いつの日か、人は死ぬものですが。

 八月五日のニュースをネットで見ていましたら、なにかと世話になっていた友人が亡くなったという記事が目に飛び込んできました。僅か二行の記事でしたから、詳しい事情を知るべくもなかったし、亡くなったのが一日だったとありました。長く付き合ってきたにも関わらず、ぼくは彼の年齢を知って驚愕しました。六十歳だった。憲法学の学徒で、素晴らしい仕事を重ねられていました。ぼくは、四十年近く担当していた「人権問題」の授業で、いろいろな方に助けていただいてきましたが、彼もその一人で、ぼくが辞職するまで十年以上は、ぼくの無理なお願いを聞いてくれました。憲法の観点から、あるいは、裁判の判例に基づいて、さまざまな人権問題を明らかにしてくれた。その意味では、Kさんの授業では,ぼくは一人の学生としていつでも授業に出席していたのでした。たくさんのことを教えられた。

 このニュースを知って以来、なにかと思い(想い)が、彼のところに戻っていくのが如何ともし難く、気がついてみると、よく付き合ってくださったなあと、感謝の念(言葉)しか、出てこないのです。ぼくは、筆無精で、年賀状も、頂いた人に返事を書くのがせいぜいでした。K君から、いつも丁寧は年賀状が届いた。いかにも真面目な(大阪人なんです)性格がにじみ出るような文面でした。ところが、今年は届かなかったので、あるいは忙しいのか、などと気にはしながら、電話をかけるという習慣がないものですから、そのままにしていたのです。そこへ、いきなりの死亡記事でした。(この山中に越して以来、以前にもましてぼくは人との付き合いをしなくなりました。まったくの没交渉。電話も、かける要件もないので、しないまま。そのために、今回のような、無作法な知り方になることもしょっちゅうです)

 事情はどうだったか、友人や知人に問い合わせることもできるのですが、ぼくの心情はそうならないままで、本日のお葬式がやってきました。山の中から都心にまで出向く勇気というか、それが今のぼくには欠けていますので、一人静かに、これまでのご厚情に御礼を言い、安らかな休息を願い、深く追悼しているのです。(奇遇ですが、もう何年になるか、やはり憲法学の研究者で、同じ大学の教員だったNさん。休暇を利用して山梨だったか長野だったかに出かけた帰路、深夜、中央高速で「自損事故」を起こし、警察に連絡した後に、高速道路を歩行していて、後続の車にはねられ亡くなったという事故がありました。彼にも、十年ほどは授業を助けていただいた。研究は言うまでもなく、加えて、なかなかの実践派で、人権問題の裁判にも関わって、これからという段階の事故でした。まだ、五十台半ばだった)

 いつになく、しんみりとして過ごしています。今朝は三時半前に起床、猫の食事を整え、五時から庭仕事(枝落とし、草刈りその他)に二時間ほど。シャワーを浴びて朝食、また庭仕事の続きをしているところに、電話。長野の病院に入院しているOさん。入院以来、約三週間余。声に張りが出てきて、元気に回復途上であることが電話でもわかります。健康を回復し、新しい仕事にゆっくりと挑戦されるといいというような話をして、電話を切りました。人の世の常です、一方に、若く亡くなる人あり、もう一方に病から生命力を回復する人あり、です。それにしても、六十と言うのは、若すぎますね、Kさん。残念だったことでしょう。思い切り生きられたと言っても、やはりもう少しは、という望みも持っておられたはずです。

 改めて、これまでのご友誼に対して、深甚の感謝を捧げます。(合掌)(本日は、ここまでにします)

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存在する限り使いたがる、何だろうか?

 核の脅威「核兵器を一切持たないことが唯一の解決策」 被爆77年の広島で国連事務総長  原爆の日の6日、広島市の平和記念公園(中区)での平和記念式典に、国連トップとして12年ぶりにグテレス事務総長が出席した。あいさつに立ち、「広島の恐怖を常に心に留め、核の脅威に対する唯一の解決策は核兵器を一切持たないことだ」と訴えた。/ 事務総長は、原爆の惨禍を振り返った上で、被爆77年となる今、軍拡競争が加速していると指摘。「核兵器保有国が核戦争の可能性を認めることは断じて許容できない」と強調した。/ 核兵器を全面的に違法化した核兵器禁止条約を巡る動きや、米ニューヨークで再検討会議を開催中の核拡散防止条約(NPT)を「希望の光」と位置付け。保有国による核兵器の「先制不使用」や非保有国に核兵器を使わない「消極的安全保障」を求めた。(中国新聞・2022/08/06)

