「考えない葦」のように人間は考える

 決して好き好んでいたわけではなかったが、それでも、なにかと「原稿」を書く羽目になりました。もう半世紀以上も、そんな不本意な、やっつけ仕事みたいなことを続けてきました。もちろん、当初は「万年筆」で書いていた。この時の感触は今も残っている。書いては消し、書いては消し、校正を担当する人に疎まれたほどでした。何度見ても、どこか気に入らなくなり、表現を変えたくなる。これはぼくの性分かもしれないと思ったほど。つまりは決断できない、優柔不断という意味です。やがて、時代の趨勢はワープロ時代に突入し、書いた原稿もメールで提出するということになりました。この、長閑な機器時代も一瞬で終わり、やがてパソコン全盛時代に入り、万年筆で原稿を書き、ワープロで文を生み出す時代から、ワード文書で「文章を作る」、つまりは「キーボードを打つ(打鍵)」というスタイル(方式)になりました。

・思考力の不可避の衰弱

 おそらく、かれこれ四十年以上も「打鍵作業」が「文章を書く」という意味を持って久しくなります。もともと、ぼくは原稿書きが好きではない、むしろ嫌いでした。その傾向は今に変わりません。依頼されて書くことを約束して途中で放棄した仕事も相当にありました。呆れたことに、若いころには「作家」「小説家」なるようなことを思い描いたこともあるし、愚作をいくつか書いたこともある。しかし、これで生活の糧を得るとなると、たぶん、ぼくには不可能だと思う気持ちも出てきて、ついに「給料生活」という易きについたという実感がぼくには残っています。

 ペンで文を作った時代からワードという文書アプリを下敷きに、パソコンを使って文章を作成する時代になって、最も変わったのは何だったかと、ぼくはしばしば考え込んでしまいます。「原稿を書く」という本来の仕事から、その半分以上を器械(パソコン)に頼るようになって、偉そうな物言いになりますが、言葉を紡ぐという「粒粒辛苦」「彫琢」「推敲」などという、本来の文章を作る機微がなくなったという感じがぼくには強く残り続けています。「ものを考える」という際の「考える(勘える)」の語義は「かむかふ」「かむがふ」、人であれ物であれ、それ(対象)に立ち向かうことを示していました。文章を作る作業なら、それは「ことば」に相向かうということを意味していたと思います。

 もちろん、持ちあわせの、自分が知っている限りの言葉をつなぎ合わせても、文章はできます(書けます)。でもときには曖昧な表現がしばしば出てきて、その都度「辞書を引く」という作業が入ります。これもまた、「ものを書く」という作業の不可欠の一部になっていました。今だって、そうですけれど、その大半は、器械が「言葉の意味」を瞬時に教えてくれる。ネットには、ごまんといわれるほど、さまざまな辞書類が蔵されて(溢れて)いるのです。それやこれやを勘案すると、文章を書く作業は格段の簡略化を経て、逆に「言葉」や「文章」の綾とか含意というものが著しく浅薄・空虚になったという気もしています。「考える」という苦しみや楽しみが失われたのです。

 要するに、ワープロで文書を作るとは言うものの、その半分以上は器械任せであって、みずからが「考える」「勘える」という不可欠の作業(プロセス)が相当に失ったままでいることに気づかされます。思考力・考察力の急激な減退は、結局は中途半端な「生煮え」状態を生むでしょう。そこに、「AI」が入り込んでくるのですから、いよいよ、人間からは自前の考える力は奪われ、弱体化するということになる、これがぼくたちの現実に生じている、もろもろの不可解現象(事件や事故も含む)の原因でもあるでしょう。

 これを要約すると、もともと不足がちだったぼくの「思考力」が、ネット時代に足元どころか、脳力まで攫(浚)(さら)われて、さらに貧弱になったということです。物を考えるという、根本の働きが器械を使うことによって、知らないうちに、いや気づいていたのですが、衰弱していたという意味です。これまで徒歩(かち)で果たしていた仕事を自動車を使うことに変えた結果、著しく足腰の衰えが目立つことになるだけではないでしょう。歩行する際に触れ合うことができた景色・人情までもが、それこそ高速度で移動するために「一変」してしまったということでもあります。ものを観る働き(視力・着眼力)もまた、著しく失われたしょう。

