
【有明抄】農山村たたみ論 山奥にポツンと建つ民家を訪ねるテレビ番組がある。昔は集落があったが、徐々に減って1軒だけ残ったり、定年後に誰も居なくなった生家に戻ってきたり。住人の人生や地域の変遷が垣間見える◆「限界集落」という言葉が登場して久しい。65歳以上の高齢者が住民全体の50%以上を占める過疎地域の集落を指す。70%を超えると「危機的集落」、1軒だけになると「廃村集落」、誰もいなくなれば「消滅集落」などと区分される◆人口減少が進む中、農山村のすべては守れないとして「選択と集中が必要」とする声が増えてきたという。明治大学の小田切徳美教授は「あたかも店をたたむように一部の集落を閉じろという議論であり、『農山村(集落)たたみ論』と呼んでいる」と書いていた◆たたみ論の論拠は効率性であり、最終的には財政問題に行き着く。能登半島地震のニュースを見ていると、被害を受けた過疎の集落が映る。住民は戻ってこられるだろうか。人口減少に自然の災禍が追い打ちとなり、たたまれる集落が増えるのはつらい◆集落の維持は被災地に限らず、全国的な課題である。小田切教授は「持続的低密度居住」の政策構想と実践の積み重ねを求める。たたまずに済むように、人口減少を食い止める施策の一方で、どんな低密度の地域づくりを進めるかも考えていきたい。(知)(佐賀新聞・2024/02/08)

若い頃、三十代から五十代にかけて、夏休みを利用しては山登り、冬はスキーを楽しんでいました。どちらも、素人の域を出ないもので、それでも十分に満足していました。ぼくは能登半島の中ほどの七尾湾側にあった村で生まれました。鹿島郡中島町字上町(熊木村)というところ。まったくの農山村であり、七尾湾では牡蠣(かき)の養殖をしていたことを記憶しています。ここは、母親の実家のあるところで、小学校の三年生頃までいて、その後は京都に出ました。いわば、戦時中の疎開地で生まれた子どもだった。京都に行くまでの七年ほど、それはぼくには「うさぎ追いしかの山 小ブナ釣りしかの川」だった。学校での記憶はあまりいいことはなく、むしろ山野を駆けずり回っていた景色の記憶が強烈に残っている。

当時の村や町の人口がどれほどであったか、農林産業の規模はどうだったか、まったく知らないままで、田植えや稲刈り、あるいは畑での野菜造り(手伝い)に時間を取られていた。村で電気が通じたのは昭和二十五、六年頃だったか、村総出で提灯行列をした中にぼくもいた記憶があります。普段は、今で言う里山に入り、焚き木になる木々の枝などを取りに頻繁に出かけていた、野生の果物や木の実を採集することもぼくの仕事の一部だった。今回の能登半島地震で、この生地は大きな被害はなかったようですが、隣町の穴水や輪島は相当な打撃を受けていた。災害からの復旧も進まず、聞こえてくるのは「棄村」「棄民」といった、とても悲観的な叫びばかりだった。限界集落や危機集落などと呼ばれる集落が大半であってみれば、そんなところに大きな予算をつけて復興や再生の政策を実施するのは無駄ということになるのでしょう。これは考えてみれば、極めて歪(いびつ)は発想で、その根本には「人間尊重」などという姿勢は欠片(かけら)も見られないと、ぼくは深刻に、しかし執念深く憤ってきたのです。

若い頃の山登りをしばしば思ってみます。大変に苦しい思いをして頂上まで登る。何度も挫折しかけては、仲間と互いに助け合って、ついに山頂に立つ。その景色は言うまでもなく、自分の足で登りきったという満足感には強いものがありました。大半は二、三泊での登山行でしたから、朝早くに起きてはまた歩き出し、そして下山する。登り以上に、ぼくには下山は楽しいものだった。好天に恵まれれば、ゆっくりとあちこちを彷徨う余裕もあったが、悪天候で、時には台風に遭遇して、閉じ込められたり、身の危険を感じては下まで、ようやく降りたことが何度もありました。ぼくが、この登山・下山で学んだことは少しばかりです。最も大事なこととして「登りがあれば、下りがある」「昇るのと同じように、下ることも大切な経験だ」ということでした。
こんなことを言えば笑われることは承知で、一人の人生も「登山と下山」が準備されているということです。人生のピークとなるのはいつ頃か、それは時代によって、人によって「標高(頂点)」は異なるでしょうが、概ね四十代か五十代、そこから後半生が始まると言っても間違いではなさそうです。「頂上」に向かって精力・体力を使い、「頂上」から下って、人生の幕を下ろす。その上り下りの途中には思わない事件や事故が起こることは言うまでもありません。この「人生登山」という比喩は「企業」(会社)や地域社会(地域・集落)についても言えるでしょうし、さらには国に関しても同じことが見られる。「少子高齢化」という現象は、一仕事を終えようとする人生(企業・社会や国家)の後半の姿だと見られないでしょうか。
「末期の病」(要ターミナルケア)だからこそ、いっそう手を尽くし、心を込めて塩梅(介護・介助)することが求められるのではないですか。どうせ死ぬのだから、無駄な手数や金を掛ける必要ないのだと、そんなことを言う人があるなら、ぼくたちはその人に対してなんと言い、どんな感情を抱くか、それを考えてみたいのです。地域そのものが「限界」を迎えると、それはもはや放棄するしかないと、必要なインフラを含めて「供給」を拒絶するのでしょうか。

