校則は拘束だし、梗塞を発症させる

「校則なし」で区立中はどう変わったか

 「校則なし」を実現した公立中学校がある。東京都世田谷区の区立桜丘中だ。服装や髪形は自由で、遅刻しても、教諭に大声で怒鳴られることはない。定期テストやチャイムもない。全国各地の学校ではいまだ、下着の色指定やツーブロック禁止など理不尽な校則がまかり通る中、桜丘中はどのように校則をなくしていったのか。前校長の西郷孝彦さん(66)に聞いた。(註 さいごう・たかひこ 1954年生まれ。今年3月まで東京都世田谷区立桜丘中校長。著書に「校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール」)

(3回にわたって考える3回目です。(共同通信=小川美沙)(2020/12/25©株式会社全国新聞ネット)

―校則をなくしたきっかけは。

 赴任した2010年当時、桜丘中は荒れていた。服装や髪形に関する決まりがあり、教諭が声を荒らげて生徒を指導することもあったが、子どもたちを上から押さえつけたってうまくはいかないと感じていた。/ 学校にはさまざまな子どもがいる。「普通の子」なんて存在しない。こだわりが強い、朝起きられない、制服が着られない、学習障害や発達障害がある…。こうした個性や特性を考えずに、「靴下は白」「中学生らしい髪形」など合理的な理由がない校則を当てはめると、それがストレスになり、不登校になる。

 生徒全員に「学校は楽しい」と感じてもらえるにはどうすべきかを考えると、合理的な理由のある校則は一つもなかった。それに、校則で「みんな同じ」を押しつけると、枠からこぼれ落ちた子がいじめの対象になる。/ ある男子生徒は、学習障害があるためにタブレットの持ち込みを必要としていたが、別の中学では「一人だけ特例は認められない」と断られたそうだ。桜丘中で受け入れ、これを機に「全員持ち込みOK」にした。その生徒だけでなく、誰にとっても過ごしやすい環境を目指したからだ。

 ―学校は集団生活を送る場で、ルールは必要だとされているが。

 校則ありき、ではない。生徒が自ら考え、判断する力を伸ばすにはどうするか、だ。どんな髪形や服装をするかは自分で決める。帽子をかぶって来る子もいれば、メイクをする子もいた。チャイムがないから、自ら時間を管理する。授業中に居眠りしても、注意することはない。短時間の居眠りで頭はスッキリする。教諭は授業に集中してもらえるよう工夫するようになり、居眠りも減った。(以下略)(https://this.kiji.is/712148066179301376)

 わあ、懐かしい、そんな気分が戻ってきました。今時、こんなことが騒がれているんだ、という軽い侮蔑と嘲笑が混じった、すっきりしない感慨です、そんな感情を学校と教師に対して持ってしまう。学校という場所は、手に負えないところじゃないか。小学校入学以来、何年間も学校につながれていましたが、「校則」に悩まされたことはありませんでした。もちろん、学校に「校則」がなかったわけではない。「校則(拘束)」を気にしないで学校に行っていたということです。はなから「校則」を無視していたというのでもない。あるいは「緩やかな校則」だったからでもなさそうです。どんな規則があったか、いまではすっかり忘れてしまいました。「校則は我がうちにあり」という顔をして、ぼくは「非難」をやり過ごしていたはずです。

 いつでも、その時その場に応じて、「校則はだれのため?」と考えるのは大切ですし、「校則をなくそう」とみんなで議論するのもいいことでしょう。どんなに小さな集団でも、集団を維持するために規則を作ります。作らなくとも、(自然発生的に)内部から生まれてきます。学校で問題になる規則や校則の大半は、生徒たちが作るのではなく、(教師たちが作った)既成のルールがあって、それを例外なしに適応しようという強圧的な教師たちの態度が問題にされているのでしょう。つまり、子どもたちは「学校集団」の「客(カスタマー)」に過ぎないという偏見です。「カスハラ」が起こるのは当然だね。

 「校則」に関して、ぼくは長い間、学校を卒業してからも、関心を持たされてきました。いろいろと意見を求められたり、問題の現場に立ったこともあります。いつでも、しかし、ぼくの姿勢は明解単純なものでした。「自分で作る」というところから出発して、時間がかかるけれども、「私たちの規則(校則)」というところまで歩いて行くということにつきました。だから「校則」問題は、一人一人の生徒にとっては初めての問題でもありますし、学校においては「年中行事」だともいえるでしょう。西郷さんも述べられていましたが、子どもたちが「独り立ち」(自立・自律)できるための規則であり、そのための学校教育だという根っこを忘れるようじゃ、学校なんていらないさ。

 いつでもどこでも「議論」する場があり、その議論の対象が「校則」であるときもある、「授業」の問題を(生徒と教師が)議論することもある。それから、…。その程度の話ではないですか。「下着は白」「髪は黒」と決まっているから、寸分たがわず、例外なく「拘束」するという、そのどうしようもない「手の付けられない愚かさ」を教師や学校管理者が自分の中から除外しなければ、学校なんていらないよ。ぼくは「守るべき校則」は自分で決めていました、小学校のときから。「あいつはどうしようもない奴」という評価(非難)が教師たちにあったから、放っておかれたのは幸いでした。

  これまでに、どれだけの「西郷校長」がいたるところに存在したことでしょう。素晴らしい(仕事)をされたと敬意を表します。でも、かならずいつでも、「(反西郷の)大久保校長」が後任でやってきて、「正常化」をしようとするんでしょう。これは民主主義の闘いであり、一進一退のせめぎあいです。でも一歩前進一歩後退でも、前進する歩幅が少し広ければ、かならず前に進んでいくのです、たとえ五ミリでも。そのように「遅々とした歩み」が歴史なのかもしれない、人にももの(学校・制度・人権などなど)にも歴史がある。そんな思いをさらに強くしているのです。(何年になりますか、「校門圧死事件」という惨い事件が起こりました。神戸だったと記憶しています。これが教師の仕事か、と今でも憤りが収まりません)