 【正平調】次にあげる国名と数字を見てピンとくる人もいるだろう。ロシア5975、米国5425、中国350、フランス290、英国225、パキスタン165、インド160、イスラエル90、北朝鮮40◆核兵器を持つ世界の国を、保有する核弾頭が多い順に並べた。昨年より410発減っているが、推計した長崎大は「ロシアのウクライナ侵攻で自衛のための核依存度は高まっている」と分析する◆日本でも、自民党の一部や日本維新の会から「核共有」の議論が出始めた。米国の核を日本に配備して共同運用しよう、という発想である。当然、仮想敵とみなされた国の緊張は高まる。そっちがやるならこっちも-と歯止めのたがは外れる。先日、米国の下院議長が台湾を訪問すると中国は弾道ミサイル11発でお返しした◆核抑止論は英国首相のチャーチルが述べた「恐怖の均衡」という考えに基づく。だが相手を恐怖で支配するには圧倒的な核の力がいる。その結果が、先にあげた計1万2720発の核弾頭である◆核の脅威をちらつかせ、恐怖をあおるのは誰か。いつの時代も、地べたで汗を流す人々でないことははっきりしている◆今日は広島原爆忌。地元選出の首相の言葉も気になるが、被爆地の底から届く声にこそ耳を澄ませたい。(神戸新聞・2022/08/06)(左上の図は東京新聞・2022/01/22)(ヘッダー写真はHUFFPOST/ROMOLOTAVANI VIA GETTY IMAGES)

 八月六日、広島「原爆の日」です。「投下」以来、七十七年が経過しました。国連総長が広島で「挨拶」。核保有国の管理する国連の(雇われ)番頭さんです。何ができるのかという痛ましさを痛感しつつ、そのあるべき姿からあまりにも乖離した現実に臍を噛む思いがします。「核の脅威に対する唯一の解決策は核兵器を一切持たないことだ」という発言は爽快、いや悲壮ですらあります、国連の現実を見ないことにすれば。しかし、核保有大国が国連を牛耳って、「冷たい戦争」「熱い戦争」を繰り広げてきたのも事実で、それが広島の日の数えて、「七十七年目」に重なるという不幸を、ぼくたちは噛み締めている。

 現に長期戦の様相を見せているウクライナにおける戦争に対しても、為すところがないのが国連という機関であって、事務総長個人の問題ではないことを忘れたくありません。「喉元すぎれば、熱さを忘れる(Danger past,God forgotten.)」という俚諺があります。ぼくは、広島や長崎の原爆投下という人類史上の最悪の愚行を考えるたびに、この俚諺を服膺(ふくよう)しているのです。原爆投下(された)日を迎えるたびに、ぼくたちは「喉元の熱さ」を痛感する。そして、その日が一日すぎれば、より深く熱さも忘れるのです。七十七年という日月は、すっかり忘却するには十分すぎる時間であると感じる向きが、政治家に圧倒的に多いと言えるかもしれません。いや、「喉元」をすぎる前から、そもそも、その「熱さ」を感じない面々がいたということでもあります。「非核三原則」は考え直すべきだ、と政治家が言う。その理由はなんだろうかと、ぼくは訝(いぶか)るほかない。男も女も、政治家として「非核三原則」は改めるべし、「核保有(シェア)」を探究すべきだと、相変わらず、「核の相合い傘」を所望するが、果たして相手は、それを認めたがっているか。ならば、独自で、最新鋭の軍事力を持とうではないかといって、振り上げた拳をどこに下ろすのかな。ぼくは、「羹(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く」という俚諺も好む人間です。(他国でも、Once bitten, twice shy.などと言うそうです。何かを学ぶということが欠けているのではないですか)

 半世紀前、元総理大臣が「非核三原則」を打ち出して、その功績で「ノーベル平和賞」をもぎ取りました。「核兵器はつくらず、持たず、持ちこませず」という。ところがどっこい、「沖縄返還」に際して、ときの米国大統領ニクソンとの会談で「核持ち込みを黙認する」という「密約」をしていたことが後に判明します。沖縄返還から、本年は半世紀でした。「偽り」の「非核三原則」だったわけですが、政治家の勲章意欲の飽くなき追求は、嘘でも偽りでも、吐(つ)き通せばいいのであって、平和の使者が、実は「悪魔の使い(手先)」だったということになります。この「悪魔の使い」の「甥っ子」が、銃弾で倒れた元総理でした。彼も偽りを政治信条にしてきた人間だった。「宿題はやった」と親に嘘をつくのは可愛いもの。しかし、世界に対して「偽りの政治信条」をさらけ出すのは、許し難い行為であり、それには「売国奴(a traitor)」という名がふさわしいと、ぼくは以前から考えてきました。それにしても、ある種の政治家は天性の「偽善者」であると断言できるのではないでしょうか。世界を股にかけて「偽善を振りまく」のが大政治家か。日米首脳が、歴史上に記憶されるべき虚偽人であったというのは、けっして偶然ではないし、この傾向は日米に限らず、いたるところで認められるもので、どこにおいても「(偽善の)万世一系」だと言っても過言ではなさそうだ。(右上の図は東京新聞・2022/01/22)

非核三原則【ひかくさんげんそく】=1968年の佐藤栄作首相の発言,〈核兵器はつくらず,持たず,持ちこまず〉から,従来歴代内閣によって堅持されてきたとされる核兵器に対する日本の基本政策で,国是ともいわれた。しかし,日本に寄港する米国艦隊には核巡航ミサイルトマホークが配備されているため,この原則は守られていたとは言えないうえ,2009年政権交代して発足した鳩山由紀夫内閣の指示による,外務省の調査は,日米密約の存在を認め,〈持ち込まず〉の原則が虚偽であったことが判明した。(マイペディア)

