テロの手中に嵌っていながら、なにを攻撃するんですか

 <卓上四季>安全のひび割れ 2002年、検査技師の告発で原子炉圧力容器内のひび割れなど、東京電力のトラブル隠しが露見したときのことだ。「人知の及ばぬことが起こりうる」と当惑したのは当の東電の研究者だった。ひび割れの事実は内部ですら共有されていなかったのである(「原発と震災」岩波書店)▼ひび割れを招く劣化との闘いは半世紀以上にわたる。頻発した1970年代には電力事業者が運転断念も覚悟したほど。当時、原子炉稼働年数の寿命が40年という共通認識があったのもそのためだ▼暗雲を取り払ったはずの改良型ステンレス鋼でのトラブルだけに関係者の衝撃は大きかった。ひび割れは探知が難しく、発生を根絶できなかった。にもかかわらず、政府は設計基準とは別に維持基準なるものを制定。ひび割れを容認して運転を継続する道を選んだ▼原則40年最長60年と定められた原発の運転期間について、運転停止期間を運転期間から除く計画案を経産省が示した。実現すれば60年超の運転が可能となる▼計画案は原発の建て替えにも言及した。福島第1原発事故後の国会論戦を踏まえた政策を大きく転換するものだ。政府は脱炭素や安定供給の利点を強調するが、原子力ありきとならぬよう議論の行方を注視する必要がある▼最優先されるべきは安全意識だろう。そこにひび割れは生じていないか。問われているのは規範の経年劣化の有無である。(北海道新聞・2022/11/30)

 霜月(旧暦では十一月下旬から翌年一月初旬ころまで)は本日で終わりです。微かに冬の訪れを感じさせる気候の兆候も見えてきました。しかし百年前や五十年前のような、四季の移ろいを実感できるかというと、なかなかそうではなさそうです。いわゆる「地球温暖化」の兆しは至るところに出てきました。いまでも「温暖化」に疑問を投げかける人もいますが、この劣島に限定しても、異常気象は否定しようもないのです。それに伴う災害も、年中行事のように、各地で奇襲を繰り返しています。

 数日前から、腰痛がはっきりと現れ、加えてどうやら身体の節々が痛みだしています。ぼくの見立てでは、風邪の初期症状かと思い、つい先程まで二時間ばかり蒲団で横になっていた。天気の具合もすっきりしないのか、多くの猫たちもうたた寝で、ふらりふらり朦朧としています。長年の皮膚感覚でいうと、一日の最高気温が三十度を超えるときは夏、二十度くらいだと春または秋、十度を下回りそうな日が続くと、もはや冬、そんなとらえ方に慣れていました。しかしこの十年以上は、ぼくの勝手な標準的「温度測定」は当てにならず、春夏秋冬の秩序も雰囲気もじつに出鱈目になっているように感じます。

 冬場になると、電気代の高さが大いに気になります。氷点下前後が続くと、夜間はエアコンをつけ放しにする。猫の寒さ対策です。これが半端な金額ではありません。しかし、風邪をこじらせて医者(犬猫病院)かかれば、電気代の比ではないほど、その高額に身が震え、ことさらに懐が寒くなる。それはともかく、この電気料金が年末か、年明けからさらに高騰(値上げ)するといいます。平均的な電力使用家庭では三千円ほどとされます。電気料金の決定はまったくひどいもので、これだけコストがかかったから、これだけの費用を求めるというのではなく、何でもかんでも料金の中に放り込んで、その結果得られたのが使用料金です。要するに「言い値」で決められたものを、我々は払わされている。値段設定が逆転しています。

 この電気料金に関しては、ぼくは、来年の早い段階で「太陽光」発電に切り替えようと考えている。もちろん、一気呵成にというのではなく、まずは夜間照明や夜間使用のための電力確保のために、小さなところから始めたい。こんにちは、旧来型とは比較にならない効率のいいパネルも作られていますので、原発電力とは縁切りをしたいというのが積年の願いです。(右のマップは:ニッポンコム)

 現在稼働中の原発は十基。最大五十四基のなかの十基です。もちろん化石燃料を燃やしている発電所が稼働しているという指摘はそのとおり。環境汚染因だというのでしょう。それ以上に、ぼくが関心(心配)を持っているのは、ウクライナ国内の原発を「手玉」に取ったロシアの戦略・戦術です。ロシアは原発を攻撃目標にしてウクライナを脅迫している。この狭い劣島の至るところの海岸線に「原発」が林立し、「どうぞ、どこからでも攻撃してください」と言わぬばかりの無防備を脇において、軍事費倍増だという。GDPの2%、つまりは十一兆円を軍備のために予算化する方針を、本年5月、首相が訪日した米国大統領に、増強計画を「報告し認められた」という、驚くべき「独立国」にあるまじき振る舞いをしました。(左下、日米会談:2022/05/23・https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000255591.html)