 「法三章」という古い思想があります。「《「史記」高祖本紀から》高祖を滅ぼした後、秦の始皇帝の定めた厳しい法律を廃し、殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律。転じて、法律を簡略でゆるやかなものとし、法治万能主義を排すること。」(デジタル大辞泉)大方はこのように理解されてきました。学校の規則である「拘束」も、それで十分だと思います。「暴力・窃盗・虚言」なんか、どうですか。まるで、国会議員や大臣に適応したい「法三章」ですね。

(でも、そんなんじゃダメ、「がんじがらめの法数百条」でなければ、何をするかわかったもんじゃないよと言う声も聞こえてきます。反対はしません。この島の議会は「強盗が法律を作る」ようなもんですね。「笊(ざる)法」です。ざるで水(悪行為)は掬えない。せめて「ゴミ」くらい掬いたいですよ)

 (校門、それを見るだけで、ぼくは嫌な気分に襲われ、引き返したくなります。「校門」は「校則」のシンボルです。それを乗り越えることが入学初日に抱いたぼくの祈願だった。成長したいという人には、それは「邪魔門」であり「邪宗門」ですし、自分で何かができる人には「無門」「要らぬ門」「余計門」だ。偉そうな教師たちは「馬鹿門」ですね。「校門」とは、学校の顔であり、その「冷鉄」な表情はなんと「刑務所」「拘置所」「病院」などに酷似していることか、ぼくはたくさんの「冷鉄の顔」写真を所有しています。明確な理由があるんですよ、酷似している点には。それはいずれの機会に)(右上は山田無門さん) 

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及ばざる時は速やかに止むを、…

 貧しき者は、財(たから)を以て礼とし、老いたる者は、力を以て礼とす。己(おの)が分を知りて、及ばざる時は速やかに止むを、智と言ふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして、強ひて励むは、己れが誤りなり。
 貧しくて、分を知らざれば盗み、力衰へて、分を知らざれば、病を受く。(『徒然草』第百三十一段)

 中国古典の『礼記(らいき)』を典拠とする段です。

 兼好の言おうとするところは明白です。貧乏な人はカネに苦しんでいるから、それをお礼にする。老人は力を大事だと考えているから、それをお礼に出す。自分の分(能力)をわきまえて、とてもできないと判断したら、直ちにやめる、それが知恵というものです。(そういう判断を)認めない者は、その人がまちがっているのです。分際をわきまえないで懸命に無理をすると、自分がまちがえてしまう。

 貧しくて、分を忘れれば人のものを盗む(そうしてまでお礼をしたくなる)、自分の力が衰えているのに、それを忘れて無理をすれば、病気になる。(ヘッダー写真は「世田谷自然食品」:https://www.shizensyokuhin.jp/archives/articles/485

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● 吉田兼好= 1283ごろ-? 鎌倉-南北朝時代の歌人,随筆家。弘安(こうあん)6年ごろの生まれ。生家は京都吉田神社の神職。卜部兼顕(うらべ-かねあき)の子。慈遍の弟。卜堀川家,のち後二条天皇につかえて左兵衛佐(さひようえのすけ)となる。30歳ごろ出家遁世(とんせい)し,二条為世(ためよ)に師事。為世門四天王のひとりにあげられ,「続(しよく)千載和歌集」以下の勅撰集に18首はいる。50歳前後に随筆「徒然草(つれづれぐさ)」をまとめたといわれる。文和(ぶんな)元=正平(しようへい)7年(1352)以後に死去。家集に「兼好法師集」。【格言など】手枕(たまくら)の野辺の草葉の霜枯に身はならはしの風の寒けさ(「新続古今和歌集」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 詳しくは分かりませんが、高師直(こうのもろなお)(『仮名手本忠臣蔵」で知られる、足利尊氏側の武将)に仕えていたともいわれる兼好さんです。早くに出家したのはいいが、なかなか世間から抜け出せなかった気配が濃厚です。まだまだ邪念や世俗の塵が払いきれていない時期の『徒然草』ではないでしょうか。ぼくが通った高校は「双ヶ丘」という兼好さんの「草庵」の北側にありましたから、彼の名前も本についても知っていた。しかし、灯台下暗しというのか、まったく真面目に読みはしなかったのです。著書を手にしたのは大学に入ってからでした。以来、何度読みましたか。年々歳々、兼好さんの「物言い」がついて回るような気がしてきました。さらに言えば、ぼくが住んでいる山中で、いつかひょっこり兼好さんと出会うという気もしなくもない。まるで時代相はそっくりというより、何時の時代でも世間というものは大差がないのだというのでしょう。

 この「段」は「分をわきまえなさい」という教えなのかもしれません。己を知れ、とも。自分のことは自分が一番知っていると思い込む。でも結局は何も知らないままで、いやでも世間に煽られているということになります。時の勢いに「掉さす」ということでしょう。ぼくたちが生きている時代(もちろん、いつだって)には、あちこちに無数の、差された棹が一望できます。世に生きるとは、「棹屋」になることだろうと、早合点しそうな勢いです。まず小学校から「棹を差す」ことを覚える・強いられる。学校段階はとにかく、棹です。長いか短いか、棹をいたるところで差す。それが世間で生きること、つまり他者との競争に勝つ、いい人生の始まりです。世間という本流(濁流かも)に棹を差して、風に乗る。

 延々、棹を差す。どこに差すか。もちろん、時代の流れに、世の価値観や高い評判の方面に向かって、です。「流れに掉さす」とは、「調子を合わせて、うまく立ち回る。「時流に―・す」(デジタル大辞泉)そうこうしているうちに、無理をしてしまうのですが、それに気が付かない。やがて無理に無理を重ねて病になる。この「段」で、ぼくが興味を惹かれたのは、「己(おの)が分を知りて、及ばざる時は速やかに止むを、智と言ふべし。許さざらんは、人の誤りなり。」というくだりです。