  • 非核三原則と核密約 核兵器を「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則は67年12月、当時の佐藤栄作首相が衆院予算委で表明し、翌年1月の施政方針演説に盛り込んだ。その後、唯一の被爆国日本の「国是」として扱われるようになった。しかし、佐藤政権の64〜72年は、「核密約」が成立し、核の寄港・通過を認めた時期と重なる。「持ち込ませず」は、最初から本土への核配備にしか適用されていなかったことになる。佐藤氏は74年、三原則などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。(朝日新聞・2009年09月21日 朝刊)

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 どこをどうひっくり返しても、ぼくにはわからないことがあまりにも多すぎます。中でも「権力志向」、あるいは「名誉欲」、「他者支配」等々、これらは、ほとんどぼくには無縁のもの(情念・passions)でしたし、今もそうです。自分でも、この点に関しては、一貫していたと思う。いいことか良くないことかは、ぼくは言わない。人それぞれの生き方の問題ですから。権力を一手に握って、どうしたいのですか。自分は戦地に赴かなくても、兵士を意のままに動かせ、「核のボタン」を押そうと思えば押せる。仮に押したとして、どうなるかを考えないのでしょうか。アメリカの大統領がいましたね、ヒロシマ・ナガサキに「原爆投下」の指令を下した当人。何十万人の人民の命を奪って、さらにその後遺症が何代にもわたり何十年の後も続く、そのような「蛮行」の主になることが、それほど「願わしい生き方」「名誉」に叶うのでしょうか。支配者というものの心中はわかりませんね。ぼくのような「愚人で結構」という人間には、この情念が湧き出る理由というものが皆目理解できない。

II

 「我が国は唯一の戦争被爆国」という言い方は、これまでどれくらい言い古されたでしょうか。要路にある人間がこの表現を使うと、ぼくは「言いようのない不愉快さ」に襲われます。広島や長崎が「唯一の被爆国」と言った直後に、舌の根も乾かないうちに、アメリカの「核の傘」を擁護するのです。「唯一の」は、どんな意味で使われているのでしょうか。永遠の「唯一」を願うのか、早く「唯一を脱したい」と望んでいるのか。ぼくは、敢えて言いませんが、この島の政治家の多くは「唯一」は売り物にはならぬと信じていると見る。情けない話だと、我ながら思うが、この島は「過ち」を認めない国だと言われても仕方がないし、決定的な過ちを起こすことを念じているとさえ思われるのです。「ヒロシマ」「ナガサキ」は、我々にとって、どういう意味を持っているのか、あるいは、それは他国にどのように写っているのか、その現実を、それこそ誤りなく見通すために何が必要なのか。「原爆の日」は、ぼくにとっては「喉元過ぎても、熱さを忘れず」と、こころすべき「日」でもあるのです。同時に、「羹に凝りて、膾を吹く」日でもあります。 

 あれば使いたがるものの、なければ使う気が起こりようがない。いや、なくても使いたがるものも、人によってはあるのでしょうよ。それにはいろいろなものがありえる。勇ましいことをほざいている政治家(政治家でなくても)にとって、それはなんでしょうか。あいつをやっつけたい、あの国を懲らしめたいと、武力(暴力)を振るう口実を作るのは、ロシアのP大統領ばかりではないのです。ぼくには理解不能の「人種」たちです。

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健康と要介護の「中間」って、何?

 【明窓】71歳で老衰!? 知人から聞いた話。「小学校の同級生が71歳で亡くなったが、死因は『老衰』だった。71歳でも老衰と判断されるのだろうか」と。高齢者の定義は65歳以上というのは分かるが、71歳で老衰は若すぎるのではないか、との言い分だった▼医者の友人に尋ねると、「加齢に伴い心身ともに機能が低下し、脳や全身の臓器が不可逆的にダメージを受けた状態。癌(がん)や肺炎など明らかな病気がなく、食事も摂(と)ることができなくなり、自然死と医師が診断したとき『老衰』と判断する」。確かに71歳で老衰は若いと感じるが、あり得るようだ▼島根県によると、2020年の県の平均寿命は男性81・6歳、女性87・9歳。同じく健康寿命は男性80・0歳、女性84・7歳となっている。多少の持病はあっても、自立して生活できる年齢が延びていけば老後の生活が充実する。要は元気で暮らしていられるかどうかだろう▼「フレイル」という言葉がある。健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のことだそうだ。現在の状態が「健康」寄りか「要介護」寄りか。考えてみると、持病はあるし、体力も認知力も落ちた、と落ち込む▼だが「何くそ」と思う。坂道を上がるのさえ苦しい現状。フレイル状態間近なのは否定できないが、何か世間のお役に立つことを楽しく続けていきたい。まずは散歩で体力回復を目指そう。(富)(上右写真:自身のフレイルを確認できる特設ブースで、判定結果を聞く市民(右)=5月6日、米子市内)(山陰中央新報・2022/08/05)