 いつでもいうことです。日本は独自に、軍事や電力(原発)問題を立案し、実施する政治はできないままで、戦後を一貫してきました。特に「統一教会」問題が今日に及んでいるのも、米国を抜きにしては考えられないことです。「勝共連合」という錦の御旗をかざしたのは、むしろ米国であり、それにしっぽを振ったのが日・韓だったし、そこから「統一教会(勝共連合)」が生まれてきたのです。今日、原発の存在が最大の脅威であるという認識は、政府や経済界にあるのでしょうか。軍事専門家にもないのではないか。その証拠に、台湾有事だの中国や北朝鮮に発する驚異は大きな声で宣伝しても、不思議・奇妙なことに「どこからも原発は攻撃されない」と確信(盲信)しているフシがあります。ドローンでミサイル攻撃をやって見せているのがロシア。その「現実」に目を塞いで、「中国からの驚異」「日本の有事」を振りかざしているのです。

 米国の権力者は、自らのみを犠牲にして「日本のために」戦うことはしない。国益を害してまで、タックのために戦わない落ちうこと、それは明白端的ですね。これまでのアメリカの戦争史を概観すれば一目瞭然です。軍事費倍増は「アメリカのため」であり、彼の国の属国のなしうる優先的な貢献であって、「集団的自衛権」をでっち上げたのもアメリカの使嗾でした。こんなことをあれこれ考えると、一体、この社会は、この国は何をしようとしているのか、どこに目標を定めているのか、皆目見当がついていないと、ぼくには思われます。とにかく、理があろうがなかろうが、アメリカの尻馬に乗っかっていれば、すくなくとも、自らの政治権力は維持できるという、驚くべき狭量な偏見に支配されて、政治が行われ、政治家は棲息しているのです。

 繰り返し述べているように、権力の座につくものやその周りに蝟集する輩は、大なり小なり「大学」を出ています。小学校から大学までの学校教育の結果は、目を覆うべくもない惨状を呈しているのは、ぼくのような半端な教師稼業従事者であったものでも、泣きたくなるのです。「教育は人格の完成」などと高邁すぎる理念を掲げている学校教育のもたらした結果(成果)が、見るも無惨な「死屍累々」の山を築いているとするなら、この社会の未来も展望も見通すことは不可能です。「敵基地攻撃能力」を高めるより、もっと大事なのは「自分の頭の蝿」を追っ払うことです。他人をとやかく言う前に、自らの胸に深く問いただすべきは、「嘘はつかない」「他に向かって誠実を欠かさない」「困っている人が入れば、なんとしても役に立つように振る舞う」、そんな素朴単純にして、決して色あせない人間の心持ちを取り戻してほしいと、自分自身への「戒め」もこめて、言いたいのです。

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 You raise me up to more than I can be.

 数日前から、腰のあたりに違和感があり、ひょっとしたらと案じていました。腰痛でしたね、完全な。すこしずつ痛みが加わってきました。あるいは車に乗りすぎていたのかもしれない。大した距離を走るわけでもありませんが、行ったり来たりと、近間の要件が重なったのは事実で、それが遠因かもわからない。本日も早朝(三時半ころに起床)から、あれこれと雑用に追われていました。この痛さを和らげるには、「唱歌」に限ると、いろいろと聞いては見ましたのに、痛みが喰わってくるのですから始末に悪い。

 そこである人の街角ドライブをと思い立って、聞き出したのが、「あなたがいるから、私は強くなれる」と。マーティン・ハーケンさん。日本流に言えば、【のど自慢大会】で優勝した、元パン職人の歌手です。数年前には日本にも来たことがあるそうです。「のど自慢」といえば、北島三郎さんがまだ若い頃に応募して謳ったが、鐘が一つだったか二つなったか、といいます。日本の歌手の相当多くが「のど自慢荒らし」の経歴を持っているそうです。これは余談ですが、まだ石川県にいた頃、おふくろが「NHKのど自慢」に出たことがある。彼女はモボでもあり、古典民謡派でもありました。

You Raise Me Up

When I am down and, oh my soul, so weary When troubles come and my heart burdened be Then, I am still and wait here in the silence Until you come and sit awhile with me. You raise me up, so I can stand on mountains You raise me up, to walk on stormy seas I am strong, when I am on your shoulders You raise me up to more than I can be.(抜粋) (https://www.youtube.com/watch?v=4RojlDwD07I&ab_channel=L1

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 Martin Hurken氏についても、少しは話したいのです。しかし、腰痛のしびれがそれを許さないようで、いかにも、これまでの「駄文の祟(たたり)」なのかもしれないと、ますます落ち込むばかりです。でも「君がいてくれるから、ぼくは立ち上がれるんだ」と、ぼくの内なる「君」が現れるまで、少しは自重していましょうか。

 おまけに:森麻季さんで。(https://www.youtube.com/watch?v=y4hR-ygBU1U&ab_channel=SopranoChannel