 ぼくはどういうわけだか、「分際」という言葉が好きでした。あるいは「風情」という語も。「分際」には多様な含みがあるのです。一例ですが、デジタル大辞泉から。

● ぶん‐ざい【分際】 の解説《古くは「ぶんさい」とも》 身分・地位の程度。身のほど。分限。大した身分でもないのに、という軽蔑 (けいべつ) の気持ちを込めて用いることが多い。「学生の分際でぜいたくだ」 それぞれに応じた程度。ほど。「我が―を知りて、その果報の程にふるまはば」〈沙石集・一〇本〉 分量。数量。「ここにて敵の―を問ふに」〈太平記・三六〉(デジタル大辞泉)

 兼好さんが言いたいのは(2)でしょう。「ほど」「程度」、いい言葉じゃないですか。ほどを知る、身のほどを知るなどと言います。「風情」はどうか。同じくデジタル大大辞泉から。

● ふ‐ぜい【風情】 の解説①[名] 風流・風雅の趣・味わい。情緒。「風情のある庭」 けはい。ようす。ありさま。「どことなく哀れな風情」 能楽で、所作。しぐさ。 身だしなみ。「人の―とて朝毎に髪結はするも」〈浮・一代男・三〉(同上)

 ここも、やはり(2)でしょうね。「あの人、ようすがいいよ」という具合に言いたいですね。イケメンなんという四角張った表現では太刀打ちできません。「けはい」も、いいですね。自分の分を知る、それは「身のほど」と「身分」を直接に指して言ったことが始まりでしょう。でも徐々に、その人の「人柄」(様子)など、ある種の内面性にまで広げられて使われてきました。まあ、それはともかく、自分の「分をわきまえる」という生活態度を強調しているのは、兼好さんにも思い当る節があったからでしょう。

 とまあ、ああでもないこうでもないといっているんですが、兼好さんが六百年以上も前の人間であることも、その棲み処たる社会も、ぼくたちの生きている時代社会と寸分違わないと、ぼくは気付くんです。人の住む世は変わらない、喜びも悲しみも違わないとするなら、この様な賢人の顰に倣うのに、損はないんじゃないですか。

 (右の「本屋風情」、書名も文章も、もちろん著者も、ぼくには秀逸と思われました。岡さんと柳田國男さんとの「分際」「風情」に繋がる「緊張関係」に、ぼくは啓蒙されました。岡茂雄さんは、ぼくには忘れられない人になった。柳田派からでて、柳田はに溶け込まなかった人。教育には両面があって、一つは教師と生徒の同化・一体化、他方は、反作用よ言うか、同化しきれない部分を残そた関係です。作用とと反作用の両面が無いと、「教育」はうまく機能しない。その根っこにあるのは「人間関係」)

 虚空、良く、物を容る。我らが心に、念々の、恣(ほしきまま)に、来たり浮かぶも、心といふ物の、無きにや有らん。心に主、有らましかば、胸の中(うち)に、若干(そこばく)の事は、入り来たらざらまし。(第二百三十五段)(つづく)

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答弁の中には事実に反するものが…

【水や空】 118回 村上春樹さんは「壁と卵」と題したスピーチの冒頭で「小説家」について〈上手な嘘(うそ)をつくことを職業とするもの〉と語っている。もちろん彼の言う「嘘」は、人間や社会の真実を描くために〈本当のように見える虚構を創り出すこと〉▲〈しかしそのためにはまず真実のありかを、自分の中に明確にしておかなくてはなりません〉-それがうまい嘘をつくための大事な資格だ…とスピーチは続く▲さて、こちらは、村上さんがこしらえる極上の嘘とは似ても似つかぬ子どもじみたウソだが「真実のありか」ぐらいは分かっていたはずだ。自身の後援会が開いた「桜を見る会」前日の夕食会の費用補填(ほてん)問題で検察の事情聴取を受けた安倍晋三前首相▲費用は参加者の自己負担、ホテルの明細書はない、事務所は関与していない…事実と異なる可能性のある国会での答弁は少なくとも118回に上るとされる▲数字が「い・い・や」と読める。関与してないことにすればいいや、きちんとホテルに照会したことにすればいいや、虚偽だと言うなら証拠を示せと言い張ればいいや▲検察には「知らなかった」と話したらしい。近く予定される国会招致では、ウソの報告を鵜呑(うの)みにした結果、ウソを述べてしまった-とでも説明するのだろうか。数字が増えなければいいが。(智)長崎新聞社・2020/12/24 )

【正平調】 長く生きていると、ありとあらゆるうそを見聞きしたと、作家佐藤愛子さんが随筆に書く。話をおもしろくする。同情を買う。自分を偉く見せる。損得勘定で。追い込まれて、つい◆お金に困り、「シンダ」と電報を打ってきた身内がいた。行ってみると、横たわる布団から手が伸びる。持ってきただろう金をもらう手だった。佐藤さんはこう思った。「堂々の嘘(うそ)であるがゆえに私は許したい」◆この118回を佐藤さんは許しますか。安倍前首相の「桜を見る会」問題である。事実と異なる虚偽答弁と指摘されるものがこんなにもあった。秘書から受けた説明と釈明しているようだが、それで済まない◆夕食会の費用を補填(ほてん)したとして、東京地検特捜部は秘書を略式起訴するようだ。異例の聴取を受けた安倍前首相は不起訴の公算大という。いや、安倍さん、安心するのは早い。世間という名のお白州が待っている◆秘書が…後援会が…事務所が…で幕引きにはならない。秘書の説明に「?」はなかったのか、問い詰めようとしなかったのか。みんなが見つめる場で疑問に答えてもらいたい。当然、記者会見も。それが長期政権を誇った方の身の処し方、責務である◆佐藤さんのうそあれこれに加えよう。おごりが生むものもある、と。(神戸新聞NEXT・2020/12/24)

