9歳の息子を失った私は、悲しみを、力に変えた。

 【天風録】御巣鷹37年 8月12日になると、読み返す詩がある。〈…涙は 山の草を濡らし/涙は 山の土に溶け/枯れることはない…〉。その山は他でもない、37年前に日航ジャンボ機が墜落した現場「御巣鷹の尾根」▲遺族でつくる「8・12連絡会」事務局長の美谷島(みやじま)邦子さんが書いた。9歳の息子を襲った非業の死に、張り裂ける思いだったろう。520人の犠牲を数でなく、一人一人の命の重みとして詩はかみしめ直させてくれる▲きのう慰霊登山に訪れた遺族から、こんな言葉が漏れていた。ニュースで「遺体確認」と耳にすると、ぎくりとする―。家族を突如失った心の傷がうずくのだろう。何十年たっても▲残念ながら、乗り物の事故は相次いでいる。連絡会の人々は、事故や東日本大震災の現場を歩いては遺族と語り合い、声をかけていると聞く。「御巣鷹に一度、来てみませんか」と。コロナ禍による入山規制が明ければ、弔いの人波は戻ってこよう▲ことし事故機のものとみられる酸素マスクが山中から掘り起こされた。昨年もエンジン部品が見つかっている。御巣鷹そのものが、まるで巨大な「墓標」に見えてくる。そんな気になるのは、お盆と重なるせいではないだろう。(中国新聞・2022/08/13)(ヘッダーの写真は「日航ジャンボ機墜落事故から37年を控え、「御巣鷹の尾根」の麓を流れる神流川に灯籠を流す人たち=11日夕、群馬県上野村」共同通信・2022/08/12)

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  八月十三日はお盆の入です。旧暦の七月を新暦にかえて、それぞれの家や地域で、先祖に対する報恩と慰霊の日を兼ねる行事となってからは久しい。素朴な自然信仰(祖霊信仰)と鎌倉以来の仏教行事が重なったものであります。八月のお盆の時期に近かったためもあり、日航機事故の慰霊祭が、この時期に行われてきました。神流川(かんながわ)にはたくさんの灯籠が浮かべられ、亡き人々の慰霊を念じることになっています。この「灯籠流し」には古い記憶があります。今ではもうやられていないでしょうが、京都の嵯峨広沢池で、この時期に灯籠を流していたものでした(池だったのに)。この行事を、ぼくは小学校の夏休みの課題の絵にしたものでした。その際、各自が持ち寄る「灯籠」には、先祖の慰霊の意が込められているのは当然ですが、同時に、悲運にも生を全うできなかった「他者の霊」をも慰める思いが込められていました。

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● ぼん【盆】〘名〙① (盂蘭盆(うらぼん)) 七月一五日に行なわれる仏事。《季・秋》② 盂蘭盆の際の供物布施。③ 盂蘭盆の七月一五日前後数日の称。(● ぼに【盆】〘名〙 (「ぼん」の撥音「ん」を「に」と表記したもの) 七月一五日に行なわれる仏事。また、その際の供物)(精選版日本語大辞典)

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 日航機事故の遺族の方々で作られている「8・12連絡会」の美谷島邦子さんは、事故によって傷つけられた多くの関係者の間に立って、さまざまな活動を重ねてこられたのでした。一瞬にして、次男を亡くす(失う)という衝撃に打ちのめされながら、徐々に自らの「生」を回復されたとも言われておられます。次男に生かされた、健くんとともに生きた、事故後の人生とも。そして、近年は、「傷ついた人へのいたわり」に思いを致し、さまざまな事件や事故で「大切な人」を奪われた人との心のつながりを深められておられます。

 理不尽な行為によって、肉親の存在を奪われた何人もの人々と、ぼくは知り合ってきました。名前は出しませんが、それぞれの方々は、どうしようもない悲しみと怒りと憎しみ、加えて、それに対して何もできない自分の無力さなど、殆どが、いわば全心身を賭した「格闘(葛藤)」の中を生きてこられたのでした。その昔よく読んだ、エリザベス・キュブラーボスの書かれたままの体験を示されていたようでした。ロスさんの人生自体が、まことに数奇なものだったことがぼくを驚かせましたが、その体験に根ざした指摘は大きな示唆を「生と死」問題に遭遇している人々に与えてきたと言えるでしょう。

 唐突にロスを持ち出したのは、美谷島さんの姿が、ロスさんと重なって見えてきた時期があったのです。失われたいのち、それによって傷つけられた人々の存在、そのような人々が出会い、つながるのは必然でもあったかのように、支え合いの輪が広がりだしていことに、ぼくは大きな希望を見出しているのです。

HHH

● エリザベス キュブラー・ロス(Elisabeth Kübler Ross(1929 – 2004)=精神家医。スイス生まれ。アメリカ精神医学界で活躍する。代表作品に「瞬間」(’71年)がある。死に面した患者との対話の中から真摯に学ぶ態度を通じて医療側のあるべき姿を描き出す。そして、死を予想される患者に病名を告げるかか。患者の不安にどう対処すべきか。家族への対応の仕方など、現代医療のもつ問題点の解決示唆を与えている。(20世紀西洋人名事典)

 ( ロスが書き表したのは(死に臨んでいる人自身の)「自らの死の受容」でした。そのプロセスは、ある人にとっては自らの命と同等に大切なものと見られたもの(愛すべき存在)が奪われた時、その死を受け入れる過程は、自らの死の受容と同じような経過をたどるのかもしれません。もちろん、さまざまな条件が異なりますから、すべての人が同じ経過をたどると考える理由も根拠もありません。しかし、大きな観点から言えば、ロスの指摘には、妥当(合点)する部分が極めて大きいと言わざるをえないと、ぼくは考えている )

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(上掲の記事は京都新聞・2019/11/24)(記事中の「いのちを織る会」:https://inochiwoorukai.jimdofree.com/

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・盂蘭盆の出わびて仰ぐ雲や星 (飯田蛇笏)                                     ・盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙 (正岡子規)                                       ・立ちかこむ杉真青に盂蘭盆会 (水原秋櫻子)                                ・ささやかな魂棚庭の花剪つて(山口青邨)                                              