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 条件反射の領分を超えて、考える人間になるんだ

 〈Like or Dislike〉 ~ まるでこの時代は「オセロゲーム(Othello game)の」盤上の世界のようです。「いいね!」と押して、なにが、どのように「いいね!」というのでしょうか?はたして、それ(二択、選択)だけでいいのか。「いいね」という単語で掻き消された真意(本心・本音)を無視して(自分に隠して)、どうして「いいね!」なのか。「いいね!」と言わしめた「深層」になにがあったのか、それを求めようとしなくていいのですか。▼「いいね!」の乱発で、言葉が惨殺されている。人間の精神(心情)が切り刻まれている。「二進法」というネット社会(世界)を蹂躙する《Pandemie》は、一人の人間、一つの社会、一つの世界の「可能性(蓋然性・未来展望)」を驚くほど狭め、限りなく貶めている。あらゆる方面で強いられる、「いいね!」が人間の思考力を無化し、この世界を「無言(しじま)」という暴力の奔流に巻き込む騒擾を惹起しているようです。

 上海や北京では「習近平は退陣せよ」という人民の「声」がとどろき、権力の横暴に《抵抗》する姿勢を見せている。二年前でしたか、香港で「雨傘デモ」に象徴される、抗議活動が、北京政府の強引な弾圧で押しつぶされたかに見え、その後は強権的な政治運営が続いてきましたが、けっしてその「抵抗」「抗議」の活動は死滅してしまったのではないということでしょう。もちろん、今回の北京や上海の「抗議」行動も、一過性のもので、いずれは踏み潰されると見られるかも知れませんが、いったん火がついたものは、よほど強烈な消火活動(弾圧)が継続されなければ、必ず再発火します。強権であればあるほど、抵抗力も鍛えられるということであり、たった一時期の権力者の「我が世の春」は百年も続きません。こんなことはどこの歴史でも見られることですが、権力の座についたものは「思考停止状態」になり、権力維持そのものが政治だと錯覚するのです。

 ぼくは動乱や政治的混乱を求めるものではありません。でも、目に余る権力行使や権力の横暴が続くなら、それに対して「暴力も辞さない」という考えはいつでも胸にしまい込んでいるし、その姿勢や態度にカビ(黴)が生えないように、常時点検している。もしアメリカ社会で、度重なる黒人暴動が生じなかったら、黒人の解放(いまでもまだまだ解放されきってはいません)は一歩も進まなかっただろう、そのようなことをフランスの思想家だったフーコーは明言していた。暴力は禁物ですが、政治権力を守る側が圧倒的な暴力を剥き出しにしたら、それに抗するには暴力しかないではないか、抑圧される側の「専守防衛力」「正当防衛」です。

 《good !》、 《bad !》これだけで割り切れないのが人間の営みです。それを無理に割り切ろうとすると、大切なものを捨てることになる。「あれかこれか」という狭い範囲でしか自らの選択が許されないことが、この社会をどれほど狭隘で歪(いびつ)なものにしてきたか。これまでもこの駄文収録で繰り返し綴ってきたように、ほとんどの試験は選択問題です。「次の中から正しいものを選べ」と。選択肢の中に「正解」があるというのは神話であり、作り話です。その「正解らしい」答えを判断(決定)するのは教師、こんな愚かしい教育を十数年も経験してきて、精神や感情を毀損されなかった人はさいわいです。多くの教師は「いいね(good)!」ボタンを押すことを快楽としているのではないですか。逆に言うと、「よくないね(bad)!」を刻印する人間を発見する作業が「学校教育」の機能になってきたのです。教師によってたくさんの「いいね!」を押印された児童や生徒、学生はどういう道をたどるのでしょうか。現下の社会で評価されているのは、おしなべて「いいね!」を教師によって印字されたものばかりだというと語弊があるでしょうか。

 右か左か、前か後ろか、戦争か平和か、健康か病気か、善か悪か、…このような「二択」にあらゆる可能性を取捨して、無理矢理に閉じ込めるというのはなんと窮屈なことか。28センチの足に20センチの靴を履かせるようなもの。必ず弊害(症状)が出てくる。「いいね!」は、正しくそれですね。人間の精神(思考力)や感情(情操)が歪むのは避けられない蛮行に等しい。たかが「いいね!」ボタンじゃないかと言うなかれ、これは今に始まったことではなく、学校教育の延長なんですよ。人生はすべからく「二択・選択」で決定されているのです、大筋では。(その「いいね!」ボタンに金銭が掛かっているというのはどんなことなんですか。「いいね!」を貰う・得るために、人はどんなことを考える、するのでしょうか)

 