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●うそ【×嘘】 の解説 1 事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽 (いつわ) り。「嘘をつく」「この話に嘘はない 2 正しくないこと。誤り。「嘘の字を書く」 3 適切でないこと。望ましくないこと。「ここで引き下がっては嘘だ」

 [用法]うそ・[用法]いつわり―「嘘偽りは申しません」のように同義重複で用いたり、「嘘(偽り)を言う」のようにほとんど同義で用いられる。◇「嘘も方便」「嘘から出た実 (まこと) 」「そう来なくては嘘だ」「嘘のように晴れ上がる」のような慣用句や慣用表現の「嘘」は「偽り」に置き換えることはできない。◇「偽り」は「嘘」よりも意識的、作為的で、改まった言い方。「偽り」はまた、「彼の言動には偽りが多い」「偽りの愛」のように言葉以外に行動や態度で欺く場合にも用いられる。◇類似の語に「虚偽」がある。「偽り」と同義で、「虚偽の申告をする」のように、多く文書などに用いられる。

●うそつき‐いわい〔‐いはひ〕【×嘘▽吐き祝(い)】 の解説 本州中国地方で12月8日に行う商人の行事。1年間ついた嘘が帳消しになる日だとして、豆腐汁やこんにゃく田楽を作って祝う。うそつきばらい。

●うそつきおとこ〔うそつきをとこ〕【嘘つき男】 の解説 《原題、(フランス)Le Menteur》コルネイユの喜劇。1634年初演、1644年刊行。スペイン風の軽妙な喜劇。

●エピメニデス‐の‐パラドックス の解説 古代ギリシャ七賢人の一人、エピメニデスにまつわる論理的逆説。クレタ島出身のエピメニデスが「クレタ人はみな嘘つきだ」と述べたという命題の真偽を問う際、クレタ人であるエピメニデスが真実を述べているとすると、クレタ人はみな嘘つきになり、嘘を述べていたとすると、クレタ人はみな正直になり、発話の主体であるエピメニデスが正直ものか嘘つきかであることと矛盾する、という説。自己言及のパラドックスまたは嘘つきのパラドックスとして広く知られる。クレタ人のパラドックス。(以上はデジタル大辞泉)

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 学校時代、何時も教師に「辞書で意味を調べろ」と言われていました。「意味って何だ」と、そのつど不思議に思っていました。意のあるところ、意味、いろいろな含みがある言葉ですが、その実、ほとんどみんな素通りしていたように思います。辞典や辞書は「ことば」がたくさん載っていて、それについて何かと「解説」しているにすぎない、なぜなら、辞書ごとに「説明」がちがっていたからです。1mは100cm、これは万国共通で、この規則を守らない人は「ゲーム(学問や常識)」に参加できない。1時間は60分も同様です。でも、言葉はどうでしょう。英語でもフランス語でもドイツ語でも日本語でも、翻訳すれば同じ「意味」を示していることがわかるといえるでしょうか。

 面倒なことになりそうですから、ここでは述べませんが、言葉は記号ではないということだけははっきりしています。赤信号は記号(印)です。でも、「赤」にはさまざまな含みがあるでしょう。グラデーションと言ってもいいし、ニュアンスと言い換えてもいい。と言っておいて、「嘘」について考えようとしています。上に辞書の「解説(説明)」を出しておきました。毎回のように「デジタル大辞泉」を使っていますが、これは他よりも優れているからというのではない、単に使いやすいというだけで、ぼくは愛想(用心して使うこと)しています。本当は「明解」さんが好きなんですが。

 若い時から「愛用」していたのは「エピメニデスのパラドックス」です。大体は「解説」どおりです。「嘘つきの矛盾」「嘘はきっとバレる」ということでしょう。「私は嘘をついたことがない」という分には実害がないようなものですが、「私」が名うての「嘘つき」だったらどうでしょう。さらには「私は嘘をついている」という意識や自覚がない、生来(根っから)の「嘘つき」であったらどうか。自分は嘘をついているという自覚がないのですから、「私は嘘をついたことがない」というのは真になるのです、か。自分で知らないままでつく「嘘」も、真でなければ、かならず「嘘だと判明」します。その結果、「ああ、これが嘘というものか」ということになります。しかし、それで「気が付かなかった」「勉強しました」と一件落着となりません。

 「嘘つきの天才」のレベルは、この段階じゃないでしょうか。手に負えないのです。「事情聴取」においても、当然嘘をつきます。そうでないと辻褄が合わない。記者会見でも「嘘八百」です。首尾一貫しているのです。途中で宗旨を変えるわけにはいかないからです。「事実と異なる」「事実に反する」という言葉遣いは「ご指南番(元地検)」がいたから使えるんですね。「嘘」とは断じて言わないところが味噌です、腐った。

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 《 ホテルとの交渉や支払いは東京の事務所が行っており、「(退職した)前任者が記載すべきものを記載せず、後任の東京の責任者もそのまま放置した。東京の事務所と地元の事務所の連絡、連携が不十分だった」と釈明した。また「そもそも夕食会の運営は、総理大臣ですから、職務に専念しているのでかかわっていなかった」と説明。「私が事実を確認した際、事実確認の仕方として私自身がホテルに当たることは考えられず、当然信頼している責任者に確認をとった。その際、真実について私に話してもらえれば、こうした事態にはならなかった」と秘書の責任を繰り返し強調した。補塡分は、安倍氏の預金から事務所に預けていた安倍氏の「手持ち資金」が原資だと明らかにした。国会で事実と異なる答弁を繰り返したことについて、「事務所に幾度も確認し、当時の私の知る限りの認識の限りの答弁をさせていただいたつもりだ」と釈明。「結果として、これらの答弁の中には事実に反するものがございました。それがゆえに、国民の皆さんの政治への信頼を損なうこととなってしまった」と説明した。

 「私の政治責任は極めて思いと自覚しており、真摯に受け止めている」と述べたものの、議員辞職と自民党離党の可能性については「初心に立ち返り、全力を尽くすことで職責を果たす」と述べ、否定した。》(東京新聞・2020/12/25)

