半信半疑?

 この日の午前中、わたしは、マハトマ・ガンジーが生活したこの小屋のなかにずっと座っていました。この小屋に息づいている精神を吸い込んで、それが伝えるメッセージがわたしのなかに浸透するにまかせたいと思ったのです。この小屋では二つのことがたいへんわたしの心を動かしました。一つはこの小屋の精神的な側面で、もう一つはその居心地のよさです。この小屋を作るときのガンジーの視点を、わたしは理解しようとしました。また、この小屋の単純さ、美しさ、きちんとした様子がとてもわたしの気に入りました。この小屋は、すべての人びとへの愛と、すべての人びととの平等の原則を表わしています。メキシコでわたしに提供されている家も多くの点でこの小屋に似ているので、わたしはこの小屋の精神を理解することができるのです。

ガンジーの小屋

 この小屋には七つの場所があります。まず入ったところに、靴を脱いで、小屋に入るためにからだと心の準備を整える場所があります。それから、中央の部屋があって、この部屋は、大家族でもゆうに泊まれるほど大きい部屋です。今朝も四時に、わたしがその部屋で座って祈ろうとしていると、わたしの横には一つ壁に背をもたれて四人の人間が座っていました。向い側にも、くっついて座れば同じくらいの人数が入れる空間がありました。この部屋は、だれもがやって来て他人と一緒にいることができる部屋です。三つ目の空間は、ガンジー自身が座って仕事をする部屋です。さらにあと二つの部屋があり、一つは来客用、もう一つは病人用です。それから、外につながるベランダと広い浴室があります。これらの場所は、それぞれに非常に有機的につながっています。

 金持ち連中がこの小屋にやって来たら、きっとこの小屋を鼻で笑うかもしれません。でも普通のインド人の目から見れば、どうしてこれ以上大きな家が必要なのかわたしにはわかりません。この家は木と泥から出来ています。これが作られたとき働いていたのは、機械ではなく人間の手です。わたしはこれを小屋と呼びましたが、本当は「ホウム[うち]」と言わなくてはいけません。家[ハウス]とホウムとは違います。荷物や家具を納めておくのが家です。家と言うとき、われわれは、人間自身より、家具の安全や便宜を考えています。デリーでわたしにあてがわれた宿は、多くの便宜を備えた家でした。そうした便宜の観点から建物が構築されていました。それはセメントと煉瓦で出来ていて、まるで、家具と他の便宜品をうまく納めることができる箱みたいでした。われわれが理解しなければならないことは、われわれが一生のあいだに集めつづけるすべての家具や品物が、けっして内なる力をわれわれに与えないということです。それらの品じなは、足の不自由な人が持っているいくつもの杖です。こうした便宜を持てば持つほど、それに頼ろうとするわれわれの依存心は大きくなり、われわれの生活力はますます制限されていきます。

 それに対し、ガンジーの小屋でわたしが見た家具の類は、違う種類のものです。というのも、それらの家具にわれわれが依存しなければならない理由は少しもないからです。あらゆる種類の便宜に合わせて作られた家は、われわれが弱いものになったことを示しています。われわれは、生活する力を失えば失うほど、手に入れた品ものにますます依存するようになります。ちょうど、われわれが、人びとの健康のために病院に依存し、子どもたちの教育のために学校に依存するようになったように。病院も学校も、残念ながら、一国民の健康や知性の指標ではありません。病院の多さは、現実には、人びとの不健康を示し、学校の多さは、人びとの無知を示しているのです。同様に、生活を便利にする多様な品じなは、人間の生活のなかで、創造性が発揮される場所を最後の最後まできりつめてしまうのです。(イバン・イリイチ『生きる思想』桜井直文訳、藤原書店刊・1999)

 このような経験をイヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)がしたのは半世紀ほども前のことだったか。「あらゆる種類の便宜に合わせて作られた家は、われわれが弱いものになったことを示しています。われわれは、生活する力を失えば失うほど、手に入れた品ものにますます依存するようになります」という指摘は物質・便宜至上主義の時代病を言い当てている。ぼくたちの生きている時代ははてしなく「弱いもの」になっていくぼくたちに欠かせないと「信じ込ませる」品々でいっぱいになっています。もうそれなしでは生きていけなくなっているのです。ものを「多く」持っている人ほど「弱い」というわけです。コンビニエンスストアは、ぼくたちの弱さに付けこんで繁茂した蔓草のようです。コンビニの多さを誇る時代や島国はどんなところなんですかね。