 お盆といえば、「盆踊り」と、陳腐な連想が湧いてきます。各地で恒例の盆踊りもコロナ禍に遭遇して、心なしか遠慮がちの踊りぶり。民衆のエネルギーが横溢するのが盆踊りの「真骨頂」だったのに、と思わないでもありません。これも、民間習俗に加えて、れっきとした宗教行事でもあったのでしょうが、いまではその面影もどこえやら、すっかり興奮と憂さ晴らし(ストレス解消)の通常行事となりました。それでいけないというのではありません。身体を賭けて夢中になれるものがあるなら、その後の生活は気分一新となるからです。しかし「諸事控えめ」なご時世です。いずれ心ゆくまで踊り明かすことができる日が来るでしょう。

 ここは、普段にあってはめったにないこと、先祖や亡き人々を偲ぶ、またとない機会にしたいもの。お墓参りは、ぼくはあまり熱心ではありませんが、恒例のごとく、秋春の彼岸に合わせて出かけることにしています。「たまきはる いのちともする すずみかな(蛇笏)

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我や先、人や先、今日とも知らず、

 【三山春秋】▼深緑の木々に覆われた尾根一帯が、今年も鎮魂の思いに包まれる。520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で37年。遺族らが現場の「御巣鷹の尾根」(上野村)を訪れ、安全への願いを新たにする▼「また1年、ここから頑張ろう。そんな感覚になる」。遺族らでつくる8.12連絡会の事務局長、美谷島邦子さん(75)は慰霊登山への思いをこう語る▼仲間と会い、言葉を交わし、前を向く―。その積み重ねでここまでやってきたという。歳月を経る中で多様な交流が生まれ、今では他の事故や災害の遺族との支え合いも大切にする▼連絡会を中心に緩やかに連帯し、慰霊行事には近年、東日本大震災などの遺族も参加。大切な人を突如失うという共通する悲しみを抱える人たちにとって、御巣鷹が命や安全について考える場所の一つとなっている▼連絡会の会報「おすたか」の最新号には、知床半島沖の観光船沈没事故の遺族らに向けた言葉も掲載された。〈悲しみを社会が共に引き受けていくことで、失われた日常性を少しずつ取り戻すことができる。共に涙を流したい〉。同じ被害者家族として、決して孤立させないとの会員らの思いがにじむ▼きょうの慰霊登山も、さまざまな遺族が悲しみを分かち合いながら、犠牲者の霊を慰め、再発防止を願う。その思いに共鳴するように、尾根には「安全の鐘」の音が響くことだろう。(下野新聞・2022/08/12)(ヘッダー写真はgettyimages.co.jp/写真/御巣鷹山

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 日航機墜落事故の起きた年の四月、約十年ほど住んでいた家(千葉市)から、佐倉市に転居していた。理由は、単純で、ぼくは、その直前に「クモ膜下出血」症状で倒れた。瞬間的に意識を失いましたが、すぐに戻りました。検査の結果、「クモ膜下出血」のごく軽い症状と診断され、事なきを得た段階にありました。当時住んでいた家の前に県道が通っており、かなり交通量も多く、騒音がやたらに神経に響いていたので、「どこでも、静かであるなら」と、不動産屋に土地を探してもらい、まったく土地勘のなかった佐倉市に越したばかりでした。

 引っ越し直後に、恩師ともいうべきH先生の死去の報が入り、肝を冷やしたばかりでした。この人に関しては、この駄文録の何処かに、数度ばかり触れています。やがて八月、ぼくはテレビを見ていたと思う。テロップが流れ「日航123便が音信不通」という文字の流れに、一瞬、戸惑いました。まさかという思いと、どうしてまたという懸念が入り混じり、続報が待たれた。その瞬間から、もう三十七年が過ぎました。御巣鷹山には登ったことはなかったが、その麓は何度も行き来した。事故の原因には、複雑な要因が絡んでいるのではないかと思われたし、あまりにも初歩的な整備ミスが要因だとされ、まるで砂を噛む思いをしたことも記憶しています。

 事故直後、転居先の同町内に住んでおられた方が、事故機の機関士だったと知り、何度かお宅の前で合掌したものでした。犠牲者は、数名を除き、ぼくには未知の方々だった。有名無名合わせ、五百二十名が亡くなられたという。その後、時間を追って明らかにされてきた事実には、すべてに応接する暇もありませんでしたが、いくつかの記録や報告書を読み、今更のように、この「五百二十人は死ななければならなかったのか」という思いが募るばかりでした。天災も人災も含めて、誰にも「死の必然性」などあるはずもないのに。

 昨日の駄文で「死とは句読点ではないか」と書きました。しかし、誰もが自分の人生の句読点を、自分で打つことはできないのです。打とうとする(思う・願う)ことはできますが、打つ瞬間は、自らの意識や意思には関係がなくなるのです。誰が打つのか。「寿命」、というほかありません。この事情には、自死した(する)ときも、事故死の場合にも差はなく、すべて同じではないでしょうか。「もっと生きたかった」という思いを残す人がいるし、反面で、一瞬でも早く人生に「ケリ」をつけたいと念じる人もいます。寿命が尽きる(天寿を全うする)というのは、さまざまな「死の様相」(死に方)を通じて共通している、そのようにぼくは考えてきました。異論があるのは承知しています。しかし、ぼくにはそのように思われるのです。寿命(生きた時間)の長短にも関わりなく、「天寿」というものがあるのではないでしょうか。

 日航機事故の場合、亡くなられた方それぞれの「人生」というものを、当たり前ですが、ぼくは考えてみます。残された遺族が、その大事な人の死をどのように受け止められたか、いろいろな記録や手記などを通じて知ることができます。一人の人生は「死をもって終わる」のではなく、「死によって、また新たな『生涯』を生き始める」と、言いたい気がします。何年経ても、現実に死んだ人は、別の次元では「死んでいない」「死なない」のです、ある人たちにとっては。別の言い方をするなら、現実の死を受け止めることを通して、新たな存在(「霊」といい「魂」、あるいは「仏」と言ってもいいでしょう)が「自分」とともに生き始めるのでしょう。「死は終わり」ではなく、「あらたな始まりだ」と、ぼくが言うのはそういうことです。いかにも抹香臭い話であり、口ぶりですが、ごく当たり前の感覚から、ぼくは言っているつもりです。

