100から7を順番に引いてください

【いばらき春秋】認知症研究の第一人者で、ケアの普及や啓発に努めた長谷川和夫さんは生前、「認知症になった認知症専門医」として多くの言葉を残している。「信頼と絆こそが基本でありゴール」。受け止め、支え合う仕組みを求めた▼高齢化に伴い認知症患者は増え、県内でも対策が進む。見守りができる店舗などを県が認定する「認知症の人にやさしい事業所」は1700カ所を超えた。今後も増える見込み。個人を取り巻く地域の理解は欠かせない▼本人や家族などが安心して過ごす場所に認知症カフェもある。専門職を交え各地で開かれ、情報交換や出会いの機会を提供。外へ出て人と会話することで予防につなげる▼つくば市内で今週、大型商業施設内のコーヒー店に交流の場が設けられた。住民が主体となり、多世代の参加を目指す。認知症という名称を冠せず、誰でもふらっと立ち寄れる新たな形を模索中だ▼民生委員や住民同士で声をかけ合い、約20人がテーブルを囲んでお茶を飲み、話に花を咲かせた。80代の男性は「1人暮らしで声を出す機会があまりない。来て良かった」と語った▼長谷川さんが理想としたのは、認知症になっても大丈夫だと誰もが思える町づくり。地域の在り方が問われている。(滝)(茨城新聞クロスアイ・2023/10/21)

 (長谷川和夫・聖マリアンナ大学名誉教授、老年精神医学・認知症の研究者:1929ー2021)

 ぼくは一度も入ったことはありませんが、各地で「認知症カフェ」が賑やかに開店・廻転しています。おおよその状況は色々な情報・報道で知っていました。いつも聴いている「ラジオ深夜便」では毎月のように「店内の様子」が放送されています。孤立しがちな人々が、「同病の誼(よしみ)」で時々顔を合わせて話す・語るのはとてもいいこと。現地集合、現地解散のピクニックのような瞬間です。何時だって一人というのは、誰にとっても、年令に関係なく、時には気分的に折れそうになることがあるでしょう。ぼくは、若い頃からいわゆる「アルツハイマー型認知症」とされた人々を知っていました。隣近所や親戚のなかに、それなりの高齢者で、かかる症状に襲われている方が多くいましたから。誤解されそうですが、「明日は我が身」と思わないでもなかった。実際には「今日の我が身」ではありますが。それ以上に「認知症」という症例の名付け方(命名)(それ以前は「痴呆症」)に、いまなおしっくり来ないことがあります。色々な辞書類に当たってみても、「症例」は明らかにされていますが、その範囲や症状は千差万別、事程左様に、病気(症状)は個性的なものだということですね。なかなかに把握が困難です。その一例を以下にあげておきます。この「解説」が代表しているというのではなく、この「症例」の概要を把握するのに、少しは有用かもしれぬという程度のこと。

● にんちしょう【認知症】《どんな病気か?》〈認知症には脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症がある〉 中年をすぎると、脳細胞や神経細胞も老化してきます。そのために、もの忘れ、不眠などが目立つようになり、動作も緩慢になってきます。/これは生理的な変化で、多かれ少なかれだれにでも起こることです。しかし、脳・神経細胞の衰えから病的な変化が現れることもあります。/その代表が認知症やパーキンソン病です。/認知症は健忘をおもな症状とし、知的機能が徐々に低下していく病気で、大きく2つのタイプにわかれます。
 1つは脳血管性認知症で、脳梗塞(のうこうそく)や脳卒中(のうそっちゅう)の発作(ほっさ)などにより脳が障害を受けて起こるものです。/もう1つは、脳などに障害がなく、原因がわからないアルツハイマー型認知症です。脳血管性認知症が急速に発症するのに対し、アルツハイマー型認知症は段階的に症状が進行していきます。/最初は、今日が何日か、といった時間の感覚が失われ、しだいに自分がいる場所もわからなくなります。さらには幻覚や妄想(もうそう)が現れ、社会生活や日常生活にも支障をきたすようになります。/従来、日本では認知症の6割が脳血管障害によるもので、アルツハイマー型は3割程度とみられていましたが、近年は脳血管障害だけによる認知症はそれほど多くないと考えられています。/最近の研究では、脳内のアセチルコリンという神経伝達物質の減少がアルツハイマー型認知症の発病に関係していることがわかってきました。また、この病気の人にみられる脳・神経細胞の萎縮(いしゅく)や脱落は、活性酸素の害が影響をおよぼしているとも考えられています。(食の医学館)

 これまでに何度か、「認知機能検査」なるものを、ぼくは経験しました。第一は運転免許証更新の際の「検査」で、これまでに三回。さらには長谷川式簡易検査を何度か。この長谷川式評価スケールは、現役職業人時代の「授業」の教材として取り上げたものでした。検査についての感想はいくつかあります。でも、これは一体何を調べているのか、ぼくにはよく理解できないところがありました。検査(テスト)というものの持つ、一つの限界ですね。この「評価法」では、一定・一部の「記憶力」を測ることはできるでしょう。あるいは単純な計算能力の測定は、あるいは可能かもしれませんが、それ以上に何がわかるのか、ぼくにはよく理解できません。

