
「沖の干潟、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」~ 世の中で、それなりに生きて行こうとするなら、何よりも「頃合い」=適当な時機・よい潮時というものを見定めるべし、と兼好さんは語る。それができないと、他人にも理解されず、自らの意にも反して、思うことがかなわないのだ、と。恐らく、自らの生き方をそのままに述懐していると見てもいいでしょう。しかるに、病気になったり、子どもができたり、死を迎えるなどということは、あらかじめ計画などできないもので、「今はその時期ではない」と言ってもどうすることもできません。このような人生の「転変」は、まるで暴れ河の奔流のようで、暫しも留まってはくれないのだ。だから、何事においても、どうしてもやりたい事々は、些かの迷いがあってはならない、直ちにやり遂げようとせねばならぬと、法師は屡述(るじゅつ)する趣です。
兼好さん自身の生涯を思えば、あの時ああしておけばよかったという、まるで「臍(ほぞ)を噛む」ような苦い想いが何度あったか知れないでしょう。四季折々などと呑気なことを論(あげつら)うが、なんのことはないのです。誰もが思うように夏が過ぎて秋が来るのではなく、夏の暑さの中に、すでに秋の訪れは準備されている。「木の葉の落つるも、先づ落ちて、芽ぐむにはあらず。下より萌し、つはるに堪へずして、落つるなり」いつでも次の出番を待っているものがいる、それは「中から突っ張る」ように、生まれ出ようとする。よく「妊娠中の女性に生じる「悪阻(つわり)」を兼好氏は連想しているのである(この場合、木の葉の「つはり」が、人間に応用されたのだろうか)。(「《動詞「つわる」の連用形から》1 (「悪阻」とも書く)妊娠初期にみられる消化器系を中心とした症状。吐き気・嘔吐(おうと)・食欲不振・飲食物に対する嗜好(しこう)の変化など。おそ。2芽ぐむこと。きざすこと。〈名義抄〉(デジタル大辞泉〉)
世に従はん人は、先(ま)づ、機嫌を知るべし。序(つい)で悪しき事は、人の耳にも逆(さか)ひ、心にも違(たが)ひて、その事、成(な)らず。然様(さやう)の折節を、心得(こころう)べきなり。ただし、病を受け、子産み、死ぬる事のみ、機嫌を量(はか)らず。序で悪しとて、止む事なし。生(しょう)・住(ぢゅう)・異(い)・滅(めつ)の移り変はる、真(まこと)の大事は、猛き河の漲(みなぎ)り流るるが如し。暫しも滞(とどこほ)らず、直(ただ)ちに、行ひゆく物なり。然れば、真・俗(しん・ぞく)につけて、必ず果たし遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくの催(もよ)ひ無く、足を踏み留るむじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春は、やがて夏の気を催し、夏より、既に秋は通ひ、秋は即ち、寒くなり、十月は、小春の天気、草も青くなり、梅も蕾(つぼみ)ぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて、芽ぐむにはあらず。下より萌(きざ)し、つはるに堪へずして、落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ち取る序で、甚だ速(はや)し。
生・老・病・死の移り来(きた)る事、また、これに過ぎたり。四季は、猶(なほ)、定まれるに序で有り。死期(しご)は、序でを待たず。死は前よりしも来らず、予(かね)て、後(うし)ろに迫れり。人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。沖の干潟(ひかた)、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。(「徒然草・第百五十五段」)

人生はまさに「流転(impermanence)」「諸行無常(impermanence of all things)」ともいわれ、「生老病死」(四苦)に加えて、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」も、次々に追いかけて来る。この四苦八苦こそが、人生の苦難は四季の移り変わりよりもさらに変則的、予測不能であって、自分では如何ともしがたいのだ。「死期は、序でを待たず。死は前よりしも来らず、予て、後ろに迫れり」このくだり、ぼくは若いころからよく読んでいましたが、そしてさすが兼好法師、粋なことを言うものだなどと、生半可な想いや感想を抱いたものでした。誰もが、「人は死ぬものだ」などと分かった風なことを口にするが、よくよく考えてみれば、夏の盛りに秋が萌すが如く、血気盛んな時期にはすでに死が準備されているのだと気づいているのでしょうか。ぼくたちは、会えば別れる、生まれたら死ぬとしたり顔をして口にするが、なんのことはない、自分はまだ死なないと、無根拠で固く信じているだけのことでしょう。そんな人にも「死」は容赦なくやってくる。これもまた「自然」であって、人間の力ではどうすることもできない。そうなるほかないのだと、兼好さんは指摘する。
「終活」がどうのこうのと喧(やかま)しく、うるさいことです。でも、実は待つ間もなく、誰にも「死はやってくる」、思いがけなくやってくる。それは「潮の満ち干」によく似ているだろう。「沖の干潟、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」と。ぼくはこのくだりを、これまでにも何度か引いている。気が付いたら、足元まで潮が満ちていたという経験からではなく、そういうものだろうかと、まるで他人事のように受け止めている証拠でもあります。さすれば、人間とは海岸の寸土(すんど)・尺地(せきち)のようなもので、前からも後ろからも潮が満ちているようなもので、気が付いたら、すっかり潮で満たされているようなものではないか、と兼好氏は自信ありげに語ります。恐らく、五十歳ほどで生涯を閉じた、彼の遺言のような響きを持った「訓戒」としてぼくには届くことがあった。
「世に従はん人は、先(ま)づ、機嫌を知るべし」とは、世の中に受け入れられ、名誉ある地位を誇りたいなら、時期を見定めろ、世間の約束に従いなさい、と。そう言いながら、でも「真の大事は、猛き河の漲り流るるが如し。暫しも滞らず、直ちに、行ひゆく物なり」と、おそらく兼好さんは「定めがたき人生(人世)」を言い当てていると、ぼくは読むのです。世の中の約束に従えば、それなりの幸(さいわ)いを得ることはできようが、そんなものにいさい構わず、人の世の「流転」は奔放である。2に2を足せば4になるように、ぼくたちは人生を捉えているのだろうが、けっして計算通りでない方に、人生の「深淵」「難路」が待っているとも思われてくる。だからこそ、日々の瑣事にこそ、人生の妙味(味わい)があるとも、ぼくなどは今頃になって分かった気になっているのだから、「生」の絡繰(からく)りにまるで弄ばされているような気にもなるのです。