 ヒロシマやナガサキに代表される「戦死者」もまた、遺族を含めた多くの人々の中に「生き続けている」のではないでしょうか。「戦後七十七年」という意味は、その期間をずっと、死者(犠牲者)ともに生き続けている人がいるということの刻印(証拠)です。人は「生まれる」というのは、生まれさせられるということであり、「死ぬ」というのは「生を全うする」ことです。「もっと生きていたい」という、自らの意思にかかわらず「命を奪われる」ことは否定できません。その死者の無念を引き受けて「もっと生きていたかったろう」「こんなこともしたかったに違いない」と、死者を弔う人が、その「生きたかった生」を引き受けるのではないでしょうか。

 「青柿が熟柿弔う」という言い方があります。ここで使うのは不適切の誹(そし)りを受けることを承知でいうと、誰もが死ぬという現実を射当てているのです。「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」というよく知られた「御文章」にもあります。

 若い頃に学んだカントという人に「いつ人生の精算があっても、大丈夫なように生きる」という意味の言葉がありました。なんという辛気臭い表現だろう、いかにも堅物のカントだなと思ったのは事実でした。ソクラテスは「考えるとは、死の練習だ」と言いました。解釈はいろいろにできます。しかし、死が避けられない運命にあるのが「生きる」ということだというなら、その死に向かって、正直に生きようではないかと言うことだったと、ぼくは考えることにしてきました。ここには「阿弥陀仏」は出てきませんでしたが、彼らが言おうとすること、しようとすることは「自分一人で生きているのではない」ということの指摘だったと思うのです。ぼくも、ここに阿弥陀さんを持ち出そうとは考えませんが、することや言うことは、「御文章」に変わらないとも思うのです。ギリシアの昔にも、カントの時代にも、当然のように、あまねく「阿弥陀仏」は偏在していたことになるようです。

 三十七年前の「同時刻」が近づいてきました。ゆっくりと線香と蝋燭を立て、庭の花を「仏前」(霊前)に捧げようと思う。

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いのちあるものは、尽きる時がきっと来る 

 【談話室】▼▽音楽活動は順風満帆だった。「愛の告白」「そよ風の誘惑」が全米1位となり世界ツアーで飛び回る日々。そんな時、歌手オリビア・ニュートン・ジョンさんの元にミュージカル映画「グリース」の主演依頼が届いた。▼▽当時28歳で、高校生役を演じるのは無理と断るつもりだった。もう一人の主役に内定していたのが気鋭の俳優ジョン・トラボルタさん。相手役はオリビアさんしかいないと惚(ほ)れ込み、自宅を訪ねて説得する。「俳優の中で実年齢を演じる人は一人もいない。普通のことだよ」▼▽背中を押されたオリビアさんはハリウッドでスクリーンテストに臨み、決断する。「決めたわ。私、やる」-。今年6月に出版された自伝で、出演までの経緯を振り返っている。映画「グリース」(1978年公開)は世界的に大ヒットし、歌姫は新たな境地を切り開いた。▼▽乳がんの再発と闘いながら音楽活動を続けてきたオリビアさんが73歳で旅立った。「心の誓い」という曲を歌う際は観客にこう語りかけた。「自分自身に負けないよう、元気づけるために書いた歌よ! 困難に負けては駄目!」。透き通った歌声に励まされた人は多かろう。(山形新聞・2022/08/10)

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*Have You Never Been Mellow(https://www.youtube.com/watch?v=1B2_Vyvazts

*Take Me Home, Country Roads(https://www.youtube.com/watch?v=uHOTmMpux9E

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 歌手のオリビア・ニュートンジョンさん死去、73歳…「フィジカル」「そよ風の誘惑」 【ロサンゼルス=渡辺晋】「そよ風の誘惑」「フィジカル」など世界的なヒット曲で知られる歌手のオリビア・ニュートンジョンさんが8日、米カリフォルニア州で死去した。73歳だった。家族がSNS上で公表したと、AP通信が報じた。/ 英国生まれのオーストラリア育ち。1966年に英国で歌手デビューし、「愛の告白」で74年度の米グラミー賞最優秀レコード賞を受賞した。爽やかな高音が魅力で、「そよ風の誘惑」は全米ヒットチャート1位に。日本では「カントリー・ロード」「ジョリーン」なども人気を集めた。音楽ビデオでのレオタード姿も話題になった「フィジカル」は、82年の米国の年間チャートを制した。/ 女優としても、ジョン・トラボルタさんと共演した78年のミュージカル映画「グリース」などで脚光を浴びた。歌手・杏里さんの「オリビアを聴きながら」で歌われるなど日本で愛され、2015年の来日時には福島市でも公演。昨秋、旭日小綬章を受章した。/ 40代で乳がんを患い、がん早期発見の重要性を訴える啓発活動も行い、環境問題にも取り組んでいた。17年、がんの再発を公表した。(読売新聞・2022/08/09)

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 歌謡曲大好き人間、それも根っからド演歌に狂ってきた人間として、オリビアさんの訃報には隙間を突かれた気がしました。彼女について、ぼくは、通り一遍のことしか知らない。よく聞いた曲も「そよ風の誘惑」と「カントリー・ロード」だけでしたから、その死を受け止めかねています。しかし、歌手として、俳優としての活動よりも、むしろ「がんの早期発見」にかかわる先駆者として、その活躍ぶりは音楽活動に比しても劣ることのない、大変に貴重な啓蒙活動だったと、その点で、ぼくは彼女の生涯が忘れられないものになっていたのでした。文字通りに「身命をとして」の啓発行為だったからです。人生の後半生は「がんとの闘い」(そのものだったと思う)に明け暮れたし、その厳しい人生の歩みを、彼女は一歩も忽(ゆるが)せにしなかったという、その点でぼくは(もちろん、ぼくだけではない)、大きな励ましを受けていたといえます。彼女の歌う「カントリー・ロード」もよく聴きました。それにもまして「そよ風の誘惑」は、自らの人生の行く末を、じつに明白に明示していたという意味でも、ぼくにとっても、忘れられない一曲になったのではなかったかと思う。(この歌をレコード化した時、彼女はまだ三十前でしたから、曲想に思いが込められるには、その後の、何年にもわたる人生が必要だったのではなかったか、と今の年齢にして、ぼくは自問しているのです)

Have You Never Been Mellow                                       There was a time when I was
in a hurry as you are.
I was like you.
There was a day when I just
had to tell my point of view.
I was like you.
Now I don’t mean to make you frown.
No, I just want you to slow down.