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 ここまでが「前書き」です。本題は毎日新聞のコラム「余録」に関わっています。「人間は考える葦である」という一文。パスカルは、これをワープロ文書を使って生み出したのではありません。脳内の言語操作能力と直結している手・指を用いて、あるいはペンで書いたでしょう。さらに付加すると、「パンセ」は一冊の本にするように計画されて書かれたものではなく、彼の死後に発見されたも「断簡」を集めて順序良く並べて、一冊にしたとされています。「肺腑の言」を消失から守った、彼の妹の功績は大であったというべきです。

(ヘッダー写真は「東北最大の河川・北上川の河口域に、約15キロメートルにわたって広がる日本有数のヨシ群生地。環境省が選定した「残したい日本の音風景100選」の一つです」石巻市:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10250000/-map/001/kitakamigawayoshihara.html

◎ パンセ(ぱんせ・Pensées)= パスカルの遺稿集。『瞑想(めいそう)録』の訳名もある。パスカルの死後、1670年に『宗教その他若干の主題についてのパスカル氏の思想(パンセ)』Pensées de M.Pascal sur la religion et sur quelques autres sujetsと題された初版が刊行された。遺(のこ)された断章の多くは執筆予定の『キリスト教弁証論』の覚え書きであり、断章の配列をめぐって多数の版が現れた。もっとも広く読まれてきたのはブランシュビック版(1897)であるが、現在では第一写本を優先するラフュマ版(1951)の系列が、パスカル研究の標準的刊本として認められている。『キリスト教弁証論』はキリスト教の真理性を証明し、人々を信仰へと導くことを目的としている。パスカルはこれを人間学的考察と神学的考察の二部構成で考えた。まず、無限と無の中間者である人間が、悲惨と偉大の矛盾的存在として示される。人間の悲惨は、真理や正義に対する無力や、宇宙における取るに足らぬ位置から明らかである。だが、人間は「考える葦(あし)」でもある。そこに人間の偉大と尊厳がある。人間は自分の悲惨を知るゆえに偉大であるが、悲惨を意識することで人間は救われはしない。悲惨な存在であることを忘れるために人間は気晴らしを求めるのである。(↷)

 こうした人間存在を前にしては、エピクテトスやモンテーニュなどの哲学者も無力である。彼らはいずれも人間の一面しかみていず、悲惨と偉大という二重性から生じる不幸を解消できない。人間の救済には、哲学のような人間学的次元から神学的次元へ進まなければならない。「人間は無限に人間を超えている」のである。こうして宗教の考察に向かったパスカルは、人間の矛盾を解き、悲惨から脱する道がキリスト教によって示されていることを明らかにしようとした。無力な理性を退け、心を尽くして神を探し求めよ、とパスカルはいう。それによって初めて、身体と精神の秩序を超えて、キリストを介して生ける神との深い内的関係が確保される「愛」の秩序へと飛躍することが可能となる、と説くのである。(日本大百科全書(ニッポニカ))

◎ パスカル(Pscal、Blaise)= フランスの数学者,物理学者,宗教思想家。16歳で《円錐曲線論》を著し,パスカルの原理を明らかにした。また,簡単な計算機の作製,トリチェリの真空についての実験などを行った。思想的には,演繹(えんえき)に基づく抽象的な〈幾何学の精神〉に対して,直観的な〈繊細の精神〉を主張。1654年11月23日,決定的回心をして,ポール・ロアイヤル修道院の客員となり,ジャンセニスムの代表的神学者として,理性に対する心情の論理から信仰を弁護。人間は無と無限,無価値と高貴,卑小と偉大のような矛盾的側面をもつが,そのような二面性を知らせるのがキリスト教であるとした。その透徹した人間分析と宗教思想は,現代実存主義をはじめ,フランスの文芸・思想に大きな影響を与えた。著書《パンセ》(遺稿),《プロバンシャル》など。1623-62。(百科事典マイペディア)

