臨済の喝、徳山の棒(「景徳伝灯録」)

 各地方紙含めて、本日の朝刊「コラム」は張本勲さんの訃報に触れて、「大絶賛」「あっぱれ」の山盛りでした。ぼくには意外だった。驚きの中身については言わずもがな、としておきます。各コラムに共通するのは、偉大な記録を樹立した野球人。幼児期に負った「右手の火傷」という不運、続いて「広島での被爆」という、連年の不幸。にもかかわらず、野球に打ち込む、想像を絶する心身の鍛錬。加えて、広島生まれの「在日二世」だった運命。そして、現役引退後のテレビにおける「歯に衣着せぬ発言」等々。まさしく、いろいろな面で、張本さんは「不世出」といわれてしかるべきだったでしょう。彼のデビュー時から、ぼくはよく知っていました。娯楽のあまりない時代、「三角ベース」や「軟式野球」に興じていた少年でもあったぼくには「東映フライヤーズ」というチームは馴染そのものでした。そんな中で、もともとのチームカラーに加えて、当時の同僚だった山本八郎捕手とそろって、「駒沢の暴れん坊」として張本さんは高名(悪名)を馳せていました。

 当時の東映フラーヤーズ(1954~1972;現「北海道ニチハムファイターズ」)の本拠地は都内世田谷にあった駒沢球場だった。張本さんの死去の報に、ぼく自身の感慨がありますが、ここでは触れません。各紙・各コラムが彼の足跡や功績を讃え、その人生に大いなるエールを送られていますので、ぼくも。ここでは右へ倣え、それだけであり、「合掌」するばかりです。

 「在日韓国・朝鮮人」問題は、今なお歴史の課題になって、この国・社会に残り続けています。それに関しても、たくさんの「在日プロ野球人」を交えて、どこかで詳述してみたいと考えています。この人々がいなければ、おそらく日本プロ野球は随分と貧相なものだったろうと容易に推察されるからです。(なお、張本さんを一気に「人気者」にしたテレビ番組での「喝!」「あっぱれ!」、その生みの親は元東映フラーヤーズの監督(長嶋茂雄さんの立教の先輩)だった大沢啓二さんだったと、ぼくは記憶しています。

 文字通りの「野球一筋」の人生を生き切られた張本勲さんのご冥福を祈るばかりです。

 (以下は、地元中国新聞のコラム「天風録」です。

【天風録】張本功さん 生涯忘れられぬ短歌として、野球解説者の張本勲さんは評論家佐高信さんとの対談で石川啄木の一首を挙げている。〈たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず〉▲両親は朝鮮半島から日本に渡ったものの、父は早世。子ども3人を抱え、母は朝から晩まで働きづめだった。張本さんには母の寝顔を見た覚えがない。啄木の歌にこもる敬慕や感謝の念が、心の琴線に触れるのだろう▲その母が胸を痛め続けたのが、息子が4歳の時、目を離した隙に負った右手の大やけどである。何とか原形を保ったのは親指と人さし指くらい。翌年、やけどが癒えてきた頃、今度は原爆に遭う▲人間万事塞翁(さいおう)が馬という。2度の災いは「人の10倍、100倍やらんと負ける」との反骨心を育む。「安打製造機」として鳴らし、成し遂げた日本球界で唯一の3千安打もたゆまぬ練習のたまものに違いない。張本さんの訃報がきのう届いた。86歳▲黒手袋で隠してきた右手を引退後、「打撃の神様」川上哲治さんには見せている。〈これほどの努力を他人(ひと)は運と言う〉とわきまえる者同士、通じ合ったのだろうか。歯に衣(きぬ)着せぬご意見番役は見ものだった。「あっぱれ!」だ。(中國新聞・2026/09/11)

(ヘッダー写真:書道家 河邊 真(雅号:清花):https://shin-sheika-shodo.amebaownd.com/posts/34398984/)

