ふかくこの生を愛すべし

【夕歩道】
 昔のこと。人望の厚かった先生が家に住まわせた3人の受験生にこんな4カ条を与えた。▽ふかくこの生を愛すへし▽かへりみて己を知るへし▽学芸を以(もっ)て性を養ふへし▽日々新面目あるへし-。
 歌人の会津八一(1881~1956年)がつくった「学規」。深く人生を愛そう、常に反省して己の本質を知ろう、学問や芸術で人間を磨こう、毎日生まれ変わる気持ちで新たに前進しよう-。
 「これくらゐのところを目安にしてかかるなら、長い一生の末までには、いくらか実行が出来るのでは」と会津先生。雨の街。予備校の方へ駆けていく男子を見た。慌てず、遠くを眺めておくれ。(中日新聞・2026/09/11)

 早い時期から、ぼくは会津八一さんの書や詩歌に親しんでいました。折々、目にする機会(環境)があったからということだったと思う。特に、彼の醸す万葉調の歌ぶり、歌の姿に惹かれていたと思う、時には鼻についたという気もしましたが。彼自身、早くに奈良に遊び、いにしえ人たちの心持を今に示そうとしていたという、その心境にも魅されたのかもしれません。ぼくの二十歳前後のことでした。明治以降、あるいは志賀直哉などの文人の多くが奈良に住み、彼の地を訪れる、その「国原」の魅力というものに、ぼくは理解も同情も及んでいませんでしたけれど、また和辻哲郎氏の「古寺巡礼」や、あるいは土門拳氏や濱谷博氏などの写真家の影響もあったでしょうか。(右は濱谷氏撮影の会津八一氏)

 「秋艸」は会津さんの号です。秋艸道人(しゅうそうどうじん)。会津さんが都内で中学校教師をしていた時代に「学びの法」「人生の道しるべ」といった趣を書にしたためて、額装したのは、いかにも八一さんらしいというべきか。時に大正3年のこと。33歳の砌(みぎり)。この時期の八一先生は真面目そのものだったかもしれません。深く人生を肯定し、学問芸術に精進することが、人生を真摯に磨くことになるという、一種の信念がそこには伺えます。後年の彼は豪放磊落だったかどうかはわかりませんが、酒を愛し、酒に親しんだ人でした。新潟の酒に「天地壺中」という銘柄がありますが、これは八一氏の書を銘にしたものでした。小さな壺の中に天地有情を感じるという、そんな心境、それを未熟者がわかったつもりになっていたのは、いい気なものだったと、今では恥ずかしく思い出すのです。

 世を上げて「名門校」や「最難関大学」の入学者・卒業者に持ちきりだし、また、そのような偏差値のみに浮かれきった学校卒者が徒(いたずら)に持てはやされてきたという、否定しえない、この国の醜悪な学校教育の歴史があります。物を学ぶのは「いい点とる競争に勝つ」だけの動機、他人よりも一点でも優れていたいという盗人根性を促しこそすれ、周りの人たちに一片の愛情も敬意も注げないような、そんな人間に仕立てる、殺伐として教室においてどんなことが行われるというのでしょうか。

学而時習之。不亦説乎。
有朋自遠方来。不亦楽乎。
人不知而不慍。不亦君子乎。
(「論語 学而第一」)

 「學規」を書いた時期、八一氏は「論語」を想起していたかどうか。時宜を得て学ぶというのは、何んと悦ばしいしいことではないか。遠くから友人が訪ねてきてくれる、何んと楽しいことじゃないですか。世間が自分を「評価」してくれないといって、「不慍」、つまりは恨みに思ったりしない、それは何とできた人間ではないか。

 ぼくたちがゲーテや漱石の名を知っているのは、暗記試験の「成果」でしかありません。物を知るのも歴史事項を知るのも「暗記試験」のためでした。その阿保くさい試験において、他人を凌いで「成績(学力)優秀」と評価されるからこそ、学校も教師も児童・生徒も「教える」「学ぶ」という苦役に耐えてきた、それが明治以降のこの国の学校教育の歴史でした。ぼくは成績不良につき、こんな醜悪な「学校教育」の「滓(おり)」や「垢(あか)」をより少なくしか身に着けなかった、そのことをよかったと今更のように痛感するのです。国を興すのも、亡ぼすのも、明治以降で、すべてが「学校優等生」というレッテルが張られた「無知蒙昧」で「薄情」の塊の人々だったと思うと、背筋が寒くなる。「學規」四則、今にして吟味すべき、当たり前の人生への指針・心持ではないでしょうか。

