教育の効果というものに…

 「私は教育という言葉をきくたびに、あまりたのしい気持ちにならない。教育といわれているものと、発見や独創とは正反対なものだからである◆本質的にいって人を教育するということが、果たして可能なのだろうかと私は疑っている。教育の効果というものに、私は失望することばかりである」

 「世の教育ママが満足している子どもたちは、全く面白くないのが多いし、教育ママの処方通りに、一流校を経て一流会社のエリート社員になったり、出世街道の役人になったりして、エスカレーターからすべり落ちないような人たちの中に、存外欠陥人間が多いことも、カラメ手からしばしばきかされることである◆教育者は人の師表になるべきだといわれたり、頭が下がる立派な人であるべきだともいわれたりする」

(ぼくはこれに乗らなかった)

 「そんなことは、おそらく退屈な、魅力のない、くだらぬ人間でなければ、そうあり得ないにちがいない。こんな魅力のない、先生にならう子どもが、勉強が面白いはずがないではないか。実際、学校の先生には、私が接した限り、魅力ある人があまり多くないように見うける」

 「師表であるためには公序良俗の型にはまらねばならないし、文部省が型にはまった教育をおしつけるので先生方は独創的な工夫をこらすわけにはいかなくなるし、その気力もなくなるのだ」(武谷三男「ほんとうの教育者はと問われて」朝日新聞・1969-10-28)

 武谷さん(1911-2000)は物理学者であり、哲学者でもあった人です。湯川秀樹氏などと活動をともにした。専門の物理学における業績は言うまでもないことで、加えて、現代における科学技術の問題に関しても積極的に発言し、行動した人でありました。長く在野(無所属)の人として活動された。第二次大戦中、理科学研究所のメンバーとして秘密裏に日本の原子爆弾の開発に従事。その当時特高に逮捕されたが、「俺を捕まえていると原爆の研究が遅れるぞよ」といって釈放されたという経験もされました。戦後は「原子力」の科学的限界や危険性についてつねに指摘され続けた。「原発はトイレのないマンション」とその欠陥性を指摘したことでも知られます。ぼくは必死で彼の著書を読んだことが懐かしい、新鮮な驚きをもって読んだから。

 何十年も前の文章を出した理由は特にありません。いつの時代でも学校とか教育、あるいは教師というものの評判がよろしくないという風潮を確認するためだけだったかもしれない。  

 武谷さんも使っておられる「一流校」「一流会社」というのはどんな学校であり、どんな企業なのか。その基準があるのかどうか。ある時代に一流であったものが、時代が変われば三流であったり、消えてなくなったりすることもあるでしょうし、一つの基準から観れば一流でも、別の基準に従えば四流であったり。漠然としているにもかかわらず、あれはホントに「一流」なのかなあ? おしなべて、「一流」は権力に近い、近づきたい人や集団につけられる符丁じゃないですか。さらにいえば、かんたんに「転ぶ」(変身・変わり身が速そう)性質をもっているように、「四流(支流)」のぼくには思われますな。

 つまり、世に言われるもろもろの話題には大した根拠がないに等しいということです。

 発見や独創を生かしたり伸ばしたりすることは、制度としての学校教育ではまるであり得ない話です。凸凹をそろえることがなによりも大事な仕事なのですから、そんな余技に関わることは金輪際なさそうだという意味でしょう。にもかかわらず、武谷さんも言われるとおり、無い物ねだりをして、学校や教師を非難するのが世の常です。

 学校教育は子どもの独創性を尊重しないといって批判しても仕方がないのであって、各自のもっているであろう独創性を全体の均質性に合致すべく変換することが学校教育の役割であり、機能だからです。まともな仕事をして非難されるんだから、学校も教師も同情に値するね、とはいわねえ。

 「生きる力を養う」という、どこかで耳にしたお題目あるいははやりの言葉が学校教育の実情を明かしているようです。「生きる力」の創生論議(いまは廃れたと思いますが)に熱心になればなるほど、不登校者や退学者が続出するというのは悪い冗談どころではなさそうで、そんなことは土台無理難題なのだということです。とすれば、優等生や高い偏差値の児童・生徒の中身はどのようなことになっているのか、まことに不気味な感じがしませんか。  真面目は不真面目(アソビあり)になれない、というのはホントですね。昔、やまのかみにバカにされたことがあります。(しょっちゅうでした)「お前には浮気はできない、すれば本気(マジ)になるからさ」だって。どういうこと?

