
つい先ごろ、「俺は凄いんだ、文句あっかあ」と熱(いき)っていたノウスイダイジンが、「本音を喋った」という舌禍の廉で首を切られました。(表向きは「自ら辞職」したような見せかけも、実際は「お前は首だ(You’re fired.)」と、更迭されたのですね)。首切り人は、もちろん彼を任命した総理大臣です。彼女はこの「元大臣」の選挙(今年2月)に駆けつけ、「わたしのやなちゃん」「わたしの知恵袋」と昵懇(intimacy)(lover)ぶりを天下に闡明していたのです。当の大臣も、だから「まさか、首とは」と思いもよらなかったでしょう。この馴れ馴れしい、白日の下で使うべきではなかった「わたしのやなちゃん」「だいじなやなちゃん」という絶叫を聴いて、ぼくは百年以上も前に大流行したある「俗曲」を思い出しました。(「俗曲(ぞっきょく)=酒席などで座興に歌われる短い三味線声曲。都々逸(どどいつ)・かっぽれ・さのさなど」デジタル大辞泉)
この小さな島国が、精一杯に背伸びして、世界の一等国になったという「思い上がり」=「悪夢」が募った時期、1930年に発表された歌でした(この「俗曲」にはいろいろな紆余曲折があって、一直線では語り切れない歴史があります。ここではそれには触れません)。ぼくはたぶん五歳になるかならぬで歌っていたと思う。「酋長(しゅうちょう)の娘」です。今、ぼくたちが聴くことができるのは日本の演歌師兼衆議院議員だった石田一松さん作詞・作曲・歌(最初期のシンガーソングライター)のものです。(この人や、その師匠だった添田唖蝉啞蟬坊(そえだあぜんぼう)氏についても駄弁りたいのですが、別の機会にでも)

昭和5年という時期は、日本(当時は「大日本帝国」)が第一次世界大戦に、いわば「漁夫の利」を占めて、いわゆる「南洋群島」を国際連盟委任統治領として、その支配下に置いた時期でもありました。ミクロネシアをはじめとする南海の島々が「領土」となったというので、帝国臣民は浮かれつつ沸いていたのでした。「南進論」がさかんに論じられていた時期でもありました。(この「委任統治領」問題では新渡戸稲造やその後輩の柳田国男さんなども関わっていましたが、その内容も割愛。柳田さんの最晩年の著作「海上の道」(岩波文庫、岩波書店 1978年公刊)は、日本民族のルーツをたどる推理小説のような論考集ですが、その発端はこの「ミクロネシア諸島」辺りににあるとみるのは、ぼくには実に興味深いものがありました。柳田さんは委任統治問題の日本側の代表「委員」になり、スイスには滞在しましたが、「南洋諸島」には出向かなかった。国際舞台上での任務も「関東大震災」発生で終了しました)

以下に「酋長の娘」の歌詞を出しておきましたが、誠にいい気なもの、そんな雰囲気が伝わるし、ぼくがわざわざ「俗曲」などと言う呼称を使ったのも、文字通りに、酒席・宴席の座興・肴にしてお座敷でも大いにもてはやされていたからでした。その証拠に、最初は石田一松さんの作詞・作曲・歌でレコードが出された(十万枚を売り上げた、創業草創期のポリドールの「玉手箱」「お年玉」でしたが、それ以降は入れ代わり立ち代わり、さまざまな「替え歌」まがいが発生し、お座敷住まいの「お姐さん」たちが盛んに盛り上げたものでした。その石田さんの代表作は「ノンキ節」でしたから、さもありなんということでしたね。
「酋長の娘」
一、わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
二、赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る
三、踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り
四、昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で踊る
五、踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか
(石田一松作詞・作曲、1930年(昭和5)年8月発売)
「わたしのやなちゃん」という下卑た絶叫を聴いた途端に、ぼくは「わたしのラバさん」というセリフを思い出したのですから、とてもいやーな気がしたことをはっきりと覚えています。「ラバー(lover)」とは男の恋人を指すともいわれるから、文字通りに首相の「やなちゃん」でした。どうしてか、二人の結びつきの連想から「わたしのラバさん」を想起したか、それを言っても理解はされないでしょうが、絶叫の主が持っている「帝国主義(「大日本帝国」の臣民という意識があるとさえ思われる御仁です)」の偽装感覚(親和性)、腐敗した看板がその背中に背負われていると感じたからです。五歳の子どもがどうして「わたしのラバ(lover)さん 酋長の娘」などと歌っていたのか、ぼくにも幼児なりの「いい気な様子(軽佻浮薄傾向)」があったのだと思う。つまりは「浮かれていた」のでしょう。その時、ぼくは間違いなく「赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る」という雰囲気を肌で感じていたかもしれません、能登半島の片田舎で。つまりはぼくもまた、昭和初期の「小国民(子ども)」になっていたのでした。まさに、それは「悪夢」だったと思います。