 病院がたくさんあるのはそれだけ社会に(病人というよりは)「患者」が大量生産されているという意味であり、その社会の不健康度を示しているという。本来は自分の足で立ち、自分の足で歩くのが自然なのに、とイリイチはいいたいのでしょう。「病人(患者)」は「病院」が作る。いまでも問題視されるのですが、「無医村」や「無医地域」とはどんなところだったか。そこに、病院が作られた途端に、この地域に「病人(患者)」がこれほどいたとは、とは驚くのです。病院が必要であるのをぼくは否定しないが、それがいかなる種類の「治療」をほどこす病院であるのかがまず問われるべきでしょう。「患者」を自立した人間として尊重するような姿勢があるかどうか。

 「学校の多さは、人びとの無知を示しているのです」といわれて、「もうたくさんだ」と言下に拒否する(学校信者や学歴信仰者のような)姿勢を自分がとらないことを祈るばかりです。ものを学ぶのにどうして誰かに依存しなければならないのか、それも何年も何十年も、というのです。学校こそが「無知な人間」を作る。三十や四十になっても、七十や八十になってもだれかに頼るというのは、文字通り、学校社会であり、学校信仰社会であります。同じ答えでも、自分で考えついたのはよくなくて、教師から教えられるのが本当に価値があるとでも思っているのでしょうか。

 この「病院」と「学校」の存在理由をイリイチが述べたくだりは、今以上に周囲がよく見えなかった愚か者だった時代に、じつに大きな衝撃をぼくに与えたのでした。「脱学校」「脱病院」という彼の姿勢・思想は、以来ぼくの深部に巣くったままです。長く病院にいるとはどういうことか。学校歴が長いのは自慢することなのか。病院も学校も一人の人間の成長や自立にどんなことをしているのか。「医原病」はイリイチが作った言葉のようです。医療によって生み出される病気。「校原病」は?それはどんな症状をみせるのか。故岡部伊都子さんと話していた時、彼女はいいました。「私は学歴はあらへんけど、病歴だけはだれにも負けへんえ」。いかにも楽しそうに言われた。あるいは自慢気ですらありました。

 《物を疑うことの価値にめざめるとき、はじめて人間は進歩するのに、そういう起点は「忠誠」の二字におしつぶされていた。善意の教師、まじめな学徒はその害毒に深くむしばまれた。おしきせの優等生意識にはまりこんでいたぼくも例外ではなかった。だから日本人でない教師に出会ったとき、痛棒をくらうのは当然だった。

 東京外国語学校にはいってやがて作文を書いたとき、ぼくは「半信半疑」という日本語を横文字に直訳してもちいた。それを見たスペイン人ホセ・ムニョス先生は、ぼくをゆびさして言った。

「半信半疑?おかしいではないか。信ずるってことは疑わないことだよ。たとい二分の一だろうと三分の一だろうと疑う気持ちがあったら、それは相手を信じていないことではないか。どうして日本人はそんないい加減な言葉づかいをするのか」

 ムニョス先生は、驚きと忠告の思いを全身で表現しながら語った。ぼくは顔をまっかにした。はずかしさの裏に、しかし快感があった。英語のエデュケーションも、スペイン語のエドゥカシオン(教育)も、ラテン語のエドゥカティオ(ひきだす)という動詞からうまれたが、そのときのぼくは自分の内側から大切なものをひきだされていると自覚した。そういう快感だった。また、人間の言葉は全身で発音できることも、そのときに知った》

朝日記者時代のむのさん

《人間の可能性を信じて、それをひきだそうとささえ合う者はみな教育者である。その努力を怠る者は非教育者である。ひきだそうとしないで、逆に人間をなにかにおしこめようとする者は、職称が教育学者であれ教育大臣であれ、実体は反教育者である》(話し手・むのたけじ/聞き手北条常久『むのたけじ 現代を斬る』イズミヤ出版2003年)

 むのたけじさん(武野武治・1915-2016)は百歳を超えて仕事をされていた。「ぼくの人生には老後も余生もない」という生き方をぼくはむのさんから教えられた。「物を疑うことの価値にめざめるとき、はじめて人間は進歩する」というのはどんな教科書よりも教師よりもぼくの足元を照らす一条の灯りでありました。

 まったく異なった生き方をしたイリイチとむのたけじ。この二人が出会う交差点(crossing)にぼくは長い間立ち続けていました。今は脚力が衰えたために、安全を期して歩道に上がりましたが、それでもなお交差点を見つづけています。