立ち位置と一回かぎりの言葉

 また一人、幼い心に火をともした教師がいたと、万感の思いを持って語っている作家(詩人)がいます。どなたの中にも熾火を起こした教師というものが存在しているのでしょうか。ある講演からの引用です。(ここでも、辺見庸さんです)

《少し脱線します。私は、これまでにたくさんの先生、それから人生の師のような人たちにいろいろなことを学び、教わってきましたが、そのなかの一人に、中学時代の恩師であり、陸上競技の顧問でもあったT先生という人がいます。五十八才にもなって中学時代の恩師の思い出話をするのもなんだか変なんですが、じつは、この先生は、私に決定的な影響をあたえた人だといまでも思っています。同時に、非常に感謝もしているわけです。

 T先生は非常に長身で、持って生まれた存在感というか、およそ教師らしからぬ、まどかならぬとでもいいましょうか、つよい眼光を放ち、全身にオーラといいますか、そういうものを漂わせている人でした。「立ち位置」が独特というか、朝礼のときなんかに、その先生が同僚の先生たちと群れて、戯れている姿はおよそ見たことがなかったですね。いつも同僚の教員たちから少し離れたところに、ぽつんと立っておられた。凜としているといいますか、背筋に一本筋金が入った感がありました。多弁な方ではないし、静かなのだけれども、どこか荒々しく恐い感じもしました。声が大きいわけですね。いつも堂々としている。ときにはやや寂しげでもありました。そのころは、その姿をうまくいい当てる言葉を知らなかったわけですけれども、いまにして思うと、あれが「孤高」というのでしょうか。ある種の孤立感、孤絶感というものを肩のあたりに漂わせていました。子どもというのは面白くて、いろいろな理屈をもっているわけではないのですが、なにかそういう姿を人のありようとして真似ようとしたりもする。私はそういう先生の日々のたたずまいやビヘービアというものを、子ども心に「善きもの」と感じていました。自分というもののない、いつも集団とともに群れているような大人よりも、T先生のような、はぐれた感じの人間存在を好むようにもなっていました。結局、先生のようには立派になれなかったのですが、少なくともはぐれた態度が自分のなかにも染みついたような気がします》(辺見庸『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社。2004年)

 講演で語られた辺見さんの一種の教師論、人間論だと聴きました。「孤高」の人とはどのような存在をさすのでしょうか。群れない、戯れないという姿は、たしかに子ども心にも「格好いい」というか、凛々しい風情として憧憬の念を抱いたであろうとぼくもおもいます。不幸なことに、そんな大人(うし)に遭遇したことはなかったし、それが今のぼくに小さくない欠陥をもたらしているのかもしれない。協調性に著しく欠けているのは確かですが、群れから外れるばかりですから。

 さらに引用を続けます。

《いまでも、何十年経っても、忘れられないことは、そのT先生がクラス討論だったかクラス会だったかで発した一言なんですね。先生の一言に躰が貫かれたわけです。ぼくの母校は東北の石巻の片田舎の学校でしたし、そのころ積極的に手を挙げて話すなんてことはとくに奨励されている時代でもなかったので、生徒たちはなにも発言せず、もう半分寝たような状態で、口を半開きにしてボーっとしていると、T先生が突然絶叫するわけです。

 どう叫んだかというと、ガラス窓も割れるような声量で「おもえーっ!」「思え!」というのですね。その叫び声のすごさにもう腰を抜かした生徒もいたのではないかと思います。「おもえーっ!」と、たったこれだけの言葉でした。後にも先にも、「思う」ということを命令形で怒鳴られたのは、これっきりなわけですが、しっかり躰の底に染みついたのです。この「おもえーっ!」の一言で、それがもう骨の髄まで染みこんで、なにかにつけ、自分が無思慮であったりあるいは無意識であったり、無感覚であったり、判断停止状態のときに、なにか内側から湧く声として、このT先生にいわれた「思え!」というのが聞こえてくるんです。なんだか説教っぽい雑誌の企画によくある〝忘れられぬ一言〟みたいですが、私は人生論が大嫌いです。人生論としてではなく、私だけの記憶として「思え!」を大事にしているのです。私は長じて、この「思え!」を「思惟せよ!」という言葉に置きかえてみたりして、心の底に着床した叫びの意味を自分なりに噛みしめたりもしました。私たちはあまり多くのことを思わないほうがいいとされるような時代に生きています。テレビや新聞は日々われわれに「思うな!」「考えるな!」といいきかせているようでもあります。あまり深く、多く思うと、生きること自体辛い時代です。むしろ、だからこそ「思え!」は大事ではないでしょうか》(辺見庸・同上)

