今日は天気がいいね

《校長先生のことをおぼえている。七十年たってもおぼえているのは、めずらしいと思う。

 旧東京市を横切り、電車を乗りついで小学校に達するのだが、一年生には苦しかった。他にもそういう一年生がいるらしく、朝礼のとき、ぱたん、ぱたんと倒れる気配がする日もあった。

  校長先生の話は、みじかかった。

 「今日は天気がいいね。」

 それだけ言って壇から降りてしまうこともあった。全校生徒八百人を前にして、それだけ言って終わるのは、今、私が老人になってみると、めずらしいことだと思う。高い位置に昇ったことのある人は、引退してからも、話が長い。結婚披露宴などに呼ばれて、話のとまらない人は、高い位置に昇ったことのある人だ。

 校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、「○○君、元気か」などと呼びかけてくる。一年生それぞれにそうだった。

 一年生は、全校生徒八百人の中にはじめて入ると、恐怖をいつももっている。愉快とは言えない。朝礼の時の他にも、校長先生はときどき、話をすることがあった。そのときには、すこし長めで、その話を七つ八つ、今もおぼえている。

  当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、新入生の名前をおぼえるのに努力が必要だったろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせておぼえるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ。

  十年あまりたって、私(鶴見)はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、「君は高等師範の附属小学校だろう」とたずねた。「そうです。」

 すると、「君たちの小学校の校長先生が、会いたいと言うので、ジョン・デューイのところにつれていったことがあるよ。」

 そうか。朝礼の訓示がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。(鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書、2010年)

 高師の附属小学校の校長は教授が務めるのが慣例でしたから。佐々木秀一先生も教育学の歴とした教授だった。(「高師」とは「東京高等師範学校」で戦前の教員養成学校の頂点に位置していた。その後は「東京文理大学」、「東京教育大学」から「筑波大学」と変名・変装して現在に至っている)当時の佐々木先生の令名はたいへんなものだったと思われます。著述もかなりの数がありました。(ぼくも何冊かは所有している)鶴見さんは佐々木さんがいかなる人物だったか、当時はもちろんのこと、その後(この著書を書かれた時期)もご存じなかったようで、ただただ挨拶の短い校長、デューイ直伝のプラグマティストと判断されたのでしょう。その判断の是非はともかく、ある意味では佐々木校長に真性の(と思われる)プラグマティズムが生きていることに驚かれたのです。

文京区茗荷谷にあった校舎。卒業生は「茗渓会」に属し、長く劣島の教員人事を牛耳っていた。(ぼくはメーケーではない)

 実はちょっとした因縁があります。ここに書くのは余計なことですが、ぼくは佐々木さんの孫筋に当たるようだと気づいたのはかなり前です。大学・大学院(行ったのは無駄だった)時代の教師が元教育大学教授で佐々木さんの後輩でした。この教授は高名な人で、たくさんの著書も書いていた。ぼくはいつも暇だったので、彼の戦前・戦中期に書かれた本を読んでいやな気分に襲われたのを今でも記憶している。故人の評価にかかわる話で、とやかく言いたくないのですが、大変な「国家主義・国粋主義」の人でした。(多かれ少なかれ、地位ある人間どもが権力に靡いた時代だったから、無謀な戦争に走ったのだと思います)ぼくが出会った時期(二十歳頃)はそれを隠して教授は「立派なクリスチャン」だった。さらに「嘘つきのキリスト教徒」というイメージをいだかされたのは、彼が亡くなった時でした。教師不信は止むことがなかった、とは自分で招いた不幸だったね)

 以後、若気の至りか、その教授のマヤカシ性が頭について離れなくなりました。(これもまた、貧相なぼくの「教師の面影」かもしれない。ひねくれていたから、「悪い面影」しかぼくには残っていないことになる。残念なことだ)

《明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった。だが、大学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた。》(同上)

