片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず

                (2020/01/06 Issei Kato / 神田明神)
(2020/11/18Getty Images・品川駅)

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 余すところ十日足らず。なんとも足早に「時日」は過ぎ去り行くことか。ことのほか、今年は脱兎のごとくではありませんが、まるで、ブレーキの壊れた暴走車の如くに、光陰は、わが頭上を駆け抜けていったという気がします。

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も住替る代ぞひなの家

 表八句を庵の柱に掛け置く。

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 元禄二(1689)年、春弥生。芭蕉四十六歳の砌。先駆する西行の五百年忌に際して、曾良と二人で江戸を発つ。三百三十年前のことでした。いったいに、芭蕉の時代と今日、時の進み具合(時刻)が変わる筈もありません。いや、科学技術が何よりも進んだ時代だから、時間もまたやたらに早く過ぎ行くようになったといいたいけれど、それはありません。芭蕉が江戸を発ち、半年をかけ東北・北陸を巡り、九月に旅を終えた(さらに歩き通して、二年後に江戸にもどる)。その足跡は稀有な紀行文「奥の細道」となって残され、さらに各地に今にその軌跡として「幾多の石碑」が残されました。翻るのはよろしくありませんが、さてぼくたちの一年には何が残されたか。

 「鬼滅の刃」という奇異な漫画が席巻したのは、いかにもコロナ禍の時代状況に見合っていたのかもしれません。ぼくには「鬼滅の刃」は荷が重すぎます。これはいかにも悔しいのですが、、早い段階から漫画を読むという楽しみを忘れてしまったのが、ぼくの不覚と言えばその通りでした。covid-19は文字通り、地球を席巻しました。あるいは征服したといっていいのでしょう。今になり、ワクチンが投与開始となりましたが、敵もさること、変異に変異を重ねて、まるで正体を現さないのです。対するに、各地の政府や行政者は手を拱いて傍観するほかに能がなさそうな、いかにもという、放心状態にあります。

 医者の団体が「緊急事態宣言」を出そうが、自衛隊が出動しようが、いっかなその威力は衰えを見せてくれない。出口は見えない、亡くなる方も増加の一途をたどっています。「日本モデル」とあろうことか、世界に向けて虚勢や虚言を放ったのも今春でした。五輪はやむなく中止と、喜んだのもつかの間、馬鹿どもが「一年延期」だと、生半可なことをする。まるで税金泥棒の延命ではないですか。人が動けば感染が広がるという「エビデンス」はないと、成り上がりが宣ったのもつかの間、それこそ朝令暮改の見本のように、愚策の連続投入でした。その挙句、これぞ決定打というものはなく、一枚の図案を出すしか方法はなかったようです。大山鳴動鼠一匹、というか、コロナ暴走イラスト(愚にもならぬものです)一枚。

 大枚の税金を使って、日に日に感染者を増やし死者を増やし、国の借金を増やし倒産会社を増やし失業者を増やし、あれも増やしこれも増やし、…、留まるところを見つけられないで、今年も暮れる。

 年が改まれば、コロナも退散してくれるという約束はない。結局は「神頼み」「仏詣で」に奔走するのでしょうが、「避けよ、三蜜」とばかり、リモート参拝となるのでしょうか。初詣も、命がけです。ご利益がありますように。

 季節外れの三句を(「奥の細道」より)

 有難や雪をかをらす南谷

 むざんやなの下のきりぎりす

 名月や北国日和定なき

 マスクは人の表情を一変させますし、集団の景観も変えてしまう。マスクが外れる時が来るのでしょうか。あるいはもう二度とぼくたちはマスクを放せなくなったのでしょうか。(元来、ぼくたちは仮面をつけて生きているんですよ)人というものは、好む好まないにかかわらず、芭蕉に倣えば、「日々旅にして 、旅を栖とす」る存在でもあるのでしょう。「旅に行こう( go to トラベル )」と銘打ったのはまさか電通ではないでしょうが(あるいはそうかもしれない)、いかにも、現代風で、言い得て妙です。芭蕉の顰(ひそみ)に倣ったのでしょうか。でも自分で旅をするのに、税金はよくないですね。自分の脚で歩き、自分の口で食べ、自分の金で旅をする。

 芭蕉には津々浦々に「スポンサー」がいました。人徳なのか、学徳なのか、才能によるのか。各地の弟子筋は嬉々として師匠を迎え入れたのです。それがないものは、すべからく自給自足(self-sufficiency)に徹するのが一番です。これを「自助」というのか。ちがうでしょう。

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豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは…

【越山若水】「世界でいちばん貧しい大統領」といわれた南米ウルグアイのホセ・ムヒカさん(85)。4年前に来日し熱烈に歓迎された。今年その生き方や日本人へのメッセージを伝える映画「ムヒカ」が公開され関心を集めた▼貧しい家庭で育ち、政治活動に身を投じたムヒカさん。13年間獄中生活を送り、軍事政権が終わった後、国会議員に当選し2010年、大統領に就任した。12年にブラジルで開かれた環境問題に関する国連の会議でのスピーチが、世界の人々の心を揺さぶった▼「私たちは発展するために生まれてきたのではありません。幸せになるために地球に生まれてきたのです」「命より大事なものはありません。しかし、必要以上にものを手に入れようと、働きづめに働いたために、早々に命が尽きてしまったら?」。先進国の大量消費社会を批判する言葉が胸に刺さる▼ムヒカさん自身のつつましい生き方も、多くのことを物語る。古い家で暮らし、大統領時代は給与の大半を貧しい人などのため寄付した。来日した際に「みんな私は貧しいというが、質素なだけ」「人生を享受するためには、自由な時間が必要です」と語った▼多くの困難を乗り越え進歩を遂げた日本に敬意を払いつつ、西洋化された社会に「日本人は魂を失った」とチクリ。過労死や「政治とカネ」を巡る問題が深刻な国に、その言葉はとりわけ重く響く。(福井新聞・2020年12月21日 午前7時20分)

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 お金の話はなんにつけても、ぼくの性分にはあいません。お金が嫌いなのではなく、「まずお金」という物言いが好きではないのです。もちろん暮らしに必要な分はなければならないが、それも必要最低限です。ぼくはけっして貧乏を嘆いたり、金持ちを羨ましく思ったり妬んだりしたことはない。かつかつの生活と言えばいえるような活計をこれまで送ってきました。身の丈に合った暮らしを心掛けてきたともいえるでしょう。宮沢賢治の「丈夫ナカラダヲモチ/ 慾ハナク / 決シテ瞋ラズ / イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト / 味噌ト少シノ野菜ヲタベ / アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズニ / ヨクミキキシワカリ / ソシテワスレズ」、と言った姿勢・態度(すなわち生活哲学)を持ちたいものだと願いながら歩いてきました。たくさんカネがあっても、三人前も食べられないじゃないですか。

 金は一度だって「余分なもの」はなかったという、貧乏生活でした。必要になれば、働けばいいというのんびりとした、齷齪したくない態度を失いたくなかった。これは自慢でも何でもありません。あるいは自分の生き恥の一端をさらしているのかもしれない。カネに飽かせたことはしたくてもできなかったし、「余分なものはなかった」という生活でも苦しくはありませんでした。「清貧に甘んじる」というのではなかった。とても「清貧」ではなかったと思います。かといって「濁貧」でもなかった。これはぼくには大変に幸いなことでした。親の心が、ぼくの中で生きていたという意味です。

