(ひととき)顔を上げてみて
最近、街を歩くとすれ違う人のほとんどが「歩きスマホ」をしていて、ぶつかりそうになり怖い思いをすることが多い。
歩きスマホによる事故が起きているというニュースも聞く。たった一つの小さな機械に気を取られたせいで、もし事故を起こして人生を台無しにしてしまったら、これほど悔しいことはない。
先日、公園で遊んでいる小学生を見て、さらに衝撃を受けた。せっかく集まっているのに、お互いに一言も話さずに、スマホの画面をいじって時間を過ごしていたのだ。これでは何のために集まったのか分からない。こんな世の中で本当に良いのだろうか。
私も、家での調べ学習や、家族と連絡を取るために使っていて、スマホはたしかに便利だ。
でも今、私たちはスマホに時間を奪われすぎている。歩いている時や外にいる時は、一度小さな画面から目を離してみてはどうだろうか。
少し周りを見渡せば、季節の移り変わりや地域の豊かな自然、温かい風景が広がっている。
事故を防ぐだけでなく、自分の住む地域をしっかりと見つめ直す心の余裕を、私たちは忘れてはならない。
(千葉県船橋市 西田彩夏 中学生 14歳)(朝日新聞・2026/10/28)

朝日新聞のコラム「ひととき」はいわゆる読者投稿欄です。詳しくはわかりませんけれど、「購読者」でなければ投稿は認められないのかもしれないと思う。ラジオの深夜放送を聴いていても、多くの人が「番組への投稿」をされています(近年は、即メールで)。ぼくにはそんな趣味がありませんから、勢い、その投稿者や投稿内容についてよからぬことを考えたりすることが多くあります。本日の「ひととき」への投稿者は中学生でした。現代の抜きがたい「病理(中毒症)」でもある「歩きスマホ」(同時に、「座りスマホ」「立ちスマホ」「ながらスマホ」)という風潮を、この中学生は実に嘆かわしいとみておられる。かかる世の風潮に、投稿者は「こんな世の中で良いのだろうか」と、しっかりと、その世情・世態を批判されている。

「少し周りを見渡せば、季節の移り変わりや地域の豊かな自然、温かい風景が広がっている。/事故を防ぐだけでなく、自分の住む地域をしっかりと見つめ直す心の余裕を、私たちは忘れてはならない」と、もうすでに立派な『小言幸子」さんです。確かな批評眼をお持ちです。もちろん彼女の指摘はその通りで、だから新聞の投書欄に自らの主張を掲載されることを求めるご本人の、その投稿を採用する新聞社の、それぞれの意図は何でしょうかと、ぼくはよからぬことを考えてしまうのですよ。(右写真は産経新聞記事・2026/10/21)
◎ ひととき(一時)=1 しばらくの間。いっとき。「憩いの―」2 過去の、ある時。いちじ。いっとき。「―は栄華を誇った」「―はやった歌」3 昔の時間の単位。今の約2時間。いっとき。(「デジタル大辞泉」)(新聞コラムの「ひととき」欄にはどういう狙いがあるのでしょうか。ずっとぼくにはわからずじまいでした。辞書の解説からすれば、おそらく(1)なのでしょうけれど、その意図するところが理解不能です。「しばらくの間」だけでも問題(投書内容)を考えてくださいな、という程度でしょうか。「天声人語」と比べて(内容ではありません)、段違いの扱いであり、曖昧さですね)