 佐々木さんのデューイ論はここでは触れませんが、学生時代からぼくもジョン・デューイはたくさん読んでいました。彼の『民主主義と教育』(Democracy and Education. 1916年)はいまなお、ぼくの身近にありますね。デューイについても騙る種は尽きませんな。「日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった」と鶴見さんは言われるが、いやちがいます、とぼくはいいたい。田中王堂から石橋湛山へと、それから…と。戦後の51年、デューイはこの島にやってきていくつかの講演をしています。大正期にも来日していますね。いずれ騙りますかな。(脇道にそれて、終わり) 

________________________

怠け者先生

 戦後の島の文学史に大きな足跡(ダイダラボッチみたい)を残された吉本隆明さん(1923-2012)の「私の教師」経験談です。教師とは何者だったか。

 《この教師は一見怠け者で、自分が授業をしたくないと、生徒に代わるがわる授業をやらせたり、視学官が授業参観にくるという日は、その前日に主だった生徒を呼んで、「あしたの授業ではこういう質問をしろ」と振り当てた。八百長で、生徒は面白がった。わたしが覚えているのは、「吉本、おまえは、蚊はどうしてぶーんとうなりをあげるのですかと質問しろ」といわれたことだ。いってみれば「八百長授業」だが、それが面白かった。この先生の近くに寄ると、ときどき酒の匂いが残っているような人だったが。何とはなしに好意をもっていた》(吉本隆明『こどもはぜーんぶわかってる』批評社、05年)

 吉本さんはこの教師がとても好きだったという。なぜだか理由はわからなかったが、とにかく好きだった。「けれど僕らから見ても、とにかく怠け者の先生」だった。(ヘッダー写真:https://forms.gle/wjaoXEzjQukUk44n8

 《自分の授業中に、地理の時間なら地理が得意なやつに「あっ、お前」なんて呼びつけて「お前、これを説明しろ」などと言うのです。この地域の県庁所在地はどこで、この地域の特産物は何かとかを説明させて、自分は椅子に座っているだけで何もしないのです。また、呼び出されて傍に寄ると昼間なのに酒の臭いがぷんぷんするわけです〈笑〉。そうするとこの先生は夕べお酒飲んだのだなって思うわけです》(同上)

 いい先生、いい父親、いい母親、そしていい子ども。おそらくこんな幻影(観念)に呪縛されてきたのがこの社会の多くの人びとだった。「いい教師」とはだれにとってか。かりに子どもにとって「いい教師」といったところで、すべての子どもの「いい教師」になれるとは考えられない。「いい先生」の中身は千差万別です。「どんな人もだれかの教師になる」という意味のことを言ったのはニーチェだった。

 吉本さんはこの怠け者の教師が好きだった。どうして好きなのか、それがあるとき「これだと思った」というのです。

 同じ学校に、若いまじめな教師がいた。なんでこんなに怒るのかわけがわからなかった。ベーゴマをやっていると見回りに来る。さっと隠して、彼がいなくなるとまたやり出す。その教師が朝礼で「ベーゴマしていた奴は前に出てこい!」と詰問した。だれも出て行かないで黙っていたら、「何でお前たちは正直じゃないのか」と怒鳴り散らした。

 怠け者の先生は三年のとき吉本さんの担任でしたが、生徒たちの後ろ側の肋木(ろくぼく)に寄りかかって若い教師のお説教を聞いていた。

 《僕らも罪の意識がありましたから指摘されたら困るなと思って俯いてドキドキ不安になっているときに、怠け者の先生が突然「わかりません!」「聞こえません!」って大きな声を出して怒鳴りだしたのです。僕はアッと驚きました。そしてわかったのですね。ああ、この先生はその若い先生に反発している、反発していることが伝わるように大きな声で言う、そういう先生だったのだと。そういうことは一回しかなかったのですが、普段は怠け者の先生なので何でこういう先生が好きなのか僕は自分でもわからなかったのですが、このときに気付いたのです》(同上)