今日、この「俗曲」は「放送禁止」とされています。なぜでしょうか。南洋諸島の人々に対する差別意識(差別語)が如実に認められるからだといいますが、どうでしょうか。表向きの「差別主義反対」の偽看板を掲げているだけで、実際にはいささかの改心も反省も、あるとはとても思われませんから。「わたしのラバさん」と「わたしのやなちゃん」を一直線で結ぶのも呆れた心境(はやとちり)ですが、この女性首相の信条(心情)を想い量れば、 強(あなが)ち、無根拠でもなかろうとも思ったりします。それにしても、腐ったり濁ったり汚れたりする、数多(あまた)の大臣や議員たちも、何事もなかったかのごとくに国会議事堂内の赤じゅうたんはおろか、天下の公道を、周囲を睥睨しながら闊歩しています。それにつけても「無責任」を問われるべきは首相でしょう。
先ごろ行われた(10月2日)G7サミットの緊急会議(オンライン)に「ずる休み」(まるで「登校拒否」ですな)を決め込んだ。その欠席の理由(弁明に嘘を言う首相ですから、見上げた「あまさん」でしょう。その見苦しい・醜悪な弁明をを訊いて、ぼく自身の耳も目も、神経さえもぼくは疑ったのです。「世界の中心」と(一応は目されている)首脳会議に出ないことを決めて「酒席に連なって」、きっと「酋長の娘」をカラオケで歌っていたのかもしれません。彼女の愚かさと、唯我独尊ぶりには底がないでしょうな。「底抜けの破廉恥女」という意味です。責任を取るべきは大臣(わたしのやなちゃん)一人はなく、イの一番に「あなた」ですよ。
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◎ 石田 一松(イシダ イチマツ)= 昭和期の演歌師,政治家 衆院議員(民主党)。生年明治35(1902)年11月18日 没年昭和31(1956)年1月11日 出生地広島県 学歴〔年〕法政大学文学部法科〔昭和2年〕卒 経歴 レンズ工員を経て上京、苦学しながら法政大学を卒業。在学中に添田啞蟬坊らの東京倶楽部に入って演歌師になる。自作の歌詞も多く代表作「ノンキ節」は大正12年ごろの作。昭和5年吉本興行の専属となり、法学士の看板を浅草万成座にあげて初舞台。バイオリン片手に「ノンキ節」がヒット、映画やラジオに出演した。他のヒット作に「のんきな父さん」「酋長の娘」「いやじゃありませんか」などがある。戦後は21年に一人一党の日本正論党から衆院選東京5区で当選、その後、国民協同党、改進党に所属、連続4回当選。26年民主党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して脱党。のち代議士の肩書で寄席などに出演した。著書に「のんき哲学」がある。(「20世紀日本人名事典」)
「作品発表当時、ミクロネシアは国際連盟委任統治領として当時の大日本帝国の支配下にあり「南洋群島」と呼ばれていた。1919年の南洋群島領有により日本国内で南進論がブームになった1920年代に入って、南洋(東南アジアおよびオセアニア島嶼部)の地名・風俗を歌詞に取り入れた大衆歌謡が登場するが、この作品はそのような歌曲の一つである」(Wikipedia)

