糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな

 柴田宵曲著『評伝 正岡子規』を折に触れて読んでいます。耳目に爽やかな景色も音色も聞こえてくる気がしない時節には、なおさらに子規居士に会いたくなるし、それも宵曲さんの「子規」にかぎる、といいたいほど、簡潔にして要を得ているのです。余計なことは一切かかれていないし、足りないところはまずありません。この宵曲さんについては早い段階で、どこかで少し触れましたが、極めつきの文筆家だと、ぼくの評価は高い。その「子規評伝」の開巻冒頭に次の記述があります。少しばかり長くなりますが、余計な邪説を交えない方が筋が通るとも考えて引用します。

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   自筆の墓誌

 明治三十一年七月十三日、子規居士が河東銓氏に与えた手紙の中に、「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で、石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、むしろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで彫るなら、別紙の如き者で尽しとると思うて書いて見た。これより上一字増しでも余計じゃ、但しこれは他人に見せられん」とあって、次のような自筆の墓誌が添えてあった。

   正岡常規(つねのり)マタノ名ハ処之助(ところのすけ)マタノ名ハ升(のぼる)マタノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人マタノ名ハ竹ノ里人(たけのさとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸に住ス。父隼太(はやた)松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏ニ養ハル。日本新聞社員タリ。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円。

 この墓誌は居士の歿後直にその墓に刻まれはしなかったが、昭和九年の三十三回忌に、子の墓誌を刻んだ碑が新たに太竜寺の墓畔に建てられた。居士の筆蹟そのまま銅板に鋳て板碑風の石に取付けたのを、その後改めて石に刻んだものとなっている。

 子規はどうして明治三十一年にこの墓誌を撰し、河東銓氏にこれを送ったか、その理由は固より明でないが、居士の一生はほぼこの百余字に尽くされているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当たり、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いるときは、すべて俳論俳話の類にかぎられた。竹の里人は居士の住んだ根岸を呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。

 孫悟空の如意棒は伸せば三十三天より十八層地獄に及び、縮めれば一、二分ばかりの縫針となって耳の中に蔵(かく)すことが出来る。子規居士の一生も縮めれば百余字の墓誌に収まるが、扱い方によってはどの辺まで伸びるか、ちょっと見当がつかない。(以下略)

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 まるで「綴り方」のお手本のようにして、ぼくは宵曲氏の文章を読んできました。この文庫本の解説は佐伯彰一さんです。「柴田宵曲(一八九七ー一九六六)によるこの評伝は、…どう位置付ければよいか。一見したところ、あまりにも控え目で、少々律義すぎ、型通りで平凡な子規伝と受け取られかねない」といったうえで、しかし、「さりげない淡々たる筆致でありながら、いかにも着実でコクがあり、しかも妙な硬さがない。無駄なく目のつんだ ‘informative’ な本としておのずと信頼感がわいてくるばかりでなく…」と褒めそやしています。いずれにしても、本読みはそれぞれに読めばいいので、まず読んでみてのお楽しみと、ぼくは言うばかりです。

● 柴田宵曲=大正-昭和時代の俳人。明治30年9月2日生まれ。寒川鼠骨(さむかわ-そこつ)の知遇をえて,アルス版,改造社版「子規全集」の編集にあたる。昭和10年俳誌「谺(こだま)」を創刊,主宰したほか,俳句に関する随筆や考証物を手がけた。昭和41年8月23日死去。68歳。東京出身。開成中学中退。本名は泰助。著作に「古句を観る」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus

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 大学に入った時から、ぼくは文京区本郷に十年ばかり住んでいました。その間、いろいろな場所に徒歩で出かけた。根岸も駒込も、上野も浅草も。お茶の水や神田までも。下駄ばきで浴衣を羽織って、といういで立ちで、あちこちを徘徊していたのです。鴎外も漱石も藤村も、あるいは子規やその他、もろもろの人々とも、散歩途上の出会いがきっかけだった。なにがしかの知識も関心もなかったのですから、今から思えばなんとも惜しいことをしたとも言えますが、半世紀以上を経て、彼らに再会、「濃厚接触」を試みているといった塩梅です。それにしても明治という時代、明治人というのはどんな感じだったのか、それを漱石や子規に見て取ろうとするのもまた、ぼくの近代史の学習でした。

 何か意図をもって、現実逃避を図ろうとしているのではありません。実際、どこかへ行きたいとか逃げ出したいとかいうのではありませんが、耳目には障りのあるものばかりが飛び込んでくるのをどうしようもないのです。ほとほと悪しき時代に遭遇したものだと、われながら「自省の念」に駆られたりもする。もっともっと前に生まれていたならば、とか何とか。(⇦ 漱石山房主人)