 吉本さんは「アッと驚き」、この怠け者教師の神髄を直感(直観)したというんですね。隆明さんは佃島育ちだったと思います。「江戸」がまだ残っていた時代だったかもしれない。授業中に酔っぱらって教室に入る教師が生息していた。教師の質(良か悪か)を子どもというものは言葉を使わないで掴む。そのグリップの方法は確かだとぼくにも思われる節があります。

《肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か、ということがいいたいだけだ。そこをちゃんと区別しないといけない。何事であれ、熱心に教えれば子供が乗ってくるかもしれない。だがそれがどうしたというのだ。大事なことはそこにはない。生涯にかかわる問題をもっと大事にすることだ》(『家族のゆくえ』光文社、06年) 

 少し飛躍気味ですが、「肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か」。教師が子どもにむけて仕掛けるのは「生涯の問題」なんだというわけです。この機微はゆっくりと考えてみる必要がありそうです。(「吉本、教師を体験する」はつづく)

_________________________

「十年一昔」かね

 この島社会にはたくさんのことわざ(諺)がありました。今はなくなったといいたいね。諺が生まれ出るような生活もなければ知恵も失われたと考えているからです。諺は生活の知恵でしたから。「十年一昔」という俚諺はどういう意味だったか。今はあまり使われなくなったのは、その諺に表現されていた「現実」や「現象」がなくなってしまったからでしょう。「世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のこととなってしまう」(デジタル大辞泉)というらしい。また反対に「十年一日」ともいうのね。(「同じ状態がずっと続いて、進歩や発展がないさま」)(同前)

 ここに、果たして十年前はどんな「昔」であり「一日(いちじつ)」だったかを確かめるつもりで「旧聞」を出してみた。社会や人間はずいぶん変わるのか、あんまり変わらないのか。変わる部分と変わらない部分があるんだといえば、身も蓋もありませんぜ。

「ドイツには「カラスは仲間の目玉をえぐらない」ということわざがあるという。動物行動学者のローレンツはこれはことわざとしては例外的に正しいと述べる。あの鋭いくちばしで仲間の目を突いていたら、カラスはすぐに絶滅するからである▲一方、彼は小さなくちばししかもたぬキジバトとジュズカケバトを飼っていた。ある日彼が帰ると、キジバトが羽毛ばかりか皮までむしられ、倒れている。ジュズカケバトはその上からなおも相手の傷をつついていたのだ▲ローレンツによれば、強い牙やツメ、くちばしなどのある動物は同種への攻撃を抑制する本能をもつ。それに対し無力な動物は仲間への攻撃の歯止めを欠き、人間もその一つらしい。だが文明は、攻撃性の抑制がきかない人間に武器という攻撃力を与えたというのだ」(毎日新聞・10/06/23)

カラス

 コンラート・ローレンツ(1903-1987)はオーストリア生まれの動物行動学者。刷り込み理論で名高い。1973年にノーベル医学生理学賞受賞。たくさんの著書を書いています。彼の理論にはいくつかの修正も加えられてきました。(ここでは、遺憾ながら詳細は省く)

 上の記事に続いて「旧聞」です。

 「広島県内のマツダの工場で42歳の男が乗用車を暴走させて従業員を次々にはね、11人を死傷させた。男は同社の元期間工で、「マツダをクビになり、うらみがあった」「むしゃくしゃしていた。どうでもよくなった」などと自暴自棄ともいえる供述をしているという▲(中略)車であれ、刃物であれ、自分がどうなってもいいという殺意に操られればたちまち多数の人命を脅かす。攻撃を抑制する本能に代えてモラルや情理を蓄えた人間の社会だが、それをあざ笑うかのような攻撃衝動は今どうして噴き出るのか」(同上)

 次は大学の登場です。十年前の大学事情ですね。「今は昔」、それとも「今も昔も」か。

 「昨年の「大学の実力」調査で8割強もの大学が開いていた保護者会。そこには、学生を一人前の社会人に育てようと懸命な現場の姿が浮かぶ。関西の私立大が保護者との「懇談会」を始めたのは7年前。全国各地に学長ら教職員が年に数回出かけ、個人面談も行う。「学生に関する情報が欲しい」と学生部長。学生支援には親の協力が不可欠と強調する。

