生き物は「老化」「老衰」するものだ

【春秋】犬と認知症 岡山市東区宝伝沖の犬島。本島西側の犬ノ島に祭られる巨石「犬石」を巡る伝説がある。菅原道真が九州の大宰府に左遷される船旅の途中、ひどい嵐に遭った▼その時、石が鳴き声を上げ、声に導かれた道真は命からがら避難できた。石は道真の愛犬が死んで姿を変えたものだったー。犬との強い絆を感じる伝説だ▼さて現代でも、犬は心強い相棒になっているようである。犬を飼育している人は、したことがない人に比べ、介護を要する認知症の発症リスクが48%低かった、とのニュースが先日あった▼国立環境研究所(茨城県)などの研究チームが、高齢者1万1千人余りを約7年半にわたって追跡調査した。高齢者による飼育率が調査時の8・6%から13・4%に上がれば、公的な医療・介護費が4年間で6千億円近く減らせるとも試算した▼発症リスクが下がる要因としては、犬の散歩で活動や人との交流が増え、規則的な生活習慣が維持できることが挙げられる。癒やしなどの精神的な効果も考えられるそうだ▼研究では、過去に犬を飼育した経験がある人も、飼ったことがない人に比べ、認知症の発症リスクが低めだったことも分かった。ならば、こんなシルバー川柳に共感を覚える向きもおられるか。〈まだいけるもう一度だけ犬を飼う〉。最後まで責任を持つ覚悟だけはお忘れなく。(西日本新聞・2026/10/02)

 この手の話題に、ぼくたちは飛びつきそうですが、誰もかれもが「認知症」対策に犬を「飼う」ということはないし、あり得ないでしょう。長く「犬」などのペットといっしょに生活をしていた老人は、結果(統計)的に、「認知症」になる確率が低いというデータが得られたという話だと思います。「低いけれども、認知症にはなる」という証拠にもなるんですね。「犬を飼育している人は、したことがない人に比べ、介護を要する認知症の発症リスクが48%低かった」というニュースにコラム氏は意を強くしたようです。この研究結果をぼくは否定も肯定もしません。つまり、そういうこともあるだろうし、そうでない結果もまたあるだろう、人それぞれですから、というほかありません。(犬の飼育代が国民健康保険で補填されるなら、まだしも、ですが)

 天涯孤独の身になった老人に、相棒となる犬や猫などのペットは、確かに心強い味方であり、同伴者である場合もあると思う。でも、だからといって、「認知症」予防や対策のために「犬」(などのペット)を「飼う」というのはどうなのでしょうか。コラム氏は「研究の成果」を数え挙げておられるのですが、果たして、そんなに上首尾に行くことなのか。動物アレルギーの人もあれば、生活に余裕のない人もある。病がちな方もいれば、犬(などのペット)が苦手な人もいるでしょう。統計や数字は、それをどう受け取るかという受け手側の問題であり、発表する側の問題も含んでいると思うのです。先ごろ、前回の国勢調査の人口数を偽って、多めに発表していた福井市のようなケースもあります。「統計(データ)」は、いつだって正しいという保証はどこにもないのです。

 犬の飼育が認知症予防に効果があるというなら、猫はどうでしょう。あるいは小鳥だって効果はあるとも言えます。ハムスターだって。ここから、何か「人間存在・人間心理」の綾とか襞に関していえそうですね。穏やかに生きるには、何が必要か、と。北欧では、屋内で植物を育てている人の老化過程が実に緩やかだという報告も、どこかで読んだことがあります。だからというのではありますんけれど、犬や猫に「扶養手当」を出す企業も出てきたという記事も、数年前に読んだこともありました。それはペット関係の商品販売会社だった。「過去に犬を飼育した経験がある人も、飼ったことがない人に比べ、認知症の発症リスクが低めだったことも分かった」ともコラム氏は「犬飼育」の効用を述べられます。これもぼくは否定もしませんけれど、その反対だってある事実に目を伏せたくありません。

 コラムの「犬と認知症」というタイトルを目にして、ぼくは「犬の認知症」「認知症の犬」を想定しました。犬や猫だって、長く生きれぼ「認知症」になるはずです。そんな「猫」も我が家にいたことがあります。「犬と人間」の関係が一方的に「人間の優位」のままでとらえられている、世の風潮にぼくは嫌気がさしています。至る所に「人間中心(優位)主義(humanism」が横行していないでしょうか。人間と共にいることで、認知症の予防や発症を遅らせている「動物」がいるという事実にもまた、ぼくたちは心を配る必要があると思う。