 親父は「地位も名誉も」忌み嫌っていた、と思う。それなりの仕事をした人だったといえますが、何よりも腰を据えて酒を飲むことを徹底して愛した人間だった。だから知らぬうちに、酒飲みにならぬよう、金に執着しない生き方、名誉にこだわるなという「人生の三か条」を背中で教えていたのかもしれません。ぼくは、あまり自分のことを語ることはしません。というより、語るに足る自分がないのです。だから、ここでなんか寝言を言っているようですが、「稼ぐ(ぎ)に追いつく貧乏なし」と言いたかっただけです。それで十分だ、と。「常に精を出して働けば、貧乏に苦しむことはない」(デジタル大辞泉)まあ、稼ぎと貧乏の競争(かけっこ)というよりは、二人三脚みたいな生き方をしてきたように自分では感じられるのです。

 いかにも唐突に、なぜGDPなのか。いいたいことは、ランキングの上がり下がりに「一喜一憂」しないために、時には自分の位置を知っておくことは悪いことではないという程度の、生活(人生)の「天気予報」を知るような、一種の位置確認と方角の目安みたいなものを知るためのよしなしごとです。クラスで何番、内閣支持率はどれ位などと、ぼくたちはランク付けを好むのか、否応なく見せつけられているのか。いつの間にか、気が付けば、ランクが下がることを悲観し、上がることが大事なんだと錯覚する。ランクなんて、どこに重点を置くか、何を大事なものとみるかによってどうにでもなる。でも数字や順位に振り回されるのは、なかなか忙(せわ)しない、つまり心持ちが貧しくなるんじゃないですか。尺度なんて、作ろうとすれば無数にあるんです。(以下の表は2018年のもの)

 一人当たりのGDPが「韓国に抜かれた」(2019年)と、まるで天変地異に襲われたように言い募る人がいます。逆に、一人当たりではなく全体でみるべきであり、その数値はまったく韓国を寄せ付けていないから、などとわけのわからないことをいって「メンツ(体面)」を保ったつもりの能天気もいる。経済戦争の戦士気取りは嫌ですし、韓国の(匿名の)一個人より実入りがいいと、比べられないものを比べて悦に入る人の気も知れないのです。日本という島国は「一等国」になりたがる、その仲間入りをしたと糠喜びをしているさまを、早くに揶揄したのは、漱石さんでした。「高等遊民」などと言って遊んでいるのを友人になじられた。「なぜ働かないのだ」と。それに対して「代助」は長広舌を振るう。

 『何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。』(『それから』)

 ぼくは「高等遊民」じゃありませんけれども、「蛙」の領分は知っているというより、忘れたくない。一所懸命に「牛」になる努力をすること自体、羽目を外しているんです。二等国、いや三等国でなぜいけないのか。身の程を知るというのは、国でも人でも、何よりも大切なんですね。漱石さんはいたるところで「二等国でなぜダメなんだ」と言い、それを忘れるから「みんな神経衰弱になっている」と明治の国家を詰り通し、新出来の「国民」を蹴落とすかのような言辞を吐く。以来、このような身の程知らずが「国是」になって来たんですね。愚をくりかえすのは歴史ではなく、「個人」なんですが、その個人が集まって「国」をなしているなら、「国」もまた間違いの歴史をくりかえすということになりますか。

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 「GDPは国全体の経済活動をはかる指標であり、大きいほど経済的に豊かな国とされています。一般的に、一人当たりのGDPが1万ドルを超えると先進国と言われています。/ GDPは国全体の値なので、GDPが高いからといってすべての国民が豊かとは限りません。国民の裕福度は、一人当たりのGDPの値が実像に近いとされています。/ 一人当たりのGDPが高いほど、お金をたくさん稼いでたくさん使う、という活発な経済活動があると言えます。

 実際、日本ではバブル経済がはじけてからは長いデフレの時代が続き、給料は増えず、金利は低い、といった閉塞感、停滞感がぬぐえません。一部の富裕層は豊かな暮らしを楽しんでいても、その一方で非正規労働者が増え、収入が少ないことで結婚や出産をためらう若い世代が増えていることも問題となっています。
やはり、国民一人一人を見ていくと決して豊かとは言えないことが、一人当たりGDPのランキングが下がっていることにも表れているようにも考えられます。/ しかし、気を付けておきたいのは、国際比較をする場合にはお金の単位を共通にするので、その時々の為替レートに影響を受けるということです。

(読売新聞・2020/12/21)

 IMFのデータでは、USドルを用いています。日本の100万円が、1ドル=100円なら1万ドルですが、円高で1ドル=80円なら1万2500ドル、円安になって1ドル=125円なら8000ドルにしかなりません。
2010年には1ドル=80円台~93円台の円高でしたが、2018年には1ドル=102円台~115円台の円安なので、2018年の数値が下がっても仕方がないのかもしれません。/ また、人口の構成にも影響を受けます。GDPは一人あたりの生産性×人口とも考えられますから、人口が多ければGDPは上がります。しかし、生産性が落ちればGDPは減り、結果として一人当たりのGDPも減ってしまいます。/ 日本では、2000年の総人口は約1億2700万人、2018年には約1億2000万人と、年々減ってきています。
しかも、超少子高齢化により、15歳未満の人口と、15歳~64歳の人口は減り、65歳以上の人口は増えています。」(https://woman.mynavi.jp/article/200803-17/)

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 次年度の予算案が閣議決定されました、と。収入が百六兆六千億円超、うち国債(新たな借金)が四十三兆六千億円。余計なことは言うまい。打ち出の小槌が、どこかにあるのでしょう。新規国債、赤字国債、建設国債等々、なんと名乗ろうが、できる借金はとことんしてしまう。国債が売れなかろうが、市中の国債が売れ残ろうが、日銀がどれほど引き受けようが、政府も官僚も知ったことではない。財政運営を責められても、これしかないじゃないかというばかり。さらに責められれば、「後は野となれ山となれ」どいう刹那主義で開き直るばかりです。一番病に取りつかれ、ランクばっかりにここrを奪われているうちに、亡国の輩が、この島を荒らしに荒らしたのです。国破れて借金あり。島厳寒にして万事滞留す。コロナ独り勇躍す。

 その昔、自由主義圏では第二位のGDPを誇ったと、事あるごとに思い出す。今は昔の物語だし、夢よもう一度というのはあり得ないことです。四十年前も「金だけ、今だけ」の国とみなされていたし、セールスマンが首相なんだと、揶揄されたこともありました。ジャパン・アズ・ナンバーワンとおだてられて舞い上がったのはよかったが、風船玉の空気が漏れているのに気づかなかったのでしょう。右肩上がりの風も止んだ。「あんたが一番」といい気にさせた、その方は先日亡くなられました。

 エズラ・ボーゲル氏死去 ジャパン・アズ・ナンバーワン

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者で知られるエズラ・ボーゲル米ハーバード大名誉教授が20日、東部マサチューセッツ州ケンブリッジで死去した。90歳だった。同大のフェアバンク中国研究センターが発表した。手術を受けた後、合併症により逝去したという。/ ボーゲル氏はおよそ60年にわたって日本や中国などについて研究した東アジアの専門家。ハーバード大によると1958年に同大の博士号を取得し、日本語の習得や中間層の家庭について研究するために2年に渡り日本に滞在した。同大の教授のほか、東アジア研究センターの所長も歴任した。/ 79年の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」では、日本が戦後に高度経済成長を実現したことついて分析し日本型のシステムや経営を評価した。日本でベストセラーとなった。知日家として知られ、来日も多かった。2019年には日中関係を歴史的観点から記した著書を発刊していた。(日経新聞・2020年12月21日)