 「後にも先にも、『思う』ということを命令形で怒鳴られたのは、これっきりなわけですが」と辺見さんは述べられていますが、その驚きは想像を絶するというほかありません。いったい、それはどんな波紋を描き続けて辺見さんの脳裏(記憶)に残ったのか。これもまた、「一回かぎりの言葉」であったことだけはたしかでしょう。余計なことを考えるなといわぬばかりに、沈黙を強いる時代にあって、さて、わたしたちはなにを「思いなそう」としているのでしょうか。

 学校にあまりにも期待しすぎてもよくない。往々にして、それは裏切られるから。反対に少しも期待しないというのも考えものです。ひょっとして、かけがえのない友人や教師に出会えるかも知れないからです。その意味では、学校(教育)は人によっては諸刃の剣なんでしょうね。(「思え!」と叫んだ教師)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 

とかく上に立つ人は

 以下はある大きな面積をもつ国の、数代前の指導者だった人の「語録」です。指導者であることは「普通」「並み」じゃできないんですね。それにふさわしい「才能」が求められるようですよ。なんなら読み飛ばしてください。

 この人は、どの国の、なんという指導者でしたかな。こんな手合いがごろごろといる時代ですから、なかなかズバリと当てるのはむずかしいかも。ぼくたちが居住しているこの島の指導者でないことは請け合います。彼(トランペットなどと評価されています、正当に)はこれ以下だから。でも、指導者によって人民が塗炭の苦しみを舐めさせられるなら、わきで暢気なことを言ってる場合じゃありません。

 ところで、松本ヒロという芸人をご存じでしょうか。「権力(を持っていると疑われている者)」を笑わ(え)ない笑いなんて…と。いま巷であふれているかに思われる「お笑い」はお里(魂胆)が見え透いている、質のよくない砂糖菓子みたいな。マジ、笑えないね。

 指導者とは、人民から笑い飛ばされる存在なんですね。それ以上でも以下でもない。それは権力者の「特権」かもしれない。その「特権」を欲しがるんですね、ある種の人たちは。不思議千万だ。

「ブラジルにも黒人はいるのか」

「米国と日本は150年もの間、素晴らしい同盟関係を結んでいます」

「アフリカは深刻な病に苦しめられている国家だ」

「人間と魚は平和的に共存できる」(I know the human being and fish can coexist peacefully.)

「質問者に質問しなくてはならない。質問者が僕に質問してきていることについて質問者に質問する機会がいままでなかったんだ」(I would have to ask the questioner. I haven’t had a chance to ask the questioners the question they’ve been questioning.)

「サダム・フセインが武装解除しないのであれば、アメリカが武装解除するまでだ!」(You disarm, or we will.)

「我々は成果をあげている。本当に成果をあげているのかを確認するのは大変だけど、成果をあげている」(And we’re making progress. It’s hard to tell whether we’re making progress or not, but we are.)

「大統領の責任として、今、我々アメリカが直面している現実を国民に伝えなくてはならないと思っています。その現実とは、『テロリストたちが隠れているのは洞窟だ』ということです」(And part of my responsibilities as your President is to remind people about the realities that we face in America. One of the realities is, is that these people hide in caves. )

 これは「きわめつけ」の一言。こんなことは誰も言えない。

「私のことを大統領として知能が足りないといっている人達は、その事実をまだまだ甘く見ている」(I think anybody who doesn’t think I’m smart enough to handle the job is underestimating.)