先日、十五年ぶりに都心(東京神田神保町)に出かけました。勤め人時代に担当していた学校の演習(ゼミ)の卒業生が、何を勘違いしたか、ぼくに声をかけてくれて「来ていただけませんか」と徘徊老人を招いたからでした。いとも単純に、その「招き」に乗った自分が迂闊だったわけですが、十五年も見ない間に都会はぼくの住むところでも働くところでもなくなっていたという発見は、この投稿者(中学生)の言われる「心の余裕」というものを、ぼくなりに、かすかながらも維持していたと思われて、「われと思わん人は都会を出よ、田舎に住もう」という、それこそキャンペーンを張りたくなったほど。
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本年3月三重県下の高速道路でダンプ運転中の「ながらスマホ」(「ながら運転」)で、停車中の乗用車に追突、「一家5人と団体職員1人」を死に至らしめた事故の裁判があり(10月20日)、その詳細が報道されました。当該事件に関しては、ただ一言「論外」「もってのほか」というほかない「不注意」という悪質な情念によるなものでした。誰だって「不注意」で間違いを犯すことがある。それだけ、人間は万能」ではない、はっきり言うなら、「不注意というのは人間の弱さ」の発言でしょう。算数の計算で、ゆっくりやればだれもが間違えないのに、急いでいたり、良からぬことを考えていて間違ってしまう。だから、子どもにとっての勉強は「不注意」や「怒りっぽさ」、あるいは「飽き性」を、自分の力で治す一番確かな方法だと、ぼくは自ら経験してきました。
他人から褒めてもらいたいとか、成績一番になりたいため、その手段として「勉強(成績)」をとらえると、いつの日か、どこかで「不注意」が顔を出すのです。信号無視や前方不注意で人を轢いてしまう、それをぼくは「悪質な不注意」というのです。さらに言うなら、「偏差値」「成績」「序列」を武器にするような、それこそ悪質な「学校教育」が、人間の弱さをさらに助長しているとまで言いたいくらいです。政治家や官僚、あるいは世間で評価される経済人などの目に余る「悪行」は、「成績偏重を旨としてきた学校教育の見事な敗北ではなかったでしょう。「顔を上げてみて」「上を向いて歩こう」、これは単なる忠告や兵庫ではなく、みずからが、時にはそうできることは、ぼくに言わせてもらえば「人間の教養」そのものだといいたいんですよ。「教養」とは「不注意」から自分を救ってくれる、自分の内面の良心(善意)だとさえ言いたいですよ。

しかるに、そんな悪質な「不注意」による事故の結果6人が死亡した、その裁判が下した判決が「拘禁刑7年」というのは、誰が見ても理不尽ですが、「『反省の態度を示していることなど被告に有利な情状を十分考慮しても、法定刑の上限で臨むのが相当』」と判断した結果の禁固刑7年。裁判長は何を言おうとしているのか、現行刑法に従っただけというものでした。裁判内容に関しては別の機会に譲りますが、この「ながら運転」「ながらスマホ」が、今日、至る所でさまざまな事件や事故を起こしている、この現状に対して、一中学生の、当たり前の感覚からの「顔を上げてみて」という投稿の掲載は、時宜を得ていたかどうか、ぼくはいささか疑問を持ちました。
(彼女の主張や指摘が誤っているというのではありません。重大な事故や殺伐とした事件の引き金になっている「スマホの悪用」に注意喚起をしているのは当然としても、新聞社は「大事と小事」を取り違えていませんかという感想をぼくは強く持ってしまいました。(「(ひととき」欄には)この程度の記事(投書)でいいよ」という、子ども扱いがありはしませんかというのです)
元トラック運転手に拘禁刑7年 「過去の事案で最も重い部類」―新名神6人死亡事故・津地裁
三重県亀山市の新名神高速道路で3月、大型トラックで乗用車に追突し、子ども3人を含む6人を死亡させたとして、自動車運転処罰法違反(過失運転致死)罪に問われた元トラック運転手水谷水都代被告(55)の判決が20日、津地裁であった。出口博章裁判官は「過去の過失運転致死事案と比較しても最も重い部類」として、求刑通り拘禁刑7年を言い渡した。
出口裁判官は、被告が高速道路を運転中にスマートフォンで見ていた動画を保存撮影するため十数秒間スマホを見ながら運転し、安全確認を怠ったと指摘。「運転者の責任や事故の危険を顧みない誠に軽率な運転だ。過失は重大で、厳しい非難に値する」と指弾した。
その上で、「被害者には何の落ち度もなく、結果はあまりにも痛ましく重大だ。将来ある人生を理不尽に断ち切られた被害者らの苦痛、無念は察するに余りある」と述べ、「反省の態度を示していることなど被告に有利な情状を十分考慮しても、法定刑の上限で臨むのが相当」と結論付けた。
判決によると、水谷被告は3月20日未明、亀山市内の新名神高速でスマホを見ながら制限速度を超える時速約82キロでトラックを運転。渋滞の車列に追突し、埼玉県草加市の団体職員高峰啓三さん=当時(56)=と、静岡県袋井市の会社員松本幸司さん=同(45)=一家5人の計6人を死亡させた。(時事通信・2026/10/20)

