去る者日々に疎し、想い出の深さ

 取り立てて言うことでもありません。毎年の約束ですから、人それぞれに、そのめぐり合わせを受け取り、あるいは無視すればいいのでしょう。本日は「夏至」だそうです。「のびきつて夏至に逢ふたる葵かな 」(子規)拙宅の荒れ庭にも「立葵」が数本、まさに、上に上にと咲き継いで、ついに今日の日にいたった、そんな感じがしてきます。これは一種の野花で、いつも散歩道を歩いていると、こんなところにと思う場所で、すっくと何本かが立ち咲いているのに出会うと、思わず身がしまるのです。一昨日も触れましたが、荒れ地に野生の花々、こんな風情は、今では贅沢に類するのでしょか。夏前に敷地の草取りを終わり、スッキリした気分で、暑さをしのごうと愚考したばかり。のんびりしていると、もうすっかり元の状態に戻った、いや場所によっては、前よりも勢いをまして繁茂しているのです。「おお、雑草よ」、「見事だな」と呼びかけたくなります。

 随分親しくしていたわけではありません。「去るものは日々に疎し」といいます。鶴見さんが亡くなられて、もう足掛け八年ですね。この人のものほど熱心に読んできた経験というのは、おそらく柳田國男さん以外ではないでしょう。それがどうしたというのではない。まだ大学生の頃から鶴見さんは読み出していました。下の写真の出来事(ゴボウ抜き)は、ぼくの二十五歳くらいの時のものです。もちろん、この時点で、彼の書くものをかなり読んでいたと思う。読んではいたが、よく理解できなかった。後年になってわかったことだが、彼は難解な文章を書いていたのではなかった。逆に、文章は難解でなければならない(というのも変ですが)、そんなものばかりを背伸びして読んでいた頃でしたから、ぼくにはある種の偏見があったんです。学部から大学院に入り、いろいろなことをしようと齷齪(あくせく)していた時代。太陽は東から昇って、西に沈むというような、何の不思議もない、当たり前の文章をぼくは敬遠していたのでした。この時期、フランスやドイツ、あるいはアメリカの思想家の文章を、辞書を片手に読んだ気になっていたのですから、恥ずかしい限りでしたね。

 ある時、どういう拍子だったか、鶴見さんの文章が手に取るようにわかったと思った。本当に理解できたか、じつに怪しいものでしたが、これまでとはまったく違って、新鮮な空気をうまいと感じて吸うような、そんな読書が続いたのでした。嬉しかったですね。とっくに三十歳は過ぎていました。ほぼ同じ頃だったか、文芸評論の柄谷行人さんが新聞に書いていたのを、ぼくは意外の感を持って読みました。鶴見俊輔の書くものは「軽い」と思っていたが、いまでは、「この方法」が市民運動(社会変革)にも大きな値打ちを持っている、この人の思想はいいな、そんな調子の短文でした。社会変革や政治的反抗に資する、有効な方法だということだったでしょうか。ベ平連、その関連での「脱走米兵援助」などの「反社会的行動」を鶴見さんは求めていたのかもしれない。政府や権力に反対するものが「反社会的」であるなら、ぼくはいつだって「反社会的人間」でありたいと思っていた。そのことを、柄谷さんは言い当てたのではなかったか。

 鶴見さんについてなら、いくらでも語れると思う。それは、しかしあまり意味のあることではない。ぼくが彼から学んだものがあるとするなら、大事なことを「一口で言える」人間になる、ということでした。理屈や御託を並べ立てて何かを主張するのではなく、一息で「大切なことを言い切る」という方法だったとも言えます。一本の草花が美しいと思う感覚を大切にすることでもありました。「人間にとって大切なことは?」

 鶴見さんは少年の頃から、ある種の「澱(おり)」のようなものを体内に持っていた。それは後藤新平の孫であり、後藤新平の娘の子であり、鶴見祐輔の息子であるということから来る、ある種の「抑圧」だったかもしれない。彼が書いているだけで、二度三度と、自死を試みている。重度の「うつ病」だった。ぼくにはそんな経験がないので、何も言うことはできません。その「抑圧」は彼を押しつぶそうとしたが、その分だけ鶴見さんは押し返してきた。それが鶴見俊輔という思想家を育てたとも言えるでしょう。反権力の芽生えは、母の胎内にあったときからのものでした。(左は水木しげる「一番病」)