 長く生きることが、世間に対して申し訳ないような、そんな機運が横溢していると感じるのは、ぼくが年寄りだからか。「老人性僻(ひが)み症」だと、覿面(てきめん)に診断されるかもしれない。「君は立派なフレイルだよ」とたいがいの医者なら言うにちがいない。血圧や体重、骨密度や血糖値などなど、あらゆる数値を秤にかけ、狭い範囲に閉じ込めて、その埓外に出ると、たちまちに「なんとか症」と診断名がつく。数年前、ぼくは医者から「高血圧症」と診断されました。数値が一定値以下でないと「高血圧」、医者に言われたように血圧を測り、薬を飲み、それから、と一定期間やりましたが、ある時期に医者には行かなくなったし、血圧を測ることも薬をのむことも止めてしまった。それで体調が悪くなるということもなく、ごく当たり前に息をし、自分の足で歩くことを続けています。医者は(薬を飲まなくていいよ」とはまず言わないものです。不思議というか、変だな。

 今の数値は「高いかな」とか、「正常値か」などと、ぼくはすっかり「血圧正常数値」に慣らされてしまっていた。じつに愚かしいと、我ながら思ったものです。(アメリカの学会が「血圧正常値」を時に改定すると言う。数値を下げるのです。それに従って、日本でも数値をいじってきました。そのたびに、膨大な「高血圧症」患者が生み出された。それはまた、降圧剤の製薬会社の大儲けを保証しているのです。医者はどの「薬」を処方しているか、製薬会社に管理されているし、大量処方の医師は「報奨金」をもらっているという。ことは「高血圧症」のみではないところに、馬鹿らしくなる「医療」の退廃があるのです。現下の「新型コロナ禍」問題が、いろいろな方面で、医療行政を含めた「退廃現象」を曝け出しています。かなり長い間、血圧の正常値は「年齢プラス100程度」とされていた))

 医者の仕事は、患者に「病名」をつけ、その病気に見合った大量の薬を処方すること、それで商売をしている。よほどのことがなければ医者に行かないのが、多くの人の当たり前の判断でしょう。しかし予め病気を防ぐために「人間ドッグ」に入れとうるさく言われてきました。勤め人時代に、ぼくは定期健康診断にでかけたことがなかった。工合が悪いという自覚がないのですから、行かないのが正しいと思っていたら、実はそうではなかった。何年かごとに必ず「健康診断」を受けることというのが、社会医療保険が適用される「組合」には義務付けられている(法定)と聞いたことがあります。組合員(社員)の受診率が一定程度以下なら「罰則」規定があり、規則に従い違約金のようなものを支払わされるというのです。ぼくが勤務していたところでは、数千万円の「罰則金」を払ったことがあったという。だから「君も受診しろ」ということだった。もちろん、ぼくは行かなかった。

 「検診」で病気が見つかり、事なきを得た人は当然いるでしょう。しかし反対に、検診直後に、重篤の病が見つかり、不幸な結果になる人もいます。ぼくの知り合いは、後者の方で、「せっかく検診を受けたのに」といっても、後の祭りでした。何のための検診かという気がします。この「フレイル」というのも、なにかと話題作りにはなるのでしょうが、果たしてその成果や効果はどうなのか。これは日々の、ぼくの実感です。年をとると、いろいろな面で、うまくできなくなる。うまくできなくなるのを、年をとるというのです。しかし、世間の風潮(と言っても、この風を吹かしているのは、特定の団体および個人だ)は、年をとると、何かと衰えることを「異常」とみなし、「病気」と判断します。困った風潮ですな。歩く速度が落ちろ、それが「異常である」という根拠はどこにあるか。握力が弱くなる、それが問題として、どうすると、強くなるんですか。

 「自身のフレイルを確認できる」仕組みがすでに実施されているそうですから、早手回しというのか。「備えあれば、患いなし」ではなく、「備えあっても、患いあり」、そういうことですよ。何をしても、年をとると衰えるという運命に逆らえないんじゃないですか。あまり他人(実の子どもであっても)に世話(迷惑)をかけないで、静かに朽ちるというのが、いまのぼくには、もっとも願わしい。

 「持病はあるし、体力も認知力も落ちた、と落ち込む▼だが「何くそ」と思う。坂道を上がるのさえ苦しい現状。フレイル状態間近なのは否定できないが、何か世間のお役に立つことを楽しく続けていきたい。まずは散歩で体力回復を目指そう」というコラムは、天性の「好人物」のようです。「世間のお役に立つ」ことは腐るほどあります。フレイル前であろうとなかろうと、いつでもできることがあります。それが特定の、あるいは不特定の人々の役に立つのですから、早速おやりになることを勧めたいね。それは何か、答えは後日。誰でもできるし、一円もかからないようにすることもできます。ぼくは時々、実践している。汗をかくし、息が切れるけれど、その後が、以外に気分がいい(こともある)。「人の役に立っている」という実感が、気分をよくさせてくれるのかどうか。                                    (*https://www.youtube.com/channel/UCVfcVnPae2JerM0iRT82aVQ/featured