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〇 臨済(りんざいの)喝(かつ)徳山(とくざん)の棒(ぼう)= 《「伝灯録」から》臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことから、禅宗の修行のきびしさのたとえ。(デジタル大辞泉)

〇 りんざい【臨済】読み方:りんざい=[?~867]中国、唐代の禅僧。名は義玄(ぎげん)。臨済宗の開祖。曹州南華(山東省)の人。黄檗希運(おうばくきうん)に師事し、3年の坐禅によって得道。みずから臨済と名のる。言行を弟子が集録して「臨済録」を編纂した。勅諡(ちょくし)号、慧照(えしょう)禅師。(同上)(左写真)

〇 とくさん‐せんかん【徳山宣鑑】[782~865]= 中国、唐代の禅僧。姓は周氏。初め律や唯識を学んだが、のち禅を学び、その修行は、徳山の棒と称されるほど厳格であった。諡号、見性禅師。(同上)(右写真)

〇 けいとくでんとうろく【景徳伝灯録】= 宋代の仏教書。30巻。道原著。1004年成立。禅宗の伝灯(正法を伝える意味)の法系を明らかにしたもので、過去七仏から始め、インド・中国歴代の諸師1701人の伝記と系譜を述べた書。中国禅宗史研究の根本資料。伝灯録。(同上)

 (以下、参考資料として)

【産經抄】張本さん逝く、愛ゆえの「喝!」を置き土産に プロ野球史上初の3000安打は、打った瞬間にそれと分かる本塁打だった。昭和55年5月。試合後に自身の快挙をビデオで見返し、張本勲さんは悔やんだという。ヘルメットを放り投げ、躍り上がる姿がはしたなく見えたからだ、と。▼「ガッツポーズは肩より下で」。自分に課した戒めをそのときは忘れていた。翌日、相手投手に「申し訳ない」と頭を下げたそうである。会心の一打であれ大記録であれ、必ず相手がいる。逆の立場ならどう思うか―。小紙のインタビューにそう語っていたのが忘れ難い。▼在日韓国人2世として広島に生まれ、5歳で被爆した。いつ発症するか知れぬ原爆症へのおびえは野球観にも投影されたようだ。現役生活23年で1万回以上打席に立ちながら、「打てなかったら生活はどうなる」の思いが胸を去らなかったという。▼4歳の頃に大やけどした右手には、薬指と小指がほとんどない。プロ野球記録の通算3085安打も7度の首位打者も、心と体に傷を抱えながら打ち立てた金字塔であることに驚きを覚える。数字が物語るのは、舞台裏で重ねた鍛錬の日々だろう。▼張本さんが86歳で亡くなった。球界OBが集う試合での壮健な姿を7月下旬に見たばかりで、訃報がいまだ胸に落ちない。辛口の評論も、凡プレーを叱り飛ばす「喝!」も耳を去らない。声の置き土産に思えるのだ。球界への愛情ゆえに買って出た、憎まれ役だったろう。▼大詰めを迎えた今季の米大リーグでは、日本から渡った長距離打者の活躍を見ない日がない。打棒の湿りがちなドジャース・大谷翔平選手が気にかかるものの、ほかの強打者はきょうも元気である。張本さんは、心置きなく旅立ったかもしれない。「あっぱれ!」と。(産經新聞・2026/09/11)

