「男 VS 女」ではなく、「人間」として美しくありたい

 【北斗星】県内の高校に今春入学した女子生徒4人がそれぞれ軟式野球部に入った。男子と共に白球を追い、練習試合では主力としてプレーする選手もいる。しかし公式戦で選手としてベンチ入りすることはない。日本高野連の大会参加資格が「男子生徒」と定められているからだ▼4人は公式戦出場を熱望。うち1人が所属する秋田工軟式野球部の猪股力監督(44)も「男女一緒に練習していて大きなけがもない。競争ではなく、性別が理由で公式戦に出られないのはいかがなものか」と話す▼他県では指導者らが女子の公式戦出場を日本高野連に要望する動きもあるが、具体化はしていない。猪股監督も本年度、県大会でのベンチ入りを県高野連に打診した。だが東北大会や全国大会につながる試合のため、県単独では判断が難しく、実現しなかった▼県内の高校軟式野球部は部員確保が課題だ。今秋の県大会、東北大会では部員不足の学校同士の連合チームがあった。女子がベンチ入りできれば単独で出場できる学校もある▼昨夏の東京五輪は国際オリンピック委員会が重視する男女平等が推進された。選手の男女比を同等に近づけたり、男女混合種目を増やしたりした。スポーツ界では男女平等が世界的な潮流だ▼県内全6校が出場する毎年春の軟式野球リーグ戦は東北大会や全国大会につながらない。指導者の間では、来春のリーグ戦で女子を出場させる話が持ち上がっている。第一歩として、ぜひとも実現してもらいたい。(秋田魁新聞・2022/11/17)

 

【有明抄】ハルウララ、その後 テレビで懐かしい姿を見た。高知競馬で1勝もできずに負け続けた競走馬「ハルウララ」。現在は千葉県の牧場で飼育され、スマホ向けゲーム「ウマ娘」の影響で若い見学者が増えているという◆ハルウララの初出走は1998年11月17日で、きょうはデビューした日でもある。そこから2004年8月の最後のレースまで連戦連敗。トップ騎手の武豊さんが騎乗しても勝てず、最終成績は113戦0勝だった。負け続けて人気を集めた競走馬である◆話題になったのは03年夏ごろから。日本経済はバブル崩壊後、厳しい状況が続いていた。負けても負けても走る姿に「リストラ時代の対抗馬」「負け組の星」と注目された。勝ってこその競走馬だろうが、社会の空気が重なって希望の象徴になった◆ウマ娘の公式サイトを見ると、ハルウララは「才能はないが、決してくじけないウマ娘」とある。ゲームの知識は全くないが、実在の競走馬を擬人化しているそうで、勝てなくても元気を与える設定なのだろう。優秀な人は必要だが、才能がなくても頑張る人は大切だと思えば、わが身を慰め、言い聞かせているようでもある◆ハルウララは人間でいえば80歳ぐらいになったという。現役時代は愚直に走った。それで十分。あとは穏やかに過ごせる。これも、わが身に言い聞かせているような…。(知)(佐賀新聞・2022/11/17)

 ぼくは競馬(馬券)はやりません。まだ中学生のころ、シンザンやコダマが走っていた時代、ほんの少しは覗いたことがあります。でもそれ以外にほとんど興味を持たなかった。時代を経て、ハイセイコー(右写真)が走っていた時代にも、その力走ぶりを見たことがありました。「地方競馬の星」とかなんとか言われて、中央競馬の強敵をぶっち切って勝っていたからでした。やがて、騎乗していた騎手(増沢末夫さん)による「さらばハイセイコー」というレコードまで出ました。一種のブームでしたね。

びっくりするほどの大きな馬で、どっしりとした姿で、加速がつくと圧倒的な走りを見せていました。都会と田舎(中央と地方)などという上下(優劣)を明らかにしたような物言いには、ぼくは大いに反旗を翻してきましたが、競馬の世界においても「中央競馬」「地方競馬」などという、まるで「一軍」と「二軍」の差を思わせる表現がまかり通っています、今も。だから、地方からやってきて、中央のサラブレッドをなぎ倒したハイセイコウは大成功(ダイセイコー)だったのでしょう、大いに元気づけられたおじさんたちがいたのでした。無類の競馬好きだった寺山修司さんに「さらばハイセイコー」という詩があります。(レコードとは別物)寺山さんは、「人生の学校」は競馬場だったいうほどの馬好きでした。彼の表情をしげしげ見ていると、だんだんに「馬顔」(馬面ではない)なってくるんですね。

ふりむくな
ふりむくな
後ろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる(寺山修司「さらばハイセイコー」から抜粋)

 ハルウララ(左写真)の走っているところを見たことはない。いつもニュースで「また負けた」「百連敗」などという残酷な場面を、顔をしかめて見ていた記憶がある。競馬界の人間たちとは、なんという「えげつない人種」「いじり派」だろうとしみじみ思ったことでした。引退後は、流転馬生(バショウは落語家)で、終の棲家かなのか、なんと房総の御宿(「月の砂漠」の海岸)にある「マーサファーム」で「余生」を送っているという。いちど会いに行ってこようと思っていたところでした。(「ハルウララ 再脚光 「ウマ娘」ブームが一役」東京新聞・2022年5月12日)「二十年ほど前、負けても負けてもひたむきに走り続けて一大ブームを巻き起こした元競走馬、ハルウララの人気が再燃している。余生を過ごす千葉県御宿町の牧場に、当時を知らないにもかかわらず遠方から見学に訪れる若者が増加。背景を探ると、名馬を萌(も)えキャラに擬人化したスマートフォンゲームの流行が魅力の再発掘に一役買っていた。」「ハルウララは高知競馬で一九九八年デビューの牝馬(ひんば)。負ければ負けるほど人気が高まり「負け組の星」と話題を呼んだ。百十三連敗を数え、二〇〇六年に生涯未勝利で引退。牧場を転々とした後、一二年十二月から房総半島東部にある御宿町の「マーサファーム」に預けられた。今年二月で二十六歳となり、人間なら八十歳近くに相当するが、今でも元気いっぱいだ」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/176800