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 これで終わりですが、最後に付けたしです。漱石さんの「私の個人主義」のお終いの部分を紹介したくなりましたので、悪しからず。「私の個人主義 ―大正三年十一月二十五日学習院輔仁会におい ―」

「個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。(中略)

 豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の午に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に殖したというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直に云えば胃の具合できめたのである。しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係していないとも限らない。しかしながら肝心の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。」(以下略)(青空文庫版)

(この講演は、何度でも繰り返し読んでみるといい、今になってもなお、読んで損はしない話です)

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いつもどこかで朝がはじまっている

「年賀状の写真に!」湖の大鳥居から朝日 冬至の頃、ねらい目に 滋賀・高島

(厳しい寒さの中、鳥居の内側から昇る朝日)(18日午前7時15分、高島市鵜川)

(⇦ 鳥居の内側から昇る朝日を撮影するカメラマン)(18日午前7時15分、高島市鵜川)

 「近江の厳島」と言われ、琵琶湖沖に立つ白鬚神社(滋賀県高島市鵜川)で18日朝、大鳥居の内側に朝日がまばゆく輝きながら昇る光景が見られた。/21日の冬至が近づくにつれて日の出の位置が南に移り、より鳥居を正面に写すことができるという。/ 午前7時すぎ、対岸の山頂にかかる雲の隙間から黄金色に輝く太陽が現れ、波立つ湖面と鳥居を照らした。湖南市から訪れた男性(66)は「朝焼けもきれいで年賀状の写真に使いたい」と熱心に写真に収めていた。(京都新聞・2020年12月20日 18:33)(註 これを年賀上の写真にか?)

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 日の出とか日の入りとか、まるで太陽が人間(地球)のために出たり入ったりしてくれている(顔を出したり隠したり)という、いかにも人間中心の自然(宇宙)観を、きっと悠久の昔からぼくたち(人類といっていい)は抱いてきました。確かに理屈で説明すれば、なんとも味気ない現象になるのですが、つい最近も夜空の(ペルセウスや双子座流星群など)星座ショーが見られましたが、年中行事のように生じる自然現象にも、ぼくたちは、願いを込めて祈りの姿勢を取ってしまうのです。宇宙の引力や天体の現象に、いったいどのような願いや夢を描くか、それぞれの民族や社会には他処には見られない、独特の一種の信仰・宗教心とでもいうような自然への対し方があるはずです。

 毎朝、天候に恵まれれば、拙宅から「日の出」をゆっくりと眺めることが出来ます。ぼくは無信仰人間ではありますけど、この天体の運行を見るにつけ、すこしばかり厳かな気持ちになるのです。手を合わせて拝むことはしませんが、いい心持ちになるのは確かです。若いころは毎夏、北アルプスに登りました。白馬や穂高が大半でしたが、たいていは朝日に間に合うために苦労したように、今では気恥ずかしい気分を伴って思い出されます。早朝、(文字通り)黒山の人だかりが山頂で発生し、なんと奇特な、いや珍奇な人々がいるものよ、と我を忘れて思われたのでした。

 拙宅から九十九里まで車で三十分もかかりません。普段でも結構ドライブがてら出かけますが、「初日の出」には出向いたことはない。神社もそうです。いつも言うように、ぼくは人混みが大嫌い人間で、信号待ちで人だかりするのもできれば避けたいほどの、変わった人間(変人)です。だからどんなところでも、人混みや群衆の発生するところはまずいかない。今では寄席や演奏会にすら出かけなりました。

 さて、琵琶湖白髭神社の「朝日」です。この写真を見ているだけで、ぼくはいい気持ちになります。実に安上がりにできています。琵琶湖は往時の遊び場、いろいろな場所に出かけました。ただ、この「日の出」はみたことがない。(今この駄文を綴っている時間(6時45分)、やがて前方(東方)から太陽が顔を出しかけています。九十九里の海岸から少し離れていますので、昇る気配がかなり長く感じられる。ジャズ風の音楽を流しながら、雑文に勤しむというか、よからぬことを練っている、日が昇る、猫が呼ぶ、かみさんはまだ寝ている)

 日が昇る、その一瞬だけでも心が洗われるというのか、実に清らかな心持が生まれているというのか、こんな太陽に照らされれば、この世に悪人も犯罪者もいないと思ってしまうのです。(日没でも同じ)でも昇りつめれば、さてどんな悪事で金をせしめるか、人をだますかなどと、だれが邪な気持ちにいとも簡単に切り替わるのでしょうか。洗足という地名は各地に多いのですが、洗心という精神の浄化作用は「お天道さん」の下にあってさえ、どうして進まないのでしょうか、ぼくには不思議でなりません。「見上げてごらん、夜の星を」もいい、確かにいいのですが、「拝んでごらん、朝の陽を」も、それ以上に素敵ですよ。地球が丸いというのは、まことに御慶ですね。谷川俊太郎さんじゃないけど、まさに「朝のリレー」です。カムチャッカの若者も、メキシコの娘も、ニューヨークの少女も、ローマの少年も、きっと朝日に心を洗われている。「この地球では いつもどこかで朝がはじまっている」

ぼくらは朝をリレーするのだ
 経度から経度へと
 そうしていわば交替で地球を守る
 眠る前のひととき耳をすますと
 どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
 それはあなたの送った朝を
 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 人生は朝から始まる(La vie commence le matin)、こう教えてくれたのはフランスの哲学者でした。彼は長い間、高校(リセ)の教師をしていた。青臭くやんちゃ盛りの生徒たちに、つねに「人生は朝から…」と言っていた。そして、教室に入ると、即座に授業を始める。毎日、質問がある生徒は黒板に書く。それを見た教師は、おもむろに考え考えしながら、答えようとしていく、それが授業の開始でした。(生意気な、教師が答えに詰まるような質問が書いてあると、彼は何も言わないで消してしまい、それにかかわる話を投げかける、「自分の脚で立て、自分の頭で考えよう」「それは君が考えたことじゃないだろう」と)こういう教師に出会う若者は、きっと自分をまちがいなく発見するに違いない。

 思想家としての彼も尊敬の対象ですが、それ以上に教師としてのアランにぼくが引き付けられてきたのは、彼は決して生徒たちを大人と比べたりはしなかったし、一人の人間として期待し、その期待にふさわしい人間になることを、子ども自身がおのれに求めるように、一人の人間と認めるところからしか付き合わなかった。自分が低いところで満足したりしない、少しでも高く自分を成長させることに注意を払う、そういう人間であることを生徒に期待したのです。表現はまずいのですが、小さな大人としてしか見ない、まだ足りない人間であるとみなす、そんな侮蔑した態度をまったく取らなかった人として、ぼくはアランという人に大きな恩恵を被っているのです。「君はそんなところでつまずくような人ではない」(左写真、前列真ん中がアラン)

 世の中には「夜から一日が始まる」、そんな人もいるかもしれません、一日の始まりはそうかもしれないが、人生は「朝から」、です。ぼくはいまだに、その教えを真に受けて生きています。