関西のK大学の「保護者会」風景ですって。盛況ですね。

 保護者向けの大学見学会などを行う別の私立大の教員は、「親を教育したい」と打ち明ける。学生の代わりに履修登録をする、授業中の私語を注意したことに抗議する。さらには「気に入らない就職先なら、働かなくていい。養ってあげるよ」と言う親さえいるという。「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」と嘆く。

 ある国立大の教員は「もうリポートを書けません」と親に泣きつかれたことがあると苦笑していた。入学以来、わが子に代わって課題に取り組んできたが、専門課程で付いていけなくなったというのだ。大学が運営に腐心する保護者会の取り組みは、間違った親の出番を軌道修正する意味も持って、ますます重みを増すようだ」(松本美奈)(2010年6月24日  読売新聞)

 学校のもっている大切な機能・役割のなかでほとんど等閑に附されているのはなにか。子どもを人質(出汁・だし)にして、親を再教育することです。そんなことは考えられもしないという向きもあるが、じつはこれこそもっとも重要な学校の働きなのだとぼくはずっと考えてきた。その理由はいたって簡明です。子どもがじゅうぶんに安心して育つためには、まずもっとも長いつきあい(濃厚接触)を避けられない親の偏見や短慮、それに暴力から子どもを救う必要があるからです。

 もしも親たちが思慮の足りないままで「親でございます」「私がママよ」と子どもの前に立つとどうなるか。考えるまでもない。「親を教育したい」というだけではまだ不足で、親をこそ教育しなおすべきだというのです。これはけっして小中高校にかぎらない話で、大学もこの役割から自由ではないのさ。それがようやく大学人にも親たちにも気づかれだした。保護者会、おおいに結構ですな。それにしては手遅れだったね。

東京のC大学「父母連絡会」風景だそうです。「役員会」もありますよ。

 「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」というのはいまに限らない話で、ぼくはうんと若かった二十歳頃から何人もの親から子どもの面倒をみてほしいと頼まれました。まあ、家庭教師といってかまわないが、それは子どものではなく、親の家庭教師だった。これは徹底していた。親の再教育はそんなに困難ではなかった。子どもが身の丈にあった成長をするために、親の考えや態度がどんなに大切かをひたすら納得させる性質のものでした。もしそれがうまくいけば、子どもはひとりで歩き出しますね。ようするに、「親の自立」ですよ。自立大学という学校だったね、ぼくが作ったのは。

ローレンツ父さんの後を追うアヒル

 さて、教師も親も自分は「キジバト・ジュズカケバト」か、あるいは「カラス」なのか、とくと考えてみるべきでしょう。新聞記事は「攻撃を抑制する本能」などとのんきなことをいっていますが、とんでもない、その「本能」こそが「教養」なんだ。じつに崇高な感情でもあるのですね。教養という「本能」が滅んで、ついに「攻撃性」が出番を得たんだね。「教養学部」はいつでも必要です。ブレーキとハンドルを踏み間違えないのが「教養」なんですよ。それは学歴とは全く関係ない。むしろ学歴は「まちがえなく踏む」ときの邪魔をするね。怖いですよ。

キジバト

 大学に保護者会なんて、という嘆きの声が当の大学内から起こったといいます。大学人の慨嘆はどういうことだったんですか。まさか、大学は「学問の不、いや学問の府」であり、「象牙の薹、いや塔」だから、そんなものはいらないというのだったら、顔を洗ってくださいというべきでしょうね。暢気に構えていると、キジバトが暴れだしますよ。もう暴れ放題か。いずれ企業社会にも「保護者会」「父母会」なる成人自立阻害組織ができるでしょう。いやもうとっくにできてるよ、君だけが知らないのさ。

 猫を被ったふりをしているが、「キジバト」はホントは怖いし獰猛なんです。学内にはカラスもハトも生息している。(ハトは「平和の使い」だなんて、だれがいったか)そぼ降る雨の中、家の引き込み電線に「平和の使い」がこちらを睨んででいます、ずっと。その横手にはカラスが。我が家にも保護者会を!