 競馬は「男女混合レース」(同じ馬場に立つ)が基本です。男女別の競争もないわけではありません。しかし、男女の別を超えた「競走」が醍醐味なのでしょう。並みいる牡馬(ぼば)を切り捨てる牝馬(ひんば)がいつでもいます。この駄文録集でも、牝馬の強さを見せつけた何頭かの競走馬について触れたことがあります。常負のハルウララが多くのファンを得たのはどうしてか。八年間走り続けて、113 負 0 勝。もちろん、ウマ自身が走り続けたいと願ったわけではない。また、いつか勝ちたいと密かに想っていたのではないでしょう。人間の仕打ちは美しくない、いや汚いと言いたい。それはともかく、ひたすら走って、負けつづける、そんな牝馬の、拙劣な馬生(ばせい)に、己の人生を重ねてみた多くの人(男女を含む)がいたのは事実でしょう。よく言ったでしょ、「負けるが勝ち」と。「つまらない争いは避け、その場の勝ちは相手に譲るのが賢明で、最終的な勝利につながる」(諺を知る辞典)反対に、「勝ち馬に乗る」とも言います。「有利な方につく。勝った方に味方して便乗する」(同前)さしずめ、永田町の「総裁レース」のような右往左往、虎視眈々、岡目八目か。要するに、「節操のなさ」ですね。自分がないのもはなはだしいということ。

ハルウララ(ウマ娘) とはCygamesによるメディアミックスプロジェクト『ウマ娘プリティダービー』の登場キャラクター)

 「日本高野連の大会参加資格が『男子生徒』と定められている」というのですから、諦めるしかないと考える必要はない。ジェンダーギャップを排除したくないのは「男」です。仮にそのギャップをなくしたら、今以上に「男社会」のいい加減さ、でたらめさが明らかになるからでしょう。しかし男女差をなくすれば、おのずからある種の「新人類」に、既存の性は生まれ変わることは確かです。いい表現はできませんが、政治の世界では、ことに日本では「ジェンダー・ノンフリー」が根強く残っています。でも、それを超えて進出した女性政治家は、ものの見方も態度も、ある種の「政治家」像に接近しているようにもうかがえる。もちろん、いい面も悪い面もあります。アスリートの場合はどうでしょう。男性女性の枠を取り払って、条件を平等にすると、必ず男性が勝つとは限りません。すでに男対女の枠を超えて物事は動いているのです。加えて、LGBTQの人々も加わると、ぼくのいう「競馬場状態」です、そのような新たな場面(次元)が生まれるでしょう。

 この島の大学が女性に門戸を開放したのは戦後になってからでした。選挙権や被選挙権も、しかりです。女性に権利を認めたら、男の領分が奪われるという恐怖感、現実感、危機感があったからです。いまでは、部分的には女性が圧倒しているところもあります。生活の次元・仕事の場面でのジェンダーフリーを、と主張すれば、まず騒ぐのは男どもです(「統一教会」も強硬に反対しているね)。でも、競馬界を見てご覧、とてつもないアマゾネスがいたではないですか。人間社会でも同様だといえば、ひんしゅくを買いかねないが、なんといっても事実ですから。大学に女性が入ってきて、もっともだめになったのは男でした。学ぶことが疎かになったんですね。今や、研究者でも女性の活躍は圧倒的です。さらにジェンダーフリーが実現の度を増していくと、いい刺激を受けるのは男どもではあるんですね。既成の領分で、権利にしがみついている姿は、じつに見苦しい限りですよね。

 高校野球界も苦労しているし、苦心のしどころです。「高野連」に女性の理事さんがいるのかどうか。ぼくは野球は好きでしたが、勝ち負けにこだわることが嫌いでしたから、すっかり関心を失いました。大事なのは、何ごとでも楽しむことです。技を競う、腕を磨く、切磋琢磨という。「 (「切」は刻む、「磋」はとぐ、「琢」は打つ、「磨」はみがくの意)」(精選版日本語大辞典)また同じ語には「仲間同士互いに戒めあい、励ましあい、また競いあって向上すること」(同前)とあります。とするなら、ウマは男女差をなくして「競い合っている」のに対して、人間社会では「男は女を仲間として認めていない」ということですね。馬にも劣る男ども、というべきか。

 ぼくの友人だった江戸文学研究者の、大学院時代の恩師だった人が「女子学生亡国論」を吐いたことがあります。今から半世紀以上も前でした。今では女子学生がいなければ、「大学廃業」時代が到来していたでしょう。その教授は「女性好き」だったとも聞いていました。女子学生は嫌いだけれども、女性は好きというのが「男」らしくない男の見本だったと思いました。T 教授の真意は、大卒女性が社会進出をしないで結婚するから、、社会が男ばかりで進歩がないのだ、それを簡略に「女子大生亡国論」といった。いまさら甲子園なんか、というと批判の矢が飛んできます。高校野球を食い物にしているのは新聞社だし、おしなべてマスコミはスポーツを飯の種にしていますね。その甲子園に女性が進出すると、何年か後には「プロ野球」にも女性が押し寄せてくるでしょう。それは困る、女性は淑(しと)やかでなければ、家庭を守ってくれなければなどと、そんな「時代遅れの寝言」を言っているから、この島は沈没するんだね。ハルウララや「ウマ娘」に惹き付けられる男たちがたくさんいるというのは、いい景色(眺め)なんでしょうか。(左上は「最強の牝馬」と言われる「ダイワスカーレット」、牡・牝を超えた「最強の馬」ですね。人間でいうと、「最良の人」ですか)

