「これ以上いたら殺されると思った」

 一見すると華やかな舞妓、実態は「現代の奴隷だった」… 16歳の少女が見た世界 “粋”という名のセクハラ、客との混浴、先輩の暴力「やめるんなら3千万円払うか『旦那さん』の愛人に」 元舞妓の告発 
 
 2016年7月、桐貴清羽さんは舞妓をやめた。日本舞踊や三味線、茶道の稽古が大好きで、芸を磨いて将来は一人前の芸妓になることを夢見ていた。しかし、あまりに異常な世界と感じたためだ。中学卒業直前に舞妓になるための「仕込み」を始めて1年超。京都の「花街文化の担い手」とも言われる舞妓だが、実態は「奴隷制度だった」と振り返る。3月8日は女性の権利向上を掲げ、国連が提唱する「国際女性デー」。未成年で直面した、花街の現実とは。(共同通信=三野多香子)

▽きっかけは日本舞踊 「舞妓にならないか」
 桐貴さんが子どもの頃にあこがれたのはファッション誌のモデル。タレント事務所への応募をきっかけに芸能の世界に入り、地下アイドル活動やご当地ヒーローショーに出演した。
 そのうち、日本舞踊に興味を持つようになった。稽古場へ見学に行き、師範の踊る姿に魅了された。「生身の人間とは思えないほどの滑らかさ」。すぐに入門した。
 中学3年の春に発表会に出たとき、近づいてきた男性が声を掛けてきた。
 「舞妓になったらどうだ」。男性は花街の常連客という。当初はあまり乗り気でなかったが、経済的な事情で高校進学が難しい状況でもあった。進路を決めた。(中略)

▽「これ以上いたら殺される」30年前も
 舞妓による同様の訴えは、桐貴さんが初めてではない。
 1994年、複数の舞妓が置き屋から逃げ出した。訴えたのは長時間労働や体罰。
 当時の舞妓らによると、「生意気や」と顔を平手打ちされたほか、手紙を勝手に開封されたり、実家から送られた化粧道具や本などを捨てられたりしたと主張している。
 労働時間の制限がなく、客からもらった祝儀を全て取り上げられたとも訴えた。舞妓らは記者会見し、目に涙を浮かべて語っている。「これ以上いたら殺されると思った。心の傷は何年かかっても消えへん」
 桐貴さんが辞めてから9年がたった2025年6月、弁護士や大学教授による「舞妓と接待文化を考えるネットワーク」が設置された。桐貴さんの被害を国内外に発信し、国などに調査と改善を求めている。1994年当時に舞妓らの代理人を務めた村松いづみ弁護士らが呼びかけ人になり、こう語った。
 「給料がもらえないというのは当時から変わっていない。声を出せない人が多く、実態が分からないまま30年がたってしまった」(後略)(共同通信・2026/03/13)

 共同通信の記事が出た当時、各地方紙もこの配信記事を掲載しました。「いよいよ来たか」という想いを強く持ったものでしたが、「まさか、祇園が潰れますかいな」という不安も抱いていました。この「現代の奴隷だった」という訴えのその後が気になっていたが、報道はすっかり絶えていました。いまでも、その後を、何んとか探りたいと考えています。(❶写真左:桐貴さんが原案を書いたコミックエッセイの続巻。今年出版された)

 ぼくはこれまでにも、ただの一度だって「花街(かがい)」には無縁で来ました。もちろん、そんな場所に無縁である理由ははっきりしています。物の本では京都祇園の一晩の「遊び」で百万円などザラにあるという、そんな話を何十年も前に聞いたことがありました。ぼくは祇園に足を向けたことはありますが、「お茶屋」にただの半歩だって足を入れたたことはありません。京都の高名な学者や売れっ子作家たちの「武勇伝」には呆れながらも、こんな「岡場所」が今でもあるんだと思っていた高校生時代。東京にも「吉原」という「別乾坤」があることは知っているし、その内実についても、物の本で教えられてきました。それはまた、江戸落語の重要な主題ともなっていたので、落とし噺の世界として、ぼくは「置屋」「茶屋」「遊女」に関しても、それなりに耳は超えていました。京都にいたのは高校卒業時まで。卒業と同時に、ぼくは京都を飛び出し、とりあえずの棲み処を都内文京区に置きました。(❷写真右:桐貴さんと伊藤和子弁護士(中央)=2025年6月、国会)