医者の見立てと易者の筮竹

 「医学校の同僚がある婦人のことを話してくれた。入念な検査の後、片方の腎臓がすっかり機能を失っていることを知らされた婦人は、そのショックで突然聴力を失い、何ヶ月もの間根気よく心理療法をづけて、やっと聞こえるようになったのだいう。同僚はこのような起きなくてもいい病気が起きる事例を問題視していた。診断を伝えるときのいつものやり方が、本来の病気に劣らず深刻な問題を引き起こしているのである。

 私が会って話をするように頼まれた人たちは大半ががん患者だったが、ほかにもありとあらゆる重病の患者がいた。多発性硬化症、硬皮症、糖尿病、心臓病、パーキンソン病…。こうしたケースで目立った事実は、診断が出たとたんに病気が悪化したということである」(ノーマン・カズンズ『ヘッド・ファースト ―希望の生命学』春秋社刊。1992年)

 カズンズ(1912~1990)はアメリカ屈指のジャーナリスト。加えて、多彩な平和運動を果敢につづけた人でもあった。(拙ブログでも以前に触れておきました)

 自らの重病回復体験をもとに『500分の一の奇蹟』『私は自力で心臓病を治した』等を発表。晩年の十年間はUCLA医学校のスタッフとして、精神神経免疫学という未知の領域に突きすすみ、「人間の脳には病気を克服しやすいようなからだの状態をつくり出す働きがある」ことを検証しようと、精力的に働いた。

 医者が診断を下したとたんに患者の症状がいちだんと悪化するのはなぜだろう。「もしかしたら症状にレッテルが貼られたとたんに、病気の攻撃に対抗しようとする彼らのからだの抵抗力がひどく減退してしまうのではないだろうか」 彼はそう推理した。

 こんなことを思案していたとき、「ロサンゼルス・タイムズ」に載った小さな記事を見つけます。フットボールの試合中、何人かの観客が食中毒症状を訴えた。診断の結果、全員がスタンド下の自販機でソフトドリンクを買ったことがわかった。主宰者は観客の安全に配慮し、マイクで「自販機で飲み物を買った人が食中毒になった。自販機は使わないでください」と場内に知らせた。

 その知らせが響きわたったとたん、スタジアムは吐き気をもよおす人や失神する人で 大混乱になった。(中略)五つの病院から救急車が出て、…入院が必要になった人も一〇〇人以上にのぼった。ところが、自販機はシロだった。それが判明したとたん、「病気は、不思議にも、はじまったときとまったく同じように突然消えてしまった」

 患者たちは病院のベッドから下りて、家に帰っていった。カズンズはいう。

 「決定的な働きをしたものは、病気が起きたときも、おさまったときも、『言葉』だった。言葉が心の力によって病気を助長する、あるいは回復を助長する方向に処理されたのである」だれかに対して、どんな言葉をつかうのか。医者でも教師でも、あるいは親でも、きっと忘れてはならない事柄ではないでしょうか。コミュニケーションというものが、どれほど安易に語られているか、現実のありさまは驚くべき事態にあるのではないか。

 「君は末期のがんである、余命は三ヶ月だ」と「宣告」する権限を医者はどこから手に入れたか。

どうするんですか?オークションに?

 この島社会の医療問題にもたくさんの課題が指摘されています。現下の「新型肺炎」にしても失わなくてもよかったいのちが粗末に扱われている。症状を訴えて病院に行くと、医者は診察しようともしない。医者もそうだが、官僚や政治屋が医者以上に権威や権限を振るっている現状をなんと形容したらいいのか。病人を診察するのも重要ですが、余計な口や手を出しすぎる政治屋や官僚たちをまず、診察台にのせるべきじゃありませんか。マスクを半端じゃない高値でオークションに出品していた県議がいた、静岡だったか。もう病院じゃあつかえないね。県議に嫌疑だもの。