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「注意は他人(ひと)のためならず」

 【編集日記】安全確認の基本に指さし呼称がある。行動の正確さが上がるとされ、鉄道や工場などさまざまな職場で浸透している▼ことわざで表すならば「打たねば鳴らぬ」。何をするにしても、行動しなければ成果や結果が得られないことを意味する。「ことわざ・格言にならう安全衛生訓」(労働新聞社)では、打てば鐘が響くように、指さし呼称を徹底しようと訴えている▼「千慮の一失」は、よく考えたつもりでも、思いがけない失敗があること。人の注意不足を補うために文明の利器を頼っても、作業手順や環境の変化が、新たなミスを生む要因になることがある。万全とはいえない。便利なようで手間が増えれば、手を抜く人が出る▼あのときに確認さえしていればと、後悔は尽きないだろう。大阪・岸和田で女児が自家用車に放置され、熱中症で亡くなった。保育所に預けたという父親の思い込みに、施設側の連絡不足が重なった。岩手と広島では、命に別条はなかったものの、送迎バスに児童が置き去りにされた▼昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない。(福島民友新聞・2022/11/17)

 このところ、立て続けに車内に子どもを放置したままで、何時間か後に気がついて見たら、「熱中症」等で亡くなっていたという事件(事故なのか)が発生しています。問題の発端は、ある保育園の送迎バス内での「降ろし忘れ事件」でした。どうしてこんなことが起こるのか、問題にすること事態が愚かしくなるような、人間の「不注意」です。不注意による事故は日常的に、誰にも起こっています。急いで階段を降りて、躓いて落ちた、信号を見落として事故を起こした、スマホをいじりながら歩いていて、他の歩行者と衝突した。こんな類の事故は誰にもつきもので、さいわいに大事に至らなかったから、問題にならなかっただけです。交通標語は好きではありませんが、「注意一秒、怪我一生」(実際に起こるのは、「注意一秒、落命一秒」なんでしょ)。「ヒヤッとした、あの瞬間を忘れるな」などなど、それこそ「ドキッ」とし、「ヒヤッ」とするような「標語」ばかりです。この手の事件や事故が発生する最大の理由(原因)は、じつに単純です。「不注意(carelessness)」、それだけです。不注意とは、「不用心」ということであり、物事に気を配らないことです。

 (若い頃に、たった一度した、怖い経験を忘れません。青信号で交差点を通りきろうとしたら、信号無視の車(女性が運転)が突然侵入、危うく衝突しかけたが、咄嗟にブレーキを踏んで事なきを得た。信号無視で走り去った女性は、仰天して目を剥き、手を口に当てた片手運転の格好を、その驚愕した表情とともに、今もって忘れない。不注意な人間による間違いに巻き込まれる、そんな「不注意」を自分は犯したくないというのが、ぼくの運転の際の戒めです)

 気を配ることは「注意(attention)」を払うことです、自分のすること、しようとしていることに配慮すること、気を配ることです。ぼくは、繰り返し、人間の道徳問題の「中核」は「注意深くなること」だといい続けてきました。いくつかの本も書きました。なぜか。ぼくたちが犯す「誤ち」「不幸」の十中八九は、大小と問わず「不注意」によるものだと、自ら経験してきたし、今でも経験しているからです。多くの人は「注意する」といいますが、その相手は「他者(自分以外)」です。それはおかしいというか、間違っていると、ぼくは度々、この駄文収録でも言ってきました。「信号を守りなさい」と注意するといいますが、実際に守るかどうかは「当人」です。だから、当人が信号を守る(注意する)ように忠告するのでしょう。注意すると忠告するは、いっしょじゃないかと言われそう。でも、どんなに大事な忠告を受けても、それをやるかやらないかは当人次第です。

 決して言葉の問題ではなく、道徳の核心部の問題なんですよ。なぜ、人間は間違いを犯すか。自分の置かれている状況をよく見ないからです。慌てる、他に気を取られる、物思いに耽る、よそ見をするなどなど。車にいくつかの荷物を載せていたとします。すべてを運び終えたと勘違いして、一つや二つを降ろし忘れることはいくらでもあります。物忘れです。荷物なら、熱中症になっても、取り返しが付きます。生モノだったら腐敗するとか、植物だったら枯れてしまうとか。でも、それは代償が利くでしょう。別のものを購入して、事なきを得るのです。「子どもを降ろし忘れた」不注意と、「ティッシュの箱を忘れる」不注意の出どころ(原因)は同じです。間違いを犯す神経系統の接続・接触ミスです。前方の信号を見落として、歩行者を死なせるという「不注意」もまったく同じところから生じるのです。

 別のことを考えていた、降ろしたつもりだった、いろいろと弁解や言い訳をします。時すでに遅し、命を落とすということに関しては「後悔」だけしか残らないものです。ぼく自身が「不注意人間」だし、そのことからたくさんの「間違い」「誤ち」を犯してきたからこそ、「注意深くなろう(be careful)」「注意を払おう(pay attenntion)」と、いつだって「自分自身に向かって」言ってきました。「昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない」とコラム氏はいう。その指摘はあたっているのでしょう。でも、とぼくは反省する。どんなに「対策を講じても」ミスは起こる、そのミスをなくすために、あらたな対策を講じる。その対策の積み重ねによって、人間はますます「不注意」になる、「不注意」に慣れるのです。この「対策」こそが、注意しない人間を作っていることに気が付かないのでしょうか。

 自動運転車の開発が進み、実用化の一歩手前まで来ました。これは究極の「不注意人間」、いや「無注意人類」の世界を想定しています。「蟻がクルマに乗る」ようなものではないですか。車の走行に蟻は関心を持っていない。人間の神経系統の動きの重要さを忘れること、その面倒臭さから人間を解放することが「進歩」「革新」だというのかと、ぼくは大いに疑問を持ちます。最新の IT 技術を駆使してコンピュータは機能しています。ミスは起こらないといいいながら、至るところで「間違い・障害」が生じています。(ウクライナの迎撃用ミサイルがロシアのミサイルを撃ち落とし損なって、ポーランド領内に落下(着弾)。二名が亡くなったと報じられている)人間の注意力が及ばないところで、最新の技術に依存した「無思慮」「無注意」がもたらす深刻な事態は、深く静かに、あるいは騒々しく浅く進行(侵攻)しているんじゃないですか。