● フレイル(ふれいる)frail frailty=高齢者における健康な状態と要介護状態の中間的な状態像として、1990年代にアメリカにおいて提唱された語。要介護状態の前段階、つまり「要介護リスクの状態」として注目され、今日に至っている。ただし、厳密な学術的定義は確立していない。/ 日本では、近年の急速な高齢化により、要支援・要介護状態の高齢者の増加が問題となっており、その対応の必要性から、フレイルへの関心が高まった。英語のfrailtyの直訳である「虚弱」「もろさ」は、不可逆的な状態という印象を与える表現である。しかし、さまざまな研究成果により、フレイルは可逆的な状態であり、改善可能であることから、日本語訳を用いず「フレイル」という表現を用いることが、2014年(平成26)に日本国内の関連学会で合意された。また、フレイルの重要性を医療専門職のみならず広く国民に周知することが必要であり、それにより介護予防が進み、要介護高齢者の減少が期待できるとしている。(⤵)

 なお、フレイルの判定には、フリードLinda P. Fried(1949― )らの提唱した判定基準を日本人用に改変した以下の五つの基準が用いられている。すなわち、(1)疲れやすさの自覚、(2)体重減少、(3)筋力低下、(4)歩行速度の低下、(5)活動量の低下であり、3項目以上該当すると「フレイル」、1または2項目だけの場合にはフレイルの前段階である「プレフレイル」と判定される。/ フレイルの予防・改善には、栄養(バランスのよい食事)、運動(ウォーキング、ストレッチなど)、社会参加(趣味、ボランティア、就労など)が有効である。/ フレイル対策の重要性を普及啓発する目的で、2020年(令和2)にスマートウエルネスコミュニティ協議会、日本老年学会、日本老年医学会、日本サルコペニア・フレイル学会の4団体は共同で2月1日を「フレイルの日」と制定した。(ニッポニカ)

 この基準でいうと、ぼくは「プレフレイル」ではなく、「本物フレイル」です。プレフレイルがあるのですから、プレプレフレイルもあるんでしょうね。自分の足で立つ(歩く)か、立てない(歩けない)、このどちらかです、人の生涯の自立度は。生まれて→働いて→老いる、これが人生なんですな。その間に色々なこと(病気や怪我や喧嘩や別れなどなど)がある、でも、それは生きている証拠でもあるのであって、段階や等級をつけて、とやかく言える筋合いのものではないんだな。「認知度5」とかさ。

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腐っても腐らなくても鯛は鯛。鮪じゃない

 嘘と偽りは違う 咄嗟に口をつくのが嘘なら、悪意が籠もるのは偽り。騙すための小道具だが、嘘言する態度があざとい。与党議員百数十人が「旧統一✖✖」から各種の便宜を受けていた。図らずも、今回の銃撃事件で露見、各人各様に周章狼狽し、醜くも「弁解し釈明し」三十六計に大童。聞いて呆れないさ、反吐が出る。「居直り」の陳腐さ、厚顔を曝し「どこに問題があるのかわからぬ」とほざく。ぼくらの手に負えぬ面々が、この島の「政(まつりごと)」を恣にする。嘘と偽りは、出自が違う。嘘から真は出ても、嘘も方便と言うが、偽りから真は出ず、偽りも方便とはついぞ聞かぬ。犯罪を重ねたワルが、役所に「改名(偽名)」を届けた。「旧統一✖✖」が数多の偽名や虚名を使って本体を隠した。便宜を受けていた、担当大臣が「偽名」を認めた。「認めたのは部下だ」と、それはないよ。元大臣は名代の「偽人」だ。悪意の籠もる擬人が行う商売を「悪政」という。(「愚見しかいえない」第三回)(2022/08/04)

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 本日の「小社会」(下に引用)を読んで、清張さんが懐かしく思い出されました。もっとも好む「或る『小倉日記』伝」に触れている。安吾氏の選評もよく記憶しています。これくらいに深く読めなければ、「小説家」にはなれぬと、教えられた気がしました。「昭和史発掘」も熟読した。歴史家や研究者は何かと不満を述べるし、清張さん自身に牽強付会の点がなくはなかったでしょうが、三鷹事件や下山事件など、ぼくは、戦後の「歴史の真実」の一面に触れたような感慨を持ったものです。日本国家が、何をし、この先をどうしようとするのか、それをアメリカがきっちりと「グリップ」しているという戦後の「構図」が描かれていると思った。そしてまた、政治はいつでも「権力の暴走」を孕んでいるし、それを阻止する捨て身の役割を誰かが担わなければ、「権力の暴走を許す」ことになる、それをぼくたちは、日常性の中で見せつけられている。

 「腐っても鯛」という。そのこころは、「腐らなくても鯛」ということ。それだけのこと。腐っても腐らなくても鯛は鯛、鮪じゃない。腐っても腐らなくても、魚は魚だと言って、何も頓知がないから、そこに「鯛」を持ってきただけ。腐っても政治家だし、腐らなくても政治家だといえるか。腐った政治家は「泥棒」であり「詐欺師」であり、要するに、犯罪人だということ。世が世なら「お縄頂戴組」が徒党を組んで、政治でございという、笑わせるんじゃないよって言いたいね。下の記事にある清張さんの言、「イデオロギーとか、主義だとかそういうようなことは抜きにしても、最低限の民主主義的な気持ちは守っていただきたい」と、いわれても聞く耳を持たないんだな、これが。(二時間ほど前まで、激しい雷に襲われ、強い雨が降っていました。きょうは、これから、また襲来するそうだ)