古い映画(1957年松竹・原作は井伏鱒二・渋谷實監督)

 「生兵法は大怪我の基」だとはっきりと宣告すべし。ひょっとしてたいていの医者は「つける薬がない」「これ以上、手の尽くしようがありません」というかもしれない。やっぱりな。さて、どうするかだ?(いつも書きながら情けなくなるのはどうしたことだろう。医者に行かなきゃ。おっと、本日は休診日か。行かなくてよかった。月曜でも行かなかったろうね)

 医者の見立てと易者の筮竹(ぜいちく)、どちらも陽気の「気(卦)い」次第(拙作)。つまりは、当たるも八卦、当たらぬも…。お医者の頭に雀が留まる 留まるはずだよ藪だもの(ドドイツ)

いまを生きるために

網野 おじいさんおばあさん、父親・母親が生きてきた世界を、自分たちは何も知らないんだということをいまの若い人に知っておいてもらう必要があると思うんです。だから夏休みのレポートは、前期に宮本常一の『忘れられた日本人』を読んでもらい、おじいさん、おばあさん、父親・母親たちから、自分たちが実際に経験してきた生活の話を聞いて、宮本常一さんみたいなレポートを書いてこい、と言うんです。いままでそんな話をしたことがなかったが、初めて母親と生活に即した話ができてとてもよかった、という感想を持った学生が何人かいましたよ。しかしわざわざ鹿児島まで、おばあさんの話を聞きにいったけれども、まったく言葉がわからなくて、なにも書けなかったという学生もいました。これほど違ってきているのですね。

 ともかく「いい」「悪い」の問題じゃなくて、知らないことを知らないまま、みんな知ってるつもりになられるのがいちばんこわいですね。

鶴見 高度成長の中で育った人たちは、映画を見たりCDを聴いたりすることがふつうになっているから、アメリカ、ヨーロッパと自然に連帯した気分があると思うんですが、アメリカは大変不景気になっているし、日本の外に出て行くと、いまの日本の暮らしはできない。いま日本の大学生は、アメリカに留学してもついていけないですよ。落第でしょう。入るのは簡単だけど、一年上がることは大変ですからね。

 つまり、気分だけは世界大だけれども、実は封鎖されてるんです。戦前、戦中になかった特別の鎖国状態にある。今の日本が未来に向かって開かれているかどうか、これも疑わしいです。日本の経済力が強くなって、しかも封鎖によって日本の文化がカプセルに入っている状態になっていますから、今の日本文化がインターナショナルになっているとは言いがたいと思いますね。そのことの自覚がないです。世界中の大学生がいまの日本の大学生と同じように勉強しないと思っている。それは幻想ですよ。

網野善彦

 幻想であることに気がついていないですよ。高度経済成長以後というのは、新しい特有の仕方での鎖国です。そのことの自覚がないのはこわいです。

網野 つい五十年前までの日本社会は現代からみるとすでに異文化であり、現にいまでも方言といわれる地方の言葉でしゃべったら日本人の間でも言葉が通じないんですからね。そういう認識を相互に持つような状態をつくれば、いまおっしゃったような、「鎖国」はうち破れるはずで、その認識を持ってもらわないと具合悪いと思いますね。(「歴史を読みなおす」網野善彦・鶴見俊輔『歴史の話』所収・朝日新聞社刊。)

(網野さんは歴史学者。04年2月27日に亡くなられました。76歳でした)

 宮本常一さんの『忘れられた日本人』(岩波文庫版)を読まれたことがありますか。そこに描かれているのはたしかに「日本人」だといえますが、けっして観念のなかでしか考えられない「日本人」ではありません。一人の男であり女、それも時代や社会に規定され、流され抵抗し、そして従容として生きて死んだ一人ひとりの男であり女です。無名で生まれ無名で歴史の中に埋もれるという「生き方」のすがすがしさがそこには満たされていると、ぼくには思われました。

 なんのために歴史を学ぶのか?

