第三代象徴天皇、それが今上天皇です

⁂「週のはじめに愚考する」(135) 今日の「天皇制」はさまざまな要素が込められて出来上がっているもので、これを「歴史」として理解したり提示したりすることは簡単ではないでしょう。第一、「天皇」という呼称からして、さまざまな呼び方がされてきたものです。そのいちいちを述べませんが、実に煩わしいこと限りなしです。ぼくは津左右吉さんのお説に随分と教えられ、今もなおそれによるところは大ですが、神代は神代、人の世は人の世。これをいろいろと脚色し、苦心して粉飾してできたのが「記紀神話」というもので、その「神話」のベースは中国の文明にありました。(ヘッダー写真は江戸東京博物館所蔵「神武天皇」絵葉書・喜多川周之コレクション)

 「神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、… 。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話のある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと臆断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経略の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根柢には一種の浅薄な Rationalism が伏在する」

 「すべて価値あるものは合理的のもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にお伽噺
おとぎばなし
というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て
ろう
とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て
おお
われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである」(津田左右吉「神代史の研究法」: 初出「歴史と地理」 四ノ三 1919(大正8)年9月)(参照・「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店 2006)

 どこまで行っても神話は神話、歴史(事実)は歴史です。それを混同するのも合体させるのもご自由ですが、国の姿を歪めてまで、脚色するのは政治家としては、まともではないでしょうね。「天皇」という呼称は中国由来です。その他、天皇制に限らないことですが、この国の歴史や文明には数えきれないほどの「中国文明」の成果が取り入れられています。第一、この「漢字」自体が、その代表・典型でしょう。中国を罵る、その武器が「漢字」だというのは、おかしいですね。記紀神話もまた、中国文明が存在しなければ、あるいはそこから多くを学ばなければ、成立することは不可能だったんじゃないですか。

 ぼくの素朴かつ率直な愚見を言うなら、今日の「象徴天皇制」は戦後の日本国憲法から開始されたもので、今上天皇(きんじょうてんのう)は第三代ですね。「今上天皇」を「こんじょうてんのう」と読まれた総理大臣がいますが、人並みの歴史感覚の持ち主だとはとてもぼくには思われません。「こんじょう」という読み方がなかったわけではありませんが、それはとても古い、今から数百年前の時代に見える呼び方です。どのように読もうが、それでもかまわないと思いますが、どうでしょうか。この首相は、「日本」をあえて「ニッポン」と発言される御仁ですから、お好きにどうぞといっておきます。精選版日本国語大辞典に、とても際どい(卑猥な)「読み方」があります。「『旦那様に日本国を撫られて』(出典:雑俳・太平楽(1724))」と。「にっぽんこく」と聞くたびに、ぼくはきみが悪くなるのです。ときには「にっぽんごく」とも発音する向きもありましたね。これに似た表現に「十八番(おはこ・御箱)」があります。ぼくは中学生の教師から教え垂れました。イヤーな感じがしたことを記憶している。(右写真は津田左右吉氏)

〇 津田左右吉 (つだそうきち) 生没年:1873-1961(明治6-昭和36)= 大正・昭和期の歴史家。岐阜県出身。東京専門学校(現,早稲田大学)卒業後,白鳥庫吉に師事し,中学教員,満鮮地理歴史調査室研究員などを経て早大教授となる。明治維新研究を生涯の課題とし,合理的思考方法に基づく日本,中国の思想史研究で,日本文化の特質を究明した独創的体系を築く。とくに《文学に現はれたる我が国民思想の研究》(全4巻,1916-21)は,〈生活〉本位の視点で〈国民思想〉の史的展開を論じた雄編であり,《支那思想と日本》(1938)では〈東洋文化〉の有機的一体性を否定し注目された。さらに《神代史の研究》《古事記及日本書紀の研究》(ともに1924)など一連の古代史研究は,厳密な文献批判によって記紀の成立過程を論証した画期的業績であったが,出版法違反に問われ,1942年有罪とされた(津田左右吉事件)。第2次大戦後は,保守的心情から皇室擁護論,時評,歴史論などを積極的に発表。49年文化勲章受章。《津田左右吉全集》(全33巻)がある。(改訂新版 世界大百科事典)

 これは何度も繰り返すべき主題ではないと、ぼくは考えています。ぼく自身は「現行象徴天皇制」には反対です。その理由は「天皇(や皇族)」に「法の下の平等」という観念(人権思想)が付されていないからです。つまりは「人権」そのものが認められていないといっていいでしょう。学生時代に、「天皇に対する名誉棄損」は成り立ちますかと、授業で担当教授(法学者)に訊いたことがありました。「ありません」と即答された。以来、それはおかしいという疑念がぼくにはついて廻っているのです。一人の国民として「法の下の平等」が等しく認められる「天皇」存在しうるか、それがぼくの課題となっています。いつか愚論を述べることがあるかもしれません。「天皇制」という制度問題の根幹にかかわるでしょうね。

 (以下は、参考文献・資料などとして提示ておきました。煩雑な成り行きをお詫びします)

 皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会(声明全文)