 『●●大統領 妄語録』(ペンギン書房刊』2003年)

「法痴」のデタラメ

 さて、我々は心理学者にも会いました。彼らは明らかに、とても善い人たちで、非常にリベラルで、物事を十分公正に見ることのできる人たちでした。しかし、もし彼らにとって、他人の財産を盗むことや、銀行強盗を犯すことや、売春することや、人を殺すことや、自分自身男であるのに男と肉体関係を持つなどといった行為全てが、ことごとく心理学上の問題で、心理学者は個々の人々がその問題を解決するのを手助けしなければならないというのなら、それは心理学者が本質的にシステムの共犯者であるという徴ではないでしょうか。軽罪を犯すとか、重罪を犯すということは、要するに、あまりにも基本的なやり方で問題にすることなのだという事実を、心理学者は隠蔽しようとしているのではないでしょうか。それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです。それが道徳的問題であるかのような印象を持ったり、諸個人の権利に関係しているかのような印象を持ったりするのです…。(「フーコー「アッティカ刑務所について」1974年)

 法律違反は「犯罪」である、あるいは「犯罪」は法律違反である。どっちなんですか。どっちが先にあるのですか。世の中には善人と悪人、加害者と被害者の二種類の人間がいると、しばしば考えられてきました。上の文章はフーコー(1926-84)がフランスの刑務所改革に積極的に荷担していた時代に述べられた意見です。まるで犯罪者を擁護していると思われるでしょう。たしかに当時もフランスではそのように見られて、フーコーたちは非難されたのです。(フーコーについては、日をおいて後述したいと考えています)

 世の中にはさまざまなシステムが機能しています。したがってある部分だけをとりだして、それについてものをいったり、それを「いいもの」にしようとしていじることはそもそも不可能だといえます。刑務所だけを問題にして、そこに入れられている囚人は犯罪者だといってみたり、学校制度をそれだけで変えようとしてもできない相談だということです。 

 フーコーの指摘も社会システム、資本主義経済システムの問題として刑務所(「監視と処罰の制度」)をとりあげているのです。罪を犯すことは悪いことだという「道徳の問題」から人間を裁くならば、その罪を犯した個人の性格や生活に原因があるはずだから、犯罪者をどこかに隔離(追放・排除)すれば、問題の原因は消えてしまうという理屈。問題児は追放してしまえ、というわけですが。はたして、それで解決するのでしょうか。「それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです」この言いかたでなにを言おうとしたのか。個々の人間(犯罪者とされている)の行為の問題ではなく、むしろ社会システムの問題なのだといって、さて通じますか。ここはきわめて大切なところですね。「法が犯罪者を作る」といって…。

 さまざまな犯罪防止のために法律が作られます。法の制定以前にはまったく問題にならなかった行為も、いったん法律が制定されれば犯罪にされます。「株の時間外取引」は問題なしだった。でも、いったんある人たちにとって不都合だと見なされれば、(法律が急いで作られて)その行為は「法律違反」として裁かれるようになります。法によって犯罪者は作られるのです。今は法さえ作らないで、舌先三寸で法行為を左右している。これは犯罪じゃないのですか。

 法治国という言葉(実態)があります。いくつもの意味にとらえられますが、この島ではどうでしょうか。政治家は自分たちの都合のいいように「政治資金規正法」などという法律を作ります。だからこの国は法治国だといえるか。残念ながら、ノーです。あるいは特定の企業や集団に有利なように法律が作られる場合も法治国とはいわないはずです。法はだれにも適応されて、はじめて法の主意を得る。

 「俺は法解釈を変えた」から、それで法が施行されて問題なんかあるものか、と嘯く。この島国は一人の無謀・無能・無恥な人物の傍若無人な振る舞いで「放置国」「法痴国」に堕してあえいでいます。投薬する薬はあるのか。あったとして、薬の効き目はあるのか。

子育ては世間の仕事でした

  今日は早朝からはっきりしない雨が降りつづいています。このところ、ぼくはほぼ五時には起床です。ラッパはなりません。ウグイスも啼きません、(大変心配しています。昨秋の台風襲来で塒(ねぐら)を破壊されたのか、あるいは世間(人界)にいや気がさして行方をくらましたのか)もう彌生ですのに。雨は嫌いじゃないんですが、普段のように外の作業ができない。だから室内でパソコンをいじりまわすことになります。ついでのように、駄文づくりとはよくない仕業ですが、仕方ありませんね。