 これほど堕落や退廃が目の当たりに来るとは、いかにも迂闊千万というほかない。ことさらに子規をひきだすのも、「贔屓の引き倒し」の懼れなしとはしませんが、三十余歳で逝った子規に、ぼくは哀惜の念の止むときがないのです。その思慕の念たるや、漱石に向けたものの比ではありません。ましてこの二人の「青年の交わり」を想うだに、羨望の情は募り止まないのです。子規は大学をしくじったし、漱石は優等生で通すことに精神を病んで、後半生を送った。その二人の生きた時代をいま、社会が瓦解寸前にある状況にいながら、想像をたくましくするのです。でも、明治維新とは異なった時代の変容を俟つつもりでいながら、ぼくは無性に切なくもあり悲しくもあるのです。(子規についても、もう少しまとまった感想を書いてみたいですね)

  障子明けよ 上野の雪を 一目見ん(子規)

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先輩の口演を必死で聴き覚えた

 講談師も名人となると、売り物にちなんだ異名をとった。「鼠(ねずみ)小僧」など白浪(しらなみ)物を得意にした二代目松林伯円(しょうりん・はくえん)は「泥棒伯円」、怪談が評判を呼んだ七代目一龍斎貞山は「お化けの貞山」といった具合だ▲当代で「怪談の貞水」と言われたのが、講談界初の人間国宝となった一龍斎貞水さんだ。「四谷怪談」など音響や照明効果を使ったおどろおどろしい演出の立体怪談で人気を博した。今月初め、81歳で亡くなった▲講談は「冬は義士夏はお化けで飯を食い」という川柳があるくらい、討ち入りのあった12月をはさんで冬は赤穂義士伝が、夏は納涼で怪談が好まれるのが通例だ。ところが、貞水さんの立体怪談は1年を通して全国各地から声がかかったという▲映画やテレビが台頭する前、講談は落語や浪曲以上に身近な庶民の娯楽だった。だが、東京・湯島で生まれ育った貞水さんが10代半ばで入門したころには人気は低迷し、楽屋は老大家がほとんどだったという▲当然、客席も若くはない。けれども40年、50年と年季の入った常連客の小言が、芸となって身についた。「うまくいったことは3日たつと忘れる。失敗が人間を作る」との言葉は、芸に限ったことではないだろう。楽屋では先輩の口演を必死で聴き覚えた▲かつて自嘲気味に「絶滅危惧種」と言っていた講談師だが、今は東西で約90人を数える。有望な若手も育っている。「老大家の先輩方から教わったものを次に伝えるのが仕事」と語っていた貞水さんの大いなる遺産である。(毎日新聞2020年12月13日)

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  訃報  一龍斎貞水さん 81歳=講談界初の人間国宝

 怪談などを得意にした、講談界の大看板で人間国宝の一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい<本名・浅野清太郎=あさの・せいたろう>)さんが3日、肺がんのため死去した。81歳。葬儀は近親者や一門の関係者で営んだ。後日、しのぶ会を開く。喪主は長男丈太郎(じょうたろう)さん。/ 東京・湯島生まれ。1955年、都立城北高入学と同時に、五代目一龍斎貞丈に入門。同年5月、貞春を名乗り、上野の本牧亭で初舞台。66年、真打ちに昇進し六代目貞水を襲名した。/ 活動は多岐にわたり、特殊効果を駆使した「立体怪談」は高く評価され、「怪談の貞水」と呼ばれるようになった。講談師として初の全編読み切り「四谷怪談」(全5巻)、「赤穂義士本伝」(全15巻)をCD化。2005年には講談界初の欧州ツアーを行った。(毎日新聞2020年12月10日)

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 講談はぼくの歴史の授業(教室)でした。さまざまな主役(講談師)が登場しましたが、いずれも学校の教科書などは決して味わえない醍醐味を持っていたと実感します。落語が行業間休みや昼休みの楽しみだったとしたら、講談はまじめな教室の正規の授業のようでもあったと、ぼくは小さなころから経験してきました。貞水さんのうんと若いころ、おそらく四十代前後からよく聞いたと思う。もっぱらラジオが定番でした。これは落語も同じだったし、浪曲もラジオが、ぼくの定席でした。こういった語り芸が振るわなくなった背景には、時代の流れというものが大きな影響を与えたことは確かですが、ぼくにはテレビの登場が何よりの衰退を招いたと思われます。テレビは芸を腑抜けにし、骨粗鬆症を引き起こしてしまったのです。肝心のカルシウムが奪われたからでした。骨格が崩れるままに、「話芸」が死に絶えてしまったのです。(左上写真 貞丈師)

 落語の寄席にはよく通いましたが、講談は一度もなかった。上野本牧亭の復活移転などもあり、しばしば通おうかと思案したこともありましたが、結局はラジオで聞き通した。貞水さんの語りについて、生意気なことは言えません。でも声は太く、腹に響くような豊かな声量を誇っていたといえますし、しぐさには独特の張りや見どころがあったと、ぼくには映りました。怪談物、歴史談など、いろいろなジャンルを聴きました。殊に、世話、白浪など。ぼくは怪談物は苦手だった。また彼の師の貞丈さんもよく聞きました。