 高齢者の自動車運転で「アクセルとブレーキ」の踏み間違いが往々にして重大事故につながるという理由で、ある時期からの免許更新の際に「認知機能検査」が課されました。日付や曜日がわからないから「踏み間違い」があるのだということはできません。あるいは「簡単な計算が出来ないから、踏み間違える」ものでもないでしょう。この更新の際の検査の義務化は、要するに、「年寄りは車を運転するな」ということ、それが第一の理由でしたでしょう。「老人を大切にしない社会」の代表として国家公安委員会(警察)があるし、それを支えている政治の「非人情」があるでしょう。みんな、きっと「老人」になるのに、ね。いつでも「運転手付き」という具合にはいかないのだよ。

「●問題1 お歳はいくつですか?(2年までの誤差は正解とする)●問題2 今日は何年の何月何日ですか? 何曜日ですか?(年、月、日、曜日が正解でそれぞれ1点ずつ)●問題3 私たちがいまいるところは、どこですか?(自発的にでれば2点、5秒おいて、家ですか? 病院ですか? 施設ですか? のなかから正しい選択をすれば1点)●問題5 100から7を順番に引いてください。(100-7は? それからまた7を引くと? と質問する。最初の答が不正解の場合、打ち切る)正解;93、86 ●問題6 私がこれから言う数字を逆から言ってください。(6-8-2、3-5-2-9を逆に言ってもらう、最初の3桁逆唱に失敗したら打ち切る)正解;2-8-6、9-2-5-3」(以下略)(改訂版長谷川式簡易知能評価スケールより)

 高齢になると、いろいろな面において「老衰」「耄碌(もうろく)」という「老化(the aging process)」が起こるのは当然です。歳を取るというのは「衰えること」です。それは病気ではない。今でも「死因」の上位に「老衰」があげられる。どこまでくれば「老衰」かという基準があるものでもない。九十になっても矍鑠(かくしゃく)としている人もいれば、六十で「衰えが著しい」人もいます。いわゆる「認知症」のかなりの部分(割合)は、この「老衰」「老化」に入るものであって、まして、それに病気のレッテルを貼ることは、ぼくには賛成できません。数年前に、近所の外来にでかけ、高血圧症という「病気?」と診断された。そのついでに、医師は、目の前にあるいくつかの検査データを見ながら、「あなたは確実に認知症になる」と断言した。それを聞いて、ぼくは二度とその外来内科にはいかなくなった。「君は、きっと老人になる」「あなたは百%、衰えるに違いない」と、そんな当たり前のことを言って何が嬉しいかと腹が立った。医師(会)の横暴ですな。

 細かいことを言えば際限がなくなりますから、これ以上は深入りはしない。総合病院の「物忘れ外来(という偽称。実際は「認知症」発見科だ)」などを覗いてみても、いろいろな検査データを前にして、医師は「脳細胞にに萎縮」があるとか、ないとか。ある種のタンパク質が多いとか少ないとか、そんな評価を下しはしますが、その劣化現象を回復させる、あるいは予防するのは(現段階では)不能だとされます。「患者」を見ないで数字で判断するのですから、ある種の「偏差値偏重」の類なんだね、医者も。点数信仰と言うなら、診療報酬もすべてが「点数」で決められますから、人を見ないで点数を見るというのは、紛れもない医者の職業病ですかね。

 「あなたは認知症です」と診断され、効き目の分からない薬を処方される。病院や医師はそれで仕事(医療行為)をしたことになるかもしれません。でも「患者」はどうなるのか。怪我をして外科手術をする。全治三ヶ月などと診断されれば、患者は納得します。完治の可能性があるからでしょう。それに対して「認知症」はどうか。治る見込みがないどころか、それをいささかでも改善することも困難を極めるとしたら、医師や病院は匙を投げたことになるのです。こんな埒もないことをグダグダ言っていますし、ぼくに妙案があるはずもありません。「不老不死」の妙薬がないように、「老衰」「老化」を阻止する決定薬もないのです。ライザップも有効ではなさそうです。このことは将来も事情・状況は変わらないでしょう。だとすると、年齢にふさわしい衰え方を、個人に応じて見極める処方(医療)というか診断を発見することが求められるのではないでしょうか。

 これは、いわば「個人授業(医療)」に当たります。集団を構成はしますけれど、個々の子どもに応じた「教育」が強調・主張されるのと同じように、個々の「老齢化」に応じた「診断法(教育法)」があって然るべきだと、ぼくは考えています。何年後には高齢者の何%が「認知症」に罹患する、そんな競馬の予想みたいなことを言うより、「子どもたちの成長」には学校教育が必要とされているように、「高齢者の老衰」にも「学校教育、つまりは終活教育?」が求められるのではないか。その第一歩として、名前は気に入りませんけれども「認知症カフェ」は大いに可能性を開く出発点になっていると思います。政治や行政の出番は、ここにこそあるといいたいですね。介護施設もまた「カフェ(学校)」の一種だと、おおいに「オープンエアー」に傾いてほしいですね。(もう二十年ほども前、こんな「学校」「クラブ」を作ろうかなと思い立ち、伊豆の山中に700坪ほどの土地を購入しました。いろいろと事情があって、計画は未然形で、ぼくはすっかり「老衰」「老化」の一途を辿りつつあります)

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)