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 彼は天性(生来)の「嘘つき」だとは思いますが、彼一人では嘘つきは成就しない。協力者というか仲間というか、そう「サクラ」=偽客が必ずいたのです。「おとり」ともいいいます。なんで「サクラ」かは言わない。いろいろと面白い由来があります。さてこの問題では、だれだれが「サクラ」だったか。ヤッコにかかわる人すべてと言いたいのですが、それじゃサクラが多すぎます。この記者会見も「振付師」がいたし、サクラもおとりもいた。会見の中の記者はほとんどがサクラだったといえます。ここが、ぼくが悲しくなるところです。いい加減に散れよ。この天才一人の問題で終わらせたいけど、そうじゃないのが情けないんですね。検察ともつるんでいるし、弁護士もなかなかの猛者ぞろいです。たぶん、このサクラや取り巻きを見て、東京地検は怖気づいたのかもしれない。しばし待て、ここまでくれば、仕留めたも同然と、一息入れているでしょう。「容疑者として、事情聴取した」とまで漏れていますよ。

 嘘をついたら、それは必ずバレる。嘘が嘘のままなら、世の中はなり立たない。もう一つ、この天才の嘘は、常人、つまりは庶民の嘘とは同日の談ではない。「宿題やったの、シンちゃん」「とっくにやったよ」とシン君、というレベルでは終わらない。傷つき苦しむ人も出る、死人まで出る、大枚の金(税金)が絡む等々、それを抜きにして終わりはない、終わらせてはいけない。ぼくも深く傷ついている、一人の国民です。

*** 参考までに 「人は誰でも小さな「嘘」の一つや二つはついた経験があるとおもいますが、「劣等感」や「自信喪失」に陥ったことが一度もない、という人もいないとおもいます。でも普通の人は、劣等感や自信喪失を「嘘」で克服するということはありません。/ ところが「虚言癖」のある人は、根本的には「劣等感」の強い人が陥りやすいといわれます。「虚言癖」の人は「嘘」に対して罪悪感が希薄ですから、一度「嘘」で劣等感が緩和される事があると、嘘をつくことが「癖」になるとおもわれます。」(https://driver-times.com/driver_work/driver_biz/1062655)

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「国民の期待に応えて」早く消えてくれ

 前夜祭補塡の原資「手持ち資金から」 安倍前首相、議員辞職を否定

 安倍晋三前首相(66)の後援会が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡る政治資金規正法違反事件で、不起訴処分となった安倍氏は24日、衆院議員会館で記者会見した。前夜祭の費用を安倍氏側が補塡(ほてん)していた原資について、「私のいわば貯金から下ろしたもの、手持ち資金の中から支出した」と説明した。

 また自らの責任について、「政治責任は極めて重い」との認識を示した。一方で、議員辞職については「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」と述べ、否定した。(毎日新聞・12/24(木) 18:35配信)

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 「嘘つき」が会見を開いて「謝罪」だとさ。ここでもまた、真っ赤な嘘で塗りたくったというほかない。もう触れたくないけど、この嘘つきを長期間のさばらせてたいた「政治的・道義的責任」を、ぼく自身がいだくし、それを否定しきれない、まったくのぼく個人の問題でもあることを、なんとか、はっきりと始末したいのです。「秘書が」というのは嘘つきの通り相場です。ちょっと、この嘘つきめ、天才だな。ぼくが言いたかったのは、(補塡していた原資について)「私のいわば貯金から下ろしたもの、手持ち資金の中から支出した」という方弁。「あんた、知ってたんじゃないか」、それとも「通帳」まで秘書が管理していたのか。あるい「これだけの金を何に使う」と聞かなかったのか。口を開けば、嘘しか話せない。

 もうどうでもいいのですが、この嘘つきを捕まえる仕事を放棄している役所があるし、これを食い物、使い放題に利用し「自己増進・自己達成」を図った議員連中も含めて、国会は一旦、きれいさっぱりご破算ですか。(アメリカの大統領選挙の愚図」を笑った人は、どうします)

 「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」(註 こんなところは「天才」の本領発揮部分です)

 「反省の上に」、どのようにして立てるんだか。座れもしまい。「針の筵」を想定しているのです、ぼくは。「一点の曇りもない」「国民の期待」「職責を果たして」と、嘘の行列・羅列・整列です。一瞬でも早く、ぼくの視界からだけでも消えてほしい。責任なんて、君にはその正義の感覚がないのだから、もういうな。早く、後生だから消えてほしい。彼は希代の「嘘つき(の天才)」だし、「奇才・鬼才・機才」というほかない。もたもた「長生きする」と恥ばかり多しと、ぼくは痛感しています。こんな恥辱を味わう羽目になるんですから。見なくてもいいものを見せられる、これもまた、ぼくの「不覚」の一幕です。

 ぼくは「消しがたい恥辱」を、ずっと味わってきました。日本の「恥部(最高権力)」を、「総理」と名乗って世界に晒した、奇跡であり、軌跡です。民主主義(が歩く道)は、こんな「恥部」にまで至るんですね。デモクラシーは、鬼滅の刃か諸刃の刃か。いつでも、「でも暗し」となる危険性を内在させているし、鬼っ子を孕んでいるのです。でも問題は、「鬼っ子」は一人では生まれないし、育たないという生物物理学の法則です。そこがぼくたちの、逃げてはいけない問題(責任)ですね。とにかく、「落とし前」はつけなければ、それこそぼくは、「国民」を辞めるしかなくなります。

 「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」、そんな難しいことを望まない。一人の「国民の皆さん」の已むに已まれぬ願いです、ぼく(一人の「国民」)の視界から、早く消えてほしい。それが職責じゃないか。どこに消えるか、その道の専門家が決めてくれるよ。(*東京高検の黒川弘務元検事長の不起訴(起訴猶予)処分に対し、検察審査会が「起訴相当」と議決。「嘘会見」と同じ日の報道。なんか暗示的、いや実に明示的ですね)