(本日は、これから「病院行き」です。かみさんの手術(十月末)後の「生体検査」の結果がよくわからないままで、本日になりました。繰りかえし顕微鏡での検査をしていると、担当医はいっておられましたが、さて、「吉と出るか、凶と出るか」、なに、すこしも心配なんぞはしていません、かみさんも。「果報(家宝)は寝て待て」、「寝言は寝てから言え」という心持ですね)

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棲守道徳者、寂寥一時。依阿権勢者、凄涼萬古。

 …友人に洪自誠という者があり、自著の菜根譚を携えてきて私に見せ、その上、私に序文を頂きたいと願い出た。私は最初、あまり気乗りのしない態度でその書物を眺めていた。然しやがて机上の古書を片付け、胸中の雑念を去って、手に取ってその書を読んでみて、すぐに悟った。その姓命の哲理を語るものは直ちに真髄を窮めており、その人間心理を説くものはつぶさに人生の苦労をなめ尽くしており、広大な天地の間に起居しているのは心中の悠々たるさまを見るに足り、世俗の功名をちりあくたのように無用としているのはその見識の高遠さを知ることができ、文章の妙は緑樹や青山のように清新であり、口先からでる言葉はすべて生気のはつらつたるものであることを。その悟りの程度は、もとよりまだ深く信ずることはできないが、述べられている文章によれば、すべて世人を戒め目覚めさせる肝要なものばかりで、耳に聴いたことをすぐ口からだすような軽薄なものではない。譚を菜根と名付けているように、これはもともと清廉で刻苦勉励した生活の中からみがき出され、また人間形成の修練のうちから得たものである。人生の風波にもみぬかれ、その苦難をつぶさになめ尽くしたことを知ることができる。

 洪子(自誠)がいうに、「天が、我にわが肉体を苦しめるように仕向けるならば、我はわが精神を安楽にして肉体の苦しみを補うようにする。天が、我にわが境遇を行きづまらせるようにしむけるならば、我はわが道を高尚にしてつらぬき通すようにする」と。その自ら戒慎し、自ら勉励している点も、伺われる。そこで数語をこの書に冠して、これを世人に公表し、菜根の中(うち)に真の味わいがあることを知らしめたいと思う。     三峰主人 干孔兼が題した

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 すでに何度か触れたことのある『菜根譚』です。著者は洪自誠、その著に「序文」を書いたのが干孔兼。「字は元時、一字景素、三峰主人と号す。江蘇金壇の人。万歴八年の進士。直諫して神宗の怒りに触れて致仕し、家居すること二十年にして天寿を全うしたというので、歿年は万歴四十一年と推定される。」(岩波文庫版の註による)この「序文」はその性格からして、内容を持ち上げるものであるのは当然で、だからこの著は素晴らしいというけれども、果して、そうかそうでないかはという判断、一読の後に生まれるのでしょう。ぼっくは再読三読して、まだ読み立ちないというより、著者洪さんの生きた時代や社会がまったく見当もつかないものである以上、それなりの価値判断はまだできていないのです。

 だからこれからも読みつづけるほかないような「清言」ではあるのです。若くして才能を発揮し、「述べられている文章によれば、すべて世人を戒め目覚めさせる肝要なものばかりで、耳に聴いたことをすぐ口からだすような軽薄なものではない。譚を菜根と名付けているように、これはもともと清廉で刻苦勉励した生活の中からみがき出され、また人間形成の修練のうちから得たものである。人生の風波にもみぬかれ、その苦難をつぶさになめ尽くしたことを知ることができる。」あえて推量を働かせれば、洪さんの生き方には凡人の端倪すべからざる苦渋から仕入れた、そこを通り越した結果からしか生まれてこない、人世の平穏の境地を活写しようとしたものでしょう。

 (● 進士=中国で、科挙の試験科目の名称。のちに、その合格者をいった。律令制で、官吏登用試験の科目の名称。また、その合格者。平安時代、(科挙)に合格した文章生 (もんじょうしょう) のこと。(デジタル大辞泉)(● 致仕=官職を退くこと。また、退官して隠居すること。 《古く、中国で、70歳になると退官を許されたところから》70歳の異称。(デジタル大辞泉)

 改めて、『菜根譚』と作者洪自誠について述べることはしません。肝心なのは書かれている内容ですので、それを再読三読、味が出てくるまで読むことが大切ですね。「読書百遍義自ら見(あらわ)る」とい姿勢を貫くのが何よりなのでしょう。ぼくはいまだに経験したことがないのです。百篇というのではなく、それくらいに回数を課k左寝て読むことなんですよと、いうのではなさそうです。とにかく百篇、「よくわからないところが、おのずからわかってkるのです」ということなら、学校などではおよそあり得ない、読書の方法だといえます。一回読んで分かりましたと、いうのは読書に値しないことなんでしょうね。「意の通じないところ」が通じてくるんだという、まるで自然生薬の「便秘薬」みたいです。

(●「魏志‐王粛」の注に引く「魏略」の「人有従学者、遇不肯教而云、必当先読百徧、言読書百徧而義自見」による) 文意の通じないところのある書物も、百遍も繰り返して熟読すれば自然に明らかになるの意。)(精選版 日本国語大辞典)

 これまでに同じ書物を百篇も読んだことは、ただの一度もありません。したがって「義自ずから見(あらわ)る」、その言わんとするところが「自然にあらわれてくる」という経験をしたことはない。一回読んだだけ、二回目を通しただけで、いい加減に、勝手な「解釈」や「説明」をつけて、分かったつもりになっていたというのが実際でした。それで通用したのかどうか、自分では判然としませんが、何かの謗りや障りを受けたこともないので、こんなものだという世間に妥協してきただけでした。もう少し早く、気が付けば、読書から得るものは大いに違ったものだったろうと、後悔ではないが、もう一度やり直しましょうかという気になるのです。

 もちろん「読書百遍…」という言葉は知っていました。知ってはいるけど、それをじかに経験してみたことがないということを、いまさらに考えさせられています。いったい「読書」とは何だろうと、ここに来て立ち止まっています。要領がよければ、なんだって情報として得られる時代の、大きな落とし穴ですね。百篇読んでみたいとは思いますが、さて、それが『菜根譚」になるのか、ぼくにもわかりません。

● 『菜根譚』=中国、明(みん)代の末期に流行した「清言(せいげん)」の書。著者洪応明(こうおうめい)は、字(あざな)は自誠(じせい)、還初道人(かんしょどうじん)と号し、万暦(1573~1619)ごろの人。四川(しせん)省成都(せいと)府の出身。儒教的教養を基礎とし、そのうえに道教、仏教に通じて三教兼修の士となることは、明代中期ごろからの流行であったが、著者はその優れた一人であった。本書は、前集は222条、後集は135条、合計357条の「清言」からなる。前集は、主として世間にたち、人と交わる道を述べて、処世訓のような道徳的な訓戒のことばが多く、後集は、自然の趣(おもむき)と山林に隠居する楽しみを述べて、人生の哲理や宇宙の理法の悟了を説くことが多い。この人生の哲理、宇宙の理法は、儒仏道三教に通じる真理であり、それを語録の形式により、対句(ついく)を多用した文学的表現をするのが「清言」である。書名は、宋(そう)の汪信民(おうしんみん)の『小学』における「人常に菜根を咬(か)みうれば、すなわち百事をなすべし」からとったものである。中国よりむしろ、江戸末期の日本で多くの人に愛読された。洪応明にはほかに『仙仏奇蹤(きしょう)』4巻(『消揺嘘(しょうようきょ)』『長生詮(ちょうせいせん)』『寂光境』『無生訣(むせいけつ)』各1巻)の著がある。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 棲守道徳者、寂寥一時。依阿権勢者、凄涼萬古。達人観物外之物、思身後之身。寧受一時之寂寞、母取萬古之凄涼。(前集 一 )