 ぼくの青春時代は「語り芸」によってつくられていたと思う。それもラジオによって、演じられたものでした。テレビと違って、ラジオがよかったのはやたらな動作が目に入らないから、聞く側の想像力の高まりが働き、語りに集中させてくれたことです。今では想像もできませんが、ラジオが果たした役割には大きなものがあった。真面目一方の貞水講壇・講談でしたが、だからこそ、たまさかの「くすぐり」がたまらなかった。今も演芸としての講談というより、タレント業化した語りが流行しているし、女性の講談師も輩出されて、一見して大賑わいの様相が見て取れます、にもかからわらず、ぼくには興味が湧かない。

 理由は簡単明瞭です。聴かせる「語り(口演)」が感じられなくなったということ。これはぼくだけの実感ですから、どうということはないんですが。この先に、どんな展開があるか、燦燦とした陽がささないように思う。落語となれば、もっと悲惨でしょう。理由はやはりテレビかもしれない。いや、師匠(先生連)がダメだからか。

 最後に一言。貞水さんが講談界初の「人間国宝」になったのは2002年。因果関係があるはずもないのですが、そこからもぼくの興味は失せてしまいました。これは落語の柳家小三治師についても言えそうです。ぼくにかぎることでしょうが、「国宝」に指定されてからの落語にぼくは面白みが感じられなくなりました。「国宝」が演者と聴き手の距離というか、間隔を疎遠な、あるいは白けたものにしてしまったと、ぼくが感じてしまうからでしょう。そのうちに「国民栄誉賞」を受ける講談師や噺家が生まれることでしょう。

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私らの内部の塵埃はどういう…

 かがやく未来を 大甕、常陸多賀、勿来-全て読める人は熱烈な鉄道ファンではないか。正解は順に「おおみか」「ひたちたが」「なこそ」。東京・品川と仙台を結ぶJR常磐線にある駅名だ。東日本大震災で途切れた鉄路が全線開通したのは、震災からちょうど9年たった今年3月だった▼先週、廃炉作業が進む福島第1原発を視察するため乗車した。詳細は改めて紹介するが、取材の合間に、沿線の富岡駅(福島県富岡町)周辺を歩いた▼太平洋の海岸線から300メートルしか離れていなかった駅舎は、周辺の商店や住宅などとともに震災による大津波で流失した。新設された現在の駅舎が営業開始にこぎ着けたのは3年前。ただ、更地になった周辺に住宅はまだ少なく、人影もない殺風景な様子に津波のすさまじさを実感した▼北に約9キロ離れた福島第1原発の事故による帰還困難区域は一部を除いて解除されたものの、住居や仕事を失った住民の避難先からの帰還は鈍い。町内の学校を統合して2年前に再開した、富岡町小中学校の児童生徒数は20人足らずという▼それでも復興への決意は伝わってきた。校舎の窓ガラスに掲げられた張り紙に、こうあった。「みんなで作ろう おもいでの故郷に かがやく未来を」。全ての駅がつながった常磐線は「かがやく未来」に向けた一歩だろう。あの震災からもうすぐ10年を迎える。「ようやく」であり「まだまだ」でもある。(健)(山陰中央新報・2020/12/14)

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 ぼくは初めて、山陰中央新報のコラムに触れています。社史によれば「1882(明治15)年5月1日  山陰新聞社創立」とありますから、やがて百五十年になろうとする老舗です。明治初期、表現は適切ではありませんが、雨後の筍の如くに「新聞」は発行され、各地で開明の志を開いていたのです。さて、このコラム氏が常磐線に乗られて富岡まで出かけられた。どんな思いをいだいたのかに興味がありましたので引かせてもらいました。コラムの内容に否やはありません。島根から(だと思われます)、出張られたのはそれなりの取材目的があってのことでしょう。詳しい取材記事は他所に書かれたのかもしれませんが、ぼくが不審に襲われたのは「放射線量」のことです。今春開業した区間に電車が入ると「線量計」が警告音を発し、線量が危険値を示すといわれていたからです。(この部分については他の雑文で触れました)

 さらに魅かれたのは、コラム名でした。「明窓浄机(几)」とは、「明るくて綺麗で勉強に集中できる書斎のこと。明るい日の光が入る窓と塵一つ無く清潔に保たれている机という意味から」出典は欧陽脩「試筆」とあります。(「四字熟語辞典on line)このコラムを書く場所は、きっと字義通りに、整然として、なお陽光の入る部屋であるなどとは言いません。新聞社の机がどういう状態であるのかを知らないではありませんし、コラム氏は喫茶店で書いておられたかもわかりませんね。

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*欧陽脩[1007~1072]=中国、北宋の文学者・政治家。廬陵(ろりょう)(江西省)の人。字(あざな)は永叔。号は酔翁・六一居士。仁宗・英宗・神宗に仕えたが、王安石の新法に反対して引退。北宋随一の名文家で、唐宋八家の一人。詩の評論形式の一つである「詩話」を初めて書いた。著「新唐書」「新五代史」「集古録」など。欧陽修。(デジタル大辞泉)