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春樹は「カナリアの歌」を唱っているのか

 村上春樹氏「日本の首相、批判に批判投げ返す」 仏紙に

 作家の村上春樹さんが仏紙リベラシオンのインタビューに応じ、21日の紙面で新型コロナウイルスの感染拡大について「グローバル化やポピュリズムと切り離せないできごとだった」などと振り返った。同紙東京特派員の質問に日本語で応じ、紙面に仏語訳が掲載された。/ 同紙によると、村上さんは「自分にとっても、2020年はコロナの年だった」と振り返り、コロナ禍について「何もないところから突然出てきたものではない。一連のできごとの中にある」と指摘。経済のグローバル化やポピュリズム、インターネットやSNSの発達といった動きと切り離せないとの見方を示した。

 政府や政治家が自分たちの利益や権力の維持に都合のいいような政権運営をした場合、「この方向に行ってはいけない、と言うのが科学者や研究者の役割だ」として学者の役割に期待した。/ 最近気にかけていることとして、SNS上で交わされる言葉や言論が貧しくなっている、との認識を示した。「批判を受けたら(それには応えず)別の批判を投げ返している。方法として恥ずべきこと。日本の首相さえそうやってふるまっている」と嘆き、「自分の中に何をもっているのか、明確に説明しなければいけない」と注文した。(パリ=疋田多揚)(朝日新聞・2020年12月22日 10時43分)

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 村上さんの発言には大いに頷けます。といって、何がどうだというのではありません。ここにおいても、この島の新聞と彼の地の新聞が、ずいぶんとかけ離れてしまっているということを感じたまでです。向こうがいい、こちらが悪いと、単純に比較して言うのではありません。もし、彼我の差が目に付くほどにも大きいというなら、それは「文化の差」であり、「歴史の差」でもあるという点にぼくは留意したいのです。「言論の自由」「表現の自由」と言いますが、それは人間の社会生活全体の中でしか培われないものです。

 要するに、昨日や今日に生じた違いでもなければ、追いついたり追い越したりできる違いでもないということです。「文化」というものは、移し替えることも受け取ることもできない、そこで育てるほかないものです。うらやましいという感情の問題ではないだけに、なかなか深刻です。「長いものに巻かれろ」(「自分より力の強いものや上位の者には、とりあえず従っておくのが無難で得策であるというたとえ」ことわざを知る辞典)というのでしょうか。「泣く子と地頭には勝てない」(「道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない」同上)とでもいうのでしょうか。多分、それぞれが自分には手の出せない「長いもの」や「泣く子や地頭」がいるのでしょう。下には強いが上には弱いというのはどうでしょう。力の序列が、あるいは出来上がっているのでしょうね。

 もう一点は、コロナ禍が「何もないところから突然出てきたものではない。一連のできごとの中にある」という指摘です。これも大方がする(言う)ことで、なにも目新しい視点ではないようにも見えるし、いや、確かにそうで、やみくもに国際化、さらにはグローバル化がすすめられた結果、それぞれの独自性が雲散霧消というか、跡形もなく消えてゆくという、この島の現状に対する警告とも受け取れます。

 さらに「SNS上で交わされる言葉や言論が貧しくなっている」という認識には、抗う術もない時代の軽薄な風潮に襲われている世相の退廃を痛感しているだけに、ぼくは同感の想いで肯定してしまいます。これは、おそらく「SNS」の上だけのことではないでしょう。新聞や文学のように書かれる言葉、あるいはテレビやラジオなどのような話される言葉にも「ぴたりと符号」するのではないでしょうか。人を理化し、人に分かってもらうための「不可欠の条件」の劣化と欠如、これは防ぎようもなく突き進んでいますから。

 細かいところでは、それぞれには幾多の違いもあって当然ですが、一見したところでは、もはや無視できないような時代状況の「世界的類似」というのもが大手を振って闊歩しているということでしょう。「言葉や言論の貧困」は何をもたらすか。それは日常的に生じている「突然の暴力の解放」であり「止まらない暴力の噴出」です。「暴力」を抑制する「タガ」、自省力が壊れてしまったのです。人間が自分であることを証明する手段はいろいろありますが、中でも大切なのは「ことば」です。ぼくたちは言葉を組み合わせて「思考」という行為を育てます。この言葉が貧しくなれば、思考(思想)が貧しくなるのは当然の結果ではないでしょうか。言葉で自己表現をする能力が貧困・貧弱であれば、それでもなお自分の言いたい事やしたい事を他者に分からせるのは、どんな手段があるか。

 言葉や言論の貧困は「暴力の生みの親」となるのです。国家のリーダーやマスコミの指導者、あるいは経済界の重鎮とされる人々が「失言」や「暴言」を放ったり、暴力まがいにの行状に及ぶのもまた、世界規模です。さらに言えば、「刹那主義(今がよけりゃ)」「金力盲信(金こそが尊い)」「自分至高(一人よがり病)」という悪癖がその貧困からとめどもなく生み出されるのです。

 村上さんの発言から、ずいぶんと離れたことを言うように思われるかもしれない。しかし、事実はこの方向にあからさまに進んでいるのです。打つ手はあるか。多分、行くところまで行くほかないようにも思えるし、おそらくそうなるに違いない。だが、そこへ至るにしても、自分の守備範囲で可能なことは何でもしようとする意欲を失うのはまずいんじゃないか。せいぜい、ぼくが今の段階で言えるのこんな程度です。わざわざ春樹さんを持ち出すこともなかった。でも、このような指摘が「高名な新聞」に掲載される可能性はまずない、それが島のたったいまの状況、嘆かわしくも否定できない現状だと、嫌いな新聞をネット上で眺めて痛感しているのです。

 「カナリアの歌」とか「炭鉱のカナリア」と、よく言われます。それはどういうことか?