◎ 吉田兼好 (よしだけんこう)生没年:1283?-1353?(弘安6?-正平8?・文和2?)鎌倉末~南北朝期の歌人,随筆家。本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。出家ののち俗名を兼好(けんこう)と音読して法名とした。武蔵国称名寺(現,横浜市金沢区)長老あての書状断簡に〈故郷忘じ難し〉とあることから,関東で生まれたとする説もあるが,それは〈故郷〉の語義〈住みなれた地〉を誤解したもので,京都で生まれ,関東で若い時期を過ごしたのであろう。父兼顕は治部少輔で,兄弟に大僧正慈遍,兼雄がいる。兼好は宮廷に仕え,祖父の代からかかわりの深い堀河家の諸大夫ともなったが,1313年(正和2)ころ出家した。出家後の生活を支えたのは,洛外山科の田地からの年貢米であった。17年(文保1)ころから歌人として名が知られ,歌会への出席も多くなる。また,このころまでに鎌倉へも2回以上赴いている。《徒然草(つれづれぐさ)》の執筆は1317年から31年(元弘1)の40代後半から50代前半と推定され,〈つれづれなるままに〉と書き出されるこの随筆が代表作となった。 1345年(興国6・貞和1)ころ,勅撰集《風雅和歌集》の撰集に提供するため《兼好法師自撰家集》(《兼好法師集》)を編集したが,自筆草稿本が尊経閣文庫に現存する。〈雲の色に別れも行くか逢坂の関路の花のあけぼのの空〉にはじまる約280首の和歌をおさめる。いわゆる二条派風の平明優美な作品で,頓阿,浄弁,慶運とともに二条為世門下の四天王の一人と賛えられた。勅撰集には《続千載集》《続後拾遺集》《風雅集》に各1首のほか,全部で18首入集している。歌壇での地位の安定とともに,古典作品の書写や研究にも力を入れ,《古今集》《源氏物語》などの伝本に,彼が書写校合した旨の奥書を加えたものが伝えられている。晩年は,1344年(興国5・康永3)足利直義勧進の〈高野山金剛三昧院奉納和歌〉の作者となり,46年(正平1・貞和2)賢俊僧正に従って伊勢に下ったり,48年高師直に近侍したりするなど,足利幕府を中心とする武家方に接近している。最晩年の事跡としては,50年(正平5・観応1)4月玄恵法印追善詩歌,同年8月二条為世十三回忌和歌会の作者となり,翌年《続古今集》を書写,観応3年(1352)8月の日付がある《後普光園院殿御百首》に加点したことが知られている。(改訂新版世界大百科事典)
(ヘッダー写真は「日本気象協会」・https://tenki.jp/suppl/hiroko_furuya/2021/11/01/30711.html)
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本日は11月1日、旧暦「霜月(しもつき)朔日(ついたち)」です。いつかこの日に引用してみたかった表題句。それ(「霜月の朔(ついたち)なにかありそうで」)は佐藤鬼房作。岩手塩釜の人。終生、地域に根を下ろし、骨太の句を生み出してきた。ぼくの好きな句に「毛皮はぐ日中桜満開に」「夜明路地落書のごと生きのこり」「桜湯に眼もとがうるむ仮の世や」「魔の六日九日死者ら怯え立つ」などなどがあります。俳句というものが、地べたに根を張っている、そんな感覚にぼくは動かされる。かかる俳人を深く尊びたいと思うばかりです。
1940年応召、中国、南方(オーストラリア)に転戦。広島・長崎への原爆投下時、佐藤氏は豪州の地で戦いに暮れていた。敗戦時は捕虜となる。そして、「生きて食ふ一粒の飯美しき」が残された。早くから句作、もっとも早い段階(15歳ころ)の句が渡辺白泉(「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の作者)の評価を得る。俳句というものは、このような「死地に赴いた人」から見れば、ある種の壮絶な戦い(死闘)であったかと、ぼくには思われます。「妄想を懷いて明日も春を待つ」は最晩年の作。表題に挙げた「霜月の朔」という句に、はっきりと通底する、一種の意地(意志)が感じられないでしょうか。

◎ 佐藤鬼房(さとうおにふさ) 1919-2002= 昭和-平成時代の俳人。大正8年3月20日生まれ。「句と評論」に投句。戦後は西東(さいとう)三鬼に師事し,社会性俳句で注目される。「天狼」同人をへて,昭和60年宮城県塩竈(しおがま)市で「小熊座」を創刊,主宰。平成2年「半跏坐(はんかざ)」で詩歌文学館賞,5年「瀬頭」で蛇笏(だこつ)賞。平成14年1月19日死去。82歳。岩手県出身。本名は喜太郎。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
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