人間は生き、堕ちる。そのこと以外 …

【日報抄】
 時代の移り変わりを感じるとき、無理とは分かっていても、あの人が生きていたら何と言うだろうと考えることがある。「生きよ堕(お)ちよ」と言い放ち、敗戦後のこの国に衝撃を与えた新潟市出身の作家、坂口安吾だ▼その言葉はさまざまに解釈できる。戦時中、国は戦争遂行に都合のいい国民像を掲げ、多くの国民もそうであろうとした。だが、そんな国と国民は敗れ去った。理想の国民像から外れることを堕落と呼ぶのなら、思う存分堕ちてやれ-。こんなふうにも読めないか▼安吾はあのとき、何よりもまずは生き抜くのだと叫んだ。人は聖も俗も併せ持つ。理想像などかなぐり捨て、一人の生臭い人間として生き抜かねばならぬと訴えた。押しつけられた生き方なんて放り投げればいい。自分の頭で考えたように動けと訴えたのではなかったか▼安吾が「堕ちよ」と言い切った「堕落論」が雑誌に初めて掲載されてから、今年で80年。その間、この国は平和を謳歌(おうか)し経済的な豊かさを手にした。一方で、近年は安全保障を巡る国際環境が大きく変化しようとしている。もはや「戦後」は幕を下ろし、新たな「戦前」に足を踏み入れているとの見方もある▼そんな状況だからこそ、あの無頼派作家の言葉が聞きたくなる。虚飾を鼻で笑い、この社会の真のありようを喝破する姿を見たくなる。今月20日で生誕120年の節目を迎える▼安吾さん、あなたなら2026年の今、どんな言葉を吐くんですか。私たちにどう生きろと言うんですか。(新潟日報・2026/10/16)

 ある期間、ぼくは坂口安吾という作家に夢中になった時期がありました。筑摩書房から出された「坂口安吾全集」(全十八刊)を購入し出した頃ですから、今から三十年ほど前のこと。ぼくは五十に入った頃で、晩稲(おくて)でありすぎるという自己評価は強かったけれど、さすがに、それくらいの年齢になれば少しは世の中が見えてきたというか、歴史の表面の下に潜んでいる、人間のいわく言い難い「深層心理」(ことばがうまくないけれど)、それがようやく気になりだしかけていた時期だったと思う。

(ヘッダー写真「漫画で読破」:https://mangadedokuha.jp/lineup/009-depravity-idiot/))

◎ 坂口安吾 (さかぐちあんご) = 生没年:1906-55(明治39-昭和30)小説家。新潟県生れ。本名炳五(へいご)。父仁一郎は代議士で,また,漢詩をよくした。安吾は少年時代から自由奔放で,1919年新潟中学に入学したが,2年で落第,翌年上京して豊山中学に転校,卒業後1年間小学校の代用教員を務めた。25年,東洋大印度哲学科に入学,またアテネ・フランセに通ったが,東洋大卒業後の30年,江口清,葛巻義敏(くずまきよしとし)らと同人誌《言葉》を創刊,《木枯の酒倉から》を発表,つづいてその後継誌《青い馬》に,《風博士》《黒谷村》(ともに1931)の2作を書き,牧野信一その他に認められた。このころ女流作家矢田津世子との恋愛があり,また,中原中也を知った。デカダンな生活におぼれていくなかで牧野の主宰する《文科》に《竹藪(たけやぶ)の家》を連載。その後,自身の半生の総決算とも言うべき長編《吹雪物語》(1938)を書いた。40年には大井広介,平野謙らの《現代文学》に参加し,同誌に《日本文化私観》(1942)などを書いたほか,《青春論》(1942)その他の卓抜なエッセーを発表した。その延長線上に,戦後《堕落論》を書いて太宰治,織田作之助らとともに〈無頼(ぶらい)派〉と呼ばれ,流行作家として活躍,《白痴》(1946),《桜の森の満開の下》(1947),《不連続殺人事件》(1947-48)などの名作を残した。(改訂新版 世界大百科事典)

 「堕落論」を読んだ時、正直に言うと、ぼくは相当に衝撃を受けました。これまでに、こんな刺激的でいわゆる「正統派」を罵倒するかのごとき文学評論(だと、ぼくは見ていました)を読んだことがなかったからでした。「堕落論」が出たのは敗戦八か月後の1946年4月。同じころ、それまで読んでいた小林秀雄さんには少し距離を置きかけていました。「本居宣長を執筆されていた時期で、宣長さんの影響がもろに林さんの書かれる文章をの中を超えて、彼の思想や精神の域にまで波及していたことにぼくは不信の念を抱きかけていたものでした。坂口・小林両者のかかわりは、それだけで一つの主題になりますが、それではなく、むしろ、積極的に坂口安吾という作家の資質に大きな興味を持ち始めたのだったと思う。

