行政がより不安をあおっていいのか

 〈ニュースあなた発〉

 「アケロー、アケロー、アケロー」「あけろ!あけろよ~!」「アクベシ!アクベシ!」「やばいやばいやばい」──。東京都文京区が発送した国民健康保険料の督促状を入れた封筒に、これでもかと目を引く言葉が並ぶ。受け取った40代の自営業男性から「不快だし、不安をあおられる。なぜこんな封筒になったのか調べてほしい」と東京新聞に依頼が寄せられた。文京区がデザインに込めた意図とは──。(小倉貞俊、写真も)
◆「行政がより不安をあおっていいのか」
 男性は個人で飲食店を営んでいる。納付期限に間に合わず、9月下旬にこの封筒が自宅に届いた。「(動画上に視聴者のコメントが流れる)ニコニコ動画の画面のようなデザインで『何?』と思わず目を疑った」
文京区から男性に届いた督促状の封筒。「あけろ!あけろよ~!」などの文字が所狭しと並ぶ
 半年前に届いた封筒には多数の「目」が描かれ、過去には時限爆弾を思わせる絵柄もあったという。「奇抜にして、他の郵便物に紛れないようにするためだとは分かる」とした上で、「でも、本当に生活に困窮している人や、精神的に追い詰められている人も多い。行政がより不安をあおっていいのか」といぶかしむ。
 区国保年金課に聞くと、目立つ封筒を使い始めたのは2019年という。2015年からカラフルな封筒を取り入れていた区税務課を参考にした。担当者は「督促状を見落とし、延滞金や財産の差し押さえにつながらないよう、目にとめてもらいたかった」と狙いを話す。
 国民健康保険料の滞納 納付期限の翌日から延滞金が発生する。法律上、督促状を発した日から10日を経過した日までに完納しない場合、差し押さえなどの滞納処分の対象となる。事情に応じて分割納付や猶予などの制度もあり、実際の差し押さえは滞納者の経済状況や納付相談の状況なども踏まえて行われる。(以下略)(ヘッダー写真も「文京区から男性に届いた督促状の封筒。「あけろ!あけろよ~!」などの文字が所狭しと並ぶ)(東京新聞・2026/10/14)

 劣島の頽落(たいらく)は急かつ深となって進行しているようです。これは一例ですので、他の自治体にも同じように、目を覆いたくなるような、穴があったら入りたくなるような、「荒唐無稽(こうとうむけい)」な行政事務に事欠かないし、かかる「荒唐無稽(「言動に根拠がなく、現実味のないこと。また、そのさま」デジタル大辞泉)を生み出している吏員は、たぶん、「最高学府」という名のつく教育機関で「最低教育」を享受してきたのではないでしょうか。その昔、ぼくは「最高学府」に入るために上京し、「最低教育」に呻吟しつつ、その貴重な十年間を文京区本郷で棲息(生息・栖息)していたことがあります。区役所までは徒歩何分でした。柔道の講道館も野球の後楽園球場も遊園地まで、その一角には隣接していました。もと水戸藩邸の跡地でした。

 当時はそれほどに愚かしい区制が敷かれていたとは思わなかったが、ぼくが住んでいた家宅の大家が歯科医兼文京区議だったので、「おやおや」という気分を味わったことがありました。家の前は旧帝国大学で、先ごろ次期学長に、投票結果が2位だった女性が多くの応援団の支持を得て「ガラスの天井」を破ってもらい、今もなお、その「正当性」をめぐって揉めているのですから、そんなところか、という想いも強くあります。その隣には本藤署もあり、若い日、ぼくは世話に(なりたくなかったが)なったこともある。それにしても、役所は、何を血迷って、こんな文書を作り、しかも、税金を使ってまでして、該当者に配達するんでしょうか。「役者馬鹿」という表現はいい意味で使われていましたが、ここでは、正真正銘の「役所馬鹿」といいたくなりませんか。

 国民健康保険料の督促状を送りつけるような「輩」は、まともでもなければろくでもない、人間の屑とでも考えていなければ、こんな破廉恥は行われるはずもないでしょう。ぼくは房総半島の山の中から、また「問い合わせの電話」(あるいはメール)を出す羽目になっているのです。このような悪態をつく、あるいは罵詈雑言に当たるような添え書きを付した封筒を投函した役所の吏員には何の「お咎め」もないのでしょうか。この耳で聞いてみなければ。付言するなら、かかる封筒をもらって驚いた人に対して、「文句を言うな」「お前が保険料を納めないから、こうなるんだ」という、役所の能天気たちを応援・支持する「夜郎自大(やろうじだい)」の輩も確実にいるのです。「夜郎」とは漢の時代、その西南地方にいた異民族を指す。「《昔、夜郎が漢の強さを知らずに自分の勢力を誇ったところから》自分の力量を知らずにいばること。また、そのさま。夜郎大」(デジタル大辞泉)思い付きでいうのですけれど、ぼくの見立てでは、役所(親方・日の丸)を背中に背負って、市民に難癖をつけ、まるで「虫けら」(弱者)のごとくに扱うその姿、またその吏員の思慮の欠けた暴力を、大声で応援する輩たちも、これもまた、「夜郎自大」であるというほかありません。「虎の威を借る狐」なんでしょうか。