 (道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。権勢に依阿する者は、万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼をとる事なかれ。)

 「人生に処して、真理を住みかとして守り抜く者は、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらうものは、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度を取るべきではない。」(以上は岩波文庫版による)

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 これを処世訓と理解すれば、とてもじゃないけど、自分には縁が遠い話ですね、と済ましてしまうかもしれない。「真理を住みかとして生きていく」なんてできるはずもない。過ちの繰り返しであり、失敗して初めてそれが間違いであったと知るに至る。後悔ばかりが攻めてくるというのが、ぼくらのような衆生の人生でもあるでしょう。でも、だからこそ、せめて「権勢に阿り諂う」ことを潔くせず、「時には冷や飯を食らう」ことがあっても食べられるだけで儲けものと、抵抗も掉さすこともしないで、権勢を遠ざけるに越したことはなさそうです。

 ぼくは何度目になるか、書棚から『菜根譚』を引っ張り出しては読んできました。もちろん、異国の人、五百年も昔の「達人」の「清言」ですから、耳には心地よく響きますが、さて、生活はどうすると、下世話な心配をするほかないという情けない話です。「真理を守り抜く」という、その真理とはなんであるかが、ぼくにはよくわからない。若いころはドイツ哲学、実存哲学という迷路に、好き好んで迷い込んだりしましたが、そこから何を学んだか、時間の浪費に終わったようです。これでも哲学や宗教の入門書を抱えた時期もあれば、あえて難解な書物に立ち向かうという無駄な道草を食ったりしましたが、そこから得た結論は、まあ、身の丈に合った生き方をしなはれ、ということでした。(根菜類 右上)

 「達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す」といわれて、世俗に沈没している身としては、抜き手をやめるわけにもいかず、「死後の生命」に心を寄せよといわれて、さて生きている今が精いっぱい、それなのに「死後」も「午後」もあるものかと、訝しくもあり、歯がゆくもあるのです。「真理」「物外の物」「身後の身」と面倒そうな語が並んでいますが、「道徳」という目に見えず、手で触れられないものを頼りに、「物外の物」、つまりは世俗を越えた真実に目覚めて、いのちの永遠を思いなさいというのでしょうか。えいっ、面倒な。「果報は寝て待て」、あるいは「棚から牡丹餅」というのはジャンボ宝くじなんだ。当たる確率はゼロに近いんだよ。地道に働き、お天道さんに恥じないように生きな。きっと洪先生の言われるのは、こんな所じゃないですか。(当たらずとも遠からず、かな)

 「死んで花実が咲くものか」といい、「命あっての物種」といい、「命に過ぎたる宝なし」などと言います。志ん生はよく「死ぬ者貧乏」と言っていました。さて、生きると、死ぬと。これがつながっているのか、切断されているのか。「死んだら、お終い」と言いますけれど、何がお終いなのか。生きている道の先に、つづいて死の道が始まると考えれば、「思身後之身」もまた、生命の続きであるともいえるのでしょう。「生」と「死」の間に「料金所」はないんですね。ひとつながり。多分、ここに述べられているのは「処世訓」と言ってもいいのでしょうが、一回読んで、自分の人生の「生き方」の参考にしようという魂胆では、まず何かを得ることはできないと、ぼくには思われます。「ここに人あり」と実感できるところまで読んで深める、それが出来れば、なにがしかが自分の中に入るのではないでしょうか。(根菜の味噌煮 左上)(また、いずれかの日に続くはず)

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「国民の誤解を招く」という無意味

 「舌の根も乾かぬうちに」と言います。「言った尻から」とも。「言葉を言い終わるか終わらないうち。前言に反したことを言ったりしたりしたときに、非難して用いる」(デジタル大辞泉)「二度と嘘はつきません」と言うか言わないうちに「嘘をつく」とはどこかの総理でした。どうやら総理というのは廉直の士では務まらないらしい。「清濁併せ呑む」というより「濁しか呑まない」輩が座る椅子なのでしょう。前総理周辺は逮捕されないらしいけど、犯罪容疑をかけられています。推定無罪というのは、こいつらには当たらない。「嘘も方便」というのが彼の人生哲学(というものがあれば、の話)そのものだった。嘘が生活の糧だった。

 さて、現総理です。なんというべきか、ぼくには言葉がない。総理になるべくしてなった人材か。「いずれ野に咲け蓮華草」といって、立つ場、座る場、咲き誇る場という、わが身に見合った居場所があるのです。表に出てはいけない人、裏が似合う人物、そういう人もきっといるのに、いきなり、裏住まいの格好をして表に出てきた、誰もかれも驚くし、何より本人が驚かなければなるまいに。「嘘つき」「前言翻し」がいとも簡単にできるのが条件の「総理の椅子」、この二代三代で、実に棄損されてしまったチェアーですね。前・現両総理も「言葉に誠実が乗らない」という点では、第一人者でしょう。

 「口から出まかせ」「言葉遊び」にかぎる、その場しのぎの放言だからです。その意味ではじゅうぶんに資格はある。ぼくらの求める器とは無関係です。なんとも珍しいタイプです。君は嘘をついているだろうと指摘され、色を成して怒る。図星だからです。なんども、この嘘がバレバレの瞬間を、ぼくはモニターで観ました。悲しいかな、嘘に塗れた人々よ。証拠があるのか、というけれど、自分は証拠を持たないで断言し、「説明できない」と開き直る。度し難いですね。まるで「暴力団」が国会や官邸を乗っ取ったという驚天動地の事態です。

 前総理が検察の呼び出しを前に、事前学習(弁護士やらを交えて予習、「傾向と対策」を練っている)に余念がないのに、現総理は(エビデンスとやらは皆無なのに)、やたら自信をもって「政権運営」遊びをやらかしている最中、親分に呼ばれたのか、銀座の焼き肉店で「ご会食」に及んだ。go toは一旦停止、会食は自粛などと利いた風な口をきいた、その「舌の根も乾かぬうちに」、赤坂へ銀座へと会食に余念がないのです。理屈も公約も「お手の物」でしたが、どっこい、今回はちょっとしくじったのかな。言い訳をするなんざあ、前総理といい勝負。だから八年近くも「夫婦」気取りだったんだ。言い訳も出まかせ、ですが。

 ぼくは暇潰しに、各地の新聞のコラムを漁りました。立ち読みだったが、まあ、「総理の反省の弁解(自己正当化)」に「文句」や「批判・非難」が殺到していた。約二十紙ほどの中から、ふたつばかりを紹介します。まずはご当地(出身地)、秋田です。「予言者、故郷に入れられず」と言いますが、この人物の場合は「嘘つき、故郷に入れられず」ですね。生憎でした。