 若い教師・八一先生は、受験生用に「學規」を掲げたものの 「けれども受驗勉強で夢中になつてゐる書生たちは、誰一人としてそんな文句に目をくれるものもなく、どれほど窮屈な氣持で、これをうとましく思つたものもなかつた」つまりは全くの無視、無関心だったということでした。大正時代初期の話です。「けつきよくこの學規は、私自身のために私が作つて、書いて、そして自分を警しめるだけのものになつてしまつた。それから四十年にも近く、今の老境にはいつても、いつも親しくなつかしい氣持でこの四か條が思ひ出される」(「夕歩道」)

 まさに「論語」「学而」そのもののようにぼくには思えました。今も昔も、亡国への道を歩くのは、「受験勉強」「優劣競争教育」(人に優れていたいという欲望の爆発を促す教育)の歪んだ国策教育の唯一の「成果」なのでしょう。昨晩、久しぶりに友人(後輩・中高教師)との長電話で、話題が「学校教育」の拭いがたい一面についての談義に榾(ほだ)されて、かかる「学びの方法」の駄弁に及びました。

 學規     会津八一

 古い日記や手紙などを、みんな燒いてしまつたので、こまかに時日をいへないが、まだ若い中學教師であつた私が、牛込下戸塚町の素人下宿から、小石川豐川町へ引越して、その時越後から出て來たばかりの三人の書生と初めて所帶を持つたのは、たしか大正のはじめであつた。その時書生たちが机を並べた八疊の間の床の間の壁に、私がその人たちのために作つた四か條の學規といふものを自筆で書いて貼らせた。けれども受驗勉強で夢中になつてゐる書生たちは、誰一人としてそんな文句に目をくれるものもなく、どれほど窮屈な氣持で、これをうとましく思つたものもなかつた。けつきよくこの學規は、私自身のために私が作つて、書いて、そして自分を警しめるだけのものになつてしまつた。それから四十年にも近く、今の老境にはいつても、いつも親しくなつかしい氣持でこの四か條が思ひ出される。
 私はもとから理想とか、主義とか、抱負とかいふやうなものがあるのか、ないのか、自分にもはつきりしないが、とにかくそんなことを大ツぴらに口を出していひ立てるのを好かない。そのせいか、私の學規も昔からあるものとはだいぶ樣子がちがふやうだ。これくらゐのところを目安にしてかかるなら、長い一生の末までには、いくらか實行が出來るのではあるまいか。

秋艸堂學規
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 學藝を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし 
(「會津八一全集 第七卷」中央公論社
   1982(昭和57)年4月25日初版発行)

(ヘッダー写真「本作品は、1954年10月、會津博士紀念東洋美術陳列室が旧図書館2階の仮室から第一学生会館奥の別棟に移転した際、陳列室のために特別に書き贈ったものである」・早稲田大学会津八一記念博物館:https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/other/2019/07/03/2697/

「1914年8月、會津八一は郷里新潟から上京した三人の受験生を預かり、この学規四則を作り、机を並べた部屋の床の間の壁に貼ったという。以来、多くの門下生がこの学規を書き与えられてきた。會津は「秋艸道人は我が別号なり。学規は我率先して躬行(きゅうこう)し、範を諸生に示さんことを期す。主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり。」(「落日庵消息」)と語っている。学生、そして自分自身の人生の指標でもあったのであろう。本作品は、1954年10月、會津博士紀念東洋美術陳列室が旧図書館2階の仮室から第一学生会館奥の別棟に移転した際、陳列室のために特別に書き贈ったものである」(同博物館)

〇 会津八一(あいづやいち)(1881―1956)= 歌人、書家、美術史家。明治14年8月1日新潟町(現新潟市)に生まれる。秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)などと号す。1906年(明治39)早稲田(わせだ)大学文学部を卒業、もっぱら坪内逍遥(しょうよう)に師事する。1908年、奈良の古寺を巡遊し、短歌を始める。1910年、新潟県下の有恒(ゆうこう)学舎を辞し早稲田中学に転任、1913年(大正2)早稲田大学英文科講師となる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくる。1924年『南京新唱(なんきょうしんしょう)』を上梓(じょうし)、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授となり、仏教美術史に関する論文をしきりに発表する。1933年「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」をもって学位を受ける。1940年『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』を出版、1942年『渾斎随筆』を刊行、このころから書の個展をしばしば催し、書名ようやく高くなる。1945年1月、早大教授を辞任、4月14日、米軍機の東京爆撃で罹災(りさい)、5月、新潟県中条町(現胎内(たいない)市)に寓居(ぐうきょ)、ついで新潟市に転居。1947年(昭和22)『寒燈(かんとう)集』、1952年『自註(じちゅう)鹿鳴集』、1955年『春日野(かすがの)の歌』などを上梓し、独自の歌風、書格をもって世に知られるようになる。昭和31年11月21日死去。(日本大百科全書(ニッポニカ))

 (左上写真は「みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにばらかすみてあるらし」鹿鳴集)

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