結論はない。しかし、この国で起こっていることは「邪魔者は消えろ」「高齢者は集団自殺すべし」という狂気の呪いです。人命が日に日に失われている、そのさなかに、望まない「戦争」に向かうための「国防」に信じられない税金を投入する。政治資金に名を借りた「裏金」づくり、つまりは「脱税」に明け暮れている、こんな政治家の跋扈する国に、悔しいけれど、明るい未来があるとは思えないのです。国民の命を守るのではなく、国防という名の「軍事経済」の成長を狂喜して待望している輩共による支配権力の行使です。「老人医療」に税金をかけるのは無駄、浪費であり、もっと必要なところに金を回せという狂った発想は、「経済成長」という悪夢の再来を期したいという算盤勘定の仕業でしょう。一生懸命に生きて、そしてやがて死を迎える、その「生死」いずれにも等しく大切な人生という価値が刻まれているのです。
何百年、あるいは何千年という時間単位でしか歴史や展望を見ようとしない人々には、現下の「社会の老化」は耐えられないのですね。だが、登ったら、それと同じだけの下りがあり、その上り下りが揃って初めて、一つの「全体」であるということ、人間や人間集団にも寿命というか、終わりがあります。まるで「延命装置」を全身に装着して命を長らえる、それも一つの人生です。しかし、それとは別の生き方死に方があるのも事実でしょう。
「能登半島地震のニュースを見ていると、被害を受けた過疎の集落が映る。住民は戻ってこられるだろうか。人口減少に自然の災禍が追い打ちとなり、たたまれる集落が増えるのはつらい◆集落の維持は被災地に限らず、全国的な課題である」(「滴一滴」)ぼくが今住んでいる地域の「郷土史」を役場の職員からいただき、暇にあかせて読んでみました。縄文時代から始まって、今日に至る記述が見られますが、その記述(歴史)の五割は霧の中だし、残りの五割も、個人や集団ではなく、地形であり風景・景観が主役になっています。人は生まれて死ぬ、集団(村)も形成されて、いずれは消滅する。それで何の不満があろうか。ぼくはそのように考えています。この村は不滅だ、この国は滅びないと言って、たかだか数百年。つまり、人生の真実に即して物事を判断すれば、消えかかるものを阻止したり、死滅しかかっているものに延命措置を施すというのは、いかにも不自然な仕打ちです。

ぼくが生まれた八十年近く前、この社会の大半は「限界集落」だったのだと思う。その「限界集落」の「限界」とは「身の程を知る」という「分」や「分際」を弁えて「自足」していた(と言いたい気がする)、自給自足に近い生活で暮らしていたのでしょう。
馬鹿話を最後に。いつだったか、白馬岳に登った際、頂上の山小屋で「フランス料理」を提供すると聞いた。お客はヘリコプターで運ばれてくるということだった。頂上の山小屋が粋なレストランに変貌し、正装した愚か者が食卓についている場面を想像して、ぼくは興ざめしたことがありました。ぼくの束の間の「登山病」が止んだのは、その直後だった気がします。自分の足で登り、自分の足で降りる、それが「生きる」ということ。「自給自足」という暮らしのスタイルはあらゆる事柄に通じているでしょう。「自分のことは自分でする」、これができなくなれば、否応なしに「限界」を迎えて、やがては「廃人」、そして「消滅」です。
(この島の至る所が、「兵(つわもの)どもが夢の跡」ではないでしょうか)(ささやかな山埜流の「人生たたみ論」でしたね)
__________________________