 登録以来二十年超のクルマに乗っています。昨年の夏前、用事があって横浜まで出かけました。東京湾アクアラインを通って行けば便利だと言われた。その通りに高速道に入ったのはいいが、念のためにとカーナビを見たら、アクアラインが登録されていない。車もマニュアルだし、装備そのものもマニュアル、運転するものも、一級のマニュアル人間でしたから、道に迷い続けた。だから、二度目は、まず間違えないという経験を得たのでした。つまらないことをいっています。しかし、何ごとも、なにか(誰か)に依存するというのは、便利で楽チンです。しかし、やがて自分の足で立てなくなるのは目に見えています。それでもいいのだ!という時代と社会なんですね。

 園児の「積み残し」ー まるで荷物ですね ー 防止のために、車内に警報ブザーをつけるつことを義務付け、その費用について国が補助するという。究極の「愚民政策」です。もし、警報ブザーが故障していたら、どうするん?どこまでいっても、終わりのないゲームみたいな話です。でもことは深刻、人間の命がかかっているのです。たった一人の「我が子を積み残し」という事件は、いつでも、誰にでも起こりうる、「注意深くなければ」ね。子どもにクラクションの鳴らし方を教える、警報ブザーの押し方を教える、それが幼児教育の必須科目になる時代、なんか狂っているよ。「わんづかの こころのゆるみが 大事故に」

 子どもを降ろし忘れるような事故はいつでも起こっているのでしょう。でも大事に至らないで気がついたということだったのかも知れません。大事に至らない前に、というのは「注意力」によるほかないんじゃないでしょうか。二重三重の防止・予防策をいうのもいい。でも根本の重用さに対して、「不注意」であっては困ります。一人ひとりが「注意深くなる」ことです。そのための練習が「学習」なんですから。算数の問題は「注意深い人間のためのもの」と、どうして考えられないんですか。13+59=73、この間違いをもたらすのは、計算能力の高低ではなく、不注意からです。「計算に集中できなかった」、「注意散漫だった」のは、余計なことを考えていたからです。学校の勉強は「頭のいい子を生む」ためではなく「注意深い人間を育てる」ためのものです。計算間違いを犯す「不注意」は、信号を見落として人を轢いてしまう「不注意」と同根・同類です。計算間違いは消しゴムで消せますが、交通(人身)事故を消せる消しゴム、いまのところ売っていない。「自分に注意する、注意は自分にむかってするもの」で、他人に、ではありません。

 注意は他人(ひと)のためならず(Attention is not for others)。

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器械(機械)や道具は、人間の能力を失わせる

 立冬から十日過ぎました。寒さがようやく本格化してきたように感じます。小さい頃から、暑さ寒さには無鉄砲、エアコンなし世代でしたから、じつに平気でした。それだけ、安上がり(野性的)にできていた。京都に住んでいた頃の「寒暑」が鍛えてくれたのだろうと思っていました。しかし、その鍛錬の蓄積も費消してしまい、今ではすっかり虚弱老人体質・気質になり、ともかく風邪を引かないことに特別に気をつける、そんな生活をするようになりました。「風邪は万病のもと」、あるいは「頭寒足熱」というのは、今日でも有効な教えですね。風邪の予防には睡眠が一番での良薬。寝るときも靴下を履いています。でも、最近は猫たちに熟睡を邪魔されています。一昨日は深夜の1時半、昨日は2時半、本日は4時と、とにかく寝かせてくれません。就寝は、ほぼ10時半前後です。連日の猫襲来で「惰眠を貪れない」日々が続きます。一旦起きると、もう布団には戻らないという習慣がぼくにはあります。

 「冬景色」といっても、この辺りには取り立てて紹介できるものはなにもありません。酉の市もない、冬の花火大会もない、あるのは殺風景な寒空と人通りの絶えた商店街だけです。ぼくの住んでいるところは、とりわけ多くの原住民は「冬眠」に入る時期にあたっています。さらに殺風景は広がっています。稲刈りが終わった田んぼは、手入れされないで放置されていますし、耕作をしていない田も、そのままで荒れ放題のように見えます。どこかで、「麦」を植えていないかなと目を凝らすのですが、見当たらない。小麦などの値上げがこのところ何度も繰り返されている。これだけの田畑があるのですから、麦を栽培しないものかと、ぼくは他人事ながら大いに気をもんできました。田んぼで農作業をする人は「老人と農機具」ばかりです。「国防費の倍増にかまけていていいんですか、政治家やお役人さんたち」といいたくなりますね.。いまでは「田植え」も「稲刈り」も学校教育の授業の一環になっているようです。つまりそれらは「文化=教養」でもあることを示しているんですね

 大きな衝撃を受けたので、いまでも、ぼくはよく記憶しています。日本歴史研究者の網野善彦さんが勤務先の短大の授業で「田植え」について質問したところ、多くの学生がそれを知らなかった(見聞がなかった)ので、仰天したと書いておられた。「田植え」に関する「教養」がかけていたというのです。パンを食べている、そのパンの原料は「小麦」だと気にもしない。今食べている魚はなんですか、と聞いても答えられない時代に、多くの人々は、厚かましくも「生存」している。こんなことは今に始まったことではなさそうで、正岡子規が友人の漱石と早稲田あたりを散歩していた(明治の半ば頃か)。辺りは田んぼだらけで、今を盛りに早苗が伸び伸び育っていたという。その時、漱石は子規に「この緑の草は何だ」と尋ねたというのです。驚いてもいいのか、嘆き悲しむべきか。百聞がなければ、一見したところで、意味をなさない例証として、ぼくは肝に銘じて、「百聞も経験」、「一見も経験」と身に溶かし込んできました。それにしても、漱石先生、「ご飯はどういう植物から」できていると思っていたんでしょうか。これを「文豪」という。(今日の学生並みに、漱石は「稲」について、まったくの無教養だったという逸話です)