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 新型コロナウイルスの徹底的な封じ込めを図る中国政府の「ゼロコロナ」政策に反発する抗議活動が中国全土で広がっている。デモは首都・北京の中心部にも飛び火し、27日深夜から28日未明にかけて200人以上の市民が表現の自由の象徴となっている白い紙を持ち「自由をくれ」とスローガンを叫んだ。/ 抗議活動があったのは北京市中心部の各国大使館が建ち並ぶ区域。参加者は当初、花束やろうそくを持ち寄って新疆ウイグル自治区ウルムチ市で起きた大規模火災の犠牲者を追悼した。その後、川沿いの散策路でスローガンを叫びながら大通りへと移動。白い紙を持って「私たちには今、自由がない」「PCR検査はいらない、自由が欲しい」などと叫んだ。(略)全土で抗議活動が広がるきっかけになったのは、ウルムチ市で今月24日に10人が死亡した火災。厳格なコロナ対策が影響して被害が拡大したとみられている。インターネット上に投稿されたデモの動画では、習近平国家主席の退陣を求める市民の様子も流れている。(毎日新聞 2022/11/28 02:08)(https://mainichi.jp/articles/20221128/k00/00m/030/004000c

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 無限無責任こそ、「親方日の丸」の国是なんだ

 森友改ざん訴訟 代理人弁護士語る2年8か月の舞台裏「裁判所が佐川氏らへの尋問の日程決めようとした直後に国が認諾」「公務員の個人責任に向き合うべき」 森友学園をめぐる公文書改ざん問題で自殺した近畿財務局元職員・赤木俊夫さんの妻・雅子さんが、当時の財務省理財局長・佐川宣寿氏に賠償を求めた裁判で、大阪地裁は雅子さんの訴えを退けました。今回の判決について雅子さんの代理人・生越照幸弁護士は向き合ってきた2年8か月を振り返ると共に「国が責任を認め、公務員に個人責任を負わせないのなら今後、真相解明ができない」と話します。(以下略)(MBSNEWS:11/26(土) 17:54配信)(https://news.yahoo.co.jp/articles/8d8f9cdd3a9350bac7e9ae65c020402c58bbf273?page=1

 裁判や法律にいささかの知識も知見も持たない素人が、何をごちゃごちゃ言ってるんだと批判されたり、非難の礫(つぶて)を投げられそうですが、素人だからこそ言わねばならぬ、そんな思いが募ってきて、抑えようがないのです。これまでも「国賠訴訟」裁判がいくつもありましたが、原告勝訴判決においての「国側の言い分」の殆どは、「金を払えば文句ないだろ」という、じつに低劣な、国民の権利を蔑ろにするものでしかありませんでした。裁判にならなかったケースも嫌になるほど多くある。今回の「森友文書改竄」事件でも、国は「金がほしいんだろ」「金を出せばお仕舞い」という不埒な態度で一貫していた(「認諾」という法廷拒否)。ならば、公務員個人の責任を問おうと訴えると、公務員個人に責任はない、国家や公共団体が賠償責任を負う、それでいいではないか、と。ついに、「真相究明」」「事実の解明」は果たされませんでした。「国民の知る権利」はどこに捨てられてしまったのか。(「金」の出どころはどこだと思ってるんだろうか)

 「親方日の丸」とは、親方の庇護を受けて、親方に忠義を尽くせば、なにをしても(とは言わないが)、子分は、原則的には罪を問われない。その肩代わりは国がするからというものだった。道理で「しゃかりきになって、国家公務員になろうと、多くが人生をかける」というのでしょうか。「釈迦に説法」ならぬ「馬の耳に念仏」のたぐいで、人民がどんなに苦しみ藻掻(もが)いていても、左団扇の国家・特別公務員には「馬耳東風」でしかない。つまりは「どこ吹く風」です。手に負えない連中が「国政」を牛耳っているのをなんとしますか。

 国民(人民)の権利を守るために「国」という形(かたち)を作り、その形に機能を与えるために制度・組織を整える、かつ納税によって、それを根底から支える、その制度・組織の根幹を歪めないために、権力の悪用・乱用を阻止するために「憲法」があるのです。その制度や組織を恣(ほしいまま)にし、あろうことか、自らが義務として擁護しなければならぬ「憲法」を葬るようなな行為しかしない、「国」に付着したにすぎない権力の横暴、そんなものはもはやいらないのではないですか。百害あって一利なし。憲法は権力の邪魔だから、変えてしまえという、それこど天に唾する愚策愚行を政治権力は、恥ずかしげもなく吐き続けている。そのためには「売国」もいとわないというに到っては言葉を失います。

 「人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」(「フランス人権宣言 前文」)

 

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 「徒然日乗」(XXXVI~XL)

▼ 十一月二十五日、今から五十二年前のこの日、作家の三島由紀夫さんが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂行した。ぼくはこの事件を鮮明に覚えている。三島さんの「介錯」をした森田必勝君は大学時代の後輩。ある時、白い制服(軍隊を気取っていたのか)を着て学校に来たことがある。何のために大学に来たのか分からない風を装っていた。空手を嗜んでいたし、じつに喧嘩早い男だった。▼ 「楯の会」を組織した三島さんは、自衛隊隊員に蹶起を促し、クーデターを起こそうとしたという。夢を見ていたか、小説の主人公を気取っていたか。狂気の沙汰だと今でも想う。自らの「死に場所」を求めた結果の乱入だった。仕事に行き詰まったからというわけでもないだろうが、世間を騒がせたかった三島氏の蛮行の道連れになった森田君をはじめ、幾人もの「若者組」は、何を願っていたのか。まさか「革命(昭和維新)」など、と愚にもつかぬことを図っていたとは、ぼくには想像もつかない狂信行為だっただろう。▼ 事件当時、落ち着いたら、三重県にある森田のお墓(所在はわかりません)に線香を手向けに行きたいと望んだ。それからもう五十二年も経った。(「徒然日乗」・XL)(2022/11/15)