 《人間の不幸の大部分が天災地変でなく、あるいは何人かの悪い考え、また誤った考えから出ていることは、宗教家でなくてもこれを認めることができる。しかもその誤れる考えはもちろんのこと、いわゆる悪い考えというものでも、さらに今一つ根本に遡(さかのぼ)って見ると、あるいは境遇でありまた行き掛りであった。つまりこれを免れる方法が発見せられぬ間の考えなし、智慧なしまたは物知らずの結果であったことが、しずかに外に立って観察する者には、そう大した骨折りなしに、推論することができるのである。この原因の発見と理解から、ついで起るところの感情は、憎悪ではなくしておそらくは人を憐れむ心、世を憂える心であろうと思う。

 自分らは多くの日本の青年が、この大切なる中学教育の期間に、一度でもこのような寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会を得ずして学校を終え、突然として実施の職業生活に出立し、茫々たる浮き世の荒波に揉まれてしまう傾きあることを惜しむ者である。大は国全体のためまた世界のために、小は家庭郷党のために、これはまったく淋しいことであると思う》(柳田国男(「無学と社会悪」)

 この文章は1924年6月、栃木中学校での講演「歴史は何の為に学ぶ」をもとに編まれた「旅行と歴史」という一文にまとめられ、28年44に『青年と学問』(この本については拙ブログのどこかで触れています)という書名で出版されたものです。(現在は岩波文庫で読めます)

 ここで柳田さんは二十歳前の青年たちを前にして「歴史は何の為に学ぶ」とつよく問うているのです。多くの人(教師も生徒も)には「たんに治乱興亡の迹(あと)を知って、のちの誡(いましめ)とするという風に教えられた」あるいは上級学校の受験科目だから、ひたすら年代や事項を暗記することが「歴史を学ぶ」理由となっていたのではないか。歴史はたんなる教訓なんかじゃありませんね。どんなものにも意味があり、それをさかのぼって学ぼうとする姿勢こそが歴史を知る方法なんです。

 過去に学ぼうとしない世の風潮にたいして柳田さんは歴史を学ぶ理由をはっきりと示します。

 《それを自分はこう考えておればよいかと思う。我々がどうしても知らなければならぬ人間の生活、それを本当に理解して行く手段として、人が通ってきた途(みち)を元へ元へと辿(たど)って尋ねるために、この学問は我々に入用なのである。苦いにせよ甘いにせよ、こんな生活になってきたわけが何かあるはずだ。それを知る手段は歴史よりほかにない。つまり現在の日本の社会が、すべて歴史の産物であるゆえに、歴史は我々にとって学ばねばならぬ学科である》(同上)

 すべて「学問は歴史にきわまり候」といったのは荻生徂徠(おぎゅう・そらい)(1666-1728)でした。その意味するところは深くて広いですね。ある人を知るとは、その人がどのように生きてきたか(どんな考えで、どんなことをしてきたか)を知ることです。これは人でも集団(家、村、町、社会、国)でも同じことです。

 そして、歴史の学び方は多様です。いろいろな学び方をとおして自分流に歴史を知る、それが「かしこくなる」ということだと、わたしは経験してきました。ぼくたちは否応なしに歴史の中で生きています。あらたまって過去を学ぶというのではなく、日々の生活を誤りなく(あるいは大過なく)過ごすために「人間の生活」を自らのものにしてゆく手段・方法が歴史なのだとぼくは考えています。(人とはだれでも忘れられる存在だ)

学びなおす(unlearn)

 たいていの人は「教師が教え、生徒は学ぶ」というふうに考えているようです。でも、厳密にいえばそれはまちがいで、正確にいえば、「教師が話し、生徒は聞く」というのが実情に近いんじゃないですか。例えば、「(先生が)英語を教える」というのと、「英語を話す」というのでは、あきらかにちがいますね。黙って話を聞け、というのがじつは「教える」のことで、実際は「話す・喋る」の謂。「話す」ことばは、教師にも生徒にも先刻承知済みです。生徒がわからなければ、教師はそれを「教える」ことをしなければならない。教えると話すは根がちがう。