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 じつは、羽仁さんの文章(上掲)をいつか使いたくて、鵜の目鷹の目みたいにコラム「明窓」を読んでいたところでした。「私らの内部の塵埃(ちりほこり)というのは、どういうものでしょうか。人を憎んだり、あの人はこれこれだと勝手な推量をして、とんでもないことを考えたりする。そういうことは、みんな塵芥(ごみ)と同じことです」と、子どもたちや教師たちに向かって話されたのでしょう。初出は今から六十五年前でした。敗戦後十年。「心も明窓浄几に」という願いや祈りを語られたともいえるでしょう。(ヘッダー写真は「自由学園」サイト:https://www.jiyu.ac.jp/100th/history.html

 いまは、如何に浄化しようとしても、たちどころに「塵芥」がぼくたちの内部に沈殿し、それを放置して、ついに「埃に塗(まみ)れて後病む」ということになりかねません。自分の机に塵をためるように、机上に埃がたまるように、心の奥にも塵埃をためてもそれに気づかないことが多い。この内面の埃や塵の量や質を調べる専門家も看板を出して店を構えています。そこに通えば、処方箋を書いてくれ、薬を出してくれる。その結果、一時は「心は晴れた」ようになるのかもしれない。しかしまた、何かわからないもので、内部に重圧がかかる。羽仁さんは、きっと子どもたちに向かって話されたのだとぼくは見るのですが、これを、子どもたちはどのように受け止めたか。当時の子どもたちに会って、伺ってみたいですね。「内部の塵埃」をいかにして掃除するか、そもそもどうして塵や埃が内部にたまるのか。

 この「お話」の肝心な部分は「それを皆さんと一緒に是非したいと思います」という結語にあります。子どもに命じるだけではなく、あるいは「説教を垂れる」ことで終わるのではなく、いっしょに「心の埃を払う」教師がそこにいる、「私もそうしたいと思っています」という、この姿勢・態度においてこそ、教職の核心があるのでしょうね。「子どもといっしょに」です。いうまでもないこと、その昔のギリシアでは教師に叶う人を「子どもといっしょに歩くひと」と言いました。パイダゴーゴス、そこからpedagogyという言葉(実態)が誕生したのです。

●羽仁もと子=[生]1873.9.8. 八戸[没]1957.4.7. 東京,東久留米|教育家。南部藩士の家に生れる。東京府立第一高等女学校,明治女学校高等科に学び,1899年報知新聞社に入社,日本最初の婦人記者となった。夫羽仁吉一とともに 1903年『家庭之友』 (1908年『婦人之友』と改称) を創刊,「思想しつつ生活しつつ」をモットーに主筆として健筆をふるい,生活改善・生活合理を訴えた。 21年に自由学園を創立し,高等女学校によらない各種学校に甘んじてキリスト教に基づく自由主義教育の立場を堅持した。著書に『羽仁もと子著作集』 (20巻) がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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禁酒して見れば興なし雪月花

 本年で第34回を迎えた「サラリーマン川柳」の「歴代ベストファイブ」だそうです。主催は第一生命。ぼくもほんの数年前までは、しがないサラリーマンをしていましたので、この「みんなのサラセン」には思い入れも深く、応募したことはありませんが、いつも目にしては、一人笑ったり涙したりと、悲喜こもごもで、同情を禁じ得なかった。世相というものが自然ににじみ出てきて、時代を手っ取り早く知る機会にはなっていました。歴代のベストファイブといわれても、後期高齢者の身としては、詠みこまれた風景の実感とは著しく「時代遅れ」の感があります。それと同時に、なにか面白みに「へんな真面目さ」が匂ってくるのはなぜでしょうか、ぼくにはこれもまた、「遊びの少ない」「余裕が失われた」時節のしからしむるところではと、思案などするのです。真面目に川柳を、つまり「マジセン」ばかりが目に付くんですね。(https://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/index.html)

 第一位の「最強スクラム」、ぼくのところでは、たった一人のかみさんで手を焼き、舌を巻き、音を上げてきました。年々歳々、頑固になり、見下げられ、梃子でも動かない、威風堂々たる貫禄を感じさせられています。第二位「パプリカ」は見たこともないのですから、口に入る筈もありませんでした。今時、世に流行るもの、またはやりすたりが極端に短いのはどうしてでしょうか。従前は、「人の噂も七十五日」といいましたが、今ではどうでしょう、一週間ももちますか。だから何を咎められようが、言わず語らず、首をすくめていれば世間が忘れてくれるとばかり、人民を虚仮にする総理大臣がつづくのでしょう。

 良いか悪いかではなく、それぞれの社会的身分や地位にはそれなりに求められる「規範・期待」というものがあり、それにふさわしいものになるための精進が付随していました。敷居が高いとか、馬子にも衣裳など(これは関係なさそう)と、それなりの評価があったのですが。例えば「横綱」とか「総理大臣」とか。いまでは「八百長の成れの果て」という感がありますね。

 当節は、椅子やポストにつくばかりが目的で、ついたらついたで好き放題、後は野となれ山となれという、どうしようもない刹那主義、「自分第一」が瀰漫しているね。手段を択ばない目立ちたがりの世だろうね。ぼくにはその気が知れないが。高いところに登ろには注意がいります。落下するぞ、と。