 洋の東西、古往今来、「同じ方向・地点」を凝視していた先人がいた。ぼくにもめざす方向をさし示している無数ともいえる先人・先輩たちがいました。これまでの人生ではなにほどのこともできなかったけれど、いまなおその方向に向かってもたもたしながら歩き続けているのです。

俗物め、何を言うか

 なるほどわが邦目前の社会相は、かならずしも美しくまた晴れやかではない。人はみなたがいに争っている。欺(あざむ)きうべくんば欺かんとしてさえいる。この形勢をもって押進むならば末は谷底であることは疑いの余地がない。しかももはや打棄てては置けぬということと、在来の治療法では不十分であったこととを、よほど多数の者が認めるようになったのである。このうえは新らしい方法の発見、その次にはかならず救おうという決心とを必要とするのみである。この二つのものについては、人びとはまだ絶望はしておらぬ。ただ待遠しさの煩悶を見るばかりである。ゆえに自分は救われるであろうと信ずる。(『青年と学問』)


 これは1925年5月に信州東筑郡教育会における講演記録です。今日ただ今の講演ではありませんこと、念のためにお断りしておきます。状況はそっくりだという意味は、時代はいつも同じ状況下にうごめいているということでしょう。いい人もいれば悪い人もいる。政治家の風上に置けない輩もいれば、もって鏡とすべきという政治家さんもいる。詐欺もいれば強盗もいる、それが世の中。いずれ人間のすることですから、チョボチョボですが、時代に生きている人間にはしなければならない稼業・家業・課業というものがあるんじゃないですか。持ち場で、現場で汗をかきましょうかというのが柳田さん。

 ずいぶん長い講演で、多分一時間や二時間ではなかったように思われます。もっとも明治や大正の時代にはそれは当たり前で、ボクの記憶では柳田さんは八時間をこえる講演をしています。話す方も聞く方もたいへんな忍耐力だったし、それ以上に互いに学び合う姿勢がちがっていたんでしょうね。職場に行って、ご飯を食べて、夕方帰宅する時間になるまで「講演」するというのですから、半端じゃありませんでした。

 「青年と学問」をふくむ柳田さんの作品が一本にまとめられて、現在『青年と学問』として岩波文庫に数えられています。ぜひとも読んでほしい一冊ですね。やがて時代は軍国主義に席巻されかかる前夜(まるで戦前)でした。柳田さんのような考え方は楽観主義ともいわれましたし、また戦時中には体制派に取りこまれたともいわれました。他人はなんとでも言うのです。それはともかく、声を大にして「公民教育」の重要性を訴えんとしている柳田国男さんは異常なほどの情熱を傾けていたと思われます。それはなぜだったか。


 ここでいわれている「学問」とは、ひろくは「教育」という意味です。いったいなんのための教育・学問ですか?と問われて、

 「学問なんか何のためにするかという質問は、じつはもと我々には不愉快なる軽蔑の言葉に聴(きこ)えた。俗物め、何を言うか、およそ人間の努力、人間の携わり得るほどの事業のなかで、これが最も高い種類のものなのだ。実利世用の有無などは問うところでないのだと、独りごとには言い切っておりながらも、実際は内心窃(ひそ)かに煩悶した人が多かったのである」

 もちろん、柳田さんにとってみずからが生みの親たる「民俗学」(社会史)(文化史)を念頭においての啖呵であったことはまちがいないのですが、趣味に流れたり浮き世の憂さはらしがもっぱら教育や学問の意味だとされがちな時代にあって、彼はもっと現実的な視点でものごとをみていたということができます。

 「今が今までぜんぜん政治生活の圏外に立って、祈祷祈願に由るのほか、よりよき支配を求めるの途を知らなかった人たちを、いよいよ選挙場へとことごとく連れ出して、自由な投票をさせようという時代にはいると、はじめて国民の盲動ということが非常に怖ろしいものになってくる。公民教育という語が今頃ようやく唱えられるのもおかしいが、説かなければわからぬ人だけに対しては、一日も早くこの邦この時代、この生活の現在と近い未来とを学び知らしめる必要がある。ここにおいてか諸君等の新らしい学問は、活きておおいに働かねばならぬのである」