 本郷界隈も、近間では上野や湯島、あるいは浅草など、男性の遊び場所には事欠かなかった。ぼくには、言うまでもなく無縁の世界。京都を飛び出した一番の理由は、京都という町があまりにも「狭すぎる」というのが理由でした。面積が狭小だということ以上に、人間関係も狭すぎるという実感(外からのものには冷たい)がぼくにはありました。ぼくは10歳前に、能登半島から京都に来ましたが、その後に友人となった多くの人たちは京都に地生えの「京都人」でした。中には「応仁の乱」以来の歴史を同じ土地で過ごしつつ、今日に至るまで存在していた人もいたほど。その「古さ」「狭さ」がぼくには合わなかった。今なら「千年の都」といって誇りにする、その誇り(自慢)」というものが、ぼくには見事に性に合わなかったとも言えます。ぼくが京都にいたのは、なんと十年に満たなかった。

 京都を出た第二の理由は、狭さが底流になっている「人間関係」の軋轢・抑圧でした。仲のいいものは更に仲良く、その反対も、根強く残っている。そんな文化がぼくには受け入れられなかったのです。このことは上京してかなり年月が経過してから分かったのですが、今や「外国人にも大受け」の「祇園」や「先斗町」に代表される「花柳文化」というものの「胡散臭(うさんく)さ」でした。ここでは詳細は語りませんが、「若い女性」を「売り物」にし、あるいは「見世物」にして成り立つ、「京都文化」というものの「非文化性(非人間性)」でした。(*「花柳」とは「《「花街柳巷(りゅうこう)」の略》芸者や遊女。また、遊里・遊郭」)(デジタル大辞泉)

 昨日、珍しく「映画」に関して駄弁りました。京都時代、ぼくはたくさんの「邦画」を観ましたが、幾分かは「花街(廓話(くるわばなし)」(確か「十八禁」もあったと思う)でした。好き好んでみたのではなかった。近所のおじさんたち(映画会社の社員が多かった)から無料の切符をもらったのでした。京マチ子、嵯峨美智子、山田五十鈴、山本富士子など、たくさんの綺麗な女優の花盛りの時代。ことに大映の制作する映画には、この手のものが多かった。今では「遊郭」という語は死後に等しくなったでしょうが、実態は手を変え品を変えて生き残っています。さしずめ、京都などはその「歴史」を最大の売りにして観光産業が隆盛を誇っているという、あまり褒められないような感想を非常に強く持ちます。(➌左写真:舞踊やお茶などの舞妓文化にふれあうイベントに参加した桐貴さん=2016年3月、京都市の「みやこめっせ」)((❶❷➌ともに、上掲の共同通信記事による))

 「千年の都」が泣いているという実感を持っています。観光立地という浮華(ふか)に溺れている都会というのがぼくの京都に対する率直な(否定的)意見です。神社仏閣が観光業になり果てているという気もしていました。祇園や先斗町が脚光を浴びる時勢、もう一方の歴史的な岡場所が「島原」だったと思う。島原から祇園へと街筋は変わりましたが、「女性」を食い物にする野生・野蛮文化は衰えていないのです。(この問題をさらに追いかけてみたい)