 第三位、四位の「スマホ」をぼくは所有したことがない。見たことはある。でも、持つ必要性を感じないという以上に、他人から予期しないときに呼び出されるということが我慢できない性分であるということです。スマホ(携帯も含めて)を持たないという人に、ほとんど出会ったことがありません。サルにもスマホ、という時代。ここでもぼくは「時代遅れ」なんですね。何周遅れか。でもいつか時代がぼくに追いついてくる、そんな予感があります。自分は右往左往したつもりがないのに、お前は「左翼だ」、「お前は右だぞ」と言われます。位置を変えたのは時代なんですよ。止まっている時計は、下手に動いているのより正確です。一二日に二回は「時間が合う」んですから。

 第五位「たばこ」は学生(になる前?)の頃から相当に長く吸っていました。ぼくの喫煙はちょっと変わっていて、三年吸って、五年禁煙などということをくりかえしていました。中断・再会の繰り返し。気が付いたら止めていたり、吸い出していたり。これも性分ですね。「俺は絶対に禁煙しない」とも、「どんなに値上げされても、音を上げない。きっと吸い続ける」という、そんな気は毛頭ない。意志が強いのか弱いのか。いまはすっかりご無沙汰しています。ほしいとも思わない。

 この傾向は酒でも同じでした。若い時から、かなりの呑兵衛だった。自分でいうのもおかしいが、かなり呑んだ方かもしれませんが、これもあるときに口にしなくなり、何年もたってしまいました。酒の上の失敗もあるわけでもなく、一人で呑むのが好きでしたから、一人で止めるのにも何の抵抗もなかったというのでしょう。「酒なくてなんの己が桜かな」「酔覚めの水のうまさや下戸知らず」とは、今は昔の物語。

 煙草は止められても、酒はダメだと勝手に信じ込んでいたのです。信じるよりも、止めるが易し。禁酒禁煙していても、かみさんには煙たがられるのは本当で、旧悪を暴かれるように「呑兵衛時代」を今でも非難されています。(ぼくは喧嘩はしない。しなければならないときはしますが、かみさんとの場合は、いつでも負けることにしています。「金持ち喧嘩せず」ということかなあ。「金持ちは利にさとく、けんかをすれば損をするので、人と争うことはしない。または、有利な立場にある者は、その立場を失わないために、人とは争わないようにする」とはデジタル大辞泉ですが、この意味でなら、ぼくの場合は違う。まず勝てない、連戦連敗の結果、喧嘩はしないにかぎるという処世訓。男とはよく喧嘩をしました)

 というわけで、もしぼくが川柳を詠んだらどうなるか。さぞかし、覇気のない、面白みのない、「出涸らしのお茶」の味がするかもしれません。本年は出だしから「コロナ流行り」が海外で認められ、あっという間に、この島にも飛んできました。以来ほぼ一年、今なお猛威が衰えないどころか、さらに勢いを増してきました。今年の「サラセンん」はすでに締め切られ、年明けの一月末に発表されるそうです。いのち存(ながら)えて、コロナ禍の「みんなのサラリーマン川柳」を味わいたいですね。

 憂き世にぞ 笑いはいのちの 晴雨計(無骨)

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ことばの種をまく人、それが教師かも

 教科書という「本(ほん・もと)」をもとにして、教師の仕事を考える                                      

 学校にあっては、必ず指定された「教科書」がついて回る。子どもにも教師にも。この習性は学校教育開始以来、百五十年間続いてきました。学校の、数ある不思議の一つです。参考書や好きな本を持ち込むのも可能でしょうが、かならず、そこには教科書が位置を占めています。その理由は何でしょうか。明治初期は「国定教科書」と呼ばれ、戦後は「検定教科書」と呼ばれてきましたが、要するに手続き的には根っ子の部分に変化はなかったといっていいでしょう。「教師が教えようとする、教えなければならないとされた内容」を国家が「過不足なく提示」したものです。それを使わない自由もそれを教師の考えに従って(自由に)「解釈」することも認められないともいえるほどです。

 世に「教科書裁判」と言われるものがいくつかありましたが、それは基本的には「教科書執筆者」が起こした裁判でした。細かいことは省きますが、国定・検定問わず、教育内容を国家が規定しているというものです。したがって、教科書を内容にそくして「教授」しなかったことで処分された教師もいるのです。戦前戦後を問いません。そこにこそ問題があるとぼくは考えますが、今はそれを問わない。別の機会に扱うことにします。

 教師にとって、教科書とは何か。言わずもがなの問題ですが、なかなかどうして、よくよく考える必要がありそうです。自明の表情をしている者こそ、強く疑え。「教科書を教える」といいますが、その中身を何でしょうか。どこまでが教えるの範囲に入るのか。また「教科書で教える」とも言われてきました。「…を」と「…で」とでは、内容も方法もかなり異なるに違いありません。問題は「教科書」をどのようなものとして受け止めるか、です。以下、いくつかの視点で愚考してみます。