 【小社会】清張の「警告」1953(昭和28)年、芥川賞の選考で選考委員だった坂口安吾を「ものすごい作家が出た」とうならせた人物がいる。松本清張、43歳。「或(あ)る『小倉日記』伝」で受賞した。▼体の不自由な青年が、森鷗外の北九州・小倉時代の足跡を丹念に調べ上げていく物語である。そこに主人公の孤独感や社会の現実といった、あの清張独特の世界が織り込まれている。ただし清張がいわゆる社会派推理小説の分野を切り開く前。この作品も推理小説とは違う。▼安吾が残した選評が興味深い。「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり」。清張の方向性を見抜いていたのかもしれない。作家の半藤一利さんが著書「清張さんと司馬さん」に紹介している。▼清張はその追跡力をノンフィクションにも発揮してきた。代表作「昭和史発掘」では戦前に実際に起きた権力者の暴走や事件の真相に迫った。講演でその理由を将来の再発への「警告」だと述べている(「オール読物」昭和46年7月号)。▼警告が現実になっては困るが、ここ最近の政権や与党の言動はどうだろうか。議論や説明責任への軽視があまりに目立つ。やがて暴走を許すことになりはしないか。▼「イデオロギーとか、主義だとかそういうようなことは抜きにしても、最低限の民主主義的な気持ちは守っていただきたい」。清張が同じ講演で聴講者に訴えたことが重く響く。きょうは清張の没後30年。(高知新聞・20022/08/04)

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花火とは遠くに在りて思うもの

 長岡花火、夏の夜空に大輪の花 新潟、3年ぶり  新潟県長岡市で2日、日本三大花火大会の一つとされる「長岡まつり大花火大会」が開かれた。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、3年ぶりの開催となった。/ 夜空に直径650メートルの大輪の花を咲かせる「正三尺玉」や、2004年の中越地震からの復興を願って打ち上げられる「フェニックス」などが披露されると、川沿いを埋めた観客から拍手が上がった。3日も開催する。/ 市によると、花火大会は1879年に始まり、戦時中の中断期間を経て1947年に再開した。2019年には過去最多の108万人が訪れた。(共同通信・2022/08/02)(ヘッダーの写真も同記事より) (*「長岡花火」公式WEB:https://nagaokamatsuri.com/

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● 長岡大花火大会=新潟県長岡市で行われる花火大会。「長岡まつり」内で開催。2005年、前年に起きた新潟中越大震災の復興を祈念して行われた「復興祈願花火フェニックス」や花火の大きさが直径約600mにもなる3尺玉が見もの。画家山下清が同大会をモチーフに制作した「長岡の花火」は代表作となっている。(デジタル大辞泉プラス)

 中学生ころまでは、花火はほとんど見なかったし、花火大会と称するような大掛かりなものはまったくなかったような気がします。一時期、嵐山の渡月橋付近で挙行されたが、岩田山のお猿さんが驚くからと、直ちに取りやめになったことがある。人間ではなく、猿に気を使うんですね、そんな時代でした。当節は、猫も杓子も「花火、花火」で大賑わいです。悪いことでもなく、かといって、いいことでもないようにも思われます。結婚して以来、親戚の住まい(荒川区在)の屋上からの「隅田川の花火」見物に誘われ、何度か「目と耳」にする機会がありました。ぼくには「花火」を見る趣味というか、才能がなかったから、いつだって積極的でもなく、遠くで打ち上がる花火の音に、ある種の「郷愁」を感じることがあったし、それでじゅうぶんでした。

 この「郷愁」が、ぼくには曲者なんですね。それほど花火で遊んだ記憶はなく、花火大会などという見世物に興味が湧いたのでもありません。おそらく、ぼくの勝手な想像ですが、幼少の頃の、年に一度の「村祭り」や地域の行事としての秋祭り(ぼくが生まれた熊木村の祭り。これは今ではとても有名になりました)の「太鼓」の音の余韻が、花火が打ち上げられるときの「轟音」が、遠くから聞こえてくるのに重ね合わされたのではないでしょうか。この祭りは、村中が総出で、河原に集合して、一種の地区対抗の技くらべでもありました。おふくろの兄貴は、この祭りの「英雄」で、喧嘩早いのでは有名な人だったという。この神社や河原は健在で、今でも写真・ビデオを見ると、体が勝手に動き出します。その昔は、祭りには大きな意味がこめられていました。しかし今では、その形のみが受け継がれているのですね。内容がない、空虚な祭り事。(お熊甲祭り:https://www.hot-ishikawa.jp/event/6870)(youtube:https://www.youtube.com/watch?v=gLiv-GDI7vQ

 日本三大花火大会の一つが「長岡」で、もう一つはおそらく「隅田川」だとすると、残りはどこか。秋田か? 一時期、テレビで「隅田川花火」の中継をしていたことがあります。興ざめというのでしょうね。かと言って、仰山の見物客に紛れて見物するというのもいやなこと。ぼくには大勢で何かを見るとかするというのが大嫌いという「癖」があります。人間としては「付和雷同的」だと自分では思うのですが、現実には、そんなところに入り込みたくない、けったいな人間だという気がします。夜空に打ち上がる花火を、なぜ人々は見物したがるのか、それを考えてみようとしているのですが、その理由らしきものがさっぱり考えられないんですな。一つだけ、それらしいと思われる理由は、「群衆の一人になりたい」という願望でしょうか。とにかく固まりたいんですね。寄らばかたまりの中へ。花見でも、花火でも、現場へ言って、場所の空気を吸いたい、臨場感を味わいたいと。それだけではないかもしれませんが、そんなことしか浮かび上がらない。