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北斗星 目上の人に意見することは難しい。今も昔もそれは変わらないだろう。勇気が要るし、そもそも気が重い。ところが意見するのが専門のお役所が中国にあった。「諫院(かんいん)」といい、千年ほど前のことだ▼「諫(いさ)める」という語を冠したこの官庁は意気盛んな者たちを任用した。大臣を批判するのが仕事だ。批判された側は言論によって正面から向き合った。実際には派閥抗争の手段になったが、大臣の暴走を抑える働きがあったという▼異論を受け入れない政治は時にとんでもない方向に突き進む。だが、しっかりとした批判勢力があって修正できれば良い政治につなげられる。諫院の仕組みを考えた人々にはそんな考えがあったのだろう▼この人の周りに諫言(かんげん)の士はいないのか。政権発足から3カ月が過ぎた菅義偉首相だ。新型コロナウイルス対策で後手後手に回り「Go To トラベル」の全国一時停止を表明、年末年始の慎重な行動を国民に求めた。その同じ日に15人程度の懇談会、8人でのステーキ会食に参加していた▼政府は5人以上の会食の感染リスクを指摘。菅首相は会話時にマスクを着ける「マスク会食」を呼び掛けている。その当人が指針に従わなかった。国民に協力を求めながら、自分はほごにする。そこに見えるのは言行不一致以外の何物でもない▼諫める人の姿が見えない政治はどこに向かうのか。「忠言は耳に逆らえども行いに利あり」という。大きな器にならなければ忠言する者も出てこない。(秋田魁新報・12月19日付)

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 「魁(さきがけ)」さん、ちょっと冷たいね、というのではありません。「異論を受け入れない政治は時にとんでもない方向に突き進む。だが、しっかりとした批判勢力があって修正できれば良い政治につなげられる」ということがわかっていらっしゃるなら、どうして実践されないのか。諫院は、他所にあるのではない。お宅らですよ、と「魁」さんと各地の新聞に「声を小にして」言いたいね。諫めるのは君だし、今なんだと。この愚かなガースーさん、人民を舐めたらあかんぞと言ってしまえよ、とペンの人々に言いたいね。

 「目上の人の過失などを指摘して忠告すること。また、その言葉。『誠意をもって主君に諫言する』)(デジタル大辞泉)つまり「諫言」しなければならないのは、周りの人間、それも年下(とは限らない)です。今も昔も、「要諫言」はバカ殿(志村さんは、もういない)に決まっていました。「殿、お待ち下され」「他人の目があります」「世間が許さない」というのは、元は取り巻きだけど、そんな人間がいるはずがない。群がって「店の出入り」を監視(諫言じゃない)していた記者さん、なぜ諫(いさ)めなかったのか。「だって、自分らも取り巻きなんだもん」。「さきがけ」の舌鋒だか筆法も、同郷の誼(よしみ)で鈍りましたか。

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 水や空 もうお静かに

 聞くたびに首をかしげる「釈明の定番」がいくつかある。例えば、不祥事を起こした当事者や組織のトップが言う「遺憾に思う」。ああ残念だ-とは、どこか人ごとのようで、肝心の「ごめんなさい」をやり過ごす方便のようでもある▲「皆さんに誤解を与えた」という釈明も、首をかしげる定番だろう。誤解とは事実や相手の真意を「誤って解すること」だから、意味を取り違えているのは「皆さん」、つまり私たちということになる▲新型コロナの感染が広がり、政府は5人以上の会食に注意を促しているが、菅義偉首相は8人で会食した。「国民の誤解を招くという意味では真摯(しんし)に反省している」と首相は語ったが、さて、私たち国民は何かを誤解し、取り違えているのだろうか▲あえて「誤解」の意味を察すれば、会食の場の感染対策はばっちりで、批判には当たらないのに君らは取り違えている-と、そういうことかもしれない▲だとしても政府の呼び掛けとは明らかに一致しない。反省の弁を述べた直後、“はしご会食”に向かったらしいが、首相の言う「誤解」の意味もよく分からなければ、「反省」の意味も分からない▲「真摯に反省」とは、その場をやり過ごす方便なのかどうか。国民に「静かな年末年始を」と言うご当人の“お騒がせ”は、もうお開きに。(徹)(長崎新聞・2020/12/19)

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 「水や空」さんにも言いたい。「国民が誤解した」のは店に行ったことではないんです。「私は国民諸君とは違う」「私は選良」「庶民じゃないんだ、俺は」ということを、庶民にもわかるように明言しなかったから、誤解された。会食はいいんだ、何人でも。「庶民は四人」までといったが、言い方が徹底しなかったから「誤解を与えた」と。さらにいえば、「ガースー」はできる政治家だと、国民に誤解を与えていたと。だから「真摯に反省」と言ったんです。「支持率七十%」という、とんでもない高い数字をいただき、それを自分は「誤解して」しまい、国民は強く支持してくれていると思っていた、少々の悪さも許してくれるだろうと誤解していた。そんなこと(「できる政治家」「人柄が信じられる政治家」)はありはしない、それをはっきりと国民に云うべきだったが、言いそびれていた。

 つじつまの合わない行動などと言われるが、「所詮、私はこんな程度」と明確にメッセージを出さなかったのが「国民の誤解を招く因」となったとしたら、それは「申し訳ない、間違いでした」と反省(カンニングペーパーを読みながら)しただけの話。ホントはバカなんですが、利口の振りをして「誤解を招いた」なら、「真摯に反省」というのでしょう。同じことをくりかえします、この手の人たちは。しかし、「誤解を与えたのなら、それを受け取った方がいけないんだ」というのが本音。バカも極まれりです。カンニング紙がなければ、「謝罪の振り」もできない。カンニング人生もまた、一つの流儀。政界では流行るんですね。

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 (中略)動画中継サイトでの「ガースー」あいさつ、高級ステーキ店での大人数での会食には批判の嵐で、首相は“自縄自縛”状態。ご自身の危機管理が、まるでなっていない。周囲にいさめる者がいないのも情けない。/ 大寒波襲来で、さらに冷え込む日本列島。今こそ温もりのある政治が欲しい。(恵)(奈良新聞・「国原譜」・2020.12.18)

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 「国原譜」氏。お気持ちはわかるが「ないものはねだれないし、ねだってはいけない」、当人に重圧がかかる(はずもないけど)か、ようするに「蛙の面に✖✖」ですよ。相手がまともな感覚の持ち主と、相手を過大に評価している(誤解ですよ)が、そもそも「人間観察」ができていません。また、ガースーに言われるよ、「国民の誤解を招くという意味では真摯(しんし)に反省している」って。あれを「まとも」とみなすこと自体が、がそもそもお門違いです。「まともなセンス」の持ち主が政治家になりますか。こういう事例は、国原の歴史には出ていなかったのか。「今こそ温もりのある政治が欲しい」と、なんという恐ろしい暴言を吐くのですか。温もりは暖房機やカイロで得るものです。政治には暖房効果なんかあるものか。人民を塗炭の苦しみに突き落とし、身ぐるみをはぎ取る「山賊もどき」なんですよ。「温もりの政治」なら、タヒチかどこか、まず南方ですよ。

 という次第で、暇がなくなってきました。いくつものコラムを立ち読みしましたが、何かが足りませんね。ハタと思いついた、憎しみ、軽蔑がまったく足りないのです。自分たちを軽蔑している人間にオベンチャラだって、気が狂いましたか。下手な同情をかけるから、奴らは「つけあがる」「足元を見る」ですよ。まず再販制という疑似餌に食らいつかないこと、そんな呪文みたいな「お為ごかし」から解放されなければ。いい記事、いい新聞ならどんなに高い値段でも読み手はいます。その証拠に、ぼくは新聞購読という惰性はとっくに脱しました。ネット新聞でじゅうぶん。(申しわけない、まだ会員ではなく、読み代を払っていません)