 Ⅰ教科書を読む(教科書を読むという教師の仕事)

   教科書はどのような「ことば」で書かれているか。一冊の「本」として教科書をみると、だれにとっても同じ「ことば」で書かれています。それは他のどの本(書物)とも変わらない。だれにも同じ「ことば」を「わたしが読む」(I read・I understand)であり、その意味を考えたい。教科書を読むとはどのようなことか。「読書という概念」が求められていると思う。書かれていることを読む、簡単じゃないかとたかをくくらないこと。字面を追うことは読むことではないし、人それぞれの読み方があるのです。「雨が降ってきました」という短文も、読む側に応じて多様な場面に変容してくる。シトシト降る雨ばかりではないし、人間を憂鬱にさせるのが雨という相場を応用するのは安易に過ぎます。

 一見すると、教科書の「ことば」は情報のことばのようにうつります。しかしだれにもひとしい「ことば」を読むのはリテラシーの問題だといえます。教師(生徒)にとって教科書を読むというのは「伝えられる」(「読まされる」(教師))側の主体性が問われる行為です。

  教科書を伝える(教師の仕事としての授業とは?)

 漱石や鴎外の作品の「現代語訳」が違和感を持たれない時代になっています。子どもたちは『我が輩は猫である』も『舞姫』も、旧文では読めないという。江戸期を背景とした落語が古典になったのと事情は同じです。時代や環境の変化は「読む・伝えられる」側のリテラシーの変化をもたらすからです。歴史教育の問題も似た状況にあると思う。だれにも同じ「ことば」(情報のことば)をそのままに「教える(伝える)」のではなく、それを受けとる側が自分の「ことば」(問題)にするところまでふくむ、それが「わたしが伝える」(I teach・I communicate)です。人と異ならない「ことば」によって一人ひとりのちがいが生まれる「ことばのちから」を軽視したくない。授業というのは教師、生徒ともどもに「ことばのちから」をつけるかけがえのない経験です。(「ことばで自分をどう表現するか」ではなく、「ことばを自分はいかにゆたかにできるか」、それが大切だ。長田弘))

教科書を書く(教師が教科書をつくるとは?)

 いろいろな立場からつくられた教科書があっていいと思う。検定教科書はまかりならぬという立場をとりたくない。だから教師が自分の「ことば」(肉声)で書く教科書もあり、生徒たちといっしょにつくることも必要です。自由につくられた教科書から自由に選ぶという、その「自由」を尊重したい。自分でつくった教科書をつかって授業をする、それによって授業は(教師・生徒の)生きられた経験になるはずです。教育の極意は自己教育だと考えていますから、それが「わたしが書く」(I write・I compose) という意味です。

 我見を主張するために「書く」のは教育の本意にもとることはいうまでもありません。

ことばの種をまくひと(なにが教師のちから(力量)となるのか?)

  ことばのふたつの方向

 (1)他者とやり取り(交換)できる「知識(情報)」のことば

 (2)自分を「確かにする(確かめる)」ためのことば

   どんな事柄もことばで表現できるというのは嘘です。ことばはたんなる道具ではないからです。たとえば「歴史」。これが歴史だと指でさすことも手で触れることもできない。「車」なら、ことばはいらない。現物があるからです。目に見えないけれど、たしかにある、しかもだれにも共通することばでは言い表せない、それを表現するのが「わたしのことば」です。「人権」ということばは読み書きできる、でもそれが何であるかは語りがたい。それを表すのが自分の経験です。経験をことばにする、ことばを経験する。それが欠如しているのが「情報化」といわれる時代です。知っているだけのことばが多くなると、自分を確かめることばはたえず失われてしまい、それに気づかないからです。(漱石も鴎外も、西郷も大久保も、すべからく「情報」としてしか求められない。その言葉の持つ歴史が欠如しているし、その作品に関わる「鑑賞」が失われてしまったところで、どんな歴史教育や文学教育ができるのでしょうか。

 わたしたちの現状は、いろいろな面で「貧しい国(社会)だ」といわれます。それは「心身ともには貧しい」であり、「物は、一見すると豊かそうですが、実のところは既製品の山であって、本当に求められるような物は貧しい」であるからです。その昔、この島は、自由主義圏第二位の経済力を誇っていたそうですが、今では誇るものが何もない島社会になってしまいました。別に「経済的な規模」だけが問題であると考える必要などありませんが、経済力が縮小すると、それに応じて精神力さえも縮小してしまった(貧しくなった)気になるのはどうしてでしょうか。必要以上に物品を持つことが「豊かさ」の中身だったということはなかったか。

 世界における経済的な地位が下降するにつれて、人間の質までが劣化してしまったというのかもしれません。学校教育の「空洞化」という指摘は、何時の時代でも言われたことですが、今日「空洞化」には拍車がかかっているように思われてきます「空洞化」ではなく、「空洞」になったからというのです。理由や背景には複雑な関連があるのですが、ぼくは「ことばの教育」が「情報教育」に堕してしまっていることが致命傷だと考えています。「教科書」は大切ですが、それをじゅうぶんに読みこなすことができなければ、「書かれた内容(情報)」を授受するばかりが教育のできること(すべて)になり、教師も子どもも、言葉を育てる契機を失って、次第に思考することに不自由を託つようになるのです。