 まあ、好きだった柳田国男さん(1875-1962)の文章でも引き写してみましょう。柳田さんについてはホントに早くから興味をいだき、つまらない本まで書きました。「碩学」という語も死語になりましたが、彼は正真正銘のソレでした。いい面悪い面の二面を持った人として、ぼくは時間をかけて彼から学んだといえます。学び方がよくなかったせいで内容はからきし無でしたけれど。それにしても、柳田さんもはるか彼方に遠ざかってしまった感がぬぐえないのはどうしたことか。歴史の果て、神話の世界か。

 「ヤラヒは少なくとも後から追い立て突き出すことでありまして、ちょうど今日の教育というものゝ、前に立って引張って行こうとするのとは、まるで正反対の方法であった…人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした。…人を成人にする大切な知識の中には、家では与えることの出来ぬものが実は幾つもありました。そういう点については世間が教育し、又本人が自分の責任で修養したのであります。ヤラフというのは何か過酷のようにも聞こえますが、どこかに区切りをつけぬと、いつまでも一人立ちが出来ぬのみならず、親より倍優りな者を作り上げことも出来なかったのであります」(柳田国男「四鳥のわかれ」)(*ヤラヒはヤラフ(遣る・やる)の変化)

 いまでは「児やらひ」などという語は死語になりました。その意味は「児やらひ」という、一人の幼い者をいろいろな人々(世間)がそれぞれに関与することによって、ついには「一人前」に育て上げるという教育がみられなくなったということです。(*いちにん‐まえ【一人前】①一人に割り当てるべき分量。一人分。②おとなとなること。また、おとなとして扱われること。③人並に技芸などを習得したこと。)(広辞苑)

 柳田さんの文章を熟読してほしいですね。「人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした」ということがおわかりでしょうか。早い者は5歳や7歳で一人前になるべく世に出た。これは洋の東西を問わないことです。今日は大学教育(?)が浸透して、どなたも大学に行こうとされます。それ自体は悪いことじゃないでしょうが、でも、社会に出るのは早くて20歳を過ぎてから。この20年以上をどのように育てられたかが、その後の人生にはっきりと影響を与えます。

 とにかく、人を一人前(大人)にするような教育は、特定の場面を除いて、ほとんどなくなりました。熟練とか習熟といった尺度が一人前になるまでの測定権を受け持っていたのに、それが社会から失われてしまった結果、いまでは年齢だけが「大人か子どもか」を分けるにすぎないのです。20歳(一面では18歳に)だから大人というのは法律上の区切りで、実態とはかけ離れていることは否定できません。

 では、どうしてそのような教育の形態がなくなってしまったのか。その理由はいくつでも数えることはできそうですが、いちばんの問題は子どもの教育が学校によって独占されたという事実です。各地各様の生産や労働の風土に応じて産育・養育や教育が行われていた、その意味では文字どおりに「土地の力(文化)」によって人間も動物も植物も(すなわちあらゆる生命が)育てられていたのです。これこそが地域主義というもので、学校教育が普及させられることによって、土地に根ざした地域主義が壊滅させられたんですね。ブルドーザーで列島が均(なら)された。

 「人が世に立ち一人前となるが為に、かねて定まった試験を経なければならぬことは、昔は却って今よりも数しげく、又例外の無いものだったらしいが、それを窄(せま)き門などと歎く者の無かったのは、是非通してやりたいという情熱が盈(み)ち溢(あふ)れ、従って又通って行く者の悦びであったからである。西洋の学者は第二の誕生などと称して、成人式だけをひどく重々しく見るようだが、少くとも我等の歴史に於ては、この段階は幾つもあって、それが必ずしも呪法を主たる目的としたものでは無かった。人間の生の営みを宗教倫理、政治経済等々に分類して考えることは、それこそ現代人だけの智巧であって、何千年とも知れない過去社会には、それがすべて融合して、渾然(こんぜん)たる『此の世』というものを作って居た」(柳田国男「社会と子ども」)

 「かねて定まった試験」とはマークシートを塗りつぶすよう、不真面目なものではなかったことだけはたしかです。実際にやってみる、モノを作るとか作業をこなすとかして、実用に供することがなければ周りから認められなかったのです。今のように、年を重ねれば、半人前であろうが「大人になれる」というのは周りも困るでしょうけど、本人にはもっと辛いことだと思います。自分が大人であるという標(しるし)はどこにあるのか、まことに頼りのないことだからです。今日から君は成人だ、といわれてその気になったところで、中味が空っぽじゃどうしようもない。その気になって空騒ぎをするしかないというのも気の毒なこと。「成人式」の滑稽さ。