映画「こんばんは」(夜間中学)(右が教師)

 だから「話すー聞く」の関係は、そこ(両者の間)に暗黙の了解が成り立っているのです。ぼくの相手が日本語のわからない外国人の場合を想定してみるとよい。日本語がそもそも理解できなければ、日本語をわかるように伝え(教え)なければなりません。でも、「日本語」が話されているというのがわかるならば、内容(を理解するかどうか)は問わないというのが、多くの教室の状況じゃないですか。日本語がわかるということと日本語の内容がわかるというのは同じである場合もあれば、そうでないこともあるのです。おなじでないなら、教師はどうするのがいいのでしょうか。ここから教育(授業)は始まる。

戦前の高等女学校(授業風景)

 ここには面倒な問題がありますが、本当に〈教える―学ぶ〉関係というのはどういう関係なのか、それをていねいに考えることが肝要だと、ぼくはいいたいのです。
 〈考える〉、これを英語では〈think〉といいますね。この単語から派生したとみられる言葉に〈thoughtful〉があります。
 thoughtful:
 1 思想の豊かな; 思慮深い; 思いやりのある, 情け深い, 親切な.
  He was very ~ of my safety.
 2 考えにふけっている, 考え込んだ.

 さらには、〈rethink、unthink〉という語、〈relearn,unlearn〉という語もあります。
 一度「考えた」ところを、もう一度「考えなおす」ということです。だれかから、なにかから学んだことをさらに「学びなおす」という意味で使います。先に考えたり学んだと思われる事柄をご破算にするんですかね。はじめからやりなおす。自分流に、です。

 〈think〉なり〈learn〉は、ひょっとしたら「考える」も「学ぶ」もしていないのではないか。あるいはそれは受身の状態で外から与えられたままなのかも知れないのです。だから、それをもういちど、自分で、自分の力で「考える」「学ぶ」をしなければ、自分の経験にならないのです。自分の経験というところが、大切じゃないでしょうか。

ぼくの出身中学校。在校生は二千名を超えていました(京都市内)

 他人から教えられたままを「飲み下す」「鵜呑みにする」とはいかにも無理・無体です。わけもわからないで、口にいれるのですから、栄養にもならない。あるいは消化不良を起こすのが関の山です。うまくいって、経験が伴わない、頭でっかちになるくらいがオチですよ。本を読んで水泳を学ぶみたいなもんですね。これを「陸沈」といったそうな。(他人が書いた作文をいつでも読まされている「●●ソーリ」をみると、ぼくはこのことをも思ってしまいます。自己経験なしの、口先だけの騙りです。だれにもなんにも届かない。だから取り巻きがが苦労するのでしょうか。嬉々としているんでしょうか) 

 おなじことですが、〈I think.〉ということが成り立つためには、その前提として、〈We think.〉がなければならないんじゃないか。「ぼくが考える」ためにこそ、「ぼくたちは考える」をていねいに経験しておく必要があるのだと、ぼくは思うのです。

 もとをただせば、「知識」はだれかから与えられるものじゃなく、みずからがつくる(生みだす)ものであり、そのためには〈対話〉が欠かせないということを考えてみたい。その時、「黙れ」とばかり沈黙を強いられるとはどのようなことなのか、このことも合わせて考えてみることが必要じゃないでしょうか。「教えるー学ぶ」と「話すー聞く」は元からちがうんですね。

映画「こんばんは」(2003年、森康行監督)


【ここで一服したいね】

 「ほっとしたよ」と外科医が食堂の同僚たちのところにやってきて、溜息をついた。

 「ちょうどいいときに手術をした!もう一時間おそかったら、患者は手術しなくても助かるところだった!?」

(どういうこと? なにを言おうとするんですか?多くの教師は、この外科医と同類じゃないかな。恐いねえ)(これはぼくが言ったことではありません。どなたかの文章をメモっておいたのですが、いま出所不明です。探しておきますが、まず何が言われているのかだけを…)