Have you never been mellow?
Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?

Running around as you do
with your head up in the clouds,
I was like you.
Never had time to lay back,
kick your shoes off, close your eyes.
I was like you.
Now you’re not hard to understand
you need someone to take your hand. 

Have you never been mellow?
Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?

 いのちあるものは、きっと、尽きる時が来る。死は生の反対ではなく、そのピリオド(完結点)ではないでしょうか。永らえてきたいのち(そこまでの人生)の句読点(punctuation marks)。「終わってしまった」「命尽きる」と、多くの人は考えますが、ぼくは、その、打たれた「句読点」を忘れない。そこから始まる「人生」もあるのだ、という想いが強くあるからです。それが残されたものへの「余韻」となって、いのちある限り、生者の心に響き続けるのではないでしょうか。昨日は、現代では稀有な「精神科医(臨床医)」だった中井久夫さん、その前は年下の畏友だったK君と、ぼくにとっては大切な人の死を知らされました。いま、ぼくの耳にはオリビアの「リフレイン」が聞こえている。

Have you never been mellow? Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?
 

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 異国の一人の歌手の死。ぼくにはまったくの赤の他人だったし(もちろん、彼女にとっては、ぼくは「無」そのものでしかない)、忘れられないほど強く憧れたわけでもありません。しかし、いまから四十年以上も前に、一瞬耳にした一曲が、ぼくには強く印象付けられたのです。これをもし「出会い」というなら、ぼくは、海の向こうの未知の歌手と遭遇したのです。そして、この三十年、いつとはなく、彼女の「がんとの闘い」が、ぼくの脳裏に刻印されてきたのでした。ぼくはいま、「Have you never been happy just to hear your song?」と口ずさみながら、彼女にお別れをいう。

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「治療とは九割がタイミングだね」

 【正平調】親しみをこめ、患者から「カメ」の愛称をもらったそうだ。病室に入るとき、まずドアを少し開けて顔だけのぞかせる。誰にもぶつかっていないと確かめて入る癖が、そう呼ばせたと◆著書「いじめのある世界に生きる君たちへ」の後書きで、構成・編集にあたったふじもり・たけしさんが記すエピソードである。仰ぎ見られる存在でありながら、気配りを欠かさない。なるほどこの方らしい◆精神科医、中井久夫さんのことだ。神戸大学医学部教授だったとき、阪神・淡路大震災に遭い、失意の底にある被災者を支え続けた。いじめに悩む人たちも支えた。たくさんの涙に寄り添って、88歳で亡くなった◆本紙文化面で、「清陰星雨」というタイトルの一文を長く書いていただいた。深い知性と柔らかな感性で時代を見つめる文章は、切れ味がよかった。どんなに忙しい朝でも、中井さんの寄稿は欠かさず読んだ◆その一つ、「難事に現れるリーダー」(2009年3月)は、震災後に若くして亡くなった医師たちを弔っている。「故人たちは目立つのを極端に嫌う人たちであった」としつつ「紙の記念碑を記しておかないと私の気がすまない。許していただきたい」◆読み返しながら思う。きょうは中井久夫さんへの感謝の碑に、と。(神戸新聞・2022/08/10)

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 中井さんの死が報じられました。どう反応していいか、ぼくにはわかりません。とにかく、若い頃から、中井久夫の臨床論に齧(かじ)りついてきました。ぼくが真面目に、かつ熱心に読んだ、唯一の医者であり、精神科医でした。いまは何かを語る元気が、ぼくにはなさそうです。少し時間をおいて、書ける時が来たらと、今日はひたすら、地元の神戸新聞の記事にすがるばかりです。(神戸新聞に対しても、心からお礼を言いたい気がします)これらの記事には、中井さんについて、なにか欠けている部分がなさそうな、意を尽くした「追悼記事」であると思われたからです。

 中井先生に。謹んで哀悼の思いを捧げたいと存じます。

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 精神科医で神戸大名誉教授、中井久夫さん死去 阪神・淡路大震災で精神的ケアに尽力   阪神・淡路大震災などの被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)さんが8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。/ 葬儀・告別式は近親者で行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。/ 京都大卒。東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に。統合失調症研究の第一人者で、先駆的な診療法で高く評価された。/ 95年の阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に注力。2004年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の施設「兵庫県こころのケアセンター」が開設され、初代センター長に就任した。/ 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者らの心理的な回復を支える「ひょうご被害者支援センター」理事長として活動。甲南大教授も務めた。/ 90年から2012年まで本紙でコラム「清陰星雨」を執筆。歴史や文化を巡る高い見識に基づき、政治や戦争をはじめとする幅広いテーマに深い洞察を示し、無名の人々に温かいまなざしを向けた文章は多くの人の共感を呼んだ。/ 阪神・淡路の直後の医療現場や患者らの苦難をつづった「災害がほんとうに襲った時」や「中井久夫著作集」など著書多数。米国の精神科医サリヴァンやフランスの詩人ヴァレリーの訳書、ギリシャ文学の翻訳も手がけた。/著書「家族の深淵」で毎日出版文化賞。01年兵庫県社会賞。13年文化功労者。(神戸新聞・2022・08/09)