 言わねばならぬことがなく、言いたいことを無理にでも探して、字面をそろえ、マス目を埋めているだけじゃないですか、そんな昔ながらの新聞紙上の風情・風儀をぼくは感じるのです。「辞めなさい、ガースー」という主張はどこにも見られない。ネット記事では、管見ですが、たった一つ「救国内閣を」というのがありました、「ヤメケン(辞め検」弁護士」が書かれていました。前歴を猛省しているんですね。ぼくも彼に倣って、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と「自主トレ」に励みます。ゆっくりと、穏やかに。

 靴の上から痒いところを掻こうなんて、効き目はないし、まず横着・ズボラですよ。「総理、裸ですよ」と、なぜ言わないか、それは自分も裸だからです。高望みも、ないものねだりも、ぼくはしない。年寄りの生活にお節介は止めてくれ、それだけですよ、望むのは。新聞会社さん、数多の記者さん、取り巻きなんか止めることですよ。言わねばならぬことをいう。狙い撃ちにされる、それっ、と応援部隊が集まります、かならず。嘘だと思われるなら、やってごらんなさい。

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わが心ささくれ立てよ、時宜を得て

 滴一滴「マスクの着用を客にお願いしたが拒否され、食べていたお菓子を散らかす、机をたたくなどの行為を繰り返された」のはホテル・レジャー施設の従業員。「レジで商品をスキャンする際、ペットボトルのふたの部分を持ったところ『汚い手で触るんじゃねえ!』と怒鳴られた」のはドラッグストアの店員▼新型コロナに関連して従業員が客から理不尽な嫌がらせを受けた「カスタマーハラスメント(カスハラ)」の事例だ。流通やサービス業の従業員が加盟する労働組合UAゼンセンが先日発表したカスハラに関する調査結果には、こんな実態が記されている▼調査は7~9月に組合員約2万6千人に実施。5人に1人がコロナ絡みのカスハラを受けていた。「品切れ時に『どうにかしてマスクを買ってきて並べろ』と八つ当たりされた」などマスクに関する迷惑行為が目立ったという▼コロナに限らず、過去2年間の被害を聞くと、体験者は約6割に上った。精神疾患を発症したり退職に追い込まれたりと深刻な影響も少なくないとされる▼調査によると加害者の7割強は男性で、推定年齢も50代以上が7割だった。以前コンビニで見掛けた、店員を大声で叱りつけていた高齢男性の姿を思い出す▼年末に向け、気ぜわしさが増す時季だ。わが心はささくれ立っていないか。胸に手を当ててみる。(山陽新聞デジタル・2020年12月18日 08時00分 更新)

 ささくれ立つ=物の先端や表面、また、つめの周辺の皮などが細かく裂けたり、めくれたりすること。また、そのもの。さかむけ。(デジタル大辞泉)「ささくれ 立っている」人がやたらに多いのはどうしてでしょう。いろいろなことが考えられるし、時代全体、社会全体が「ささくれ立っている」のですから、その一員である個々人がなにかにつけて「ささくれ立つ」のも道理であるとも言えます。「カスハラ」という語、これも相当前から使われていたし、言葉で表される内容(実態)は、神代の昔からあるにちがいありません。はじめて耳にした時、新しいイモリかなにかだろうと錯覚しました。アカハラも、同じように響いた。

 ハラスメント【harassment】という外国産の言葉が使われだしたのもかなり以前からでした。その言うところは、(弱い者への)嫌がらせ、(弱い者)いじめに当たりますが、これがセクハラ、パワハラ、アカハラ、マタハラ、そして今ではカスハラにまで応用範囲が拡大しています。これをどう見るか。その昔「不機嫌の時代」という本を書かれた方がいましたが、ハラスメント拡大現象は「不機嫌」の蔓延とは異なるようです。迂闊なことを言うつもりはありませんが、「弱者への暴力」がさまざまな場面で演じられているといったらどうでしょう。今や、全国いたるところにある五万店ものコンビニに「カスハラ」が出現するという、まことに壮観な悪景色です。カスハラなる「弱者虐待」、こんなのが流行る時代や社会は碌な代物ではない。

 「弱気を助けて強きをくじく」という「任侠(仁侠)道」が廃れてしまい、みんながまるで緩やかな組織的暴力団の一員のような錯覚を持ってしまった時代だといえばどうでしょう。変なことを言うようですが、「(任侠とは)弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。おとこ気。「―道」」(デジタル大辞泉)と説明されています。その通りで、まあ人間というのも所詮は「やくざ」な生き物で、それ(出鱈目・弱肉強食)を貫き通すと「ささくれ立つ」から「任侠の道」が説かれてきたのではないでしょうか。「無道」は、一面では平等状態を意味するかもしれないが、それが過ぎると「強権(狂犬)社会」に堕ちてしまう。

 基本的には「ささくれ立つ」のは男です。「任侠」は男衆の世界に通用した価値観であり、人生観(世界観)だった。「義理が廃れば、この世は闇だ」と、声涙下る調子で歌ったのは村田英雄さん。尾崎士郎氏の「人生劇場」はいつの時代にもあるのです。「男心は男でなけりゃ」「わかるもんかとあきらめた」と謳う。要するに、男が粋がって(ささくれ立って)いたのに、いつの間にか、その男社会に女も加わって、右に左に「ささくれ立つ」のが当然のように、堅気に、しかも弱い者とみなして「文句」を垂れ、「嫌がらせ」「いじわる」をして、憂さを晴らす時代なのです。それだけ、イライラ、鬱々しなければならないような「ストレス」の抑圧に抗しきれない時節にあるというのでしょう。余裕も遊びもない社会は、ともかく住みづらいのです。(左上は厚労省製看板)

 テレビや新聞、週刊誌などにはこれでもかというほどに、「特権階級」気取り(まがい)が好き放題をしているのに対して「ガス抜き」を偽り「批判や非難」の雨あられを降らしているという風潮です。悪いことじゃありませんが、誰もかれもが「強いものをくじく」振りして、その実は「忖度」し、実際には「弱い者」を徹底的にいじめ倒しているのです。「だれだれの不倫」「何某が薬物」と大騒ぎ、その陰できっと悪がのさばっている。まるでマスコミは目くらましの役割を担っているようです。不倫だ薬中だと言えた義理ですか。それに毒されて、ぼくたちまで「非難嗜好症促進毒薬」を飲まされてしまったんです。そして当たるを幸いに「晴らす晴らす」ではなく「ハラスハラス」に及ぶという仕儀に至っていると、ぼくは見ています。ぼくもいささか「カスハラ」の気(症状)がありますから、病症は手に取るようにわかるんです。

 でもどんなに世の中がひっくり返ったって、「強きをくじき、弱きを助ける」とはならないのが定め。任侠の道は「廃れ」、生まれてきたのは「闇の世」です。政界を見よ、官界を見よ、電通を見てみなさい。「廃れた仁侠道をまっしぐら」です。なぜ、電通を切らないか、批判しないか。めったやたらと切りまくる相手が「弱い者」じゃ、話にならぬという以上に、「強者の味方」にしてくださいと三拝している、卑しい構図が透けて見える。ようするに、世間の「常人」はマスコミの常套姿勢を学んでいるだけなんですね。「弱きをくじき、強きを助ける」、つまりは「弱い者いじめ」一辺倒です。政治・経済・教育・その他、社会の万般において、この現象がきっと見られるのです。じつにいやな、恥ずかしい世の中になりました。