▼ 朝からゴミ処分、九時頃から始め、昼前までかかった。その多くは焼却します。引っ越し当座に、大谷石で焼却炉を、自作で設置した。大概のものはここで処分できる。訪ねてきた友人が、「何でも燃やすんだ」とぼくがいうと、「人間も、ね」と嫌なことをいう。まだ、生き物は燃やしたことはない。しばらく車庫に寝ていた猫たちの「塒(ねぐら)」を掃除し、いよいよ、車庫本来の使用目的にとの算段、冬支度ですね。それまで車は野天駐車です。▼ このところ犬や猫の「多頭飼育」失敗・崩壊状況が、いやに目につきます。ぼくのところも、決して少なくはない。失敗の共通問題は「避妊」「去勢」手術をしない(できない)ことが第一の理由だそう。ここに越して以来、すでに十数頭は手術を済ませた。八月生まれ軍団も、年明けには「予定」している(八頭)。さらに、敷地に入ってくる「野良」を捕まえ、手術台へ送ろうなどと、と余計なことまで考えている。(「徒然日乗」・XXXIX)(2022/11/24)

▼ 終日雨模様で、晩秋の深まりを感じています。低地ではあっても多くの樹木の緑が紅葉(黄葉)し、それなりの季節の移りゆきを覚える。庭の南側に、一本の銀杏(公孫樹・いちょう)の老木があり、大きくなると鬱陶しい(人間の勝手)のでと、毎年のように思い切り選定している。それでも旺盛な伸び盛りを思わせる育ちぶりです。銀杏(ぎんなん)はつけないようですが、そこまで育つ前に切るので、はっきりしたことはわかりません。居間の前には「侘助」という冬椿が一本、大人しそうに一輪一輪と咲いては散っています。▼ ぼくは、天気には文句は言わない人間で、雨もいい、雪もいいと、最初から諦めているような心持ちになります。家も古くなり、あちこちに綻(ほころ)びが来る頃。まるで居住人のようです。そのうちにやろうと放ったらかしていた雨樋の落ち葉掃除など、冬になる前にしなければならないことがたくさんあります。▼ このところ、子猫たちが成長して一人前にふるまうので、その世話で大童(おおわらわ)、いや反対に、猫たちに相手をしてもらっているのかもしれない。お互いに、一種の介護の「仕合」のようなものですね。今日は、「勤労感謝(旧新嘗祭)の日」だってさ。(「徒然日乗」・XXXVIII)(2022/11/23)(⬅ 赤木俊夫さんの遺書)

▼ 先日、役場から「地域振興券」なるものが送付されてきました。夫婦二人分で一万二千円分(追加で四千円分も)。財政逼迫の町が「お金」を配るはずはなく、いずれ国の「ばらまき」政策の一環であろう。節分の「豆撒き」でもあるまいに。政治・行政が「金配り」に堕してしまったというべきか。▼ 大本の政策を立案・実施するのではなく、金さえ配っておけば、文句はあるまい、内閣の支持率も騰がるだろうと。まさに、人気(支持)を金で買うということだ。国民も舐められきったものですね。気前よくばらまいた総額は、一体どれくらいになるのか。そのほとんどが「国債」という名の借金です。目配りが行き届き、民の声に耳を傾ける政治と、馬鹿の一つ覚えの呪文のように唱えているが、それでいいのですか。上(国)がこうだから、下々の行政単位も「上に倣え」と風になびく葦のようだ。▼ この「金券」をどうしたものか。ぼくも楽ではないが、ぼく以上に困難な日常に迫られている人の役に立ててもらいたいと思案している。政治の世界で、金を配るのは「馬鹿でもできる」というか、いや「馬鹿しかやらない」といった方がいい。国家の税金を活計(かっけい・たずき)にし、身命を賭していると嘯(うそぶ)く議員さんたちの捻り出した知恵が、これだけか、他にないのか。ウンザリするのも阿呆くさいな。(「徒然日常」・XXXVII)(2022/11/22)