 信州の若い教師たちを前に、普通選挙法成立直後の「公民教育」の意義をおおいに説こうとしたのです。学問は世のため人のため、つまりは「経世済民」(けいせいさいみん=世の中を治め、人民の苦しみを救うこと。経国済民。)(広辞苑)のためなのだというのです。国家のためといって、結局は一握りの国家本位主義者の餌食になるようなことがあってはならぬ。おかしいことはおかしいと、自分の考えをはっきりと表現する(言い切る)力をつけることこそ教育の大事だといったのです。

 この1925年には「治安維持法」も制定された。いわば人民に「アメとムチ」を与えたことになる。ぼくたちが経験している劣悪なる政情もまさに同日の談ではないですか。片手で握手を求めて、別の手で殴り倒すという乱暴極まりない政治がいよいよ末期の症状を呈しているのです。「碩学」が根を限りに青年たちに「選挙」の重要性を訴えたのは、どんなにいい制度が法律になっても、それを行使する権利や義務を放棄するようでは、権力の思うがままになるという経験からのやみがたい真情であったとぼくには思われます。いまどき「青年と学問」かよと笑われそうですが、笑わば笑え、マスクを買い占め、バカ高値で転売するこの島の現実をどう見る。付和雷同の行列列島は沈没するよ。いやもうしている。「妄動する国民」を載せて漂流する「日本劣島春景色」かよ。

 「上が上なら下も下」といっていいるだけでいいのか。「俺が法律だ」とぬかす政治屋がこのクニを破壊に導きつつある状況を座視していていいのかと、ぼく如きがほざいてもわめいても致し方ないのは当然です。だから拱手傍観を決めるに越したことはないとばかりに安穏をむさぼろうじゃないかというのでもない。「説かなければわからぬ人だけに対しては、一日も早くこの邦この時代、この生活の現在と近い未来とを学び知らしめる必要がある」と柳田さんにならうほかなさそうです。五十を超えた柳田壮年の意気をこそぼくのものに、だ。(「青年も老年も学問」を)

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教えられる前に学べ

赤瀬川 いちばん魅力的なのは、自発的な力といいますか、自発する力だと思うんですよね。僕なんか勉強が苦手なもんですから、本当にそれだけなんですね。聖路加国際病院の精神科の大平健さんと対談したのはおもしろかったですね。患者さんが来ますね、分裂病とか鬱病とか。インターン時代は、その患者さんと先生のやり方をそばで筆記しながら覚えるらしいんですよ。意味よりも間合いとか流れを見るらしいんです。

原平さん

 大平さんの先生は『甘えの構造』の土居健郎さんで、患者さんが一生懸命、困ったことをいっていて、土居さんは「そうか、困ったなあ」とかいいながら聞いてあげてる。インターンとしては、次に何をいうかなって、待ってるんですね。あんまり間が長いんで、パッと見たら先生が眠ってるんだって(笑)。そしたら、患者さんがインターンの方を見て、「先生」眠っちゃいましたね、今日はもう僕帰ります」って。僕は名医だと思ったんですよね。 

鶴見 患者から学ぶ医者は名医です。患者から学ばない医者は名医じゃないです。

赤瀬川 患者はもう自分で治すしかないんですから(笑)。

鶴見 はははは。

赤瀬川 いやほんと、それしかないんですよ。

鶴見 学校の先生もそうですよ。子供から学ぶ。親もそうなんです。自分の子供から何を学んだか。自分の親にね、あなたは何を学びましたか、っていう質問を出してみるといいと思うんですよ。親はギョッとしますよ。つまりそのことをゆっくり考えて、何かの答えを出せればおもしろいですね。親にとって、0歳から学校に渡すまでの六年間の学校があるんですよ。それはまったく創造的な学校なんですよ。マニュアルはあまりないんです。いくらかあるとしてもね。親自身が創造的な教師だ、いや創造的な学生だ。これはおもしろいですねえ。教師も、生徒から学ぶ教師は、見込みのある教師なんです。

赤瀬川 そうですね。

鶴見 だから湯川(秀樹)さんはね、第一論文は一人で書いた。留学もなんにもしないんですよ。お父さんが漢学やってたんで、子供の時に『荘子』を読んだことが大変なヒントになるんです。第二論文は、自分の学生の阪田昌一との連名なんです。第三論文はこれも学生で、この間亡くなった武谷三男と阪田の三人の連名なんです。湯川さんは教室の中で生徒から学ぶ力を持った、珍しい教師なんです。(中略)