 それにしても、この島の田園風景はすっかり変わりました。上段にある二枚の写真の右左は「麦踏み」の情景です。田植えも含めて、すべてが器械化されている時代、これを「文明」というのでしょうか。科学や技術が「徒党を組んで」、人間の生活を一新し、ついには「人間性」まで一変してしまう勢いです。機械や道具がする分が増えるということは、それだけ人間の能力が奪われていることにもなるのですが。「文明の進歩」というものは、月へも火星へも人間を連れていくでしょう。でも、奈落の底にだって突き落とすことにもなるのですね。ぼくは車には乗りますが、カーナビは使わない。カーナビの指示通りになって堪るかという意固地さを貫いています。物事を「経験によって覚える(Learning by doing)」機会をみすみす失うとは、そんな気持ちがぼくの中で息づいている。

 「ウクライナの春」を、ひたすら待つ者です。来る春を待つ前に命を奪われた人々の「無念」を忘れないで。(左上の図表にある通り、米以外の穀類は、殆どが輸入に依存しています。農水省・2020年)

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「徒然日乗」(XXVI~XXX)

▼ 日一日と冬に近づいているというか、いや冬が近づいてくるというか。昼夜の寒暖差がかなりある日が続きます。子猫の多くが風邪気味。数日前に遅くまで林の中にいて、夜は駐車場(別棟)で寝ていました。そこにも親子(全員)で寝られるだけのベッドを作ってある。親猫の長年の習性か、なかなか家の中で休むということがない。子どもを必ず連れ出し、日中は林の中で遊ぶ。▼ 本日の朝から、子猫のいくつかは調子が悪そうで、食欲もなく、食べても吐く。一、二匹ならまだしも、大勢ですから、なかなか気を使いますね。森の中で生まれ、いずれ家の中にいる時間が長くなるように仕向けていますが、親は根っからの野良育ちですから、子猫も親の言う通りに、林のなかに入っていくのに抵抗がない。▼ 氏より育ちといいます。猫もいっしょ。人間の社会だけの話ではないんですね。どこでどのように育つか、その生育環境を「超越」して生きる、突き破って生きるというのはなかなか困難です。いいも悪いも「(人と環境による)教育」のはたらきによるということでしょう。(一月前に避妊手術をした親猫は、すっかり回復、「童心に帰った」ように、子猫とともに木登りや追っかけっこをしています。推定は十歳超です)(「徒然日乗」・XXX)(2022/11/15)

▼「専守防衛」が聞いて呆れる軍備と増税 ~ 頭に血が上るのは若者の特権ではない。「国力としての防衛力を総合的に考える」有識者会議なるものを捏造・偽装し、わずか数回の出来レースで「数兆円の防衛力増強」策を答申するという。大新聞社の現役社長や顧問も「国防の有識者」だとよ。しかも「慎重に議論」すると、始めたばかり(9月30日)で、もう答えが出そう(11月9日)。話は簡単、国会を無視し、国民の意見に耳を塞いで「防衛力増税」を、財務省が強引に誘導しただけ。(https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/boueiryoku_kaigi/index.html)。▼ 十人の「有識者」、しかも、四十五日ばかりで国の方向を左右する離れ業。国会には一切関与させない。問答無用の「言論封鎖・封殺国」ですな。その背景にある永田町と霞が関、そこの住人だけで流れを作っている。ぼくの持論(正論でもある)は「共産党以外は、すべて与党」と。事実は小説より陳腐なんだね。ここでも米国の言いなりだ(subordinate to America)。(「徒然日乗」・XXIX)(2022/11/14)

▼ 久方ぶりの雨模様。まだ十一月半ばですから、油断はなりません。台風(大雨と暴風の二本立て)にはことのほか驚異を感じています。伊勢湾台風の強烈な猛威の記憶が刻み込まれているからです。だから、当方には被害もなく過ぎたとして、被災地や被災者に対しては言いしれぬ同情を禁じ得ない。本年も、各地に大きな災害をもたらした。時間の経過とともに、ぼくたちは事件や事故の惨状を忘れます。しかし、被災者は忘れようにも忘れられない、そんな経験をされたのです。▼ たまたま、この数日間、アメリカの中間選挙の開票ニュースをみていましたが、フロリダを襲っておりハリケーンの猛威の映像も見せつけられていました。二人の死者が出たと報じられている。また、十一月の上陸は三十七年ぶりで、史上二回目だったという。「温暖化問題」が思うような展開を見せず、その間にも、地球上の各地で温暖化の被害が出ているのです。▼ 一国平和主義が無効・無意味になるような時代、自国のみの繁栄や発展が、他地域に及ぼす、有形無形の影響や、数十年単位で表面化する悪影響をも、ぼくたちは失念しがちです。(「徒然日乗」・XXVIII)(2022/11/13)

▼ 「身から出た錆」という ~ その言うところは「自業自得」に重なります。「失言」と違って、もともと、そのような素質(錆)をもっていて、いつかきっと表出するはずだったという「お粗末」でした。身とは「刀身」で、刀の錆は内側から出る。この御仁も大臣になって舞い上がっていた。誰彼なしに「錆(ワサビ)」を出し(利かせ)たくて、ウズウズしていたに違いありません「大ウケ狙い」ではなく「安受け」そのものでしたな。錆(ワサビ)が出(利き)すぎたのか、身を滅ぼす(ところまではいかなかったのは、ぼくにはやや不満)一歩手前まで追い込まれたのは、まさに自業自得。幸か不幸か、この大臣の「はんこ」で刑を執行された死刑囚はいなかったよう。大臣もボロだけれど、死刑制度という、国家による「他人の敵討ちを盗む」類の「人権蹂躙」の見本みたいな制度は即刻廃止すべきだと、ここに揚言(失言ではない)しておきます。(「徒然日乗」・XXVII)(2022/11/12)