 ぐずぐずとつまらないことをいっていますが、学校(教育)は一人の人間にどんな仕打ちをしてきたかをはっきりととらえなおす必要があるといいたいがためです。それだけのことではあっても、じゅうぶんに理解してもらえないのは、学校教育によって恩恵や利益を得たと考えている(錯覚している)人間が相当に多いからです。国家や社会にとって学校教育を支配し、じゅうぶんに機能させることはみずからの命運のためには決定的な意味を持っていました。でも幸か不幸か、国家と個人とは、本来はぴったり一致しないものなのです。身体に服を合わせるのか、服に身体を合わせるのか。そんなの決まってるじゃんよ、と大きな声で言いたいんですが。

 となれば、国家の要求を個人の必要に合わせるのか、個人の欲求を国家の要請に合致させるのかという選択肢がでてきそうですが、それは言葉だけの話。事実は長い歴史が語っているとおりです。こんなところから、おそらく人権(人間性回復)の問題がその姿を現してきたんじゃないですか。まだまだ、ですね。(柳田国男はどこにいる)

学校は何をしているの?

 学校教育を支配している原理は「競争主義」の原理だといわれます。それは個々人の能力や努力にのみ選別化の基準をおくという(仮象の)ものです。学力が高い、成績が優れているとされる子どもはそれだけ能力を発揮したからであり、反対に成績の振るわない子どもは能力や努力の面で劣っているとされ、その結果については本人も否応なしに納得させられるのです。「やればだれだってできる」(ホントか)と教師はいいます。そして子どもは「「できなかったのは、自分がやらなかったからだ」と神妙に納得させられるのです。競争原理とはそのような成績の差を正当化する威力をもっているかのように個人に対して作用する。どの子も同じ条件で五〇メートル競走をしているのだから、結果に遅速の差が出るのはあたりまえだというわけです。この原理は相当に長く威力をもちつづけてきたようです。これが「センス」なんですね。ぼくはいつも振るわないガキでしたから、少しは反省したかと思いきや、「センス」には一向に関心が向きませんでした。

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与しつつ競い合うことが求められているのだから」と指摘するのは英国の社会学者ウィリスです。彼は重要な本をいくつも出版していますが、ぼくがよく引用(上にも引きました)するのは邦訳『ハマータウンの野郎ども』(筑摩学芸文庫)でした。学校の「現実」が活写されすぎているほど。(英国ですが)

Paul Willis

 だれでも一番になれないことは明白であるにもかかわらず、「やればできる」という決まり文句を教師は口にします。やればやっただけの成果があらわれる、そのような場面はいくらでもあるでしょう。しかし、コンテストではだれかが一番になれば、だれかは二番になれても、けっして一番にはなれない。つまり学校の「勉強」はコンテストになっているんだ。試験のできばえを他人と競うコンテストであるなら、とにかく勝負に勝たなければならないということになります。勝てば誰彼となく評価してくれる期待感がある。自分がかしこくなるための学習ではなく、だれかに勝つための学習とはいかにも経済競争に似ています。ぼくはいつでも競争から離脱しようとしてきた。その程度の「勉強」かよ、という捨て台詞のようなものを吐きながら、「その気になれば、いつだってできるぜ」といっていました。ついぞ、「その気に」はなれなかったが。コンクールというのも同じですね。ショパンコンクールだのチャイコフスキーコンクールって、マジですか、とぼくはいまでも不信感でいっぱいです。一位のショパンと二位のショパンにある差ってなんだ。

 学校の内外で必要以上に数字(成績)が重んじられるのを手はじめに、どこまでいっても競争原理がはたらいているのが学校教育の実情です。これを「学校化国家」といったらどうか。くりかえしになりますが、産業経済側で重んじられる価値観こそ学校が必死ですがる教義となっているのです。個々の子どもたちがどれだけ多量にこの価値観を自分のものにするか、それを競わせるための競争主義だといってもいい。まるで食うか食われるか、勝つか負けるかの生存競争の闘争場(アリーナ)となっているのが教室だといっても過言ではありません。これが百年余も続いてるんです。