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 カスハラ時代の悪質クレームに潰されないための「3だん話法」とは  援川 聡  

 大きな社会問題となった「カスハラ

 2019年10月24日の毎日新聞一面で、「カスタマーハラスメント」が大きく取り上げられました。/ カスタマーハラスメントとは、顧客(カスタマー)からのクレームが、「お客様の声」として対応できるレベルを超えてハラスメントの領域に達し、従業員が心身ともに追い込まれてしまうことを意味します。 / 同記事によれば、カスハラ被害を受けて精神障害を患った人は、厚生労働省が労災認定した分だけでも、過去10年間で78人にのぼり、そのうち24人もの人が自殺していたことが判明しました。/ 度重なるクレーマーからの不当な言い分を聞きながら、日々の業務を遂行しなければならないという「がんじがらめで逃げ場のない」状況が、自死という悲劇を引き起こしてしまったのです。

 現在、カスハラが大きな社会問題となっているのは、多くの被害者が存在するからです。また、「いつ、自分に降りかかってくるかわからない」という潜在的な不安も増大しています。/ 一見、善良な市民である「隣人」が凶悪な事件を起こすという現実を前にして、「体感治安」は日々悪化していますが、クレーム対応でも同じような不安感が蔓延しているのです。

 カスハラが人手不足を加速させる

 本来、お客様からのクレームの多くは、サービスの向上に役立つ「ご意見・ご指導・ご要望」であるはずですが、いまや過剰なホスピタリティに慣れすぎた消費者が、「行き届いたサービス」を求めてモンスター化しています。/ サービスを提供する側が、顧客満足(CS=Customer Satisfaction)を追求すればするほど――便利な世の中になればなるほど――お客様の「満足」のハードルは高くなり、些細なことで怒りを爆発させる「モンスタークレーマー」が増加しているのです。/ たとえば、少し待たされることも許容できないほど、「我慢できない人」が増えています。また、ネットやSNSの急速な普及によって、瞬時に情報が拡散する社会になっています。(https://diamond.jp/articles/-/225259?page=2)(2020/01/08)

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 「過剰なホスピタリティに慣れすぎた消費者が、『行き届いたサービス』を求めてモンスター化しています」というのは、その通りでしょう。「行き届きすぎたサービス」はむしろ害悪だと、ぼくには映ります。毎日のように買い物に出かけますが。レジで「レジ袋はいかがですか」「ポイントカードはどうですか」「会員カードはありますか」その他、毎回毎回、同じことを聞かされる。ぼくはいつでも無返答です。必要ならばこちらから要求するから。これが「不機嫌」とか「不愛想」とされるのでしょうが、それで結構。機嫌よくすれば「値段が下がる」わけじゃないだろうに。過剰サービスは「無サービス」に等しい、ぼくには。「ガキ扱い」を親切、やさしさとか思いやりと勘ちがいしている。現場に出る、その前の基礎教育がなっていないな。

 今はまず入りませんが、うんと昔(四十年ほども前)、ファミレスに家族で入った際、お姉さんやおばさんが「四人さまですね」ときっと聞く。「君はバカか、六人に見えるかよ」と思いもし、直に言いもしました。「ご注文をご確認させていただきます」と言いかけると、それはいい、一人で向こうで「確認してくれ」と言う。ここは保育園じゃないでしょう。過剰は「過小」なんだ。マニュアルに人間のサービス精神を閉じ込めるのが「グローバルスタンダード」なら、ぼくはローカル精神を発揮しますね。意固地だと自分でも思わないわけではないけど、仕方がありません。

 顧客を、こんなふうに「馬鹿扱い」するのも、カスハラの、もう一方の理由か。と言って、カスハラを煽るのではありません。顧客を、石ころか丸太ん棒の如くにみなし、「お客様は神さま」みたいな振り、見せかけの「カスタマ―ファースト」が、ついに人心に毒を盛りつけているのです。「客なんてさ、バカ殿よ」

 「便利な世の中になればなるほど――お客様の「満足」のハードルは高くなり」というが、それは商売する側からの理屈(不満や不平)であって、客から見れば「自業自得」さ。「過剰サービス」を頼んだ覚えは、ぼくにはありません。ぼくはコンビニにはよほどでないと入らない。「慇懃無礼」そのものの「上辺のサービス」に辟易し、虫唾が走るからです。バイトやパートで人を使うという(人件費を削りに削る)根性が、カスハラに無関係だとは思えません。

 (たった今バイトに応募した人間が、二分後に現場に出ている、これが仕事かと言いたくなるね。それなりの、マニュアルによらない、客との向き合い方、心構えも、ゴミ箱に捨てられているのです)それがいけないとか、改善してよ、と「苦情」を言うのではないのです。言えば、「こいつ、カスハラや」と指さされますね、きっと。とにかく見せかけの「サービス」や、上辺の「顧客第一」にはほとほと腹も立つのです。個々の現場従業員に対してではなく、こんなニセ商売で「金を儲けよう」とする経営者の魂胆にたいして、無性に怒りが込みあげるのです。(だから、ぼくは入らないし利用しない、そんな店だらけです)

 世はおしなべて、「慇懃無礼」真っ盛りの時代です。それで「金を儲けて」どうするのですか。これは「経済戦争」であり、「同業他社撲滅戦争」でしょう。だから、一番被害を被るのは「二等兵」ならぬ「現場要員」です。例えは悪いので気が引けますが、「C級戦犯」を虐めたり苦しめてどうする、「A級B級戦犯」がのうのうと暮らしているじゃないか。カスタマーって何だ。「カスハラ」は、従業員に向かうばかりではありません。客に対して堂々と「カスハラ」する大企業を始め、金の亡者が資本家だってさ、とあほらしくなる。大企業こそ「カスハラ」の真犯人であり、それに集(たか)っている政官財の「三クズトリオ」が「弱きをくじき、強きを助けている」、「この世は闇だ」(佐藤惣之助)というほかない。(銀行や百貨店をはじめ、あらゆる客商売の業界では隠語があって、客を「ゴミ」「カス」呼ばわりしている。これぞ「カスハラ」だね、外に向かって何かを言う前に、まず隗より始めな)慇懃無礼-慇懃=無礼、時代はこっち(ただの無礼)の方に加速度的に邁進しています。

●慇懃無礼=[名・形動]表面は丁寧で礼儀正しいように見えるが、実は尊大で無礼なこと。また、そのさま。慇懃尾籠 (いんぎんびろう) 。「慇懃無礼な態度」(デジタル大辞泉)

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 当節、「ささくれ立つ」のは当たり前です。「ささくれ立たない」のは、よほど隠れて甘い汁を吸っている輩にちがいない。でも、「ささくれ」が「弱者」にばかり向かうのは「ささくれ」とは言わず、弱い者いじめです。それは情けない限りで、しない方がいいよ。(これと勘ちがいして、過ちや無礼を指摘するのを「カスハラ」と受け取る向きがおおいにあるのも、情けないですね。「お客様苦情係(部門)」はどこの会社にもあるでしょう。「苦情」という語を使って恥じないところは、何かを象徴しています。ぼくはだれかれなしに「おかしいこと」「納得できないこと」「明白なまちがい」には、黙っていない。きっと「おかしいね」と「苦情」だか「指摘」だかを口にする。相手を思えばこそです。それを「カスハラだ」といってみなさいよ、「何をヌカス」と「腹中」に怒りがわいてくるのが、表情にも現れますね。この習性は、若い時からです。

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