14歳の中学生の投稿として、なかなかに立派な指摘(内容)ではないかというのでしょう。投稿掲載の可否は新聞社の判断ですから、他人が事の理非や良しあしを云々しても仕方がないのでしょう。でも、と腑に落ちない、何かが残ります。ぼくは暇人ですから、ラジオや新聞の「投書」にまで耳目を寄せています。そこから得られる愚論ですが、現実の社会には「私も一言」という姿勢を実践している人がたくさんいるという実感です。世の中を席巻しているSNSの乱暴・無礼な「短文」乱発状況を見聞きするにつけ、今日の多くの人間は「文字(言葉)で他人を撃つ」ことに快感を覚え快哉を叫びたい、愉快犯的存在なのだと、思いたくなります。他人のことを言えた義理ではなく、ぼくもまた「ブログ」なる駄文の礫(つぶて)をもって、一人で気を紛らわせているのですから、「同病、論じ難し」ということでしょうね。

先日、まさに今浦島太郎並みに、都心の変貌に驚嘆したものでしたが、行き帰りの電車内での「ながらスマホ」の圧倒されるな風景に、ぼくは「ひょっとして、ながら族の中の、ぼくは異人趣(移民)なのか」と思ったことでした。普段は、ぼくは四六時中『長柄族」を決め込んではいますが、至るところで見られた「スマホ中毒」患者の群れに、大いに恐れをなした次第。いくつもの自治体で「ながらスマホ禁止」条例が制定されています。行政もまた、「ながら族」が危険な存在だという認識があるのでしょうか。と思いつつ、役所の人間もまた「スマホ中毒」ではないかという大きな疑問を消すことができません。時の総理大臣が連日連夜にわたって、書く必要のない、あるいは公開する意味のない「SNS」(その多くは、最高学府を出た官僚が書かされているのだと思う)にうつつを抜かしているのですから、話になりません。(「ながらスマホ」禁止条例の横並びを見て、「歩行喫煙禁止」条例制定の横並びを思い出します。法律ではないのはなぜか。(国家議員が「ながらスマホ」(国会内喫煙」を実践しているのですから、法律で禁止するわけにもいかないというのですか)

「裏金議員」は立派な脱税者、それを大臣に任命するのですから開いた口も目も閉まらない事おびただしい。「裏金議員というな。不記載議員と言え」とは首相の言。そういえば「違法」でなくなるとでも考えているのでしょうか。一国の総理が、くだらなさすぎる「スマホ」駆使で、睡眠時間が減り、G7サミットにも不参加とは呆れる以上に腹も立つばかり。もう何十年も前に、ある住宅メーカを乗っ取ろうとした愛知県の大きな自動車会社の最高幹部に対して、「君たちは一体、何人人殺しをしたんだ」と言って、一矢を報いようとした、乗っ取られた会社の社長がいました。立派な人(M氏)だったとぼくは思っているが、ここでも「泣く子と地頭には勝てぬ」とばかりに「力任せの暴力」が幅を利かせているのです。スマホは「中毒患者を生む」、ある種の「麻薬」、「魔の器機」ですね。だからぼくは、生きている間は持たない。「この時代遅れめ」と罵られようが、「時代に乗り遅れて」大いに結構。「反時代的人間」で上等と、ぼくは一人で「切歯扼腕(せっしやくわん)」の体であります。
「AI」は人類を滅亡させるという物騒な流言が、海の彼方から飛びこんできています。ぼくの実感では、すでに「滅亡への秒読み」は始まっているんじゃないですか。「たった一つの小さな機械に気を取られたせいで、もし事故を起こして人生を台無しにしてしまったら、これほど悔しいことはない」(「ひととき」)という正論を、ぼくはまともぬ受け止めかねている人間(大人)たちの愚かさを恐れます。人類が滅亡するとは大げさなと、多くは考えるでしょうけれど、実は、これまでだって、「人類は滅亡する」を繰り返しているのです。今から百三十年前に生まれた人は「絶滅している」でしょう。何か宇宙の衝撃で地球が破壊されるばかりが「人類の滅亡」というのではありません。

時代とともに、歴を重ねて「人間は賢くなる」と思いたいけれど、なかなかそうはならないのは、戦争の現実を見てもわかります。人と人が力づくで戦う場面から、今では「原爆」よりもはるかに効率的にかつ安価に作られる機会で「殺戮」が繰り返されています。一機数百億円の爆撃機よりも数万、数十万円で作られるドローンが戦争の勝敗を決める時代です。「人間は賢い」か。つまりは「半導体(基盤)」やその先端にある「AI」が人類の死命を制しているという時代です。「ながらスマホ」一つ、コントロールできないほど、実は人間はすでに「AI」にやられているとぼくは考えています。
「こんな世の中で本当に良いのだろうか」と、ぼくも深刻に思っています。
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