 日本ではね、先生が正しいことを全部握ってるというんで、小学校からやるからねえ。ここに混乱があるんですよ。日本は神の国であるぞよっていわれるから。これ困りますねえ。それはソビエト流にしても、同じことが起こるですよ。だから生徒から何を学ぶか。 

 〔この対談は「赤ん坊と老人」の力についてがテーマです。もう、読んでもらうしかないほど面白い。学ぶというのは教えるの反対ではなく、それの否定。教える前に学ぶ。論理や理屈は何とでも言えるもので、いわば空論です。赤ん坊は空論には無関係に、もの自体に(自然記号)密着します。教えられるのは理屈。それが遊びの本質ではないでしょうか。ものにそくして、動いて行く。自然流です〕

鶴見 言葉だけに意味があると考えているのが、学校教育の考え方なんだけども、それから手を離さなければ、学校に来るまで、どういうふうにして子が育ってきたかが、わからないわけ。つまり環境とのやりとりなんですよ。千年も千五百年も前から、そのことは認知されていたんですよ。つまり自然記号の問題。昔の家だと、老人に天気のことを聞く。今日の天気はどうなのか。雲の形を見るとか、四季を感じるとか、そういう意味の取り方があるわけですね。これは老人がひじょうにすぐれているんだけども、赤ん坊にもあるわけです。

 赤ん坊は、物と生物と人間の区別がはっきりしないですよ。いま、覚えているのは、カステラが来たら、私の子供はそれに対してしきりにおじぎをしていたね(笑)。カステラということはわかるから、いいものだと思うわけだ。だからおじぎをしているわけなんだ。それが普通でしょう。そこから出発するんですよ。そのことからしか意味の自然な成長はないんです。そのことを忘れちゃって、学校で何か教えるというのは、基本的に歪めてますね。(『鶴見俊輔対談集「未来におきたいものは」』晶文社刊。2002年)

 赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)(1937-2014)本名克彦 作家・画家。一九三七年生まれ。主な作品として『全面自供!』、『老人力』、『老いてはカメラにしたがえ』など。

 鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)(1922-2015)哲学者、評論家。大衆研究・思想史研究に新しい領域を開く。「思想の科学」創刊以来の中心人物。『鶴見俊輔座談』など。

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ナンセンス\(^o^)/

 「新教育運動の華やかなりし頃、私もその運動の実践的な一翼に加わっていたが、新教育学校の中でも、もっとも急進的であった「児童の村」の教育なども、田舎から出て来たばかりの私には、やはりその背地(註 土から離れるという意味)は不満であった。自由教育の学校も総じてその教育理論の華やかな割合には、内容的に、逞しい大地性がなかった。いずれにしても都市的教育理論であり、文化人の盆栽学校であり、文化住宅式の土いじり程度のものであった。時代の産物ではあるが、時代を教育するものとは思われなかった」

左は耕一郎氏、右は健二郎氏か

 「教育は時代の要求する人物を作る仕事であるとともに、時代の批評であり、修正でなければならないと考えていたのである」

 「「教育とは子供の天分を自由に伸展培養するものである」ということには、異論はないけれども実際の教育を見ると、どうも時代や児童に甘えたものが多かった」(上田庄三郎『大地に立つ教育』上田庄三郎著作集①。国土社刊。1978年)

 上田庄三郎(1894-1958)1914年高知師範学校卒。11年間地元で教員として勤務。最後は三十歳前に校長にさせられた。教委の意図は「いうことを聞かない奴を校長にし、後は退職を待つだけ」という謀略にあった。「自由教育」の急先鋒とみなされ、脱藩、もとい出離、いや出里。上京以後、劣島初の「教育評論家」として第二次世界大戦後まで活躍。

小砂丘忠義

  土佐の教育界はこの上田さんを擁するにはあまりにもふところが狭すぎました。彼の後輩の小砂丘忠義(1897-1937)にしても、いびり倒され、挙句にはじき出されるようにして郷里を後にしました。世上いわれているほどには剛毅さはなく、ゆとり(あそび)に欠けるのが土佐の教育(ボスたち)界だったといわざるを得ないでしょう。もっとも、坂本龍馬をはじめとして、離郷、出郷は後を絶たなかったのですから、むしろ、青年の側に六分の侠気と四分の熱がたぎっていたというべきか。

 上庄さんの意気に感じる箴言をひとつ。

 「資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が想像するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ 得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。(同上)」

