自分は何者か

   祖父と孫の詩と歌

 「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」

 《 わたしが一番きれいだったとき / 街々はがらがら崩れていって / とんでもないところから / 青空が見えたりした 》

 茨木のり子は06年に75歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。

 ともすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。

 「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代にも希望も笑いもあると教えてくれる」

 沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間で荷物をまとめ、再び日本に渡った。

 15歳から2年、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り、東京芸大卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった」(朝日新聞・98/11/16)

 数年前に一枚のはがきを沢知恵(ともえ)さんからいただいたことがある。彼女の唄う日本の童謡を聴いて、いたくほれこんだので、感想を送ったのに対する返信でした。たったそれだけの話ですが、沢さんの歌はいつも聴いてきました。その祖父は金素雲さん。詩人で、日本の植民地時代に朝鮮の詩を日本語に訳して紹介したり、あるいは日本の詩人の詩を訳したりしました。

 彼の詩集『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を茨木さんは少女の時代から愛読していたそうです。茨木さんは50歳から韓国語(ハングル)を学習された。その後いくつかの韓国現代詩を訳し、また『ハングルの旅』というエッセーを書かれた。それを沢さんが読み、そこに祖父のことが書かれてあるのを見いだした。

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 05年、沢は茨木の死を歌にした、アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。

 「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」

 療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。 

 「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」

 茨木の訃報が届いたのは半年後の06年2月だった。(同記事)

 日本列島の上にはさまざまな外国籍の人がいます。昨年(2007年)末で215万人を越えています。総人口に占める割合は約1.7%で、十年前の1.5倍にあたる。

 沢知恵という歌手がどのよう思いや願いで生きているのか。外からは窺い知れませんが、彼女の歌を聴くと、国境も民族も遙かに越えた地点で、さわやかな歌声が響いているように感じられます。

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 二十年以上も前の「日記」のような雑文です。沢さんはこの時期、ぼくの住んでいた隣町に居住しておられた。記憶があいまいですが、いまは岡山県在住だと思います。直接お目にかかったことはないが、かみさんは大学の先輩後輩で、同窓会で会ったことがあるとのことでした。いまでは立派な芸術家(シンガーソングライター)で、さまざまな活動をされています。いまも瀬戸内海の国立ハンセン病療養所・大島青松園に通われていると思います。牧師だった彼女の父がやはり奉仕活動で青松園に行かれた関係だといいます(幼児だった彼女を連れて通われていた)。(今年は、いかれるかどうか)

 ぼくはときどきは彼女のCDを聴く。祖父の素雲さんの詩集や訳詩集も愛読してきました。母親も何冊か著作を持っておられます。面白く、しかも真剣に考えながら読んだ記憶があります。大きな病を託っておられたようでしたが、なおご健在であられるか。(https://comoesta.co.jp/profile/)

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