 この国や社会が、とてつもなくはげしく堕落頽廃している「現実」を、ぼくは嘆くのでも無関心になっているのでもありません。大なり小なり、この「夜郎自大」が闊歩してまき散らす「埃(ほこり)」もあるいは時には「火の粉」も、ぼくごとき山中の住人にも降りかかってくる。だまって身に降りかかるままにされる、謂(い)われはないのです。「一寸の虫にも五分の魂」みたいな、誇りを持っていたいもの。(役所からの「督促状」、まるで左の張り紙のような気持ち悪さがありませんか)

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えっ、こんなことで驚くんですか

 定期試験で「替え玉」、金銭授受も発覚 大学が懲戒処分し、注意喚起

山梨学院大学(甲府市)が学生らに対して、他人になりすまして授業や定期試験を受ける「替え玉」行為への注意を促すメールを送っていたことがわかった。学生間で金銭の授受もあったとして、規定に基づき懲戒処分を行ったとしている。
 大学側が10月7日付で送ったメールによると、今年度に入り、替え玉行為が複数確認されたという。「極めて悪質な学業不正であることを強く認識し、依頼することはもちろん、友人から打診されても絶対に引き受けないように」と学生に注意を呼びかけている。
 関係者によると、注意喚起のメールは、日本語のほか、英語と中国語でも配信されたという。朝日新聞は山梨学院大にメールの内容や不正行為の詳細について問い合わせたが、広報担当者は「本件については、回答を差し控える。お答えできる内容はない」などとコメントした。(ヘッダー写真「大学が学生に送った注意喚起のメール」も)(朝日新聞・2026/10/14)

 政治や政治家の「現実」を見ていると、もはや手の施しようはないのだと、一人の主権者でもあるぼくは「諦念(諦めの境地)」とも「お手上げ」とも「観念」とも「辟易」とも「降参」とも感じるし、あるいは「慨嘆(憂い嘆くこと)」し、「慷慨( 悪い風潮・不正の横行を怒り嘆くこと)」し、そして今では、そんな感情を通り越して、なるようになれ、好きにするがいいと思うことにしています。それほどに、「政治」や「政治家」の性悪さは「堂に入る(見上げた)」」ものだということでしょう。よくもこれほどと、その「立派さ」をほめたたえる気はありませんが、いうならば「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」なんですな。「同類のすることは、その方面の者にはすぐわかるというたとえ」(デジタル大辞泉)ということです。余りにも「蛇の道」が多すぎる社会ですかね、劣島は。

 そして今また、ある一つの私立大学の「学生諸君へ」の「注意喚起」でした。その心は「もっとうまくやりなさい」という忠告・指示だったかもしれないと、ぼくなどは勘ぐってしまいます。何を今更、という想いもあるし、わかってはいたが、これほど酷(ひど)いとはという「大学側の驚愕と、優しい決意」の表れだったかもしれません。こんなことを言えば、非難囂々(ごうごう)かもしれませんが、今どき、学生は「真摯」「誠実」「素直」(であれ)などと考える人はいないでしょうし、一度学生時代を経験をした人なら、その「実際の姿」は火を見るよりも明らかです。「誰だってやってるじゃん」「そんなことに目くじらを立てるのは、ダサすぎるさ」とでも言っておきましょうか。ことはY学院だけのことではなく、単に「右代表」として報じられたのでしょう。(それにしても、これで卒業までに要する授業料等は数百万円に上るでしょう。この痴愚・痴態を見ていると、「大学は「失業対策事業か」と勘違いしてしまいそうです)

 とんでもないことを駄弁っていると受け取られそうですが、そうではありません。大学側も、「学生の所業」を認めているのです。今回は目に余っただけという話でしょう。「極めて悪質な学業不正であることを強く認識し、依頼することはもちろん、友人から打診されても絶対に引き受けないように」と忠告していますが、考えようによっては「そこそこの、あるいは良質な学業不正ならば大いに行うべし」と奨励しているようにも思われます。まさに「交通違反者」の撲滅を口にはするけれど、そんなことはあり得ない相談と、それこそ、「諦念」している「警察・公安委員会」のような立場に置かれているのじゃないでしょうか、大学は。新聞社が大学に問い合わせたのに「本件については、回答を差し控える。お答えできる内容はない」という返答だったという。理解できないですね。「お応えできる内容はない」というのは、よほどの悪辣な所業だったか、どこでも行われている「通常の悪行」だったが、学生の大半、あるいは大学自体もかかわっていたというのかもしれません。