 それはともかく、「堕落論」の一部分です。

 「半年のうちに世相は変った。醜
しこ
の御楯
みたて
といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋
やみや
となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌
いはい
にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」「半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」

 今、これを読んでも、まさしく安吾氏の人間論、人性論は、正鵠(せいこく)を射ているというほかないように、ぼくは思うのです。ぼくはしばしば「堕ちろ、堕ちよ」と口癖のように呟(つぶや)くのは、この「堕落論」の間違いのない指摘による。敗戦後、わずか半年で「世相は変わった」と安吾さんは断定します。誤解してはならないのは「人間が変わったのではない」という指摘です。あんなに悪かった、あの子が「(改心して)こんなにいい子になった」と親や教師、社会は思いたがるが、「変わったのは上辺(うわべ)だけ」、騙されてはいけませんぜと、ぼくなら言ってやりますね。

 「人間は変わらない、堕落するだけだ」とい安吾氏の主張を取り違えてはいけないでしょう。「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない」とも言います。詐欺もいなければ泥棒もいなかった、その意味は「そこには人間がいなかったからだ」というのです。「戦時下の日本」は「嘘のような理想郷」だという指摘をぼくたちは読み取り取り損なってはならないでしょう。そこには「人間の仮面をつけた怪物・魔物」がいただけだった。

 それに反して、「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ」、今こそ、ぼくたちは「堕落論」を熟読玩味する時ではないでしょうか。政治や政治家、教育や教育者の行うことは「上辺だけのこと」、人間である限り生きなければならない(と、ぼくは考えている)、生きている限り、きっと堕落する。その自覚があるかないかの問題ではなく、生きている以上は堕落する存在であるという自己認識を失わないことでしょう。「人間は堕ちる、けれども堕ち切れない」、それもまた人間の弱さだろうとぼくは自分の体験から学んできました。この自分を見ていれば、そうとしか思われないのです。「戦後八十一年」、その意味は、今は「戦前」であるということでしょう。人間が集団で生きている、集団をつくり、国をなして存在している限り、「戦前・戦中・戦後」の繰り返し。いったい、今日は何度目の「戦後」であり「戦前」でしょうか。

 堕落論

 半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(中略) 
 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。 

 私は戦(おののき)ながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。(中略)

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

(「堕落論」初出「新潮 第四十三巻第四号」1946(昭和21)年4月1日発行。「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房1990年刊)

 「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、この安吾氏の「肺腑の言」を胸に収めて、ぼくは繰り返し、繰り返し想い重ねているのです。どれだけ年寄りになっても、ぼくはこの発言を「反芻(はんすう)」するばかりです。新潟日報「日報抄」氏はわかり切ったことを使者に尋ねるのです。

 「安吾さん、あなたなら2026年の今、どんな言葉を吐くんですか。私たちにどう生きろと言うんですか」と。もう一度「堕落論」を書くばかりでしょう。「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と。そしてさらに言うことがあるとするなら、「堕ち方が足りないよ、上辺だけの堕落じゃないか」「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」安吾さんは「正しく堕落せよ」と、断じる。それはどういうことを指すのですか。

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 (余談です。左下に出した「風と光と二十の私と」一冊を読んで、安吾という作家(その「精神」といっていい)の「肝」をつかんだような気になったことがありました。その勢(いきお)いで、ぼくは「日本の学校における代用教員」というような趣の本を書きかけたことがありました。もちろん未完で投げ出したままですが、今でも書き続けたいという気持ちがあります。それほどに安吾先生の破天荒な、それでいて驚くほど真っ当な「教師ぶり」は、若いぼくには魅力的でした。これについては、駄文集録のどこかで書いています)

 「私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤もっとも別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである」「凡およそ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。/今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ」(「風と光と二十の私」「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房、1990)」

 (追記 「人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ」という訓戒、それとそっくりの話を、ぼくは落語家の志ん生さんが語っていたのを聞いたことがあります。息子の志ん朝さんに向かって「お前さんのように元気ばかりがいいのでは、な。客に聞こえないくらいの囁き声で話すと、おやっ、何を話しているのかと、客は身を乗り出すだろ、ぐっと乗り出したところを、ぱっと突き放すのさ」ってね。言い話でしたね)

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