 反社会的であることをいささかも恥じないどころか、むしろ「社会的(体制的)」であることを軽蔑していたと思う。彼の父親は「一番病」にかかっていたと、常に言っていた。鶴見祐輔氏は政治家でもあり売れっ子の作家、評論家でもあった。その父親の「一番病」は、違った意味で母親にもあったという。彼女は「おじいさん(後藤新平)の顔に泥を塗る」ことが一番の「名折れ」(気がかり)で、長男の俊輔にはその恐れ(危険性)が確実にあった、と確信していた。まだ幼少の頃、「おじいさんに申し訳ないから、ここでいっしょに死のう」と、刃物を持って迫ってきたと言う。母親の愛情が、こういう形で襲撃する恐怖はどういうものだったか。家、家族・兄弟姉妹、これもまた、鶴見さんの思想を育てる根本のちからになったでしょう。どこかで、「自分の書くものはすべて、母親への手紙だった」という趣旨のことを言われていた。

<あのころ>鶴見俊輔氏らをごぼう抜き 反安保で座り込み 1970(昭和45)年6月21日、機動隊員に運ばれる哲学者の鶴見俊輔氏。日米安保条約が間もなく10年の期限を迎え自動延長される。国会通用門前で抗議の座り込みを行った「安保拒否百人委員会」のメンバーが排除された。戦後民主主義を守る闘士としてベトナム戦争に反対する「ベ平連」の主要メンバーとしても活動。(共同通信・2023/06/21)

● 鶴見俊輔(つるみ-しゅんすけ)(1922-2015)= 昭和後期-平成時代の哲学者,評論家。大正11年6月25日生まれ。政治家・鶴見俊輔の長男,社会学者・鶴見和子の弟。ハーバード大で哲学をまなび,昭和17年帰国。21年丸山真男,武田清子らと「思想の科学」を創刊。思想の科学研究会で「共同研究・転向」などをまとめる。京大助教授,東京工業大助教授,同志社大教授を歴任。プラグマティズムの紹介や大衆文化論,日常性に立脚した哲学を展開。40年小田実(まこと)らとベ平連を結成し,ベトナム反戦運動を組織。57年「戦時期日本の精神史」で大佛次郎賞。平成6年朝日賞。16年梅原猛,大江健三郎らとともに「九条の会」設立呼びかけ人となる。平成20年「鶴見俊輔書評集成」全3巻で毎日書評賞。平成27年7月20日死去。93歳。東京出身。著作はほかに「日常的思想の可能性」「限界芸術論」「柳宗悦」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 鶴見さんとは何度か話しただけでした。一度は清瀬にある「多磨全生園」で。その時は講演をされた。ぼくは鶴見さんの大学教員時代のゼミ生、K さんと、それから生来の無所属派だった A さんといっしょだった。その時のことも話せば色々と出てくるでしょう。しかし、それも、今となれば「うさぎ追いしあの山」のようなもので、話す必要はは少しもありません。

 「去る者日々に疎し」という。「文選‐古詩十九首・一四」の「去者日以疎、生者日以親」による、と辞書類にはあります。「徒然草」(第三十段)にも「年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、『去る者は日々に疎し』と言へる事なれば、然(さ)は言へど、その際(きわ)ばかりは覚えぬにや、由無し事言ひて打ちも笑ひぬ」と出てきます。ぼくの心胸は、まあこれですね。

 同じ時代に生きていないという事実は、その人(生きていた人)の持つ意味(残されたものへの影響)を変えるのでしょう。当たり前のこと、生きていたときと同じであるはずもありません。再生というのは、「想い出」のなかに生き返るということです。ルネッサンス本来の意味ではないでしょうか。復興とか復帰という意味合いでの「生き返り」です。あるいは、古語として使われてきた「黄泉がえり」、つまりは「よみがえる(蘇生する)」ということです。それを可能にするのは「想い出す」側の記憶力です。

 生者と死者とのつながりを、ぼくは人並みに経験してきました。ここで考えていることは、それ以上でも以下でもないのです。亡くなった人びとは、ぼくにとってはかけがえのない「歴史」なんですね。あるいは「想い出」と言い換えても構いません。この「想い出」こそ、ぼくには、言葉の最も深い、親しい意味での「歴史」なんです。歴史は「あったこと」ですし、「もはや起こらないこと」です。だからこそ、「想い出」という、自分に即した歴史は、切実なのだと思う。

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dogen3

▶この国には「政治」はなく、「政局」ばかり。議会制民主主義の筋をいうなら、現に政権交替がなされて当然の事態にあるとみられるが、弱小を含めた各政党は頽廃の現実を大肯定、かつ心底からの保守頑迷固陋主義派。大同団結といかぬのは「党利党略」が何よりの根本義だとされる故。何が悲しくて「政治」を志し、「政治家」を名乗るかよ。世界の笑いものになるのではない、定見のない「八方美人」には、誰も振り向かないという事実に気がつかないのだ。(2025/04/02)