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 【小社会】炭鉱のカナリアという。昔、欧米の炭鉱員はカナリアの籠を先頭にして進んだ。人間が感知できない有毒ガスが多ければ、その歌声は止まり、卒倒する。人間はいち早く退避した。
 
 米国の作家カート・ヴォネガットに「坑内カナリア理論」がある。〈芸術とは社会全体の表現にほかならないもので、社会が危険な状態になったとき、芸術家は率先して炭鉱のカナリアのように声を上げるべきである〉(伊藤優子編著「カート・ヴォネガット」)。/ この理論に共鳴する表現者は多いようで、同著では作家の大江健三郎さんも言及している。まだ見えにくい危険を社会に警告する役割は報道も、時として科学者も担っているのだろう。
 
 新型コロナウイルスの感染者急増をめぐり、科学者と政治に温度差があるのが気になる。例えば「Go To トラベル」。感染症対策分科会の提言を受けても政府は当初、札幌市と大阪市が目的地の旅行を一時除外したのみ。分科会はすぐに提言を重ね、政府はやっと急増地域からの出発分も自粛を呼び掛けた。/ 政府は、春先に接触の8割減などを提案した専門家会議を廃止。分科会に改組後は明らかに経済再生にかじを切ってきた。分科会の座長は今回、「個人の努力に頼るステージは過ぎた」。政治がどこまで反応するかだろう。/ カナリアは随分、警告を発し始めたように見える。ただ、炭鉱員が見ようとしなければ意味を失う。(高知新聞・2020/11/28)

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コラム二編と「坂本冬休み」ライブ

【越山若水】江戸川柳は庶民の暮らしぶりを見事に反映している。今の時期なら、年の瀬の慌ただしさを面白おかしく詠んだ名句も多い。その中から一句。「大三十日(おおみそか)ここを仕切ってこう攻めて」▼年末はツケで買った勘定の決済日。借金取りが集金にやって来るが、支払うお金がない。何とか来年まで引き延ばしてもらおうと、あの手この手で攻防戦を繰り広げる。「ここを仕切って…」の名調子は「忠臣蔵」九段目に出てくる文章を拝借した文句取りだという▼さらに一句。「餅は搗(つ)くこれから嘘(うそ)をつくばかり」。正月の餅は準備できた。後は借金取りさえ撃退すれば、年越しができると都合のいい解釈。「つく」の語呂合わせも遊び心がある。宵越しの金は持たねえという江戸っ子だけに、懐具合はかなり厳しかったようだ▼わが日本の台所事情も相当に苦しい。来年度予算案の一般会計は106兆円を超え過去最大に。新型コロナウイルスの対策費、高齢化に伴う社会保障費の増大があるとはいえ、国債発行額は43・5兆円に達し、地方を合わせた債務残高は1200兆円に膨らむ見通し▼借金額は国内総生産(GDP)の2倍以上に当たる。一部には、政府保有の資産があり、この程度の国債は問題ないとの見方もあるが、増える一方の赤字に不安が募る。せめて「ここを仕切ってこう攻めて」と、財政健全化の算段は示してほしい。(福井新聞on line・2020年12月22日 午前7時20分)

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【天風録】だしは「取る」のではなく「引く」ものだと、京都の料理人に教わったことがある。昆布やかつお節のうま味を引き出すとの意味合いらしい。それに上品なだしは、食材が持つ本来の味を存分に引き立ててくれる▲「煮る」と「炊く」の違いについては、うかつにも聞きそびれた。いずれにせよ、引いただしで煮たカボチャを、京風に「ナンキンの炊いたん」と言って出されると、それだけで、いただく前からわが舌は喜んでいる▲煮ようが炊こうが、焼いても揚げても、どう調理してもカボチャはおいしい。スープやお菓子になると、さりげない甘さにほっとする。舌だけでなく体全体が喜ぶ気がするのは、ビタミン類を豊富に含むためだろうか▲風邪は「ひく」のではなく「防ぐ」ものだと、昔の人が教えてくれる。冬至のきのう、皆さんもユズ湯につかり、カボチャの滋味を堪能されたことだろう。風邪だけでなく、新型コロナウイルスも退散してほしいもの▲年は「取る」のであって「引く」ことはかなわない。あまりに急な感染拡大に、戸惑うことばかりの年の瀬でもある。それでも新しい年を前向きに迎えたい。これから一日一日と、明るい昼が長くなっていく。(中國新聞「天風録」・2020/12/22 6:36)

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 「おしつまりました」というのが年末に見られた、なんでもない挨拶だった。さらに年の瀬が迫ると「いよいよですね、よいお年を」と、誰彼にとは言いませんが、言葉を交わしたものでした。ぼくのような不愛想で無粋な人間でも、そのような挨拶を「出し惜しみ」はしなかった。ところが新年が明けると、やっぱり誰彼なく「おめでとうございます。今年もよろしく」と言い合うしきたりに、ぼくはいやいや参加していた気がする。「何が目出たい」というセリフが喉まで出かかるのです。さらに言えば、無精者の特技でしたか、「年賀状」を書くのが嫌でした。もちろん、世の付き合いでしたから、出すには出しましたが、戴いた方だけに返事を書くようにしていました。こんな人間でも数百枚は、毎年郵便受けに入っていたものです。しかし、それもかなり前から、ぼくは一月中は返信の挨拶状も出さなくなりました。「新春」迎春」「賀正」「謹賀新年」という偽物の心情を、知りながら書く(印刷する)のがたまらなかったからです。

 ぼくは今でも旧暦をこよなく愛していますので、思いついたのが「立春」に合わせて、遅ればせの「新年のあいさつ」を出すことにしたのです。年の暮れはあわただしいという生活はしていませんから、書こうと思えば書けるのですが、「旧年中はお世話になりました」「本年もよろしく願います」というニセ(ウソ)の感情を言葉にするのが不愉快でした。だから、「そうだ、立春にしよう」と、以来何年もこの悪習を継続しています。こんな人間でさえ戴く「年賀状」ですから、早々に返信が礼儀なのですが、なんとも無礼がぼくの心情というか特技です、「不義理よ、今年ありがとう」と、いかにも礼儀知らずを押し通してここまで来たのです。