 いつも被災者のそばに、中井久夫さん悼む声 PTSDの研究、治療に道  精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫さんが8日、88歳で死去した。阪神・淡路大震災の被災者支援や研究などの功績に対し、多方面から悼む声が寄せられた。/「優しくて、パッションの人だった」。中井さんを「師匠」と慕う岩井圭司・兵庫教育大大学院教授(60)=精神医学=は震災当時、中井さんのいた神戸大付属病院に勤務。「孤立していない、見捨てられていないと被災者に実感してもらうことが第一」と若い医師らに繰り返し説いていた姿を記憶する。治療に当たる精神科医の役割を「一緒にふもとまで下りる『山岳ガイド』のイメージ」と語っていたといい、「心のケアという言葉を定着させたのは先生の功績」と振り返る。/ 室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授(77)=防災計画学=も「一人一人の人間に目を向けろと教わった」と語る。「心のケアという発想がなかった頃にその重要性を発信され、震災関連死や孤独死という考え方にもつながった。その後の災害支援にも大きな影響を与えた」と別れを惜しんだ。/ 中井さんの著書を心の支えにしてきたという被災地NGO恊働センターの村井雅清顧問(71)は「災害ボランティアにも造詣が深く、『黙ってそばにいるだけでいい』という言葉に、『ボランティアは何でもあり』と確信した。元気なうちに、自分の活動が間違っていなかったか聞きたかった」と声を詰まらせた。/ 中井さんは、兵庫県こころのケアセンターの初代センター長としても貢献。知事在任中に同センターを開設した井戸敏三・ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問(77)は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)へのケアの大切さを教わり、県として取り組みを進めることができた」と業績をたたえた。/ 担当編集者として40年近く親交のあった、みすず書房の守田省吾前社長(66)は、原稿を的確に直しながら別の電話に応対する姿に驚いたという。/「圧倒的な観察力を持ち、論理と科学、感覚、においといった多様なものを見事に文章化された。患者と家族だけが読むような小冊子も大手出版社の書籍も手を抜かない。全力投球なのに、どこかに余裕を感じさせる方でした」と人柄をしのんだ。(上田勇紀、中島摩子、新開真理)(神戸新聞・2022/08/10)

 

 言うまでもないこと、ぼくには何一つ誇れるようなものはありません。不本意に大学行き、不本意に就職し、その間ずっと不満をいだいたままで、生きてきました。教職についたと言っても、その実際は「教師まがい」だった。世に存在するたくさんの「本物の教師」のようには絶対になれない、あんな教師にはなりたくないなどと、いろいろな理屈を並べてみて、気づいたら「教師の出来損ない」、「教師まがい」でした。「ガンモドキ」というのは立派な食品ですが、ぼくはその「もどき」にもなれなかったのです。そんなふしだらな生活を続けていく中で、唯一学んだのは多くの先輩や先達からでした。

 ここで、いちいち名前を上げませんが、殆どが今では「一流」(この表現は嫌いです)と評される賢人たちでした。この中には、もちろん中井さんもおられました。とにかく、手に入る者は何でも読んでみようという、後先や、自らの能力を一切無視した「無謀」の振る舞いそのものでしたが、そんな乱暴な「読書経験」からでも、不思議なもので、身に得られるものは必ずあったのです。いま、中井さんの訃報に接して、この駄文を綴っているパソコンの置いてある部屋の周りの本棚には、それでも数十冊の、中井さんの著作があります。中には専門書(論文集)も。背文字を見るだけで、中井さんの文章の佇まいと、それをモノしているご本人の表情がありありと浮かんできます。とにかく、この賢人(碩学であり、実践家)は、いつでも、どんなときも冷静沈着を「絵に書いたような」姿を崩さなかった人でした。いまは、ひたすら感謝し、ご冥福を祈るばかりです。(中井さん、ありがとうございました)

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 治療においては、病気の側にも一種の疑似政治学がある。治療は、治療に伴う反作用を避けつつ、基本的には、病いと絶えざる妥協であり、その妥協の結果、病いを最善の形で経過させることが治療の政治学である。

 政治には士気の維持が大きな要素であるが、治療においても同様である。特に慢性の病いにおいて。

 土居健郎氏(『甘えの構造』の著者)は「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた。要するにそういうことだ。ナポレオンが戦争について言いそうなことだ。そういえばヒポクラテスが二千数百年前に言っている。(中井久夫「家族の深淵」みすず書房、1995年)

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競馬でも「男女混合」レースが当たり前

 <あのころ>女子マネ、初のベンチ入り 夏の甲子園 1996(平成8)年8月8日、甲子園の全国高校野球選手権大会に記録を担当する女子マネジャーのベンチ入りが初めて認められた。福岡県立東筑高校の三井由佳子さんが第1号で、盛岡大付(岩手)戦に2―0で勝利すると「私が一番緊張していたかも」と感想をもらした。(共同通信・2022/08/08)(ヘッダー写真は「優勝を決めて校歌を歌い、あいさつする神戸弘陵の選手=2021年8月23日、兵庫県西宮市で(丹波市提供)丹波新聞・2021.08.27)

 この出来事(女子マネ)は今から二十五年ほど前です。ほぼ同時期に、「全国高校女子硬式野球選手権大会」が開催されています。おそらく、男子ばかりに偏向していた「野球」の景色に、女性が参入を試みようとしていた時代であったと思われます。ぼくは、高校野球を(に)観戦(感染)しなくなってから、もう四半世紀ですから、ちょうど「女子マネ」や「野球女子」が話題になりかけていた頃でしょう。しかし、それよりもずっと前に、すでに男性と伍して、先駆的女性が競い合った時代は長かったのです。あらゆる場面で男女の差や格差が解消されようとして来た時代に、頑として「男女差」「男女差別」を譲らなかったのがスポーツ(運動)の世界ではなかったでしょうか。高校野球は「男子」に限るというのが歴史の評価で、それを最も熱心に肯定してきたのが(甲子園は「聖地」だという)「高校野球大会の主催者」だった。(夏は「朝日」、春は「毎日」という新聞社です。もうそろそろ「主催者」を降りたらどうか。所期の目的が曖昧になってきたでしょ)(これといい勝負なのが「大相撲」です。「土俵は神聖」なところだという。ホントか。その神聖な場で「エルボー」を多発し、好き放題をしていた横綱がいました。「勝ちゃいいだろ」って。今では部屋持ちの親方になったそうです。「神聖」が聞いて呆れますな。