 それではあまりにも身も蓋もないので、思いっきり「当て推量」を言ってみれば、「花火は遠くに在りて思うもの」ということです。まるで「虹」を見るようなもので、その渦中にいると、轟音と暑さや人いきれで、大童(わらわ)ですが、うんと離れて、「花火の姿・形」が見えたときに、打ち上がる音がする、そんな現象が、ぼくにとっての花火なのだという、経験と観念の合体されたものが、ぼくの中に出来上がっています。多くの人は「大童(夢中)」が好きだし、ぼくはその「夢中」の塊(かたまり)から、一歩でも離れていたいという違いはあります。今では、季節も時間もお構いなく、場所も問わないで、いたるところで「花火」が上がる時代です。ますます、ぼくにとっては「遠くに在りて思うもの」になってきました。(拙宅のすぐ近くのリゾートホテルで、夏休み限定なのかどうか、ある時刻(よる七時半か)にほんの一瞬、数発の花火が上がり、ものの数分で終わりです。これは家の中からよく目えますが、ぼくは音だけで済ませています。近くにあっても「遠くに在りて」なんですね)「一瞬の現在」をどのようにして記憶に留められるのでしょうか。だから、花火は、いつしか、ぼくの脳裏にある「陰影」が、瞬時に消えてしまった幻の花火を再現してくれるのです。

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 華やかな一瞬、間髪をいれず、たちまちの不在(闇)。その華やかさの「余韻」が音と色(形)のかすかな陰影となって、ぼくたちの記憶に残るのでしょう。おそらく、その「余韻」こそが花火の醍醐味だと言ってもいいかもしれません。長岡の花火といえば、山下清さんの「ちぎり絵」を思い出します(下右写真)。膨大な作品を作られたのですが、花火の作品は圧巻、というよりは「華やかさ」と「儚(はかな)さ」の「陰影」の刻印をぼくは、強烈に感じます。その作品を眺めていると、打ち上げられるときの轟音と、一瞬にして消え去る「色と形」、それをじつに「静かなもの」として、小さな色紙の破片で表しています。見事というほかありません。山下さんの「花火」のちぎり絵を見ていると、遠くの方から、遠くの方でかすかに打ち上がる花火の音がしている。一瞬で消えるはずの「花火」が、記憶の襞(ひだ)に克明に記されている、それが作品だとぼくは観てきました。

 この駄文録のどこかでも触れましたが、ぼくは、山下さんが大好きでした。彼の言行録には、強い親しみを覚えたからでした。小学生の頃、担任の教師が「特別教室」担当を兼任していたこともあり、しばしばそのクラスの子たち(友人)と遊びました。教師の家に遊びにいったこともしばしばでした。そこには「特別教室」の子も何人もいた。そのような交流は、その教師ひとりきりでしたから、教師の人柄と「特別教室」の友だちが結び付けられ、ぼくにはそれ以降も何人もの「知的障害」を持つ友人が、いつでもいることになったのです。( K先生、ぼくは学校の教師に親しみを感じたのは、この人だけだった)山下さんに親近感を覚えたのには、そのような事情もあったのでしょう。それと、八幡学園時代の式場隆三郎氏と彼との繋がりも、ぼくの興味の一因になりました。精神科の医者だった式場さんは、ゴッホ研究では高名な方でしたから、ぼくは早くから式場さんの仕事に興味をいだいていました。その方面からも山下さんに深く近づこうとしたのでした。(山下清さんが亡くなってから半世紀以上が過ぎました。彼の存在は、ぼくには「一閃(いっせん)の花火」(flash)のように思えてきます。「咲く」と「散る」が、ほぼ同時のように、ぼくには感じられましたから)

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● 山下清(やましたきよし)[生]1922.3.10. 東京 []1971.7.12. 東京=画家。小学校に入学するも,知的障害のため級友にいじめられ,何度か刃物を振回すなどの行動を起したため,1934年に知的障害者擁護施設,八幡学園に入る。ここで張り絵 (ちぎり絵) を習得し画才を発揮,精神科医師でゴッホ研究家の式場隆三郎らの紹介で 39年に銀座画廊で展覧会を開き,に認められた。記録的な観覧者数で,会場の床が抜け落ちたというほどの盛況ぶりだった。翌年,徴兵されることを恐れて突然施設を抜け出し,3年の間各地を放浪。この間に記した『放浪日記』が 56年に出版されるが,55年の『山下清画集』の出版と相まって,一種ブームを引起し,全国で展覧会が催された。 58年には山下をモデルにした映画『大将』が制作され,純朴で愛すべきキャラクターが人気を呼び,以後芦屋雁之助主演のテレビドラマがシリーズ化された。生涯,学園での絵の制作と,放浪の日々を送った。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 人生は朝から始まる、「これから」「ここから」