▼ 高齢者運転の自動車事故が目に付きます。それも決して軽度のものではなく、死傷者が伴う重大事故が続く。一人の高齢者として、我が身に照らして、無関心ではいられない。アクセルとブレーキの踏み間違えが事故のほとんどの原因だとされる。たしかにそうかも知れないが、この踏み間違いは、世評にある「認知機能」の劣化に起因すると言えるかどうか。▼ ぼくは半世紀以上も前から車に乗っていたから、マニュアル車に慣れていた。アクセルとクラッチとブレーキの三枚のペダルがあり、アクセルとブレーキを間違えるということは、構造上からも考えられなかった。車の性能が向上し(機械任せになり)、誰もが気軽に運転できるようになった点はいいが、逆にそれが重大事故につながっていることも事実だと思う。▼ 事故をなくすためには、現行三年に一回の「認知機能検査」を毎年やるべしという意見もあるようだが、それで事故が減るなら毎月、いや毎週だって実施してもいい。しかし、なんだか本末顛倒した理屈のようにも思える。厳罰化すれば、飲酒運転が減るというのと同じで、現実には飲酒運転による重大事故はなくならない。もっと構造上の問題について考える必要がありそうではないか。▼ 車のエンジンやブレーキ、あるいはアクセルなどの操作上の問題(オートマといいながら、この部分はマニュアルのままなのだから)が指摘されているし、すべてではないにしても、特定の車種に事故が偏っているとも。どうして、この観点から、事故の頻発防止策を講じようとしないのだろうか。一方法として、十キロ以上の速度が出せない車があるといいね。(「徒然日常」・XXXVI)(2022/11/21)

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 違法行為を行った公務員(個人)は無答責なのか 

 「国または公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは,国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる」(国家賠償法1条1項)

 「森友」事件で公文書の書き換え(改竄)を命じられた財務省職員が「自殺」した事件で、改竄を命じたとされる上司(当時の財務省理財局長)の責任を問う、原告(元職員の妻)の訴えに「公務員の個人責任を認めず」という判断が下された。じつに疎ましい法律(国賠法)であり、判決である。公務員個人には職務上の問責は不問で、その責は「国家・地方」が負うという。同事件での国の責任を問う裁判では、去年十二月、原告の訴えをすべて認める「認諾」(賠償責任)という手続きで、裁判そのものにすら入らなかった。(右画像は:https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/213967)

 「散歩中の飼い犬が通行人に噛みつき、大怪我を追わせた」なら、犬の責任は追及しないで、飼い主の「管理責任」が問われる。それ相応の理由はあるだろう。さすれば、公務員は鎖で繋がれた「飼い犬」に等しい。仮に、野生の犬や猪が人間に危害を加えれば「殺処分」が相場ではないか。「畜生」のくせに「人間」を傷つけたのだから、という廉で、その責任を追求されたわけ。

 国家・地方を問わず「公務員」は、飼い犬以下、野生の犬や猪以下の存在なのか。裁判官は、自ら「猪以下の存在」を証明したようなもの。下級審で「死刑判決」を出した裁判が、その後「冤罪」であること明らかにされた裁判事例いくつもある。誤った判決を下した裁判官は、けっして「裁かれない=責任を問われず」のは、公務員だから。「誤審」の責任を追求されたら、おちおち判決など下せない、それがために、いい加減な裁判が横行することになるのだろうか。同様に、公務員の行状や職務が堕落・頽廃するのも、野生の犬や猪以下の存在として、責任を問われない(無答責)位置に縛られているからだ。公務員も人間だ、だからこそ、「人間倫理」の問題として、この状況を放置しておいていいのか。

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 佐川元理財局長に「説明や謝罪の法的義務ない」と大阪地裁 森友文書改竄訴訟  学校法人「森友学園」をめぐる財務省の決裁文書改竄(かいざん)問題で自殺した近畿財務局の元職員、赤木俊夫さん=当時(54)=の妻、雅子さん(51)が、佐川宣寿(のぶひさ)元国税庁長官に1650万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、大阪地裁であり、中尾彰裁判長は請求を棄却した。国家賠償法や最高裁判例に基づき、公務員が職務で損害を与えた場合は、個人ではなく国が賠償責任を負うと判断した。/当初の被告は国と佐川氏だったが、国は昨年6月、赤木さんが改竄の経緯をつづった文書(通称・赤木ファイル)を開示。その半年後、約1億円の賠償請求を受け入れる「認諾」の手続きをとって訴訟を終わらせた。残る争点は、当時理財局長だった佐川氏個人の賠償責任を認めるかどうかだった。

雅子さん側は、文書改竄は「民主主義の根幹を破壊する悪質な行為」と指摘。佐川氏に責任を負わせることで再発防止を図るべきだと主張した。これに対し、中尾裁判長は、損害賠償制度の目的は被害者が被った不利益の補填(ほてん)で「制裁や同様の行為の抑止を目的としていない」と判断した。/雅子さん側は、佐川氏には改竄を指示した経緯の説明や謝罪をする義務があるとも訴えたが、「道義上はともかく、法的義務はない」と退けた。/ 判決によると、赤木さんは平成29年2月以降、この問題に対処していたが、同年7月に鬱病を発症。30年3月に自殺した。/ 国は認諾の際、赤木さんが強く反発した財務省からの改竄指示などへの対応が自殺につながったことを認めたが、この日の判決は改竄指示と自殺との因果関係に言及しなかった。雅子さん側は閉廷後、判決を不服として控訴する意向を示した。(産経新聞・2022/11/25)