◎ 参考(安細西和彦著「私のラバさん 酋長の娘」) 「2012年から2015年まで在マーシャル日本国大使を務めた安細和彦は、同国大統領・クリストファー・ロヤックや大統領補佐大臣、外務大臣等を務めたデブルム大臣(Hon. Tony deBrum)とも「酋長の娘」を知っていたと証言している[6]。ロヤック大統領は「亡くなった祖父から聞いた」と話し、デブルム大臣は「自分の父親や、戦後に出会った日本人商社マンから教えてもらった」と話したという。ロヤック大統領が「日本の国祭日(天皇誕生日)の祝賀レセプションの席で一緒に『酋長の娘』を歌いたいがどうか?」と提案してきたため、安細は「実はこの歌の歌詞には一部好ましくない表現があり、日本国内では放送禁止となっているのです」と恐る恐る説明した。すると大統領と、その場に同席していたデブルム大統領補佐大臣の二人ともびっくりし「一部好ましくない表現とは何か?」と質問してきた。安細は後で誤解を生じないように明確に説明した方がいいと判断し「歌の題名は『酋長の娘』であり『酋長』という表現が適当かどうか問われているのです」と説明した。するとロヤック大統領は「別に悪いことはないと思う。自分は長男ではないので酋長職(マーシャル語ではIroji)を継いでいないが、長兄は今もアイリンラプラプ環礁の大酋長であるし、マーシャルでは全ての環礁に大酋長や酋長が存在していることは貴官もご存じだろう。更に、次兄はこの国の国会(the Parliament)の諮問機関である『酋長評議会』(Council of Iroji)の議長を務めている。そうした意味でも『酋長』の存在は否定できない」と言われた。仕方なく、極めて申し上げ難いことであるがと断った上で、「更に申せば、遺憾ながらこの歌の1番の歌詞には『色は黒いが南洋じゃ美人…』という部分がある。これは外見上の差別表現とも言えるので相応しくないと考える」と重ねて説明した。これに対し、ロヤックとデブルムは口を合わせて「何故に『色は黒いが…』が遺憾なのか? 我々マーシャル人はご覧のとおり確かに浅黒い肌をしている。この歌は事実を述べており、差別とは思っていないが…」と言われた。安細は返す言葉が見つからなかったという。マーシャル諸島は第一次世界大戦において日本が占領した国で、安細は「そうした曲折があったにも拘わらず、マーシャルの指導層が今も日本に親しみを抱き、また、高齢者を中心に我々日本人に対して知っている日本の歌を聞かせようとしてくれる親愛の情に対し、我々としても応える必要があるのではないか」と考えさせられたという」(Wikipedia)

◎ 南洋諸島(なんようしょとう、旧字体: 南洋諸󠄀島)は、かつて大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域である。/別名は南洋群島(なんようぐんとう)。当時の日本人は内南洋(うちなんよう)とも呼んだ。(同上)
◎ 南進論(なんしんろん)= 第2次世界大戦前の日本近代史における外交政策についての議論。日本が東南アジアなど南方に経済的,政治的,武力的進出を行うべきだという論で,朝鮮,満州方面に発展しようとする北震進論と対立した。南進論の萌芽はすでに 1890年代からみられたが,明治・大正期の南進論は経済進出の側面に重点がおかれ,関心は軍事的側面に重点がおかれていた北進論よりは少なかったといえる。 1936年8月7日の内閣総理大臣および外務,陸軍,海軍,大蔵の5相会議で国策基準として南方進出が決定され,南進論は日本の外交方針となった。さらに 40年にいたりヨーロッパ戦線でドイツが圧倒的勝利を収めると,石油,アルミニウム,ゴムなどを求めて,武力行使による南進の主張が強まった。その結果,北部仏印進駐,南部仏印進駐など武力南進政策が強行され,南進論は太平洋戦争開始の重要な引き金の役割を果すことになった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
「海上の道」より~ 「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四、五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。/この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ

という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々たる私の見聞もまた不朽のものになった。伊勢が常世の波の重波寄する国であったことは、すでに最古の記録にも掲げられているが、それを実証し得た幾つかの事実のなかに、椰子の実もまた一つとして算えられたことを、説き得る者はまだ無かったのである。土地にはもちろん是を知っている人が、昔も今も多かったにちがいないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、または或る一人のすぐれた詩人を要したのである。
椰子の実の流れ着くという浜辺は多かったはずであるが、是が島崎氏のいうような遊子によって、取り上げられる場合が少なかったかと思われる。昔はこの物を酒杯に造って、珍重する風習があり、それも大陸から伝わってきたように、多くの物知りには考えられていた。『倭名鈔』の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であって、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういう樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物のごとくにも想像せられていたようであるが、なお夜之という単語だけは、すでに和名として帰化している。京人の知識は昔も今のごとく、むしろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、ただいたずらに遠来の記録の、必ずしも正確豊富でないものを捜索していたことは、独り椰子の実だけの経験ではなかった。この頃やっとその習癖に気がついたと、言いたいところだが、それもまだ少し怪しい」(柳田国男「海上の道」岩波文庫版)
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(⁑❶「大阪南地 富田屋喜久治 – 酋長の娘」https://www.youtube.com/watch?v=_hVtpeG7xfU&list=RD_hVtpeG7xfU&start_radio=1) (⁑❷「加藤雅夫-酋長の娘」https://www.youtube.com/watch?v=OaLhH8HKCu4&list=RDOaLhH8HKCu4&start_radio=1)(蛇足 この加藤雅夫さんが歌う「酋長の娘」の作詞は岡十四夫さん(1917~2009)。岡さんは海軍に招集された経験を有する。戦後にたくさんの詞をを作る。「「好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』などがある。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などの作品がある」Wikipedia)この人の話を何度もラジオで聞いたことがあり、軍隊生活などのあれこれは、それこそ捧腹絶倒、とても面白いものがあった。西条八十さんに師事したことがありました。福島県出身。
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