 詩人の川崎洋さんについて、すでに何度か触れています。茨木のり子さんらと「櫂」を創刊した。ぼくには詩の精神がないことを重々承知の上で、時々、詩人の肺腑の言や当を得た言葉の発見(使用)に、無性に出会いたくなります。その川崎さんに『わたしは軍国少年だった』(新潮社。九二年)という本があります。当時の日記の一節。「(一九四五年)一月七日 晴れ 日 ルソン島リンガエン湾に上陸用舟艇百隻が上陸のすきをうかがっているとのこと。愈々重大になってきた。早く俺が甲飛(甲種飛行予科練生)に入って敵艦を片っぱしから轟沈させなくては。明日から学校だ」人は生まれて、やがて「軍国少年」になるのではない。時代が、社会が「軍国少年を作る」のだ。だから、時代が変われば軍国少年は「平和の使徒」になるかもしれない。川崎少年はどうだったか。

 ぼくらより年上の人たちには、「それぞれの敗戦」「それぞれの戦後」というものがあるでしょう。川崎さんは一九三十年生まれでしたから、敗戦時はまさに「少年兵」として敵艦を駆逐するという「覚悟」が決まっていたはずです。「私は軍国少年でした。それが敗戦で一八〇度変わって平和憲法が制定されました。私は思います。奇跡的に手に入れることができた憲法で、人類にとってとてもいいものだと」「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい。そのことで、マイナス面があれば引き受けようと思います」ともいわれた。異様な覚悟、新生の宣言であったでしょう。その感情の昂(たかぶ)りは、経験者でしか味わえなかったものだから、他人が、その理非曲直を云々しても始まらないと、ぼくは考えています。

 ピストルも兵器もない日本にしたい、そのための「ことば」だったか。川崎洋さんの「詩への道」が作り出された瞬間であったかもしれません。「ペンは剣より強し」という表現は陳腐であり、適切ではないかもしれませんが、ピストルも兵器もない国にするための、川崎さんの「言葉」への覚悟が読み取れるところです。その川崎さんの「これから」という詩。「人生は朝から始まる」と教えてくれたのはフランスの高校の哲学教師でした。それと同じような鮮烈な刺激を、この「これから」から、ぼくは受けた。ぼくが存在する「現在」は一瞬ですが、それは永遠の鏡であるともいえます。その一瞬の「現在」に過去も未来も備えられているからです。ぼくたちが生きているというのは、この「一瞬」、つまりは「このとき」「これから」を生きているということです。過去も未来も、身内に伴いながら。

これから                                                                                 これまでに                                                                                                          悔やんでも悔やみきれない傷あとを                                                                        いくつか                                                                 しるしてしまった                                                      もう                                                                              どうにもならない                                                                              だが                                                                                                      これから                                                                       どうにかできる                                                                         書きこみのない                                                                                             まっさらの頁があるのだ                                                                      と思おう                                                                                 それに                                                                              きょうこの日から                                                                        いっさいがっさい                                                                      なにもかも                                                                                   新しくはじめて                                                          なにわるいことがある  (『川崎洋詩集』水内喜久雄選・著、理論社。〇五年)

 その川崎さんから二十数年程経て生まれた政治家は「奇跡的に手に入れることができた憲法で、人類にとってとてもいいものだと」とは考えなかった。これは強制され押し付けられたものだから、独自の憲法をと、ある時期から執拗に訴え始めました。押し付けた当事国とは昵懇の仲を、内外に誇っていたにも関わらず、でした。「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい」という詩人の覚悟を、敗戦後の五十年代生まれの政治家は「核が持てる国」「攻撃能力のある国」にしようという「政治的情念」に突き動かされ、結局は身命を賭したことになった。それは「思想」でも「覚悟」でもなく、強権意識が生み出す「幻夢」に迷わされた錯誤だったような気が、ぼくにはするのです。強大な軍備を、いったい、どこに、だれに向けようとしていたのだろうか。

 この「憲法に向かう姿勢」の違いは、詩人と政治家という、職業からくる違いからだったでしょうか。いや、それは生きるということ、世界の中で生きているということの、人間の尊厳に対する感受性の違いだろうか、詩人や政治家である前に、いや、そうである以上に、人間として、どのよう生きようとしているか、その違いではなかったでしょうか。「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい」という願いと、「核が持てる国」「攻撃能力のある国」でなければならぬという、この違いも、同じところから生まれてきたのではないでしょうか。

 ● 川崎洋 (かわさき-ひろし)1930-2004=昭和後期-平成時代の詩人,放送作家。昭和5年1月26日生まれ。「母音」「学」に投稿し,昭和28年茨木のり子らと「(かい)」を創刊詩集「はくちよう」,放送詩劇「魚と走る時」などをかき,32年から放送台本を中心に文筆生活にはいる。62年詩集「ビスケットの空カン」で高見順賞。方言採集などでも知られ,平成10年「日本方言詩集」「かがやく日本語の悪態ほかで藤村記念歴程賞。放送作品で芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。平成16年10月21日死去。74歳。東京出身。西南学院専門学校(現西南学院大)中退。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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