 ひとは「ことばを使って考える」存在です。「ことば」を持たなければ「考える」働きは、ある種の習慣化されたものになるだけです。考える・判断する、これは未知の場面における身のこなし方でもあるのです。人間の体は一つの土地だとするなら、その土地の地味に見合った種や苗が求められるのですが、果してそのような繊細な選定を、「教室という畑」で教師は実践しているでしょうか。

 ことばに対する学校教育の状況は、まさしく「貧しい、あまりにも貧しい」のではないでしょうか。現実に「種子」や「種苗」を粗末にする島の状況は、学校教育の場面においても「タネ」「土」を、実に疎かにしているのです。ことばは育てなければ豊かにならない。育てるのは自分です。自分でことばの種をまいて、自分でそれを育てる。教育というのはそのような感受性(感覚)の問題でもあるのです。自分流の「ことばの感覚」をどこまで(子どもたちが)確かにすることができるのか、今こそと言いたいのですが、それが教師の(子どもたちに対して)なすべき仕事だとぼくはつたない経験から学んできました。

 子どもにとって、教師はことばの種をまくひとであり、まかれた種を自分で育てるのは生徒(自分)です。しかし、教師もまた自分で、自分の「ことばの種」をまいて育てるひとであるのはいうまでもありません。「種は命の源」というのは、単なる比喩なのではありません。

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(参考までに)

 言葉というのは、どこかに転がっているのではなくて、いつのときも心の秤(はかり)に載っています。秤はバランスでできているので、こちら側に言葉を載せると、反対側におなじ重さをもつ何かを載せなければならない。秤の反対側に載っているのは、経験です。

 経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかではなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。

 その言葉によって、自分で自分を確かめ、確かにしてゆく言葉。経験を言い表すことができる、あるいはとどめることができるのが言葉ですが、言葉にするというのは、問いに対して、正しい答を出すということとは違い、正しい答をこしらえるということではなくて、自分について自分で、よい問いをつくるということです。正しく問いを受けとめないで、正しい答を探すから、わたしたちは過つのです。

 言葉と経験を載せている心の秤が、感受力です。感受力というのは、だれかに教えられて育つというものではなくて、自分で、自分の心の器に水をやってしか育たない。そういうものです。しかし、自分で自分というものを確かめてゆく方法でしか、確かにしてゆくことができないとすれば、どうすればいいか。(長田弘「今、求められること」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊)

(お断り この駄文は、十年以上も前にある月間雑誌に依頼されて書いたものに加筆や修正を加えたものです。いかにも古証文だと羞恥心が沸きますが、それをここに持ち出してきたのは、今でもこの、偏った考えは、ぼくのなかでは変わっておらず、また、ひょっとして読まれる方(おられると仮定して)にとってはなにがしかの思考の材料になるであろうと判断したからです)

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「まさか」と、「やっぱり」と

 小学校長が覚醒剤所持 町長「まさかという思い」 覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで、兵庫県香美町立小学校長の楠田千晴容疑者が逮捕された事件を受け、同町は12日、記者会見を開いた。浜上勇人町長は「教育委員会の中枢にいた人物で、まさかという思い。町として厳粛に受け止め、信頼回復に全力で取り組みたい」と謝罪した。 町教委によると、楠田容疑者は、教育現場を指導監督するこども教育課の課長を経て、今年4月、児童数が町内最多の同小校長に着任。小学校長は初めての経験だったが、同小は教諭時代の初任地ということもあり、当時を知る保護者らの信頼も厚かったという。教諭の妻と母親の3人暮らしで、逮捕前に勤務した今月11日は午後から有休を取っていた。/ 藤原健一教育長は「覚醒剤に手を出したことは信じられない。職場での負担が原因になったとは考えられない」と話した。/ 保護者の女性(37)は「登下校時の声掛けを絶やさず、子どもとサッカーもしてくれる快活な校長だったのに」と驚いていた。/ 兵庫県教委教職員課は「事実であれば大変遺憾。詳細を確認し、適切に対処する」とのコメントを出した。(金海隆至)(記者会見で謝罪する(左から)今井雄治副町長、浜上勇人香美町長、藤原健一教育長=12日午後、兵庫県香美町香住区香住、同町役場本庁舎 右上写真)(2020/12/12 21:28神戸新聞NEXT)

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 自宅で覚醒剤を所持したとして、兵庫県警尼崎南署は12日、覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで、同県香美町立小学校長の楠田千晴容疑者(54)を現行犯逮捕した。「私が使うために持っていた」と容疑を認めているという。/ 同署によると、楠田容疑者は同日午前6時40分ごろ、同県新温泉町の自宅で、チャック付きポリ袋入り覚醒剤1袋を所持した疑い。薬物関連の捜査の過程で、同容疑者が浮上し、同署が調べていた。/ 楠田容疑者は香美町教育委員会こども教育課長を経て、今年4月に香美町立小学校に赴任。逮捕を受け、同町教委は職員らが急きょ出勤し、対応に追われた。12日午後にも記者会見し、経緯を説明するという。(2020/12/12 11:50神戸新聞NEXT)