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◎ 島原(しまばら)= 京都市街の南西部にあった近世の代表的遊郭。京都の遊郭は,1589年(天正17)に秀吉が指定した二条柳町に始まり,1602年(慶長7)に六条柳町(三筋町ともいう)へ移っていたが,40年(寛永17)に当時としては町はずれの朱雀野へ再移転を命じられて傾城町となった。これが現在下京区に属する島原で,島原の地名はその3年前に起こった島原の乱にちなむとする諸説が伝わっているが,確証はない。いずれにしても,島原は俗称ないし通称であって,正式の地名は西新屋敷といい,その中は揚屋町,太夫町,上之町(かみのちよう),下之町,中堂寺町(ちゆうどうじちよう),中之町の6町に分かれ,この町名は今も残っている。四方を溝で囲み,出入口を1ヵ所に限定した,典型的な遊郭設計であった。出入口は出口(でぐち)と呼び,そこに出口ノ柳があった。また,そこへ入る通路は〈朱雀(しゆじやか)の細道〉と呼ばれた。太夫の質がよいことで知られたが,元禄(1688-1704)以後は祇園(ぎおん),北野などの私娼街の進出により衰退を続けた。明治以後も営業を継続していたが,1957年の売春防止法実施とともに消滅した。なお,揚屋町の角屋(すみや)(揚屋),中之町の輪違屋(置屋)などに近世建築の遺構が残っており,角屋では観光用に遊郭風俗のショーをみせている。(改訂新版 世界大百科事典)

◎ 祇園(京都市)(ぎおん)= 京都市中央部、東山(ひがしやま)区の八坂(やさか)神社を中心とする地区。祇園という地名は八坂神社の旧称祇園社(祇園感神院(かんしんいん))にちなむ。八坂神社西門前から鴨(かも)川以東の四条通南北両側一帯で、京都の代表的な花街である。戦国期には荒廃したが、江戸初期ごろから、八坂神社や清水(きよみず)寺への参詣(さんけい)者を相手に水茶屋が軒を並べて門前町を形成するようになった。茶くみ女が妍(けん)を競い、1713年(正徳3)には祇園町北側の内六町が開かれ、やがて京都の遊里の中心は島原から祇園に移った。1872年(明治5)には、東京遷都によって打撃を受けた京都復興策の一つとして、京都に観光客を集めるために花見小路に祇園歌舞練場を建てて、「都をどり」が始められた。/現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれ、路地に聞こえる三味線の音や、舞妓(まいこ)や芸妓(げいぎ)の姿に花街の風情が感じられる。四条通と花見小路の赤壁の万亭は大石良雄(よしお)の故事を伝える一力茶屋(いちりきぢゃや)である。また4月の都をどりは、先斗(ぽんと)町の鴨川(かもがわ)をどりとともに京の春の華やかな行事であり、7月の祇園祭は平安時代に始まった祭礼である。また祇園の北側を流れる白川の河畔には、吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」の歌碑が立ち、また祇園新橋一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。また祇園縄手・新門前と祇園町南が京都市の歴史的景観保全修景地区に指定されている。(日本大百科全書(ニッポニカ))

◎ 遊郭(廓)【ゆうかく】= 郭(くるわ),曲輪,色里とも。公娼を集めて居住させた特別区画。豊臣秀吉によって始められ,江戸時代に制度として整えられ,《洞房語園》(1720年)には,江戸吉原,京都島原,大坂瓢箪(ひょうたん)町(新町),下関稲荷町,博多柳町,長崎丸山など官許遊郭25ヵ所があがる。これに対して飯盛旅籠(めしもりはたご)の名目で半公認された品川等の宿駅や,江戸中期以降とくに勢力を伸ばした,深川などの私娼(ししょう)街(江戸では岡場所)があった。遊郭は多く郊外に設置され特別な町割をもち,周囲をみぞで囲み,大門(おおもん)のみを通行口として隔離した。特異な習俗,作法,廓詞(くるわことば),揚屋制度などを有し,江戸期の文化形成に一定の影響を与えた。江戸芸術の多くが遊里と何らかの関連があるのは,ここが芝居とともに一種の社交場となっていたことにもよる。遊郭は明治に入ると単なる売春地帯へと変貌して急増し,1924年には全国544ヵ所を数えた。第2次大戦後1946年の公娼廃止指令によって表面上は消滅したが,いわゆる赤線帯として存続し,1958年の売春防止法実施で完全に一掃された。(百科事典マイペディア)

 (右上写真:「吉原歓楽街への入り口。江戸時代は木製だったそう。鉄製のアーチから明治時代以降のもののようです」)(https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_27931/)

◮ 関連語 ~ 公界・桂庵・里ことば・娼妓解放令・新地・買売春・遊女などなど。

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