私の簗ちゃん、知恵袋の簗ちゃん

  近事片々「註「近頃の出来事・事件  取るに足りないさま」・1952年、連載開始)

 経歴だけ見れば能力は高いだろう議員は自民党に山ほどいる。が、倫理となると。   
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 地域のため国のために働くのが職分なのに地域を締め上げるとは。発言を認めても弁明のない農相。大臣の前に一議員としての資格を疑う。    
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 選挙運動巡る疑惑も続々。巧妙なズルか締まりがないのか。いずれにせよスキャンダル生み出す技能にも優れ。    
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「良き隣人」たろうとする努力を積み上げては壊す米軍兵士の凶悪事件後絶たず。有って無きか、再発防止策。    
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 パラ競技に教訓生かせ。アジア大会の数々の不手際。(毎日新聞・2026/10/05)  
  素粒子(註「物質を構成する最小の単位で、それ以上細かく分けられないもの」・1959年、連載開始)

 農水相の予算カット発言は露骨すぎて批判を浴びた。だが、沖縄県知事選の記事の片隅にも、選挙結果を受けて政府は沖縄振興予算の積み増しを検討するとあった。     
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 共和党が選挙に勝てば成人全員に5千ドルを支給すると言ったトランプ氏は批判を浴びた。だが、選挙に勝てば減税すると公約して歓心を買おうとする政治家は多い。     
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 政治と金の問題が関心を持たれなければ、自分には金を動かす力があるのだと有権者に見せびらかす政治家がますます増えることだろう。臨時国会がきょう始まる。(朝日新聞・2026/10/05)

 かつての「大新聞」の、落魄著しい、今に続く有名コラムです。読んでみれば、なかなかに辛辣であり、皮肉が利いていると思うのですが、この姿勢(つまりは思想)を自らの所属する新聞全体に広げられないのかと、つねに訝しく。これに「よみうり寸評」を加えれば、役者が揃ったといえたのですが、まず読売新聞が、ジャーナリズム・スピリットを放擲し、今まさに、この両新聞がそれに続こうと藻掻(もが)いているところか。「乗り遅れるな」つまりは、坂道を転げ堕ちるがごとくに「腐った権力」のご機嫌を伺っているところ。それは何処でわかるか。新聞記事の「論調・書きぶり」というか、誰に向かって記事を書いているかという「視点」においてあからさまです。

 購読部数や販売部数を誇るがために、にいちゃ、製品を粗製乱造したはいいが、社会全体が新聞購読に昔日の興味を示さなくなった途端に、「宅配」が重荷になったのか、まるで釣瓶落としのように購読者数は激減しています。もはや、これを止めるものは何処にもいないという「落日燃ゆ」です。本体は危なくなったけれど、副業は快調でありますから、「ご心配無用」といったところが、そもそもの邪道というもの。そして、今や、歴然と「第四権力」の末席を汚しているのです。

 「マスメディアが発達し世論に与える影響力から、三権(立法・行政・司法)と並んでジャーナリズム一般を第四の権力と呼ぶことがある。また、三権への監視者としての役割と、国民の知る権利を成す情報伝達者としての責任が重いにも関わらず、三権と迎合・癒着しジャーナリズム自体が権力化したことを揶揄する用語ともされる」(Wikipedia)あくまでも建前上は「権力の批判」という役割を持つものとして評価されることを以て「第四権力」といったのですが、いまでは、批判の対象である「権力に迎合」「権力の片割れ根性」としての役割に甘んじているというべきでしょうか。その昔は、「ペンは剣より強し(The pen is mightier than the sword.(英) Calamus Gladio Fortior.(羅)」(エドワード・ブルワー=リットン)(右写真)などと持て囃されたことがありますけれども、どうやら、メディアの役割は「お役御免」といったところ。

 蛇足 昨日も触れましたが。いったい、政治家が「利益誘導」をしないということがあるのでしょうか。この道路も、この橋も、「みんな私がやりました(予算を取りました)」「…、それもこれも、みんな私がやって見せます」と有権者に訴えない政治家は、ピンは国会議員からキリは町会議員まで、おそらくどこにも、一人もいないでしょう。露骨といえば露骨ですが、「沖縄県知事選の記事の片隅にも、選挙結果を受けて政府は沖縄振興予算の積み増しを検討するとあった」(素粒子)とあります。政治や政治家は有権者に「夢」を与えるのが仕事ではなく、いろいろな形に変えてであっても、要は「金」を配るものです。それがいけないというなら、政治も政治家も生きていけないけれど、国が滅んでも国民が苦しんでも「政治家」は太るのは、「利益誘導」という免許証・免罪符を持っているからでしょう。

 「地域のため国のために働くのが職分なのに地域を締め上げるとは。発言を認めても弁明のない農相。大臣の前に一議員としての資格を疑う」(近事片々)と、川に落ちた犬を、「恐る恐る叩く」のが得意らしい。「不打落水狗(水に落ちた犬は叩くな)」という人々に対して、魯迅さんは「打落水狗(水に落ちた犬は叩け)」と主張しました。自分に向かってきた犬を棒切れか何かで叩いたら、水中に落ちた。でも油断していると水から上がって、再び襲うかもしれないから「水に落ちた犬でも叩く」のが当たり前と、魯迅さんは言ったのでしょう。権力を持ったものは傍若無人で手に負えない。だから少しぐらい痛手を負ったとしても、手を緩めると痛い目に遭うから「権力者の暴力には気を許すな」ということだったかもしれません(魯迅「『フェアプレイ』はまだ早い」魯迅評論集 (岩波文庫)。

 その顰(ひそみ)に倣(なら)うなら、「発言を認めても弁明のない農相。大臣の前に一議員としての資格を疑う」と詰(なじ)られる大臣、ここぞとばかりに「叩け、叩け」とメディアは叩き合い競争の秋の陣です。「私の簗ちゃん」「私の知恵袋、簗ちゃん」と見苦しくも叫んでいた誰かに忖度しなくていいぞという「お許し」が出たのでしょうか。「類は友を呼ぶ」といい「同病相憐れむ」というのは、誰々のことを指しているのでしょうか。この問題で、任命責任を追及しないでくれれば、「叩き殺しても構わない」と、任命権者は言ったのでしょうか。

 (沖縄基地の米兵の起こした「殺人事件」に対して、沖縄知事の「破顔の会見」は何でしょうか、世も末であり、首相の「強く抗議する」も決まり文句(クリシェ・clichéク)でしかありません。このような犠牲者を何度出そうが、日本政府は「叩かない・叩けない」という不始末です、かかる腐った権力に加担していていいのですか、メディアの方々。

 それもこれも含めて、有権者(Voters)よ、目を覚ませ、と。そして「有権者意識」以上に大事なのは「自分は主権者である(I am a sovereign.)」という自覚というか、意識でしょう。自覚も意識もない「主権者」が大多数の国民である国は、きっと権力者の食い物になり、揚げ句は壊されるだけ。

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