多数決という原理について ~ これまでにいろいろな機会に「投票」してきました。もっとも頻繁だったのは、当然のように、国・地方議会議員選挙でした。ぼくは「投票」に関しては相当に真面目だったと思う。棄権した記憶がまったくない。(記憶がないといって、「棄権」しなかったと断言しているのではありません)「選挙」は好きではないし、まして投票したいと思う候補者がいない、国・地方議員選挙にはうんざりしていると、正直に言います。でも、選挙には棄権しない。理由は、民主主義への参加意識(と責任意識)から、といっておく。▼アメリカの中間選挙には昨日も触れました。日本の「選挙管理委員会」に当たる(と思われる)「州務長官」選挙には、前回の「大統領選挙は盗まれた」と主張するグループが候補を重要州で立てて、運動を展開していました。その結果は、まだすべてが明らかではありません。しかし、「選挙は不正」と公然と訴える候補者たち(国会議員候補者・知事候補者・州務長官候補者)が、あわよくば選挙を「盗もう」としているのです。アメリカだけの話ではないようです。▼ 民主主義がいつでも危機に晒されているのは、「勝てば官軍」というような、「正邪」の決定権は勝者が握っているという、一種の「暴力主義」の横行によります。「勝てば正義があった、負ければ(投票は)盗まれた」という感情剥き出し「議員」や、それを支配する「大統領」が統治する国(や社会)には、「正義」も「道徳」も権力掌握者に委ねられているのだという「弱肉強食」原理が駆動しているのですか?恣意的に「選挙結果を否定する」人間が「立候補」するという顛倒した反民主主義者たちの悪意。(「徒然日乗」・XXVI)(2022/11/11)

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It was a symbol of Ukraine’s defense …

ウクライナ廃虚にバンクシー壁画 「不屈の象徴」と住民歓迎

 AFP BBNews 2022年11月13日 13:20 発信地:ボロジャンカ/ウクライナ (https://www.afpbb.com/articles/-/3433525?pid=25075309) (ウクライナ首都キーウ近郊のボロジャンカで、廃虚と化した建物の壁に英国の覆面アーティスト、バンクシーが描いたグラフィティ(2022年11月12日撮影)。(c)Genya SAVILOV / AFP)

【11月13日 AFP】英国の覆面ストリートアーティスト、バンクシー(Bansky)が、ウクライナの首都近郊の廃虚と化した建物の壁にグラフィティを描いた。住民は「不屈の象徴」になると歓迎している。/ バンクシーは11日、廃虚の壁に描かれた、倒立する体操選手の絵の写真3枚をインスタグラム(Instagram)に投稿。キャプションには「ボロジャンカ(Borodyanka)、ウクライナ」と記されていた。/ 首都キーウ北西に位置するボロジャンカは、ブチャ(Bucha)やイルピン(Irpin)と同じく、2月のロシア軍の侵攻開始直後に激しい攻撃にさらされ、4月まで占領されていた町。ロシア軍による徹底的な破壊の爪痕を残す場所として知られている。(以下略)(AFPの同上記事より)

(ウクライナ首都キーウ近郊のボロジャンカで、廃虚と化した建物の壁に残された英国の覆面アーティスト、バンクシーの作品とみられるグラフィティを見つめる住民(2022年11月12日撮影)。(c)Genya SAVILOV / AFP)(下写真)

(動画:AFP BBNews・2022年11月13日 15:55)(https://www.afpbb.com/articles/-/3433540

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 バンクシーの「絵画」はたくさん見てきましたが、ウクライナの戦況(状況)をそれなりに知らされていただけに、ある種の感慨が起こってきます。昨日に続いての「倒立するバレリーナ」です。これをよく見ていると、腕を支えている「コンクリートの破片」は、この絵を書くために積み重ねたものと思われてきます。ある記事には「五人組」だった、と言う目撃情報が報道されていましたから、「ティーム・バンクシー」と称される人たちが「風の如く来て、風の如くに去る」という「一迅の秋風」の「一掃」にも似た爽快な早業だったと思えてきます。まるで「風神」の仕業でもありましたね。(右は俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」・京都建仁寺)

 (ぼくの直感をいうと、「バンクシー」はイギリスにいるのはもちろんですが、世界の至る所に(だから、日本にも)存在し、空きあらばと「画題」を狙っているに違いありません)

 大人を投げ捨てている少年柔道家の絵を見ていた住民の一人は「私たちが不屈であることを示す象徴となる」と語った。「そうとも、わが国は負けない」と。(同記事より)

 今回の「侵略」の象徴でもあった「ヘルソン市」がウクライナ軍により奪還されたという。ロシア軍は撤退したのでしょうが、これまでの行状から見れば、もっとも悪質な「戦争犯罪」を重ねるという不安が現実のものとなると思ってしまう。中国もインドも、プーチンやロシアに見切りをつけたそうです。応援するのは北朝鮮とイランのみ。一体誰が、ロシアの独裁者に「引導を渡す」のでしょうか。世界はいつでも火種を抱えてきたし、時にはその火種の脇に、火薬などの爆発物が置いてあったりするという、危険極まりない時間を送っているのです。それが世界の現代史なのでしょう。この先、独裁者が「核のボタンを押す」という予測を煽っている向きがロシアの内外にいます。それは断じてありえないことを知らないで、どうして「独裁者」が務まりますか。ぼくは断言します。核を使うかどうか、それ以前に「名分なき侵略」に走ったこと自体が、核の使用と遜色ないほどの蛮行であった、と。