 人間だけが「老化」「老齢化」するのではないのは勿論だし、人間ばかりが「認知症」になるのでもないこともまた当然です。最近は行かなくなりましたが、動物病院には驚くべき状態で「老化」した動物たちが来ています。それを見るにつけ、生き物は、須(すべか)らく「老化」するという厳粛な事実に、ぼくは慄然とします。コラムの最後にある川柳、「まだいけるもう一度だけ犬を飼う」、この気持ち・紀文はぼくにも、いやというほどわかります。拙宅にかなりの猫たちがいますが、彼や彼女たちが家に来るようになった時期、夫婦ともに70歳を優に超えていました。この年齢で「猫かよ」と、一瞬は思ったでしょうが、気が付けば、最大で20もの猫たちが狭い家で鬩(せめ)ぎあっていました。「最後まで責任を持つ覚悟だけはお忘れなく」というコラム氏の忠告に、ぼくは素直に耳を傾けます。(たぶん、コラム氏は犬と一緒に生活したことがなかった、ぼくはそう思う)

 ぼくは、かなり以前から江戸幕府5代将軍の治績と数えられている「生類憐みの令」に強い関心を持ってきました。「生類」を愛護せよという哲学が、どこから来たかも含めて、ぼくたちは「生き物の仲間」をさらに大切にしなければという、そんな思想・姿勢を強く持つべきだと思う。

(以下は、余談として) (奈良公園の「鹿」(天然記念物)の由来も含めて、さらなる考察が必要になるでしょう。という具合に、問題が広がるのを止めることもできません。劣島の、ことに関東以北でも問題視れている「(出没する)熊」も、あるいは認知症予防にかかわりがないのかどうか。人間の生活に邪魔だから、有害だから「駆除」「排除」するとなれば、いずれ、「人間」も、また暴力的に排除される(それはすでに起こっていることです)(ナチスの「焚書(ふんしょ)(Bücherverbrennung)」に遭い、自著を焼かれたエーリッヒ・ケストナーは「書物を焼く権力(暴力)は、必ず、次に人間を焼くであろう」といいました)

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◎ 生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)= 江戸幕府5代将軍徳川綱吉(つなよし)がその治世(1680~1709)中に下した動物愛護を主旨とする法令の総称。1682年(天和2)犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり、85年(貞享2)馬の愛護令を発して以来、法令が頻発された。綱吉の意図は社会に仁愛の精神を養うことにあったが(1694年〈元禄7〉10月10日訓令)、将軍の強大な権威に迎合する諸役人によって著しく増幅され、また綱吉生母桂昌院(けいしょういん)が帰依(きえ)した僧隆光(りゅうこう)が、戌(いぬ)年生まれの綱吉に男子が育たないのに関して犬の愛護を勧めてから、いっそう極端に走り、人民を悩ます虐政へと発展した。愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及んだ。鶏をとった猫を殺した者、うたた寝中体に駆け上がった鼠(ねずみ)を傷つけた者などが入牢させられ、釣り舟の禁止、蛇使いなど生き物の芸を見せ物にすること、さらには生鳥や亀(かめ)の飼育が禁ぜられ、金魚は藤沢遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))の池に放たしめられた。1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。1709年(宝永6)綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣(いえのぶ)はこれを廃止した。(日本大百科全書(ニッポニカ))

◎ 生類憐みの令【しょうるいあわれみのれい】= 生類愛護の趣旨を含む政策のうち徳川5代将軍綱吉就任以来の一連の政策をいう。1685年始まる捨子・捨病人・捨牛馬の禁止,鷹の飼育禁止などが知られ,江戸中野の犬小屋設置に至る一連の犬愛護令は江戸市民の反感を買った。一方で野鳥類を憐みの対象とすることで在村の鉄砲を統制し,また人心を温順にして庇護と支配の下に置き,諸大名を臣僚化しようとする,この時期の幕府の在り方から展開した政策ともされる。1709年の綱吉の死後実質的に廃案とされ,以後幕府の方向は修正された。(百科事典マイペディア)

◎ 奈良のシカ= 主に奈良市の奈良公園やその周辺に生息している。春日大社の「神鹿しんろく」とされ、古くから手厚く保護されてきた。戦前に約900頭いたが、戦中や戦後の混乱により密猟などで激減。1957年に国の天然記念物に指定された。保護活動によって60年代に戦前同等の水準に回復した。近年は1200頭前後で推移。シカのおやつである鹿せんべいの売り上げの一部が保護活動に充てられる。( 共同通信ニュース用語解説)

◎ エーリヒ ケストナー(Erich Kästner)(1899.2.23 – 1974.7.29)=ドイツの詩人,小説家,劇作家。元・西ドイツペンクラブ会長。ドレスデン生まれ。第一次世界大戦に従軍後、ライプチヒ大学で文学を学ぶ。1928年詩集「腰の上の心臓」を出版。さらに少年小説「エミールと探偵たち」(’28年)の成功によって、世界的児童文学作家となる。ナチス政権下において、彼の著書はドイツでは出版禁止となったが、スイスからユーモア小説などを刊行して苦難の時代を切り抜ける。戦後は長年西ドイツペンクラブ会長として活躍した。作品はほかに「飛ぶ教室」(’33年)、「ふたりのロッテ」(’49年)などがある。(「20世紀西洋人名事典」)

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