907)から出品している。1908年(明治41)岡倉天心(てんしん)の指導のもとに山崎朝雲(ちょううん)、米原雲海(よねはらうんかい)らと日本彫刻会を結成。14年には日本美術院の再興に参加、彫刻部同人として活躍した。37年(昭和12)帝国芸術院会員、44年帝室技芸員。44~52年東京芸術大学教授を務め、官展の審査員も務めた。55年(昭和30)文化功労者、62年文化勲章受章。練達した彫技法に基づく写実的な作風が特色で、おもな作品に『転生(てんしょう)』『天心先生像』『降魔』『鏡獅子(かがみじし)』などがある。69年、生地井原市に井原市立田中美術館が開設され、72年から彫刻振興のための平櫛田中賞が設定されている。(ニッポニカ)

● 尾上菊五郎(六世)(1885―1949)= 5世の長男。本名寺嶋幸三。1903年(明治36)2世丑之助(うしのすけ)から6世を襲名。幼時から9世市川団十郎に預けられて指導を受けた。大正期に二長町(にちょうまち)の市村座で初世中村吉右衛門(きちえもん)とともに「菊吉時代」とよぶ活気ある一時期を形成した。時代物、世話物、舞踊のいずれにも優れ、古典はむろんのこと新作にも意欲的で多くの傑作を生んだ。近代的で進取の気性に富んでいたので、古典を新解釈、新演出で演じ、また日本俳優学校を設立して校長となり、後継者の育成にも力を尽くした。1947年(昭和22)日本芸術院会員。昭和24年7月10日没。没後文化勲章を追贈された。芸談集『芸』(1946)、『おどり』(1948)がある。(改訂新版世界大百科事典)





平櫛田中さんが100歳のときに購入した彫刻用のクスノキの原木だという。小平市内にある「平櫛田中彫刻美術館」(旧邸)の庭に置かれています(上写真、左から二枚目)。何度も小平市に足を伸ばしましたが、ついぞ寄り道をしたことがなかった。都下の、この近辺には数多くの美術館や文学館などがあります。そこに足を踏み入れて、往時、先人を偲ぶという関心は、ぼくにはほとんどないのですから、不思議な気もします。つまりは「名所旧跡」は好みに合わぬというのでしょうね。平櫛さん、都内に住んでいたのを、近辺の景観に惹かれて小平市に移住したのが九十八歳だったと言うのですから、この人の人生観はどういうものだったか、誰だって興味を持つでしょうね。


ぼくの師とも言えそうな人が、晩年に入ったと思われるのに大量の図書を購入していました。家人や知人に咎められ「そんなに買って、どうするんです?」と訝(いぶか)しがられた。当時、八十を相当に超えていた。「ゆっくり、二、三十年もかけて読むよ」と平然と言っておられた。「急いだってしようがないじゃないか」ってね。ぼくは、足元にも及ばないと思わされましたね。上には上が、というべきか。(◀は田中書)
「明日に繋がる読書がある」「十年後に生きてくる読書もある」と、堂々と言ってみたい。
_____________________