 ウクライナ地方にも、もう雪が降り出す頃です。「冬来たりなば、春遠からず(When winter comes, spring is already near)」、「ウクライナに春」が来れば、ロシアにおいても、あるいは欧米やアジア、アフリカなど世界各地に春は到来します。一日も早い「春の到来」を鶴首するばかりです。

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「ウクライナのボロディアンカ」

(ウクライナのボロディアンカに登場したバンクシーの絵。レオタードのようなものを着て、髪をひとつにまとめたバレエダンサーが逆立ちをしている(2022年11月11日撮影)Ed Ram via Getty Images)バンクシーの新作が戦禍のウクライナに登場。「柔道家を投げる子どもの絵」も本人の作品か【画像集】 イギリスのメディアはこの絵について「ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に似た男性が、少年との柔道の試合で、ひっくり返されている様子が描かれている」と伝えている。

イギリスを拠点に活動する覆面アーティスト、バンクシーの作品が戦禍のウクライナに現れた。絵が描かれたのは、首都キーウ近郊のボロディアンカにある、ロシアによる軍事侵攻によって破壊された建物の壁。バンクシーは11月12日、「ウクライナのボロディアンカ」というコメントを添え、公式インスタグラムに写真を投稿。レオタードのようなものを着て、髪をひとつにまとめたバレエダンサーが逆立ちをしている絵が描かれている。IndependentやThe Gurdianなどの複数の海外メディアによると、バンクシーがウクライナで活動をしているとの噂が広がったのは、ボロディアンカの崩壊した建物の壁に、子どもが柔道着を着た男性を床に投げ飛ばしている絵が見つかったからだという。(ハフポスト日本版編集部:2022年11月12日 9時59分 JST|更新 2022年11月12日 JST)

● バンクシー(Banksy, 生年月日未公表)= 英ロンドンを中心に活動する覆面アーティスト。世界各地の街に現れて建物の壁などに社会風刺的なグラフィティアートを描くなど、ゲリラ的なアート活動を行っている。2005年に自身の作品を世界各国の有名美術館に無断で展示したことで、一躍、名を知られるようになった。10年には自ら監督を務めたドキュメンタリー映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」が第83回アカデミー賞ドキュメンタリー長編部門にノミネートされ、15年にはディズニーランドを風刺した期間限定のテーマパーク「ディズマランド」を英国でプロデュースするなど、多彩な才能を発揮している。14年には、米ニューヨークでのバンクシーのゲリラ展示を追ったドキュメンタリー映画「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」(監督クリス・モーカーベル)が公開され、注目を集めた(日本公開は16年)。[(知恵蔵mini)(https://www.instagram.com/banksy/)

 謎の街頭画家とか、ゲリラ芸術家などと、さまざまな憶測も交えた評判が入り混じっているバンクシー。知る人ぞ知る、というのですが、知らない人は知らないし。彼がどういう経歴を持っているかなどを含めて、「公然の謎」といった風情のままに、まるで「覆面画家」のように、世界の至る所に「神出鬼没」「八面六臂」の活動ぶりを示しています。ある時期にウクライナに現れたという噂は聞いていました。今回の「逆立ちしたバレエダンサー」の「壁画」を描いているところを目撃した人がいて、バンクシーは一人ではなく五人だったと証言しているという記事も見ました(朝日新聞)。謎が謎を呼ぶというのはいいですね。この島社会の「鼠(ねずみ)小僧」のようで、取り澄ました「芸術」を否定し、額縁は不要。どこにでも絵は描けるという「絵の命」を拡張し拡大した活動家でもあります。なにはともあれ、弱い者いじめを生業(なりわい)にする「暴力」を振り回す権力を否定する、彼(彼女)たちの活動に、ぼくは大きな関心を持ってきた。

 今回のバレエダンサーの「壁画」の動機というか、表現はなにを示しているのか、妄想をめぐらしてはいますが、ご当人にしかわからないことでしょう。「逆立ち」しているという構図が、いかにも、ロシアの破壊のグロテスクさを暗示(いや明示かも)しているようで、しかも、その構図からは、いかにも「地球(ウクライナの土地と人民)」を支えているようにも見える、堂々たるダンサーだと、ぼくには思われました。もう一枚の「少年が大人を投擲している」構図は、バンクシーのものとは断定されていませんが、いかにもありそうな場面で、「本物)以外に、たくさんの「バンクシー(フェイク)」が至る所にいるという、一つの証明かもしれないという意味では、ぼくには希望が見えてくる壁画でした。二枚とも、空爆によって破壊された「壁面」に描かれているというところに、当たり前の「反暴力」「反権力」の姿勢が見えてきます。

 江戸時代に「SHARAKU」という浮世絵師がいました。その正体はだれか、いまだに謎解きがつづけられています。しかし、その姿は杳(よう)として知れないままです。「活動期間」は、わずか十ヵ月ほどだったと言われます。生身の「写楽」と交際していた人はたくさんいたのでしょうから、彼(彼女)の正体が割れないというのは、いろいろな協力者がいたということ。そこへ行くと、バンクシーはもっと知られています。仲間もいます。しかし、本人の正体を明かさないという「仁義」は守られているのでしょう。ある美術館で、他の展示作品に紛れて、バンクシーの作品が飾られたことがあった。(一人ではなかなかできない早業でした)不思議なことに、その「バンクシー」作に誰も気づかず、何ヶ月もそのままだったという事件があった。こういう「世間」においてこそ、バンクシーの存在理由があるのでしょうか。正体が明かされないほうが、かえって社会の貧しさを忘れさせ、荒れ狂う暴力性を、逆に風刺する(風となって刺し通す)(satire)、「無化(無に帰す)」するという、その空気感が時代や社会には必要なのだと、ぼくは感じています。それにしても「逆立ちダンサー(handstand dancer)」の膂力(りょりょく)は凄いですね。

 (追記 このところ欧州各地で有名な美術館の「名画」を狙った、環境擁護派の「過激抗議活動」が報道されています。この種の活動が何らかの意味で、環境問題に資するかどうか、ぼくには疑問が大きい。その逆に、バンクシーの「壁画」行動は、それらとははっきりと異なったある種の抵抗・抗議行動だとも言えそうです)(右の写真は、©️YouTube – UK climate change protesters throw soup at van Gogh’s ‘Sunflowers’)( https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/matsuo_a/2022/11/las-majas.php)

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Just an election, but still an election.

