
スポーツを愛好する気持ちは人後に落ちないつもり。中・高では野球とラグビーに時間を取られたし、大学に入ってもラグビーをしようかと考えていたほど。でも、自分の才能(求められる根性)の無さが理由になったのは勿論でしたが、それ以上に、学校における運動は「扱(しご)き(必要以上の厳しい鍛錬)」や「拷問(精神的肉体的苦痛を与えること)」に思える時が常にあったので、とてもその仲間(扱く者と扱かれる者)に入ることはできなかった。あくまでも「遊び(play)ごころ」が不可欠で、それを失うと、「運動(スポーツ)」の目的はとんでもない方向に行くんじゃないですか。今も昔も、これは変わらん。

<play>という語には多彩な深さと幅があります。楽器なら「弾く」「演奏する」であり、演劇なら「演ずる」「演じる」であり、運動なら「行う」「する」というように、です。その原義はとても古くて、正確なことは、当然のこと、よくはわからない。でも、その語義のおおよそはたどれます。その一例として、以下に。
「play(v.)=中英語の pleien は古英語の plegan や plegian に由来し、『軽やかに素早く動く』『何かに没頭する』『楽しむ』『活発に運動する』『戯れる』『子どもたちの遊びに興じる』『スポーツにふける』『からかう』『音楽を演奏する』といった意味を持っていました。これは原始西ゲルマン語の *plegōjanan、『何かに没頭する』という意味から来ており、古サクソン語の plegan(「責任を持つ、世話をする」)、古フリジア語の plega(「世話をする」)、中オランダ語の pleyen(「喜ぶ、楽しむ」、ドイツ語の pflegen(「世話をする、育てる」)などが同系語です。この語はおそらく plight(動詞)とも関連していますが、最終的な語源は不確かで、音韻の発展を説明するのは難しいです」(etymonline)(https://www.etymonline.com/)
そこには、どこを探しても国旗や国威を持ち込んで「大いに興奮する」「特攻精神」などという解釈は出てきそうにありません。ぼくは少年時代から運動好きでしたけれど、それは自分が楽しむ、友だちといっしょに遊ぶという、もっとも素朴な気分を満喫するためでした。地域のためとか、学校の名誉をかけてというのは、ぼくにはとても受け入れがたい「イデオロギー」のようなものでした。もちろん、そんな言葉は知らなかったが、「何かのために、野球をせいや」とめいじられたら、ぼくはきっと「そんなんいやや」と逃げ出したはずです。「世のため、人のため」という「精神」は大事ですけれど、国家に奉仕(「滅私奉公」)する、たかが野球ごときでではない、どんな事柄でも「国家のために」という「大義」みたいなものは受け入れられないでしょうね。国威に殉じるというのとは大違いだといいたいですね。

昨日(「スポーツの日」)の山形新聞「談話室」を面白く読みました。記者が訊く、「Jリーグをつくって何をやるんですか」Jリーグ、生みの親が応える、「サッカーをやります」という、この遣り取りには、言わず語らずの「含み」がありましたね。要するに、訊いた方も訊かれた方も、たぶん、同じ気持ち(気分)(腹つもり)を持っていたと、ぼくは思う。コラム氏は「スポーツとは本来、それ自体を楽しむこと。ところが日本では、何か他の目的を付すことが浸透している」と。肯綮(こうけい)に当たっていませんか。(*《「肯」は骨につく肉、「綮」は筋と肉とを結ぶところの意》物事の急所。かなめ)デジタル大辞泉)田淵さんも「いわず語らず、同じことを肯定していた」でしょう。彼は大学から「企業チーム(古川電工)」で活躍された方でした。
つまり、記者も川渕氏も、「他日大いに活動するための土台をつくる」と、そこまではまさか考えてもいなかったでしょうが、さにあらず、言わず語らず、阿吽の呼吸というものがあったと、ぼくは見ているのです。「日の丸のため」ですね。「国旗はためく下に」だったでしょう。
【談話室】
▼▽「Jリーグをつくって何をやるんですか」。1993年にサッカーJリーグが誕生した際、初代チェアマンの川淵三郎さんを囲んだ記者の一人がこんな質問を投げかけた。氏の回答は単純明快。「サッカーをやります」
▼▽スポーツとは本来、それ自体を楽しむこと。ところが日本では、何か他の目的を付すことが浸透している。ラジオ番組の中で、スポーツ文化評論家の玉木正之さんが、象徴的なエピソードとして紹介していた。元をたどれば、明治時代の国策「富国強兵」に行き着くという。
▼▽当時のある師範学校サッカー部の部誌には、運動で心身を鍛えるのは「他日大いに活動するための土台をつくる」と明記してあった。「他日」とは即(すなわ)ち戦争のこと。思想は第2次大戦まで引き継がれた。戦後、強兵目的は消えても、何かのためにやるという感覚は残ったと。
▼▽川淵さんと記者とのやりとりから30年余り。運動そのものを楽しむ意識はだいぶ根付いたようだ。教育的かつ義務的な響きを伴う「体育の日」が「スポーツの日」に改称されて7年目。どうやら天気も悪くない。体を動かして汗をかいてみるか。余計なことは一切考えずに。(山形新聞・2026//10/12)