 下に何枚かの写真を出しておきましたが、甲子園の「飾り物」として「女子高生」を使って(利用して)いることに、何の違和感も感じないくらいに、この主催者連はボケているのだと思う。なんで「プラカード持ち」なんですか(五輪なんかもそうですね)。もうそろそろ、これも止めたら、「女子高生」諸君。ノーテンキの主催者じゃ埒が明かないから、あなた方から拒否すべきだとぼくは思っています。この「プラカード一件」が終わるだけでも、ずいぶんとその後の「甲子園風景」は変わるでしょうね。チアガールというのも止めたらいいな。「チア」と言うのは女子に限るというのも、どうだか。甲子園の高校野球は「感動もの」という人々がたくさんいますから、なかなか一挙には変わらないが、この「甲子園の高校野球」も考えものだと、ぼくは以前から愚考してます。ぼくだって、高校野球をやっていた人間です。だから、余計にわかるんですね、野球(スポーツ)の意味(醍醐味)が。そのこころは「プレイ(play)」に尽きるんじゃないですか。ところが、大学入試と同様、ある種の(プロへの進路の)「偏差値」のレベルを決めるのが「甲子園」で、その、高校野球の役割は、プロ野球の下請けに甘んじている(いうまでもなく、全部ではない)、そんな気がしてきます。もちろん、純真・素朴に「野球大好き」を求めている高校生もいるでしょうが、甲子園では、そんな「時代遅れの(天然記念物級)高校生」は見られないでしょうね。

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 どうして「プラカード」なんですか。ぼくには理解できなかった。かなり前から、おかしいねというか、「違和感」が消えませんでした。甲子園のよくないところは「子ども(高校生)」を弄んでいる、一端(いっぱし)の「大人」、という構図です。よってたかった「平成の怪物」だとか、「ハンカチ王子」などと囃し立てては、商売の種にしている、「運動と商売(商業主義)」という二足の草鞋(わらじ)のそぐわないところが目に付きますね。もちろん、高校野球「オンリー」、甲子園「オタク」がいることをぼくは忘れているわけではない。しかし、あまりこの手の野球やスポーツに関心がなくなっている年寄には、プロ野球の「予備役(予備軍)」になった感のある高校野球には関心がわかないし、メジャリーグの三軍程度の役割を果たしている日本プロ野球にもなかなか耳目が向かいないんだ。野球は好きですよ。とはいっても、「演出過多」の、「女子」を下っ端として使うことに理不尽さを感じない「非常識野球界」には、もう少し「時代の現在地」を自覚してほしいですね。

 旗を掲げて行進するのは、「あなたには名誉?」かもしれませんが、女性全体の前進のためには、小さな壁になってるんじゃないですか。旗を持たせている「おっさんたち」に一言あってもいいじゃん。「どんなことをさせるんや」ってね。今度からは「あんたらが、持ちなはれ」と。

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 もう数年もすれば、男女混合(ミックス)の「甲子園」が実現されるのでしょうか。それとも、それは実現不可能な事柄なんでしょうか。いまだって「男女混合」と銘打った競技はありますが、まずそれは「(男女)ペア」をさして言うことであって、男対女という構図にはなっていません。(これも、どこかで触れたことですが、再言しておきます。どうして「全国高校女子野球選手権」なんですか。男子の場合は「全国高等学校野球選手権」ですな。バレーなどの球技にしても、水泳や陸上競技にしても「男子」「女子」です。それでもかまわないが、二十歳や三十歳の成人を「子」というのは、奇怪至極です。こんなことに拘(こだわ)るのが可笑しいのか、放置している方の筋が通っていないのか)

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【女子高校野球】横浜隼人が延長10回タイブレークの末に初優勝、聖地・甲子園球場に歓喜の声響いた 

◆第26回全国高校女子硬式野球選手権大会▽決勝 開志学園3―4横浜隼人=延長10回タイブレーク=(2日・甲子園) 女子高校野球選手権の決勝戦が昨年に続き甲子園球場で行われ、横浜隼人(神奈川)が7回制での延長10回タイブレーク戦の末に開志学園(新潟)に勝ち、初優勝した。聖地・甲子園での試合に、両チームの選手たちは笑顔でプレーし、ユニホームは黒土でまみれとなった。(以下略)(スポーツ報知・2022/08/02)(優勝の瞬間の写真は神奈川新聞 | 2022年8月2日 )

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 この場に「競馬」を持ってくるとは何事かと、「炎上」しますか、まさか。ほんの一例です。「男女混合」の真意を説明するために、持ち出すだけ。もちろん、時代は「男・女」では片付けられない、片付けてはいけない方向に向かっていることを失念しているわけではありません。ことの順番として、「男子」「女子」別々から「男女混合(ミックス・ペア)」へ。さらに、そこから「男女混」競技、つまりは「男対女(男性対女性)」へと、進んでいくことを願っているし、そこから、男女の「融和(ノーサイド)」が生まれる可能性を期待しますね。そのつもりで、一歩も二歩も先んじている「競馬界」の「牝馬(ひんば)(アマゾネス)」を紹介したくなったのです。(それに対して、男馬を「牡馬(ぼば)」(もちろん、それぞれにいくつかの読み方があります)この、史上最強とも言われた「牝馬」は今は引退してしまいましたが、その強さたるや、じつに凄かった。男対女などというのではなく、「馬」として速さを競って、「クロノジェネシス」が文句(ハンデ)なしに勝ったのでした。

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 クロノジェネシス、有馬記念を“力でねじ伏せて”勝利  強い牝馬たちが、これほど力を見せつけた時代がかつてあっただろうか。コロナ禍のなかつづけられた2020年の中央競馬を締めくくったのは、芦毛の女傑だった。/ 第65回有馬記念(12月27日、中山芝2500m、3歳以上GI)で、北村友一が騎乗する1番人気のクロノジェネシス(牝4歳、父バゴ、栗東・斉藤崇史厩舎)が優勝。昨年のリスグラシューに次ぐ、牝馬として史上2頭目の春秋グランプリ制覇をなし遂げた。首差の2着となったのも牝馬のサラキア。今年の牝牡混合GIで牝馬が勝ったのはこれが9度目、うち牝馬によるワンツーフィニッシュは4度目となった。(以下略)(Number:2020/12/28)