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 抗議する、意思表示する、それは基本的人権なのだ

【斜面】ドイツのもう一つの闘い サッカーW杯で日本に敗北したドイツはこの時、もう一つの闘いに挑んでいた。相手は国際サッカー連盟(FIFA)である。試合前の記念撮影で選手がみな口を手で覆ったポーズをした。自分たちの声を不当に封じるな、との抗議だ◆開催国カタールではインフラ整備に携わった外国人労働者の多くが劣悪な労働環境で死亡したと報じられた。同性愛行為も違法で、欧州などで批判が高まった。欧州7チームは大会で主将が反差別の腕章を着けようとしたが、FIFAが待ったをかけた◆政治的スローガンに当たる、との理由らしい。ドイツは「政治的な声明ではない。人権の尊重に交渉の余地などない。腕章の否定はわれわれの声の否定だ」と猛反発した。一方、アラブ側も欧州への反発を強めている。英メディアは「平行する二つの宇宙があるようだ」と伝えた◆W杯は1934年イタリア大会でムソリーニが政治宣伝に利用した。ナチスも続く五輪で倣った。スポーツと政治には苦い歴史がある。だが、選手が開催国の人権状況に異を唱えるのを「政治的」と禁じていいのか。フタをしてやり過ごす狙いが透ける◆2年前、テニスの大坂なおみ選手は人種差別に抗議するマスクを着けて全米オープンに出場した。差別や抑圧、貧困はスポーツの未来を妨げる。トップ選手らの敏感な反応は当然だ。世界の現実や課題が見えてくる国際大会で「黙って競技だけしろ」と言うのなら、選手の人権をも損なう。(信濃毎日新聞・2022/11/25)

(CNN) カタールのハリファ国際競技場で23日に行われたサッカーのワールドカップ(W杯)日本対ドイツ戦の試合前、写真撮影に臨んだドイツの選手が手で口を覆う一幕があった。多様性を訴える腕章の着用を認めなかった国際サッカー連盟(FIFA)にメッセージを送るためだった。/ ドイツのスタメン選手11人は全員、右手で口を覆うポーズを取り、数分後にはこの写真がSNSで広く出回った。/ 日本との試合が始まるなか、ドイツ代表チームはSNSでこのジェスチャーについて、「OneLove」と書かれた腕章を禁止したFIFAの決定に抗議する狙いがあると確認した。欧州では多くの国の主将がこの腕章の着用を希望していた。(中略)/ 腕章には様々な色のストライプで塗り分けされたハートが描かれ、あらゆる伝統や生い立ち、性別、性自認を表すデザインとなっている。大会前、イングランドやウェールズ、ベルギー、オランダ、スイス、ドイツ、デンマークの主将が着用を予定していたが、FIFAは21日、着用した選手にイエローカードを出す方針を明確にした。/ ドイツサッカー連盟連盟(DFB)はキックオフ直後に投稿した一連のツイートで、ドイツの重視する問題について声を上げるのをFIFAから封じられたため、抗議を行ったと示唆した。/ DFBは「我々は主将の腕章を通じ、多様性と相互尊重というドイツ代表チームの価値観について立場を表明することを望んでいた」と説明。「政治的な意見表明ではなかった。人権に交渉の余地はないからだ。これは当然のことだが、依然としてそうなっていない」「腕章の禁止は声を封じられることに等しい」とした。(以下略)(上の写真は:右手で口を覆うドイツ代表選手/Alexander Hassenstein/Getty Images)(https://www.cnn.co.jp/showbiz/35196527.html

(⬅ 虹色のキャプテンマークを着用予定だったノイアー。しかし、彼らの願いは叶わなかった。(C)Getty Images)(同上)

 スポーツは好きで、大抵のものは実際にやったことがあります。観るのも、ある時期までは大好きでした。今と違って、観戦するには、テレビか、競技場に行くしかない時代でした。京都在住時代には、数年に一度、プロ野球が西京極球場で行われた、それには何度か観に出かけたことがあります。その球場では高校野球の予選を戦ったり、隣の球技場ではラグビーの花園予選の試合に出ていました。(何れも出ると負け)

 カタールのドーハでワールド・カップ(サッカー)が開かれています。日本がドイツに勝ったというニュースで持ちきりですが、ぼくは、それほど関心がない。これは五輪でもそうでしたが、今のスポーツは「商業主義」「金まみれ」が相場で、いわばスポーツを食い物にしているという、汚れた印象ばかりが強くなりすぎて、純粋に試合を観戦する気分になれない、それが正直なところです。選手も、中にはその商業主義に抵抗はなく、否応なく、歩く・走る・泳ぐ・滑る・投げる・飛ぶ「広告塔」になっており、競技会場はスポンサーの舞台裏のような、展示会のような、美しくない雰囲気が蔓延しているところで、けっして安閑として見ていられないのです。