「サッカー」が職業になった、第一段階では各チームは企業所属(プロ野球も然り)でした。だから、何よりも会社のため、それは無条件の前提だったでしょう。選手の生活を支えてくれるのは「企業((会社)」だったからです。純粋に「サッカーを楽しむ(プレーする)」なら、それは無償であり、無所属が当たり前の話です。そんなことなら、会社は金を出さないでしょうよ。(第二段階は、チームは「地域に属する」でした。これも不可思議ですね、ぼくには。だから、須らく「運動(スポーツ)」は無償・無所属であるべきだと、ぼくは狭い了見を押し通す強情は張りません。企業のため、地域のため、あるいは国のため、そう「スポンサー」のためにと、プレーの動機が重なり広がることは否定しません。ただ、その傾向があまりにも強くなりすぎると、ぼくは「競技」そのものから離れる、関心を失うという、ぼくの個人的判断を優先させるのですね。

スポーツ(運動)を懸命にやる、その理由は《「元をたどれば、明治時代の国策「富国強兵」に行き着くという》(「談話室」)《「当時のある師範学校サッカー部の部誌には、運動で心身を鍛えるのは「他日大いに活動するための土台をつくる」と明記してあった。「他日」とは即(すなわ)ち戦争のこと。思想は第2次大戦まで引き継がれた。戦後、強兵目的は消えても、何かのためにやるという感覚は残ったと」》(同上)
ここで、ぼくは「運動」と「スポーツ」という二つの語の使われ方の経緯、あるいは「軍隊」と学校の共通の歴史を語るべきなのでしょうが、しばらくぶりに東京に出向いたのと、庭作業の後遺症でやや疲れているのと、内容の解説をすると面倒になりますので、本日は割愛します。要するに、コラム氏が指摘するところは、今もって学校教育の中に、スポーツ以外の、他の目的が残っているという点に注目してみたのです。軍隊と学校とは、同じ両親(大日本帝国)からの生まれでした。「運動会」「遠足」「修学旅行」「体育」「号令」「行列」「行進」などなど、今日の学校でも使われている、その言葉だけを見れば、「ここは軍隊か」と思うでしょうし、実際の場面・現場を見れば「やっぱり軍隊やんけ」となるかもしれません。

ぼくは幼いながらに「学校教育」という機能と組織(看板)に抵抗してきたのは「軍隊になった学校」だったのかもしれませんし、「教師(上官)の命令」は「天皇の命令」と錯覚している、学校の暴力性だったかもしれません。「川淵さんと記者とのやりとりから30年余り。運動そのものを楽しむ意識はだいぶ根付いたようだ」とコラム氏は書かれていますが、とてもお人柄がよろしいのでしょうか、呑気に過ぎるというのか。悪意がなくても、何かに加担しているとぼくは指摘しておきたい。サッカーに限らず、プロ野球でも、どうして日の丸の旗を振り、ガンバレニッポン!と蛮声を嗄(か)らすんですか。大相撲の千秋楽でも、同じような「国家への敬愛」だかなんだか知りませんが、「相撲は国技」と勘違いしている、そんな風潮が、あらゆるところに、今だって蔓延・横溢していますよ。
日本における「陸軍」と「学校」は、あえて言うなら、「双子」でしたね。だから、今もなお「双子の魂百まで」というのではありませんか。
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◎ 日本陸軍(にほんりくぐん)= 大日本帝国陸軍のこと。明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに陸軍を制定した。さらに同年陸軍教務課を軍防事務局に改め,その下に陸軍局を新設した。同2年軍防事務局が兵部省に改編され,同4年に薩摩,長州,土佐3藩の藩兵から親兵が編制され,新日本陸軍の一応の基盤となった。同5年2月に兵部省陸軍部が陸軍省となり,1873年には徴兵令が発布された。 78年にはそれまで陸軍省の一局であった参謀局が独立して,天皇直属の参謀本部となった。陸軍の教育統轄機関は,87年に陸軍省から離れて天皇直属の監軍部となり,98年に教育総監部と改められた。新陸軍の建設にあたって明治政府は当初フランスに範をとっていたが,その後次第にドイツ色を濃くしていった。日清・日露戦争などで海軍とともに日本陸軍は急速に成長し,中国大陸における政策をめぐって次第に政治に介入するところとなり,昭和の初期には一部の青年将校がクーデターを企図して二・二六事件を引起すにいたった。同様にしばしば政府,軍首脳を無視して独走した関東軍によって満州事変が引起され日中戦争にまで発展した。 1941年からの太平洋戦争では後方補給能力の限界をこえた遠隔地に作戦を進めたため,緒戦の利益を失って自滅的な敗北の道をたどり,45年敗戦とともに解体された。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)(右写真「岡山 陸軍特別大演習 昭和天皇★昭和5(1930)年」)

◎ 学制(がくせい)=日本最初の近代学校制度に関する基本法令。明治5 (1872) 年発布,その後条文の改正追加が行われ,日本における近代学校の成立発展の基礎となった。同4年に設置された文部省は全国に実施する学校制度を確立するため,学制起草委員を任命して学制を立案制定した。その際国内の事情をも調査したが,委員の多くは当時の洋学者であり,学制は主として欧米の学校制度を模範として定められた。政府は同5年8月2日に学制の趣旨を声明した太政官布告とともに学制を発布し,文部省は翌3日 (太陽暦9月5日) に全国に学制を公布した。学制は全国を大学区,中学区,小学区に区分し,学区制によって小学校,中学校,大学校を設置することとしている。学制の実施により,全国にまず小学校が設けられ,その後中学校その他の学校も設立されたが,学制は規定どおりには実施されなかった。学制の構想はきわめて雄大であったが,当時の現実の社会に適合せず,学制に対する批判も高まり,また西南の役後の政治的,経済的情勢の変化などにより,1879年9月,教育令の公布とともに廃止された。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)(左写真「曜斉国輝 [画]『東京第一大学区開成学校開業式之図』(万屋孫兵衛)」)
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