*「女傑=しっかりした気性とすぐれた知恵をもち、実行力に富んだ女性。女丈夫 (じょじょうふ)」(デジタル大辞泉)この辞書の説明でも、「女性」というものは「しっかりしない気性で、すぐれない知恵の持ち主。実行力に乏しいのが一般」というニュアンスがありありだね。

(「2020・有馬記念」:https://www.youtube.com/watch?v=5YMIYW-JFWg
(おまけ「2021・宝塚記念」:https://www.youtube.com/watch?v=kL8kU7UOYUg

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 ラストランのクロノジェネシスは3着 グランプリ4連勝はならず 第66回有馬記念(G1・中山・芝2500メートル)  引退レースとなったクロノジェネシスは3着。昨年の宝塚記念から続いていたグランプリの連勝は3で終わった。/ 道中は中団につけ、エフフォーリアのすぐ前を走る形。レースが動き出してからは外のエフフォーリアをマークする形になり、直線は伸びたが、相手の末脚の方が上で、ディープボンドにも先着を許した。/ 騎乗したルメールは「エフフォーリアをマークしていきました。直線でもエフフォーリアの後ろを走って頑張ってくれましたが、相手が強かったです」と勝ち馬の力を褒めた。ラストランは勝てなかったが、G1・4勝馬として力は出したレースだった。(中日スポーツ・2021年12月26日)

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 鹿とではなく、馬と競争した野球選手がいました。「世界の盗塁王」と言われた福本豊さん。馬には負けたか、わかりません。馬の方も、訳の分からない「サラブレッド(韋駄天)・福本」という人間がちょこまか走ってきたのに、驚いてか、恐れをなしてだったか、コースを外れてしまったと、記事はいう。(写真はスポニチ・ 2018年1月4日)この他に、百メートルの世界記録保持者(ボブ・ヘイズだったと覚えているが、勘違いかも)だった選手が、馬と百メートルを走って負けたという、そのレースをぼくは記憶しています。これなどは「異種混合」ですが、男女がいっしょになって「走る」「投げる」「飛ぶ」という、身体能力の競争がもっとあっていいと思う。その昔、儒教などという七面倒臭い「道徳・倫理」を説いた一節に「男女七歳にして、席を同じうせず」というものがあったとか、なかったとか。これも、実際には怪しいものだというのが、漢文学の泰斗だった吉川幸次郎氏の解説にありました。「人間」「人」を、まず第一にしたいね、性差ではなく。

 「女傑」とか「男勝り」と、当たり前に言っていた時代がありました。今もその残滓は、どこかに残っているかもしれない。あるいは「紅一点」「掃き溜めの鶴」などとも。褒め言葉のつもりだったのでしょう。口にするのは、いずれも男だった。細かいことは省きますが、人間には得手不得手があり、出来不出来があり、それには男も女も変わりがないのです。どちらも、自分ひとりで生きてはいけないのは言うまでもありません。馬と競争して、どうだったと聞かれた人が「美味(うま)かった」といったとか、さ。「甲子園開幕」「夏の高校野球」という文字が目に飛び込んできたおかげで、とんでもない方向にキーボードが叩かれてしまいました。これぞ「駄文」という証明です。今日も暑い、その昔、誰が作ったのか「言うまいと思えど今日の暑さかな」(I try not to say it, but it’s really hot today)と言う駄句に、ぼくは、数えきれないほど、ここぞというというときに、救われてきましたね。

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蝉鳴くや我が家も石になるやうに(一茶)

 【くろしお】立秋 今では夏になると普通に鳴いているクマゼミ。だが県北の山間部に住んでいた頃は、図鑑でしか見ない大型のセミだった。大型のセミといえば茶色い羽のアブラゼミばかりで、クマゼミの透明な羽に憧れた。▼最初にクマゼミを見たのは半世紀ほど前、国鉄(現JR)日豊線の青井岳駅だったと思う。列車が止まって、何気なく窓から外を見たら、ホームの電柱に大きなセミが止まって鳴いている。透明な羽に興奮し、飛び降りて捕まえたかったがすぐに列車は動き出した。▼その後見かける度に歓声を上げていたが、近年は住宅地でも公園でもわんさか木に止まっており、珍しい存在ではなくなった。むしろ貴重に思えてきたのがアブラゼミ。世界にセミは3千種類ほどいるものの、アブラゼミのように茶色い羽を持つセミは大変珍しいそうだ。▼南方に多かったクマゼミの分布拡大が地球温暖化に関わっているかは分かっていない。6月のことだが川南町の知人が「夏の終わりのヒグラシがもう鳴いていた。異常気象では」と語っていた。セミの鳴き声で季節の移ろいを感知する日本人の習性として、順番の混乱は確かに調子が乱れてしまう。▼今日は立秋。連日の猛暑とセミのけたたましさにまだ夏真っ盛りの気分だが、夜は涼しく吹く風の中に秋の虫の声が混ざる。この夏は新型コロナで中止していた恒例行事が多く再開。人々のエネルギーが噴き出す各地の祭りが終わる度に秋の気配が濃くなる。(宮崎日日新聞・2022/08/08)

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 コロナだ、酷暑だと言っているうちに、ときは「立秋」、やがて秋本番を迎えるというのです。その盛夏から晩夏、初秋へと季節は移りゆく、その移ろいに華を添えるのか、伴走(伴奏)のようにか、いろいろなセミが鳴き声を競っています。その多くのセミがいろいろな鳴き声を響かせているうちに、やがて、季節は確実に急ぎ足で過ぎていきます。これまではそうでしたから、これからもといいたいところです。しかし、すでにセミの鳴き声が、季節の感触を問わずに鳴き競っています。昨日は、隣の市では「大雨警報」が出され、一事、停電があったし、雷鳴が轟(とどろ)き、しばしパソコンの接続線をコンセントから抜いていました。幸いに、大雨はひどくなく、ものの三十分くらいで止んでくれた。