【新生面】張本さん逝く 終戦前の冬だった。貧しくて腹をすかせた4歳の少年は、掘ったイモをたき火で焼いていた。後ろから三輪トラックにはねられ、右手を炎に突っ込んだ。ひどいやけどを負い、指が曲がってしまった▼その手で握ったバットでプロ野球最多の3085安打を放った「安打製造機」張本勲さんが亡くなった。右手は決して人に見せなかったと、自著『最多安打で「喝!」』で明かしている。息子から目を離したばかりに、やけどを負わせたと悔やむ母を気遣って▼在日コリアンの子だといじめられ、5歳の時に広島で被爆した。理不尽な体験を語るようになったのは60歳を過ぎてから。現役中は苦難を力に代えるように、ひたすらバットを振り続けた。記録だけではない野球人生の重みを感じずにはいられない▼左打席にどっしりと構え、球をじっと見つめ、鋭い振りで捉える。安打製造を支えたのは毎日300回の素振りだ。厳しい練習が「あっぱれ」を生み、怠れば「喝」になる。自らの信念を決まり文句に込めていたのだろう▼張本さんはプロ入りの契約金200万円を使い、家族に2階建ての家を贈った。引退の前年、球場で観戦した母の目の前で節目の3千安打。左手で花束を掲げ、あの右手は母の背中に回した。6畳一間から始まった戦中戦後の労苦をねぎらう快打ではなかったか▼貧しさ、やけど、差別、被爆…全てに向き合い、逃げずに打ち返した。張本さんは強く、たくましく、優しかった。天国の母はきっと「あっぱれ」と迎えてくれる。(熊本日日新聞・2026/09/11)

【春秋】安打製造機に「大あっぱれ」を 1本、また1本とヒットを重ねた。プロ野球で最多の3085安打を放った張本勲さんが亡くなった。安打製造機と呼ばれたハリさんは在日コリアンであり、被爆者でもあった▼韓国から移り住んだ両親の元、広島に生まれた。4歳の時、友達と空き地で芋を焼いていると、後退してきたトラックにはねられ火の中へ。右手の小指と薬指がくっつくほどの大やけどを負った。交番に訴えても「何言ってるんだ、朝鮮人が」と一蹴された▼翌年8月6日、爆心地から約2キロで被爆した。長姉の点子さんが見つかったのは数日後。全身やけどで「水…」とうめく口元にブドウを1粒含ませた。最後の言葉は「勲ちゃん、ありがとう…」だった。つらい被爆体験を公に語り始めたのは、還暦を過ぎてからだ▼野球に目覚めたのは小学5年。自由が利かぬ右手を補うため左投げに変え、めきめきと頭角を現す。18歳で東映フライヤーズに入団し、3年目には首位打者に。同じ年、42勝を挙げた鉄腕稲尾からサヨナラホームランを打った。西鉄ライオンズのファンには、憎らしくもほれぼれする大打者だったに違いない▼右手は妻子にも見せなかった。引退後に川上哲治さんに見せると「よくもまあ、この手で…」と涙ぐんだという▼差別に耐え、戦争の傷を抱え、プロの厳しい競争を走り抜いた86年。「大あっぱれ」と人生をたたえるたくさんの声が届いていることだろう。(西日本新聞・2026/09/11)

【有明抄】時代に「喝」を おなかをすかせた子どもたちが、たき火でイモを焼いていた。戦時中のことである。そこへ三輪トラックがバックしてきた。背中から突き飛ばされた4歳児は、火の中に右手をついた◆母親は病院へ駆け込んだが、満足に手当もしてもらえなかった。朝鮮半島から渡ってきたばかりの家族に世間は冷たかった。右手は薬指と小指が焼けてくっつき、親指と人さし指も曲がったままになった◆広島出身の張本勲さんの記憶である。さらに原爆で被爆し、貧困の中で少年時代を送った張本さんは野球に出会う。遠征にきた巨人の宿舎をのぞきに行くと、選手たちは大きなステーキをほおばっている。財布も分厚い。絶対プロになろう、そのとき心に決めたという◆ハンディを克服するには誰よりも努力するしかない。いちばんに登校して練習し、帰宅後も毎夜300回バットを振った。昭和34(1959)年、プロ入団の夢をかなえた張本さんは新人王に輝く。「右手が動いたら、もっと成績は良かったのに」。ふと愚痴をこぼすと、母は泣き出した。治してやれなかった自分を責めるように◆以来、右手のことは語らず、安打の山を築いた。そんな張本さんの訃報が届いた。貧しさ、試練、血のにじむ努力…野球の面白さやこの国の強さを支えてきた言葉が煙たがられる時代に、「喝」を入れるひとはいない。(桑)(佐賀新聞・2026/09/11)

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