 資本主義的の経済システムが機能すればするほど、原理的にも実際的にも経済資本(典型はカネだ)の分配において不平等を生みだすのはさけられない。産業経済体制の諸々の制度は、根本的には、社会的・経済的不平等をもたらすような構造になっているのです。市場をめぐる利潤獲得競争が(表面上は)資本主義の真骨頂だとされるなら、勝者と敗者が明確に生みだされるのは当然の道理です。しかし、現状は純粋な競争主義に基づいてはいない。大きなちからをもつ企業は、さまざまな政治上・政策上の便宜を得てさらにいっそう大きなちからをもつように仕組まれています。(常習的な便宜供与さ)消費税を全員に負担させて、そこから大企業の法人税の大減税をしようなどというのはその見本ですよ。みんなから取って、ごく一部の者どもで山分け、これが列島の経済・政治の実情だといえるでしょ。××ミックスですな。

 学校でも同じような現象が見られます。成績競争に早い段階で勝利する子どもは、その勝利によってさらに競争を有利に展開することができます。その反対に、成績が振るわないと判断された子どもはいっそう不利な競争を強いられる。教育という「インフラ」に金をかけられるかどうかが、子どもの成績を左右するのです。「格差社会」というけど、実際は「格差国家」なんだ。国家当局によって格差は作り出されているから。

 さまざまな学校段階に一貫している性格があります。それはどんな学校もさらにその先にある学校への準備教育が主流となっているという点です。そして最終的には就業・就職のための準備教育こそが学校の最大の機能であることになります。これがその時々の学校教育の必要・必然性をいちじるしく阻害し、歪曲していることはいうまでもありません。小学校は中学校の、中学校は高等学校の、高等学校は大学のための「下請け教育」を担わされているのです。まるで明日のために今日があり、明後日のために明日があるといわぬばかりです。「下請けいじめ」は経済界だけの悲劇ではない。ここに教師の苦労と頽廃の蔓延(はびこ)る理由があるのです。(わかるでしょ。ここでは、詳しくは述べない)

 子どもは幼く弱い存在であり、保護し監督しなければならないという子ども観は古いものではありません。おそらくこの列島でも江戸時代以前にさかのぼらないんじゃないですか。そして、大人と子どもという区別がされたときに「子どもは発見された」といってもいいでしょう。大人になるため、社会へでるための準備を周到にかさねるために学校教育が始まったともいえます。(子どもと大人という区分はいつ始まったのか。これもまた大事な問題です。子どもは「小さな大人」という子供観が生きていた時期がどこの地域にもありました)

 そのような準備教育にはふたつの側面が見られます。

 そのひとつは、いわば教育の社会的な側面ともいえるもので、社会に必要とされる多様な労働力の確保と生産性向上のための教育機能です。そのことによって、たえず物的資本の増大が期待されるからです。いい人材が集められれば、市場競争において有利に商売を展開できるからです。

 もうひとつの側面とは、いわば個人的なものです。物的資本(典型はカネ)が増大することによって、個人生活における消費は拡大し、生活水準の上昇が約束されるからです。これを見ても、学校教育はけっして子ども自身の成長や発達に焦点をあてて実行されるのではないのが明らかです。

 これを学校教育が担っている統合化機能ということもできるでしょう。統合(integration)というのは社会のさまざまな集団(セクター)が求めている人材を適切に送りこむことです。単純に社会化するというのではなく、それぞれの需要(必要)に見あった人材(能力)を供給するといってもいい。そのために学校はいろいろな訓練を施して、既存の社会秩序を子どもたちに抵抗なく受けいれさせようとする。人材配置機能ですね。学校が毎日やっていることはそんなことなんです。けっして子どもや親のためなんかじゃありませんよ。「金の卵」ってなんだ?「就職氷河期」だって?

 この数日、降ってわいたように列島全体が危機に襲われ、それを退治するために「鉄面皮仮面」がやおら登場し、危機から人民の身を守るため、にわか仕立ての「非常事態宣言」もどきを出しました。まるで「危機状況」の下手な「自作自演」であり、自己救済(青汁ではない)本意のために列島の大半の住民を巻き込むような鼻息の荒さです。飛沫感染に十分に注意したいね。人民のいのちを尊重しているのかと問うのも恥ずかしい売り込み政治だというほかない。このあわれな状況の収束はいつ到来するのか。願わくば、五輪前に来てほしいね。(「学校」は「列島」の敗戦後と同じで、今でも「独立」なんかできてないよ)