 今回の皇室典範改正に際して、2026年7月10日の衆議院運営委員会において、自民党の小林鷹之政調会長が、「皇位の男系継承は2600年以上にわたり先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統だ」と述べたことが伝えられています。小林氏に限らず、複数の政治家によって同趣の発言がくり返されており、私たちは、こうした状況に深刻な危惧を抱いています。こうした発言は、奈良時代に作られた史書、『日本書紀』にみえる初代天皇の出現と、その後の皇位継承の記述にもとづいています。『日本書紀』によると、紀元前660年にあたる辛酉(かのととり)年に初代神武天皇が即位し、皇位は男系により継承されたことになっています。
 しかし紀元前660年は、考古学の研究成果によれば、縄文時代晩期、または弥生時代早期にあたり、日本列島にはまだ文字を使用する文化は存在しませんでした。そもそも、辛酉年が歴史的事実ではなく、その年に大きな歴史的変革があるという中国の思想にもとづいて後世に造作されたものであることが、19世紀末、すでに明らかにされています。
 さらに、第2代以降の天皇にも実在しない人物がいることが指摘されています。その後の天皇につながる倭王の地位が世襲的に継承されるようになるのは、紀元6世紀以降とするのが、現在の通説的な見解です。
 かつて、天皇や皇室につながる学問的な研究成果を明らかにすることに大きな制約があった時代がありました。
 1889年に発布された明治憲法では、天皇による統治が「万世一系」の皇統にもとづくものとされ、同時に制定された皇室典範によって、皇位は皇統に属する男系男子が継承すると定められました。1940年、治安維持法をはじめとする一連の政策により、『古事記』や『日本書紀』の記述を疑問視した津田左右吉の学問的な著作が発売禁止とされ、大学教員の地位を追われるといった弾圧が行われました。
 1946年に制定された日本国憲法では、こうした過去の反省にもとづいて、学問の自由はもとより、思想・信条の自由が保証されました。以来80年、自由な空気の下で進められた研究は大きく進展し、古代の王族のあり方もさまざまな角度から検討が進められています。/今回の、「皇室2600年の歴史と男系男子による皇位継承」を謳(うた)う政治家の一連の発言は、連綿と続けられてきた古代史研究の成果を否定するもので、到底容認できません。またこうした学問的成果の軽視が社会を萎縮させ、思想・信条の自由が再び奪われる世界が訪れることを危惧します。/私たちは、皇室や皇位のあり方をめぐる政治的主張が、恣意的に語られるのではなく、これまでの学問的研究成果を尊重したものであることを強く求めます。
 2026年8月15日

 皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会 一同(毎日新聞・2026/09/05)

(https://mainichi.jp/articles/20260903/k00/00m/200/154000c)
 天皇
 地位
1.天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく(憲法第1条)。
2.皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する(憲法第2条)。
権能
1.天皇は、日本国憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法第4条第1項)。
2.天皇の国事行為(憲法第6条・第7条・第4条第2項)
(1)国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命すること。
(2)内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命すること。
(3)憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
(4)国会を召集すること。
(5)衆議院を解散すること。
(6)国会議員の総選挙の施行を公示すること。
(7)国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
(8)大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
(9)栄典を授与すること。
(10)批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
(11)外国の大使及び公使を接受すること。
(12)儀式を行うこと。
(13)国事行為を委任すること。
3.天皇の国事行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う(憲法第3条)。(宮内庁)

(https://www.kunaicho.go.jp/learn/institution/seido/seido01.html)
代数

第1代
諡号・追号
神武天皇(じんむてんのう)
御父
天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)
御母
妃玉依姫*
陵名陵形
円丘
畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)(宮内庁)(https://www.kunaicho.go.jp/visit/ryobo/001.html)

〇 天皇(てんのう)= 日本の歴代の君主の称号。元来は中国のことばで,万物を支配する皇帝の意味をもつ。日本以外では,中国で唐の高宗が称したほかに例がない。日本の初代の天皇は,『古事記』や『日本書紀』では神武天皇とされるが,天皇という呼称の成立期は推古天皇時代,天智天皇時代,天武天皇・持統天皇時代の三説がある。律令制のなかや,あるいは明治初期の外交関係の公文書では,皇帝という称号を用いたこともある。明治憲法下では,統治権を総攬する絶対権力者として規定されたが,1946年の日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定され(1条),国家の機関として果たす権能も象徴たる地位に相応する,きわめて限定されたものとなっている。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

〇 神武天皇(じんむてんのう)= 記紀に第1代と伝える天皇。神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。高天原(たかまがはら)から南九州の日向(ひゅうが)に降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(そうそん)で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ(東征)、方向を変え、紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦(がんたん)、畝火(うねび)(橿原(かしはら)市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた(大和平定)。(↷)

そして媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、在位76年、127歳『記』では137歳)で没して畝傍(うねび)山東北陵に葬られたという。/ 記紀における神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどないといわれる。しかし、神武天皇の物語の核心をなす東征の部分には、皇室の遠い祖先が西方からきたという記憶が反映しているとみる説もある。(日本大百科全書(ニッポニカ))

〇 たまより‐ひめ【玉依姫】= ( 古く「たまよりびめ」とも。「たま」は魂、「より」は憑依する意 ) 記紀神話で、海の神の娘。姉の豊玉姫が天孫彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を産み落として去った後、其の子を養育した。その後、育てた彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と結婚して、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(=神武天皇)を含む四人の男子を産んだとされる。[初出の実例]「しらなみに多万余理毗咩(タマヨリヒメ)のこし事は渚やつひにとまりなりけむ〈大江千古〉」(出典:日本紀竟宴和歌‐延喜六年(906)) 玉依姫の補助注記 この名は、この外にも記紀で高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘万津幡豊秋津姫の子として、また「逸文山城風土記」所引賀茂神社の伝承に賀茂別雷命を丹塗矢で受胎した母として見え、元来は普通名詞的な巫女(みこ)の意であったか。(精選版 日本国語大辞典)

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