 「都会生活十余年、時々、モガやモボから、「百姓々々」と呼びかけられながら、この詛うべき近代背土文明の地底に、ひそかにしつらえていた小さい爆破作業の一部が、書肆の援助によって、この一書となり、世に問う機機会を得たのである。教育の革新期と云われている今日、軟かき蒼白き手よりは、節くれ立ったバラガキの多くの手が、季節はずれのこの書を通して、堅く握手されることこそ、著者の熱きねがいである」(はしがき)

 このように上庄さんが書いたのは昭和十三年九月のことでした。  

 「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」というセリフに出会ったとき、ぼくは驚愕し「狂喜乱舞」の異常な興奮をしました。こんな「ことば」は後にも先にも耳にも目にもしたことがない。彼の後輩の小砂丘忠義もまた、教委の鈍(なまく)らな、かつ陰湿な手には負えなかった。上田さん同様に、いや彼よりもっと若くに「校長」に祭り上げられ、反抗の限りを尽くしながら、やむなく出郷。上京し、いろいろな仕事をしながら、「綴り方」教育の屋台骨となり、黙々と子どもたちの作文に取り組む。最後は凄惨な死を遂げました。

 今でもそうですが、「レッテル」を張った教員には徹底したいじめをするのが劣島中の教育委員会の仕事・職務。上庄も小砂丘もその洗礼を受け続けた。高知の山奥から海岸沿いの学校への移動は年中行事。辞めるまで続けたね。また小砂丘の妹も教員をしたが、憎い奴の妹だとばかりにさっそく「異動」を命じられたが、彼女は頑として言うことを聞かなかった。強情な点はハンパじゃなかった。一人じゃ何もできないが、「烏合の衆」を恃んで、ぼくらが思いつきもしないエゲツナイ仕業を仕掛けるんだね、役人は。今に変わらぬ、意地汚さ。(何年も前に、ぼくは上田さんの娘さん(校長でした)と都内北区の学校でお会いした記憶があります)

 ぼくはこの二人の「いごっそう」教師の「生活と教育」を本にまとめようとして資料を集め、現地(土佐)での取材もし、数百枚(ひょっとすると千枚近く)の原稿を書いたのですが、どうしても気が進まずに、出版を断念したことがあります。数年前のことでした。出版社も乗り気で随分と気前よく援助をしてくれたのですが、放棄してしまった。なぜだったか、今でもよくわからない。彼らの教育実践が現下の劣島にはあまりにも「まとも」すぎて、まず顧みられることがあり得ないとぼくが判断したからだったと思う。「もったいないよ、この島には」「彼らには申し訳ない、いまの状況では」というへんてこな感情がぼくにはありましたね。いま考えても。両人の「ナンセンス」度は抜群でしたから。

 あるいは狂い咲きのごとくに、駄本を書くことがあるかどうか。まずないね。

サクラチル、モットチレ

 第1回「美しい国づくり」企画会議 日時:平成19年4月3日(火)17:00~18:00                             場所:総理大臣官邸2階大ホール

○安倍内閣総理大臣

 皆さん本日はそれぞれ大変お忙しい中、この「美しい国づくり」企画会議第1回目の会合にお集まりいただき、厚く御礼を申し上げます。私は、内閣の発足以来、「美しい国」をつくるということを内閣の基本的な方針、目標として掲げてきました。ちょうど折しも今、桜の満開を迎えておりますが、このホールも桜のじゅうたんであり、やはり桜も一つの日本の美しさの象徴ではないかと思います。

官邸ホール

 本居宣長も「しき嶋のやまとごごろを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と詠んでいるわけですが、先般も来日されたキッシンジャー元国務長官にお目にかかったときに、彼は「日本には何回も来ているけれども、この桜の時期に来たのは初めてだ」とおっしゃいました。「ワシントンでは常に桜の花の満開を楽しみにしている」とのことで、ワシントンの桜の花はまさに日本のイメージとともに、米国人からも愛されていたということではないかと思います。この桜だけではなくて、日本中の至るところに日本の美しさは満ち溢れていると思います。

 かつて日本を訪れた多くの外国人は、日本人の礼儀正しさ、謙虚さに心を打たれています。こうしたお互いのお互いへの思いやる心(?)、あるいは謙虚な礼儀正しさ、そして共生していくことについて、日本人はその共生、協調を大変重んじており、言わば日本の美徳、美しい振る舞いといったものを我々はやはりもう一度見つめ直していく必要があるのではないかと思います。また近年それが失われてしまっているという声もあります。