 妄言多謝 。言葉が軽い、軽い言葉とさかんに言われる。「重く受け止める」という、まるで軽石のような、あるいは腐葉のような言葉の羅列が「名演説」だと囃し立てられる。わざわざ人前で話すレベルじゃないのがほとんどだ。そんな「内容浅薄」「中身空虚」の言葉の束を「放言」とか「妄言」というのではないか。(まるで、ぼくの「駄文集録」のように)ある「滓大臣」が「死刑のはんこ云々」といって、その「失言」に批判を浴びせ、「生命を弄んでいる」と、批判の大合唱だ。あえて言えば、「失言」などではなく、暴言であり、徒言(とげん)だと言いたい。(失言のレベルには達していない)、大勢の前で、無礼な、中身のない「嘘」を吐いたまで。わざわざ解説に及ばないが、「失言」とは「言うべからざる発言」をさす。このH大臣は「これを言ってはいけない」とわかってはいなかった、ことの「理非曲直」をわきまえていたとは思われない。あるいは自分が「大臣」であることは承知していたろうが、「法務大臣」がなにを所管する職位か関心がなかった。だから、繰り返し「同一ネタ」を使いまわしていた。それを聞いた多くの人も同類・同病だったから、致命的な「非」は悟られなかった。大臣も後援者も不幸であり、不明(ふめい)だったのは、どうしたものか。「先生、面白いお話ありがとうございました」という程度の付き合いであり、その馴れ合いにおいて「票」を得て「選良(エリート)」の誕生となる。至るところで「馴れ合い」「馴れ合い議員」が見られる、この劣島の選挙・政治状況である。 自ら判断して投票に参加する、並の「選挙民」からすれば、「投票を盗まれた」と言いたくなるぜ。

(右写真は東京新聞・2022年11月12日)(加藤智大元死刑囚に対する7月22日付の死刑執行命令書)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/213480

 「口は災いの元」という。あるいは「禍の門」とも。口からでまかせを言っていると、次々に「禍」が生まれるというのでしょう。この二十年ほどの間に、「でまかせ」放言で辞めた(させられた)大臣の数は驚くほど多い。だから、任命権者も危機感を感じて、少々のことでは「首が切れない」「切ろうとはしない」から、ますます「禍大臣」が後を絶たない、後に続くのでしょう。これはやっかみでもなんでもなく、事実として言うのですが、辞職したりさせられたりした「大臣」の多くは旧帝国大学出身者が多いのはなぜでしょうか。こんなことはどうでもいいことで、たちどころに切って捨てればいいのでしょう。でも、どこか「放言居士」「暴言大臣」に共通しているところがあるのは、気にかかる。つまり「偉そうにしている」「上から目線」「自己尊大病に罹患」など、どういうわけか、「同病患者の会」のごとくに思えてきます。そういう「症状」をもたらしたのは「大学教育」を始めとする学校教育ではなかったかと、胸を痛めながら言うのです。

 他人の気持ちを忖度できない、推し量れないという症状。こう言えば、相手はどう思うか、そんな余計な慮(おもんぱか)りがないのは政治家の必須条件なのかもしれません。ぼくにも何人かの「政治家」の友人・知人がいましたから、この指摘はあまり外れていないと思う。配慮する気がないか、配慮が足りないのと同じことのようですが、他者を見下す、ゾンザイに扱うという合併症も見られます。もっとも大きな症状は「平気で嘘をつく」「慢性虚言癖」「習慣性嘘依存症」で、この三つの条件がそろうと、国会議員でもかなり上位の「選良」でしょう。大臣候補者です。でも、それはまた「大臣失格候補者」でもあるのですが。(政治家が罹患する、「習慣病」「慢性病」のようなものを治療する医者はいない。選挙民が時間をかけて治療に当たるしかないようです) 

 二、三年もすると、この劣島でも、落選した候補者は「選挙が盗まれた」と、徒党を組んで、「M J G A」と触れ回るにちがいない。(すでに、どこかで始まっているのかもしれない)なにしろアメリカはいろいろな面において、この島国のボス(支配者)であり、親玉ですから。かならず、陰謀論とともに「日本を再び偉大に」と、「勝共連合」とも肩を組んで、選挙のシーンのあちこちで、赤い帽子が眩しく輝くのかもしれないね。

 たかが選挙、それでも選挙。選挙のたびに、もう少しまともな候補者がいないものかと、自分(の足元)を忘れて思ってしまいます。己が生きている社会、この世間で、おどろくほど「誠実な候補者」がいるはずがないではないかと思うし、いくら選挙をしても「いい社会」なんかできっこないと諦めたくなります。そうであるからこそ、「たかが選挙、でもやはり選挙」なんですね。家柄や、学歴(偏差値)、資産、旧身分など、いくつかの「資格」「特権」によって選挙権や被選挙権を「付与」するという、「戦前への回帰」を願う人たちがいるとは思われません。だから、あくまで選挙で、なんですね。大事なのは、候補者を選ぶのではなく、候補者に選ばれる、それが選挙民の義務であり責任なんだといいたい。選挙民が候補者を選ぶという従来型(既存)の選挙は終わり、選挙民が候補者から選ばれる「選挙」、その意味を十分に考える段階に来ているんじゃないですか。

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