 「餅は搗(つ)くこれから嘘(うそ)をつくばかり」とはいかにも年の瀬の見慣れた風景だったそうです。ぼくは落語でそれを堪能したのでした。「借金取り追い出し屋」のような商売も流行ったり、「芝浜」のかみさんような、夢のまた夢ですけど、正直者に神宿るというような嬉しい元気が出る話も江戸っ子の趣味(情緒)だったかもしれない。もちろん、庶民ですよ、主人公は。

 さて、「嘘は搗く」のか「嘘を吐く」のか、いずれにしても一年余にわたり国会で搗くだか吐くだか、その嘘を練った段階では元地検の検事も悪知恵を働かせる場面に加わり、秘中の秘を指図をしたそうだ。この問題が浮上する段階で「虚偽答弁第一(で貫くという)脚本」は出来上がっていた。それに弁護士(こういう場の役柄をどう考える?やも元検事も加わって、共同謀議。それを承知で東京地検は不起訴だってさ。さらに後援者が払った宴会の費用の不足分を補填した「金員」が、「怪しい筋」から出ているとも。それもこれも知った上で、「臭いものにふた」となりそう。ぼくはこいつが刑務所に入ろうがどうしようが、興味はない。でも「嘘八百」の落とし前だけはつけたい。さて、どうするか。

 現総理とやらも同伴・同罪ですね。知らぬ存ぜぬどころか、お前さんも「脚本書き」のご一人だったじゃないか。この程度のカスがそろって内閣だ国会だといい、霞が関界隈がどうだこうだと喧(かまびす)しい、毎年の暮れ。ようするに永田町は「ゴミの集積所」であり、霞が関は「カスの集会所」に他ならない。それに有象無象が入れ替わり立ち返り、離合集散、つかず離れず。その度に、賄賂の金は落とすは、ただでさえあるかなきかの評判は落とす、で今年も暮れる、という惨憺たる始末。

 出汁(だし)は取るのではなく、引くというコラム氏の「奥義」はなんだか「嘘」くさい。こんなところにまで嘘がはびこっているんだと思うと、書くもの、読むもの、みんな嘘じゃんと言いたくなる。取るも引くも、どちらも使っていますよ、ぼくだって。面倒は言いませんが、食材に応じた「ダシ」の種類によって取ったり引いたりするんですね。どれが正しいという正解はない。台所は教室じゃないし、教師は「あなた(自分)」ですから、取ろうが引こうが、いいじゃありませんか。いいダシが出ているというのは「食べる人」で、いいダシを引こうかというのは「料理人」です。言い方はそれぞれです、旨ければどちらでもいいんです。和食は引き算、洋食は足し算というのかどうか。

 で、「嘘・うそ・ウソ」の方です。中条きよしという歌手が歌っていました、「うそ」(山口洋子詞・平尾昌晃曲・1979)。女は嘘つきというテーマ、まるでどこかの女性議員の言い草のような歌。それぞれの最後に「哀しい嘘のつける人」「冷たい嘘のつける人」「優しい嘘のつける人」とあります。袖にされた男は未練たらたら、戻ってきてよと、哀願調の女々しい男歌でした。国会でウソを貫いた「嘘も方便男」はどんな嘘をついてきたか。悲しくもなければ、冷たくもない、ましてや優しい嘘ではさらさらなかった。要するに「庶民を愚弄」する嘘であり、(自己保身」のための嘘であり、「他人(秘書)を貶める」嘘であり、まことに救い難い、卑しい限りの虚言でありました。この御仁が総理になると聞いた時、世も末だと、ぼくは書きもしたし、話もしました。それでどうだというのではありませんが、これを担ぐ連中がもっとも悪かったんです。

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 ほとんど毎日のように、かみさんと運動がてら買い物に出かけます。行くところは数か所(スーパー)。師走に入って一か所の掲示板にへんてこなポスターが出されていました。ぼくはまったく知らなかったから、腹を抱えて笑いました。エレベーターに乗ると、そこにも同じポスターが。テレビに「ご無沙汰」していると、時代は確実に動いていくんですね。まるで本物そっくりというのではない、本物以上に面白いと、驚いたんです。芸名がえげつない。坂本冬休み。「新曲キャンペーン」とありました。新人歌手かと思ったらベテラン。ぼくだって冬美さんは知っていたから、さらに興味が湧きました。残念ながら、本番は都合が悪くいけませんでしたが、この「真贋定かならぬ」緊張感に、ぼくは満足、いや感心しました。両者並存しているんですね。

 今は「真贋が相並ぶ時代」なんです。それでいいんです。真があるから、贋も蔓延る。いかにも時代だなあと感じたのは、家でたまたまネットを見ていたら「冬美と冬休み」が共演している場面に遭遇したからです、どっともどっですね、いいですよ、どちらも。嘘つき男とは比較を絶していいね。物真似と言いますが、ニセモノの方には、きっと本物よりも才能がいるのではないですか。納得すれば、なんでも「本物」ですよ。あえて種明かしするのは愚の骨頂ですな。詐欺被害の嫌なところは、後で気が付くからです。気が付かなければ、いいんです。「知らぬが仏」というじゃないですか。(「知れば腹も立つが、知らないから仏のように平静でいられる。また、本人だけが知らないで平然としているのを、あざけっていう語」デジタル大辞泉)

 国会の嘘つき男、彼の挙動を見ていると、悲しさを通り越して、やりきれない気持ちになります。この「馬鹿」を利用し、踏み台にしてのし上がる、それで満足するという埒もない連中がこの国を席巻し、ついには破壊してしまった。加えて、官僚までもが嘘をつき、埒外の道なき道を奔走しているのです。誰のため、何のための政治であり、行政であるのかと思えば、泣くこともはばかられる。ひたすら気を取り直すしかないのですが、さて立ち直れるか。押しつまりましたなあ。

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