 また、新たな日本の素晴らしい価値も生れており、アジアにおいてはいわゆるJ-POPS、また日本のファッションが新しい日本の美しさ、強さ、日本らしさとして受け入れられてもいます。日本人が古来持っている美しさ、またもともと存在する素晴らしさ、美しさ、そしてまた生れつつある新たな日本の素晴らしさについて、ぜひ我々ももう一度よく認識をしながら、これを内外に向けて発信していく必要もあるのではないかと思います。

 私は、就任の際の演説で、私の美しい日本の姿についてお話しましたが、わかりにくいというご指摘もいただきました。これは、まず私の考え方を述べさせていただいたものです。本来、国がそれを定義づけるのではなくて、国民の皆様方お一人お一人が、日本の美しさ、また日本人の美しさは何かということを問い直していただき、守るべきものは守っていく、継承していくものは継承していくということが大切ではないかと思います。

 こうして各界で活躍をされておられる有識者の皆様方にお集まりをいただき、皆様方のご議論をさらに国民の中に広めていくことが大切であろうと思います。そして、行動、実践していくことも重要ではないかと思いますので、国民的な運動にもつなげていければと思います。どうぞよろしくお願いします。(紋切り型・蛇足)

  よくわかんない。「桜・共生・協調・J-POP・ファッション」これが日本の美しさだというんですが。この企画会議の座長は日本画家の(故)平山郁夫さん。

 どうしようもないわたしが歩いてゐる(山頭火)

 山頭火と「●●ソーリ」は同郷のよしみ(山は湯田、晋は下関)ということで並べてみました。宣長さんをだしにして桜を騙るなんざあ、さすが山師。(もちろん、木っ端役人の作文)とはいえ、「美しい国」はどこに行ったのか。崩壊したのか。あるいは「美しくない国」になったのでご破算にしたとでもいうのかしら。それとも、すでに「美しい国」が作られたというのだな。

「春功労の花の縁」

 こんな「古證文」を持ちだしたのは、理由があってのことではない。雑録メモが見つかっただけ。今年の「サクラを見る会」を早々と(昨年のうちに)中止にしたとはなんという先見の明があったかと感心したんだ。たぶん「ウイルス感染」問題をとっくに知っていたからだ(超予知能力ね)。中止宣言はまだ中国で「コロナウイルス問題」が発生するよりはるか前のこと。(問題発覚は昨年五月。直後に「来年は中止」と断言。よほど「やば」かったんだ。今は「本物」の感染問題で一時逃れができているが、また再燃します)

 この会議の四か月後に突然の辞任を発表しました。サクラ散る!!!

…あと幾年の櫻花

 「わしがいろんなことに気づくようになったのは、やはり桜をやりかけてからですね。桜の生長の度合いを見ているときに、いくら人間がやいやいというてもどうにもならんとこがあるんですわ。花を咲かすには遅れていても芽さえできていれば、時期がくれば咲きますし、逆に咲くのを遅らす場合はフレームを入れるとか、日に当てないで長いこと寝さしておくとか、そういうことはできますけれど、人間の力で花の咲く芽をつくることは絶対できませんわね。

植藤造園

 人間はできたものを咲かすということはある程度できますわ。でも芽がなかったら、どうしようもないんです。そやから、「ああ、芽が出ん」というのは、もうすべてあかんということですわな」(佐野籐右衛門『桜のいのち 庭のこころ』草思社刊、1998年)

 「芽が出ない」というのは「もうあかん」ということ。そういわれれば、それまで。しかし、よほど無茶なことをしないかぎり、どんな木でも「芽を出す」ものです。

 今年咲いた桜の花芽は前年のお盆ころにでる。花を咲かせるというのはその木の一年間の仕事納めです。咲き終わると、あっという間に散る。それは、さあこれから来年に向けて精をつけるぞという合図のようなものでしょう。一年かけて花を咲かせるように時間をたどる。自然のリズムをいじることはできます。開花の時期を人工的に早めたり、遅くしたりすることはできる。でも、それがどんなに「美しい花」をつけたとしても、時間を調節する、時間をいじる、それはまちがいなく樹木の生長する時間を奪うことですが、そのことの弊害ははっきりしています。

十六代

 「このあいだも、仙台から、桜が弱ったから来てくれという手紙がきたので見にいったら、広瀬川の土手の上の官地と民地の境にずーっと桜が植わっているんですわ。問題の桜はたまたま民地のほうにあって、そこへ家を建ててから急激に弱ったという。一抱えもある桜です」

