
初めて買ったレコードが「川は流れる」だっと覚えています。発売と同時に、店は忘れたが、買ったはず。高校2年の9月、65年も前のことでした。兄貴が持っていた装置で、それこそ朝から晩まで、気が狂ったように聞き続けていた、しかも何日も連続で。時々、兄は「どうかしたんか」「大丈夫かいな」と訊いたほどでした。なぜ、ぼくがこの曲(と歌手)に引き込まれたのか。理由は今もってよくわかりません。あるいは、茫漠としていましたが、ぼくの「沖縄開眼」だったかもしれません。沖縄が本土復帰を果たすのは、この後も十年余を俟たなければならなかったのですから、あるいは沖縄系の仲宗根美樹という歌手に、今でいうなら「ハマった」のでしょう。彼女は1944年6月生まれだったから、ぼくとは同学年、東京で生まれた。もともとが両親は沖縄の人だったが、戦争末期の「沖縄戦の激化」を逃れての東京移住(一種の疎開)だった。レコード発売とほぼ同時期に制作された同名の映画(松竹制作)の主題歌だった。彼女も映画出演をしている。奇妙なことだったが、ぼくは映画にはまったくの無関心で、ひたすら聞き続けていた。この傾向が、いったい何年続いたでしょうか。

高校を卒業して何年か経て、ぼくはハタと気が付いた。この曲の「歌詞」の意味を全く理解していなかったのだ、ということを。実に驚愕したことを鮮明に覚えている。高校2年生に「夜の女性」の身上というものがわかるはずもなかった。「街の谷 川は流れる」と歌われて、それが何を意味しているか、ほとんど気にもならなかったのだ。これは一種の「病気(熱病)」であって、その点では兄貴の判断は正しかったと思う。後年、彼は「気が狂ったと思ったで」といっていたほどでした。「病気」だった証拠に、ぼくは仲宗根美樹という歌手の、これ以外の作品も、また、彼女の活動についても一切関心を持つことはなかったから。では、仲宗根美樹の「川は流れる」のどこに牽かれたのか。彼女自身もは後年、「歌詞の意味もほとんどわからないままで歌っていた」と述懐している。高校生が歌詞をよくわかって歌う曲ではなったし、それを同じような高校生が聴いてわかるはずもなかったと思う。ぼくに、この歌の「心持ち」がわかる道理もなかったのです。

作詞家の横井弘さん。敗戦の年の春に招集、直後に敗戦、招集解除。東京空襲で自宅が全焼していたため、長野県下に移住。そこで作った詩が「あざみの歌」(作曲は八洲秀章、歌は伊藤久男)で「山には山の憂いあり 海には海の悲しみが…」、これが横井さんのでデビュー作となりました。その後は三橋美智也さんの主だった曲の「詞」はすべて横井さんのもの。だからぼくは誰よりも彼の詩(詞)をよく知っていました。でも「川は流れる」だけは、作詞も作曲も一向に気にならないままで、聴き狂っていたのでした。
以下に、「川は流れる」に至るまでの横井さんの作品を列挙します。悲しいかな、ぼくはこの「歌詞」のすべてをほとんど記憶しています。(これほどの記憶力があったら、学校の成績は常に抜群だったかもしれません。そのようにならなかった理由は、そこ(成績)にぼくは価値を見出していなかったからだった。どうして、こんなに歌謡曲を覚えたのか、今もぼくには、その事情はわからないまま)

『あざみの歌』(昭和26年8月)『裏町のピエロ』(昭和30年8月)『あゝ新撰組』(昭和30年9月)『哀愁列車』(昭和31年6月) 『俺ら炭坑夫』(昭和32年2月)『おさらば東京』(昭和32年11月)『銀座の蝶』(昭和33年4月)『夜霧の滑走路』(昭和33年7月)『赤い夕陽の故郷』(昭和33年11月) 『山の吊橋』(昭和34年10月)『心の窓にともし灯を』(昭和34年11月)『達者でナ』(昭和35年10月)『川は流れる』(昭和36年11月)『下町の太陽』(昭和37年11月)
(余談です。この「あざみの歌」はよく聞いたものでした。歌手の伊藤久男さんの朗々とした発声に大いに魅了された。しかし、ある時期(成人してから)に、彼が「露営の歌」(昭和12年)(「♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なれよか」)を歌った人だと知るに及んで、その後、ほとんど彼の謡うのを聞くことがなくなりました。当然、作曲の古関裕而さんに関しても同じでした。あくまでも、ぼくの個人的な好悪の範囲の問題でしたが)
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今から考えても、この「川は流れる」との邂逅は奇遇だったと思う。まさに「交通事故」のような、出会い頭(An unexpected encounter)の衝突だった。それで、ぼくは致命傷を負ったわけでもありませんでしたけれど(そう、能天気のぼくは考えてきたが、実はそうではなかったかもしれない)、長く、沖縄という土地に言い得ぬ感情を抱いたのですから、一面では感謝すべきだったかもしれません。二年前に仲宗根美樹さんが亡くなられたという報道に接した際にも、ぼくは深い悲しみに襲われはしませんでしたが、彼女の、ときたま報じられる生活ぶりに、この殺伐とし大都会と競争時代に翻弄された生涯だったのではなかったか、という奇妙・奇怪な印象を持ちました。今だから言えることです、彼女もまた「街の谷を流れる」、その川に流されていたのではなかったか、と。このように言ったからと、仲宗根さんの人生(生涯)をどうこう評価するのではありません。住むにはあまりにも雑然・混沌としている「都会」に生きるということは「人の世の 塵(ちり)にまみれて なお生きる」という、誰彼にも心当たりのある人生の深い深層にもまた、絶えることのない「川は流れる」ということだったのではないでしょうか。ここまで来て、ぼくは鴨長明さんのいくつもの文章を想起しています。その一つだけを。
「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むむべき」(「方丈記」浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫版)
「歌手の仲宗根美樹さん死去 「川は流れる」が大ヒット、沖縄の曲も 歌手の仲宗根美樹(なかそね・みき、本名国場勝子〈くにば・かつこ〉)さんが24日、肺がんで死去した。79歳だった。葬儀は親族で営まれた。喪主は長女国場亜紀さん。/1961年に歌手デビューし、同年の「川は流れる」が大ヒット。沖縄県出身の両親を持ち、「奄美恋しや」「永良部百合の花」などの島唄や沖縄ソングも歌った。NHK紅白歌合戦に5回出場。結婚を機に71年に引退したが、98年に歌手復帰した。(時事)(朝日新聞・2024年2月29日)
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《「川は流れる」(かわはながれる)は、1961年9月30日に発売された仲宗根美樹のシングル。並びに同曲の大ヒットにより製作された同名映画。1971年8月20日には、新録音バージョンのシングルがリリースされた。/作詞は横井弘、作曲・編曲は桜田誠一による。/オリジナル歌謡曲の制作・放送をするABCラジオの音楽番組「クレハ・ホームソング」で発表された楽曲。/元々は、1961年9月発売のシングル「雨の花園」のB面曲として発売されたが、歌声喫茶で評判となったことから、同年11月にA面とB面を入れ替えて再発され、売り上げが100万枚を超える空前の大ヒットを記録した》(Wikipedia)
(⁑「川は流れる」仲宗根美樹:https://www.youtube.com/watch?v=3O5zNfaC7kI&list=RD3O5zNfaC7kI&start_radio=1)
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