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 まさか校長が、という周囲の反応は正常です。「やっぱり」というのだったら、「どうしてそんな人間を校長にした」と非難されること請け合いですから。例えが適切じゃないのですが、まるで「交通違反のように」薬物使用は蔓延しているとぼくは見ています。もちろん、薬物使用で逮捕されない者の方がはるかに多いのですから、まるで「薬物天国」という状態じゃないでしょうか。ぼくはこれまでに、何人もの薬物中毒者に会ってきました。薬物に手を出す理由はそれぞれでしたが、一番の目的は「現実逃避」というか、状況を変えたいという心理に駆られての「使用」だったと思います。

 教育委員会の「中枢」だった人が、初めての校長職で、いろいろと緊張や焦燥があったのかもしれない。しかし、そのような場面にある人はいくらでもあり、その人たちがすべて「薬物」に逃避しているわけではないことを考えれば、問題は「本人自身」にあったという、平凡なところに落ち着くのです。ぼくがこの事案を取り上げたのは、校長先生に「怒り」や「同情」を感じたからではありません。先ずはこの学校の子どもたち、さらにはこのニュースを知った多くの子どもたちが持たされる「不信感」の大きさを想定するからです。だれであれ、「薬物所持(使用)」は法律違反。しかし「えっ、あの校長先生が」、という時の驚きと落胆は半端じゃないと思います。「校長も弱い人間だから、仕方ないよ」という子どもがあるかもしれないし、それはそれでまともな反応だといえば、石をぶつけられるかもしれない。

 なにせ、この島では「最高権力者」と自他ともに任じていた人物が「真っ赤な嘘」を国会で、それも長期にわたってついていたのですから。「まさか、あの総理が」と驚いた人はいなかった、「やっぱりなあ」と、納得というのではなく、あの虚仮なら嘘もつきかねないとほとんどの人が知っていた。問題はそんな人間を「総理」に担ぎ通した政治屋・政治家への「不信」が異様に増大したという点です。「政治への信頼」といいますが、その政治を担っている政治家と称する個人への信頼が揺らいでいるのです。これは教師においても同じ。「教育への信頼・不信」「学校への信頼・不信」などではなく、教職にある「個人」への信頼の失墜こそが、子どもたちの内面に消えることのない「ひっかき傷」(外傷ではなく、内傷)を残すという、その後遺症に、ぼくは心を痛めるのです。「あの校長先生ならやりかねない」という、悟ったような反応も困るけど。

 総理が白昼堂々とテレビの国会中継で「嘘を吐く」「国民を愚弄する」、大臣が大臣室で「賄賂を受け取る」、そんなやりきれない時代にぼくたちは遭遇している。ホント、やりきれないね。(さらにぼくはがっかりしているし、いささか体調も心配になりだしてもいます。「アキタフーズ」とかいう広島の鶏卵屋が「贈収賄」事件の中心人物だったとされています。この三年ほど、ぼくはスーパーで、宣伝文句の「シェフにもおすすめ、このコクと旨味。特許取得」「きよら」「グルメ仕立て」「富士山ポートリー産直」「飼料に新旨味原料配合 ビタミン強化」につられたわけではないといいたいんですが、「アキタフーズ」の卵をせっせと買っていたし、食べていたんです、かみさんにも。「ポートリー」というが、「固定籠」じゃなかったのか) 

 どうしますか、この始末。さらに頭にくるのは、衆議院副議長の席を占めていた議員(赤松某)が、今季限りで引退を表明したという報道。彼もこの業者から「献金」を受けていたとされる。賄賂だったかどうかわかりませんが、「政治献金疑惑」のニュースがが出ると同時に「引退」という早業だ。与党も野党もありません、すべては「一蓮托生」であり、「家の子郎党」じゃないかと、ぼくは見てきました。「小選挙区制」は、この「一蓮托生」「家の子郎党」集団の結束を加速度的に強化したのです。いずれ劣らぬ、永田町の住民です。

 今期限りでの政界引退を十二日に正式表明した衆院副議長の赤松広隆さん(72)=愛知5区=は、名古屋市内で開いた会見で、「国会議員生活は波乱の三十一年だったが、政治家冥利(みょうり)に尽きる活動ができた」と振り返った。引退後は「現役の皆さんの邪魔にならない形で立憲民主党県連や各議員のお手伝いをしたい」と述べた。 衆院当選一期目で社会党書記長に抜てきされ、結成に携わった民主党政権では農相を務めた。会見で二度の衆院副議長就任などにも触れ、「県議時代を含めると四十二年間、一度も議員バッジを外さなかった。そういう政治家としての道を歩めたのも、支援者や仲間のおかげ」と感謝した。(中日新聞・2020年12月13日 05時00分)

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