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【余録】「人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ」(「パンセ」塩川徹也訳、岩波文庫)。17世紀の仏哲学者、パスカルの有名な言葉である▲自然界では弱者にすぎない人間が考えることで生存を続け、繁栄してきた。天才科学者でもあった賢人は「だからよく考えるように努めよう」と訴えた▲人工知能(AI)と共に生きる時代にも「考える葦」であり続けられるか。人類の新しい課題かもしれない。「生成AIを使うと勉強の効率は上がるが知識の定着は劣る」。ブラジルや中国の調査で同様の結果が出た。「考える努力を怠ったから」という仮説が唱えられている▲そんなAI時代の教育をどうするか。各国で模索が進む。お隣の中国は今春「AIプラス教育」行動計画を発表した。AI人材の育成が最大の目標らしい。文部科学省も次期学習指導要領にAIへの対応を全面的に反映させるという▲中学校には新教科「情報・技術」が導入される。人材育成の重要性を踏まえたものだろう。授業のAI活用も進める。教育現場の労働環境の改善につながればいいが、教える側の負担も増える。日進月歩の技術に遅れずに授業の質を保つのは容易ではあるまい▲それでもコピペを排し、情報の真偽を判断する思考力を養うなど各教科でAIにふりまわされない活用を重視しているのは心強い。パスカルは「私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある」と記した。やはり「考える葦」でありたい。(毎日新聞・2026/09/02)

 「自然界では弱者にすぎない人間が考えることで生存を続け、繁栄してきた。天才科学者でもあった賢人は『だからよく考えるように努めよう』」(「余録」)と、パスカルは訴えたとコラム氏は言います。このパスカルの「箴言」については何度か、この駄文録でも触れています。「考える葦」とは、物を考えないであろう「葦」のように、大雨や大風にひとたまりもない、きわめて虚弱な「葦」である、その「葦」と同じくらいに「弱い人間」であることを忘れないように。パスカルはそういったのでしょう。考える力を深めていけば、ついには「葦でなくなる」「人間を、やがて人間の限界を超える」というのは、不正・邪悪な考えであって、どこまでも「弱い葦」である分際で「考える」、それが「人間」というものの条件だといった。2に2を足すと 4になるというのは幾何学の領域であって、人間の精神は繊細(弱い)であるのだから、考えを深めれば答えが見つかるということはないのだと、パスカルは直言したのです。合理的に考えることは可能だが、人間の生活(人生)は合理的にはいかないのです。

 間違いなく、器械・機械の使用は「人間力」を削ぐ(殺ぐ)。これは避けられないでしょう。だから、自動車に毎日乗りながら、足腰も衰えさせないということは無理な話。AI」と共生することはできましょう。でも、AIがでしゃばる分、人間の持ち前の能力は消える。それを知ってか知らずか、人間はわざわざ自分をさらに卑小なものにするのに時間とお金を費やしているのです。

 犬や猫は考えるかもしれない。でも水辺に揺れる「葦」は、おそらく思考しません。その思考しない、弱い存在である「葦」のような分際であることを忘れないで「考える」というのはどういうことか。コラム氏は肝心の「的」を外しているのではありませんか。考えれば考えるほど、人間ではなくなって、獣になるのもまた、人間です。苦心惨憺、刻苦勉励に勤めて獲得した平和、と思った瞬間、人間という狂気を持つ存在は戦争をはじめ、人を殺める。それこそが人間です。「私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある」といったパスカルの「言葉」は、彼が書き残した以上に、深い仔細があったということです。結論ではありませんが、ぼくは断言できます、「考える」というのは「迷う」、「疑う」ということ」でもあるのです。それ以上でも以下でもないようです。

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