 いろいろ話を聞いていると、家を建てるときに、桜の根をあやまって切ってしまったらしい。だんだん元気を失って、すぐに葉を落としていったそうです。それで、これはいかんと勝手に思いこんで、根本に水をたっぷりやったというのです。

 「こんな木になんで水をやるんやて、わしは言ったんですわ。根腐れしているのと同じことなんです。この桜の根の先はずっと向こうにあって、そこから栄養分を吸うておるのやから、こんな幹の根本に水をやったって、かえって腐らすといったんです」

 佐野さんの弁はさらにつづきます。

 なんでも人為的に、つまりは人間の都合のいいように判断する。「自分の見たところで木までそうやと思っている。人間の生活と同じリズム、状態のことを相手にさせようとする。日本のあちこちの桜を見に行くと、ぜんぶそれですわ。それが日本の桜をだめにしているんです」

 人間の勝手が、どんなに自然を壊しているか、その自然から人間もはずれることはできないのに、です。自然を壊す、それを教育やなんやと、アホなこというてますな。

 根本に水をやりつづけるとどういうことになるか。

 その木は根を伸ばそうとはしなくなります。なぜなら、自分で根を伸ばさなくても栄養分がよそからやってくる(与えられる)からです。根を伸ばす、根を張るというのは栄養分を吸収するための活動であり、大きく根を張ることで木の成長を支えるわけです。根を張ることで、大地にしっかりと立つ、つまり木がじょうぶになる。根を伸ばさないで栄養分がとれるから、どんどん木は高くなる。つまり、頭でっかちになる。そして、ちょっと風が吹いたり、地震が来ると見事に倒れるんです。年中、そんな光景をみるでしょう。

  この先はいわなくてもいい話ですが、せっかくだから…。

 「日本人の子供の教育のしかたと一緒でっしゃろ。こんなですから、ちょっと大きな風が吹いたら、ゴローンとひっくり返る。これは根張りがないからです。伸ばす必要がないのやから。伸ばさなくても餌をもらえるんやから。人間はいらんことばっかりしてるんですわ。そやから、わしは相手のこと、植物のことを考えて人間がやれていうんですわ」

植藤造園

 植物に対しても動物に対しても人間は自分の好き放題をして、相手の気持ちを忖度(そんたく)しない。得手勝手というのはまさに人間のことをいうのでしょう。勝手にいじり回して、その挙げ句に放り出す。放り出された方は、独り立ちして生きていけなくされてしまっているのだから、始末に悪い。人にも動物にも植物にも、まったくおなじことを人間はしているのです。飽きたら捨てる、いらなくなったら捨てる。かまいすぎて、いじりすぎて、この先は自分でやれといわれても、どうしようもないのです。

 転ばぬ先の杖、これが余計なことなのですが、親切と勘違いしている人間が多すぎます。自分の都合で杖を与えるのですが、与えられた方は杖なしでは生きていけなくなる。

 小さな木は小さいなりに、大きな木は大きいなりに根を張る、そしてその根でしっかりと土をつかみ、その根の先からから栄養を吸収する。そのように人間も育ちたいのですよ。

 「根を張る」は「根張る」です、つまりは「ねばる」なんだね。

 (ぼくは小学生のころ、京都の山越(やまごえ)にあった佐野さんの苗床によく行きました。いまでは見上げるような立派な枝垂れになった桜も、まだまだ小さな苗だったころの話です。現在京都の円山公園の枝垂れ桜も佐野さんの手になるものです、植えたのは先代でしたが。佐野さんが生まれた記念に植樹したそうです。)

仁和寺

 佐野さんは代々の植木屋さんで「植藤(うえとう)」という屋号を名のった仁和寺のお抱え植木職人でした。ぼくは自分でも「サクラ人間」というほどにサクラ好きです。(学生時代には新宿御苑にしばしば通いましたが、いま騒がれているのはおそらく別の「御苑」でしょう。あんなところで選挙運動するバカはいなかった時代でした)引用した著者の佐野さんはたぶん十六代目で、ぼくはその前の十五代の佐野藤右衛門さんからいろいろと「サクラ」にまつわるお話を聞きました。その影響で「サクラ人間」になったというわけ。ぼくはまだ小学生でしたよ。桜の話はつきないが…。間もなく花見時ですね。いつも、「惜しみつつあと幾年の桜花」(拙句)というのが口癖になりました。