 今日の「くろしお」というコラムにセミのことが出ていました。昨日(八月七日)の暦について、です。昨日は立秋で、そのこころは「涼風至る」という。なかなか暦通りには行かないのが、当節では当たり前。この二十四節気も七十二候も、基本は旧暦での決め事ですから、間尺に合わないのは当然だし、更に加えて「気候変動」というのでしょうか、この劣島は「熱帯」に変わってしまったかのような気候の具合です。春の終わりから、セミは鳴き通しですが、何と言ってもセミの季節は夏であり、秋の奔りでしょう。拙宅の周囲は雑木林ですから、セミはふんだんに鳴き続けています。どの声が、どのセミだか、もう区別もつかないような塩梅です。これでも小学校時代は、毎年夏休みには「セミの標本」を、飽きもせずに作ったものです。休暇中の毎日が「セミ取り」といった明け暮れでした。その当時は、なかなかの「セミ博士」でした。その後、長期の都会生活に馴染んでしまってからは、セミとの縁が切れました。

 ねこが競って「生き物」を家の中に持ち込みます。このところ、最も多いのがセミです。どういうわけですか「クマゼミ」がいちばん多く、アブラゼミはまず見かけなくなりました。散々弄んだ挙げ句に、セミを絶命させるという残酷さは、どのねこにも共通している。今生における長くないいのちを、奪ってどうするんだと言っても言うことを聞かない、聞く耳を持っていないかのようです。やがて、ツクツクボウシが鳴き、ヒグラシ(蜩)が鳴くと、我が身までもが心細くなる始末です。でも、うぐいす(鶯)は、まだまだ美声を誇っているのです。

 セミは卵から幼虫になり、土中で十年前後、長いのだと十五年を超える生育歴を持ちます。セミの生涯は、まるで奇跡に満ちています。少々神がかっているともいえます。成虫になると、これまた驚くほど短命で、一、二週間とされています。これを知って「セミの命は儚(はかな)い」と思うかどうか。卵時代から数えれば、およそ十数年です。生きて何かができる時間というものは、人間であっても驚くほど短いとも言えるし、その間に、何でもしてしまいたいと願うから、何かと過ちを犯すのかもしれません。「秋は患い(憂い)の季節」だと誰が言ったのか、今はもう秋と、ぼくはかなり前に駄文で書きました。その「秋」にあって、魔夏のような酷暑が襲っているのです。海水温が異様に高い状態が続いていますから、大きな台風が襲うことが予想されます。更に局地的な豪雨をもたらす「線状降水帯」の発生も、各地で頻繁に生じています。すでに劣島の東西で、大きな被害がもたらされています。夏も秋も、近年では、一筋縄ではいかない状況が何年も続きます。やがて、セミが鳴かない夏や秋が来るのでしょうか。

 ・夏去りてひとそれぞれの骨休め(無骨)

●クマゼミ(くまぜみ / 熊蝉)[学] Cryptotympana facialis昆虫綱半翅目(はんしもく)同翅亜目セミ科Cicadidaeに属する昆虫。大形で、体長40~48ミリメートル。体は太く頑丈で、全体が光沢のある黒色。はねは透明で、前翅前縁は黄緑色。雄の腹弁は長円形で、美しい橙(だいだい)色。腹部背面には白い帯が現れることがある。関東地方以西の平地に広く分布し、7~8月に出現し、朝、梢(こずえ)などでシャー、シャー、……とけたたましく鳴く。センダンを好み、ときにこの樹幹に群れる。/ 石垣島と西表島(いりおもてじま)には別種のヤエヤマクマゼミC. yayeyamanaが分布するが、この種はクマゼミよりわずかに大きく、体長44~50ミリメートルで日本最大種である。翅脈は黒色、雄の腹弁も黒色から赤褐色で角張る。山間部に多く、午前中ミーン、ミーン、……とミンミンゼミのような声で鳴く。(ニッポニカ)

● アブラゼミ(あぶらぜみ / 油蝉)[学] Graptopsaltria nigrofuscata昆虫綱半翅目(はんしもく)セミ科の昆虫。北海道から屋久島(やくしま)までの各地、朝鮮、中国に分布。体長34~40ミリメートル。はねは赤褐色で不透明、中胸背は一様に黒色で、腹部両側は白粉で覆われる。7月中旬から9月下旬に出現するもっとも普通なセミで、ジージリジリジリと鳴く。卵期は約1年、幼虫は地中で樹木の根から汁を吸い、7~8年を経て成虫になる。成虫の寿命は1~2週間。ナシ畑やリンゴ畑などに集まり、果実の汁を吸い、また果実に産卵するので、害虫とされることがある。(ニッポニカ)

● (セミの)生活史=セミは、はかない命の代名詞になるくらい寿命が短いとされている。ところが、実際は、成虫期間は普通10~20日間に及ぶ。一方、幼虫期はきわめて長く、数年から17年の地中生活を送る。頑丈な産卵管で植物組織内(おもに枯れ枝中)に産まれた卵は1~2か月または約10か月で孵化(ふか)し、幼虫は自発的に地上に落下し、土のすきまをみつけて地中に潜る。1~2ミリメートルの1齢幼虫は根から樹液を吸いながら成長し、4回の脱皮を繰り返して終齢(5齢)となる。このころには、いままで白かった体も褐色となり、1年から数年後に成虫へと変身する。卵から成虫までの期間は一部の種でわかっており、アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミなどで6~7年、ニイニイゼミで4年、イワサキクサゼミで2年、北アメリカの周期ゼミMagicicada spp.で13年または17年である。成長期間は卵期の長さとやや関係があるように考えられる。十分成育した幼虫は夕方から夜半にかけて地上に現れ、木に登って羽化する。羽化4、5日後に雄は鳴き始める。(ニッポニカ)(下の標本画はニッポニカより)

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 「立秋」の俳句を三つほど。                                         

・秋たつときけばきかるる山の音 (飯田蛇笏)                                   

・秋立つや一巻の書の読み残し (夏目漱石)                                 

・秋立てば淋し立たねばあつくるし (正岡子規)

 「セミ」の俳句を三つほど。                                         

・蝉生る寸土一つの穴ありき (山口青邨)                                  

・蝉鳴くや八月望のうすぐもり (水原秋櫻子)                                

・庭園に蝉とめどなく鳴く別れ (金子兜太)

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