 今回のFIFAの姿勢には、同調できないものがありました。選手たちが「人権尊重」の態度を示すことを「政治的」と批判し、それを許さなかった。「スポーツに政治を持ち込むな」というのが大方の意見です。最も政治性を固守しているのが各種団体、その代表はIOCであり、FIFAなどでしょう。このような問題で思い出されるのはメキシコ五輪のときの出来事です(これはどこかで触れています)。アメリカの陸上選手(金・銅メダル剥奪、競技界から追放の処分を受けた)の示した抗議の姿勢が非難されたが、これ以降、長い時間がかかったが、ブラックパワー・サルート(拳を突き上げる、片膝をつく姿勢を取るなど、黒人差別に抗議)が容認されるきっかけとなった事件でした。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60f7d0a2e4b0158a5edb51dd

 スポーツと政治の関わりはけっして切り離せないもので、スポーツ選手は政治的中立を保ち、大人しく(黙って)競技に参加すればいいのだという、いわばスポーツ選手からの政治的態度(主張)、つまりは「人権」の剥奪が、これまで罷(まか)りとってきたのです。どんな人も、大なり小なり「政治的存在」であって、「静物」などではないのです。それを最も利用してきたのが各種競技団体の幹部連だったではないか。スポーツの政治利用でもっとも有名になったのが1936年のベルリン五輪でした。ヒトラーが最高に政治利用したものだった。その次の東京五輪(40年予定)は「日米戦争」開始のために開かれなかったが、政治的中立をいうなら、いまの「ウクライナ侵略」のさなかにも開かれているワールド・カップ同様に開くべきだった、場所を変えても開催すべきだった、というのはどうでしょう。

 戦争や動乱の非人道性を一時忘れるために、五輪があるのではなく(五輪などの競技大会は「一服の清涼剤」などではないでしょう)、「平和の祭典」と謳っているのですから、戦争であれ、人種差別であれ、著しく個人や団体の権利を否定するものにこそ、スポーツ(にかかわる人)は立ち向かうべきではないのか。ぼくはいつしか、五輪を始めとする「世界規模」の競技大会に興味を失っていったのは、まずはスポーツを利用する人間たちが権力や金にまみれている(昨年の東京五輪はその典型的悪例)、あるいは政治弾圧を受けている側の「人権」を擁護しない、ご都合主義の「政治的中立」の使い分けにうんざりさせられてきたからです。

 「イエローカードや退場…FIFAが競技での制裁を警告 ハート形のロゴとともに同性愛者などへの差別反対を表現した「ONE LOVE」と書かれたキャプテンマークは、カタールでの同性愛者への差別的な法律への抗議として、9月から各チームが試合で使っていた。/ W杯での腕章の着用を予定していたのは、イングランド、ウェールズ、ベルギー、オランダ、スイス、ドイツ、デンマークの各キャプテン。ロイター通信によると、FIFAはこれに対し、着用すればイエローカードや退場などの制裁があり得ると通達。7チームは連名で「選手に警告を受けるリスクを負わせることはできない」と着用を断念。声明を出し、FIFAの決定を非難した。/ ドイツサッカー協会のベルント・ノイエンドルフ会長はFIFAの制裁の脅しは「ワールドカップ史上、前例のない出来事」だと述べ、FIFAを批判したとAFP通信が伝えた。/ ベルギー代表は、「LOVE」の文字と虹色のデザインが入ったアウェー用ユニホーム着用についても、FIFAが認めなかったとして断念している。(ASAHI SHIMBUN・2022.11.22 GLOBE+:https://globe.asahi.com/article/14774648

 

 英陸上選手、「抗議することは基本的人権」 「五輪での抗議全面解禁求める「人種差別に抗議した人を処罰するって、いったいどうやってそうするのか、いったいどうやってそんなことを強制するのか」とアッシャー=スミス選手は言い、『誰かが、人種差別は間違っていると言ったとして、それを理由にその人のメダルを取り上げるのか?』と疑問をあらわにした。/『抗議すること、意思表示することは、基本的人権だと私は思っている』」「アッシャー=スミス選手は、スミス選手とカーロス選手が表彰台で『ブラック・パワー・サルート』と呼ばれるポーズをした瞬間は、オリンピックの歴史でも特に象徴的な瞬間だったと話す。/「ああいう瞬間があるからオリンピックは記憶に残る。ああいう瞬間をオリンピックで見ると、誇らしい気持ちになる人は大勢いる』」(BBC・2021/07/24:https://www.bbc.com/japanese/57951864)

 これはおかしい、あれは正しくないと、問題の状況に異議を唱えること、それは「発言の自由」というもので、まさに「人権そのもの」です。それを否定したり、抑圧するところで闘われる・競われる「スポーツ」とは何でしょう、そんな根本的な疑問をぼくは持ち続けている。

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