 ぼくは半世紀近くも教師の真似事をしていましたから、こんな惨憺たる状況は嫌になるほど知っていましたし、今だって、大学や学生の(つまりは、大学という、一つの世間の)体質はいささかも変わっていないことも確信しています。昔からいうでしょう、「勝てば官軍、負ければ賊軍(最終的に勝った(評価された)方が正義になる)」と。これは日本社会の「醇風美俗」に類することでしょう。「何が何でも勝たねばならぬ」とされる生き方の推奨です。「(醇風美俗とは)すなおで人情の厚い、美しい風俗・風習」(デジタル大辞泉)とされます。外国人がこの国や社会の美点に驚嘆するのも「相互扶助」「相身互い身」という、助け合いの精神でした。「情けは人の為ならず」とも言います。困った人、助けを求める人がいれば、やれる・できる範囲で「助ける」「手を貸す」ということです。この日常的行為に「金銭」が絡むと政治になります。政治は無償の行為ではないからです。

 あまたある大学から「学生による不正」を追放するとどうなるか、確実に「学生不在」、大学は「無人の荒野」になること請け合いです。今はどうか知りませんが、ぼくが勤め人をしていたころ、多くの教師は授業を面倒な業務と考えていたと思われ(これで授業をしなければ、「ここは天国」だ)、至る所で「休講掲示板」が林立していました。授業を休む(さぼる)教師が多すぎるので、その名を一覧で掲示していました。中には「無断でさぼる」無礼者もいた。学生の学業不正を詰(なじ)る、譴責(けんせき)する前に、給料を取っている教師の「怠業」「泥棒行為」をこそ、戒めなければならないと、ぼくは若いころは悲憤していましたけれど、途中からは諦めて、我が道を歩くことに徹底しました。「他人は他人、自分は自分」と。

 「学業不正」とは。代返・代筆・カンニング・替え玉受験その他、無数にあるでしょう。それぞれに「金」が絡むのが目に余ったのがY学院だったということでしょうか。でも他の大学はどうでしょう。目に余りはしないが、耳にも鼻にも余っているかもしれないが、大学は大様に構え、お目こぼしをしているのではないでしょうか。「それが大学というところだ」と、ね。少子化の波をもろにかぶっている大学は枚挙にいとまなしで、学生定員の2割3割の充足率がやっとのところもあれば、早々と閉鎖を決めたところも数多あります。ぼくは三十年以上も前から、「大学の役割は終わった」といい続けていました。大学というところは「学業(授業など)」本位だと思っていたら、いつのまにか「学業不正」が主流になったということなんですね。

 この社会の学校教育は、それこそ粒粒辛苦して、喘ぎあえぎしながら、結局は、今あるような殺伐とした、あるいは腐敗堕落の巣窟のような学舎状況に至りました。ここから立ち直るのは並大抵の努力や精進では間に合わない気もします。これは老人の愚痴にも聞こえるでしょうし、偏見の塊に見えるでしょう。でも、現実に「学校は死んでいる(School is dead.)」というほかない事態が至る所に現れているのですから、愚痴であろうが偏見であろうが、一片の心理(蓋然性)をついているように、ぼくは勝手に考えている。「君は大学に行ったのに、どうしてそんなに賢いのか?」という人間が存在するのは奇跡のようだし。「あなたは大学に行かなかったのに、どうしてそんなに愚かなの?」といいたくなる人間が多すぎるのも、この国や社会の学校教育のしからしむるところ(当然の帰結)かもしれません。

(追記 前日は成しました都内公立小学校勤務の女性教員が校長の「セクハラ・パワハラ」に困って、小生に「相談」のメールを送ってきた件。昨夜、電話で話をし、とりあえずは、断固、「校長の非行」を許さないと、当の人間(校長)に言い続けること、その傍らで、いくつかの作戦を立てるという話になりました。はっきりした「決着」はまだですが、「付きまとい」は止んでいるらしい。教委に申請した「転任願い」について、教委は「申請理由が『病気』なら認める」とさ。「校長のセクハラ容疑」では何の都合が悪いんでしょうか。「体面(appearance)」かな。仲間を切るに忍びないというのかしらね。ここにも「ダサい連」が屯(たむろ)しているんだな)

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