【小社会】移ろう「防災の日」
喉元過ぎればなんとやら。人は忘れる生き物だ。それにあらがう術(すべ)の一つが「○○の日」などと暦に栞(しおり)を挟むこと。そういえば昨日の本紙にキウイの全面広告が載った。きょうが「キウイの日(9月(きゅう)1日(いち))」だったから?
9・1が喚起する最大の記憶はやはり、10万人超の犠牲者が出た103年前の関東大震災だろう。政府は1960年、この日を「防災の日」と定めた。
ただ、国民の災害認識の変遷をたどった「災後の記憶史」(水出幸輝著)によれば、当時重視されたのは台風だった。制定のきっかけは前年に甚大な被害が出た伊勢湾台風。9・1になったのは震災の存在もあるが、台風の厄日とされる「二百十日」も根拠になった。
むしろ関東大震災は当時、「忘れられた災害」だったという。在京大手紙では軽視する記述が目立ち、在阪ではローカル災害と捉えられた。それが今のような扱いになったのは、防災の日に毎年、記憶が再構築されたから。
「記念日」効果の典型ともいえるが、対照的に伊勢湾台風は風化が進んだ。同著は、防災の日の役目は時代で異なり、それが「社会の災害に対する意識の変化」を映す、とする。(高知新聞・2026/09/01)(ヘッダー写真も「暮れる夏 ススキ輝く 高知県津野町の天狗高原」同新聞・2026/08/31)

日本社会はいろいろな面で、末期症状を迎えているような、それを証明するような状況、惨状が続きますが、それでもいつかは季節も「移ろう」もので、本日が9月1日だからというのではなくても、昨日今日の天気の具合を見ていると、確かにあの猛々しかった猛夏も、ややしおらしくなったといいたくなるほどに、肌寒いくらいの陽気でした。もちろん、廻る廻る時代は廻る、です。人間でいうなら、「喜怒哀楽」という当たり前の情念が、それこそ寄せてはかえす海原の波濤のごとくに、止まるところがないようです。言うまでもなく、「関東大震災」の記憶も感触もない人間ですが、「防災の日」設定のきっかけになった「伊勢湾台風」は、験のいいものではなかったが、はっきりと心身にその傷跡は刻まれています。

前年だったかに、小さな土地に小さな家を新築し、初めて「我が家」で一家がそろって生活を始めたばかりでした、その記念の「祝砲」だったか、「呪い」だっか。猛烈な勢力の台風が京都嵯峨の拙宅を襲ったのでした。ぼくや兄貴などは、家が壊れる、吹き飛ばされるのではないかと青くなったし、おふくろは風呂場に入り込んで「呪文」を唱えていた。そんな中にあっても親父は普段の生活通りに呑んで呑んで、鼾(いびき)をかいていた。台風一過というものを、目の当たりにした初めての経験だったと思う。幸いに、家は壊れず、普段の生活も崩れはしなかったと覚えていますが、各地の災害の傷痕を見るにつけ、「危険」「脅威」というものの本体・本性を観たような気がしました。
◎ 伊勢湾台風(いせわんたいふう)= 1959年(昭和34)の台風第15号のこと。当時、第二次世界大戦後最大の被害をもたらした。9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生し、22日9時から23日9時までの24時間で実に91ヘクトパスカルも中心気圧が下がるなど、急速に発達した。最低気圧895ヘクトパスカルまで発達したこの超大型の強い台風は、その後もあまり衰えることなく北上、26日18時過ぎに潮岬(しおのみさき)付近に上陸したときでも、中心気圧925ヘクトパスカル、最大風速50メートル、25メートル以上の暴風半径は250キロメートルという勢力を保っていた。このため紀伊半島や東海地方では、最大風速30メートル以上の暴風となった。台風はその後、速い速度で本州を縦断し、富山湾から日本海へ抜け、東北地方北部に再上陸した。東海道沿岸にあった前線は台風の影響を受けて活発化し、九州を除くほとんど全国で大雨となり、とくに紀伊半島では、総降水量が800ミリメートルを超えた。(↷)

この台風は伊勢湾に高潮を引き起こし、名古屋港で3.45メートルという観測史上最高水位の気象潮を観測している。全国の死者・行方不明者5098人のうち、伊勢湾沿岸の愛知・三重両県で4562人を占めた。桑名市と名古屋市南部などは、泥海と化し、数日間は交通や通信網が完全に麻痺(まひ)状態となった。海面すれすれの低地に都市が発展していった社会的条件が、被害を甚大なものにしていった典型的な例である。伊勢湾台風をきっかけとして、国土および国民の生命財産を災害から守るため、総合的、計画的な防災行政の整備と推進を目的とした災害対策基本法が1961年に制定された。(日本大百科全書(ニッポニカ))
この当時、ぼくはまだ中学生だったと思う。9月21日が、この台風の発生日というのは縁起がいいものではなく、あるいはぼく自身の「第2の誕生」(実際に、天災が人間の生活を破壊することを知った、その契機となった日でした)だったかもしれません。以来、「防災」は無用であるとは思わないけれど、どんなに頑丈に家を作ったところで、壊れる時は壊れるという「諦念の本領」というものを持ったものでした。これは地震についても同じです。震度7でも大丈夫というのは、ある種の「観念論」「身の程知らず」であって、「砂上の楼閣」ではありませんけれど、地面自体が大きく揺れるのですから、その上にいかに堅牢な建物を作ろうと、どこまで行っても「泥濘(ぬかるみ)に立つ家」であることを避けることはできないのです。
十五歳になるかならないで、ぼくは長明さんの「方丈記」の示すところの「奥義」を教えられました。

「不知、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし」
わずかばかりの土地建物に拘泥せず、世に名を成すという恥ずかしいことも経験したくないし、まして、1ミリでも他社に優れていたいという人生観を持つことができなくなったことは、ぼくにこの上ない幸いでした。そのうえで、もし余力があるならば、少しでも助けを求めている人の力になれればという思いで生きてきたのではなかったか。思いは深まり広がりはしましたが、ぼく自身のできることは年年歳歳、小さく小さく萎(しぼ)むばかりです。
それでもなお、「意気軒高」といいたいところですが、やはりぼくには「吉田兼好」が、あるいは長命・長寿を願うはずもなく、どこまで行っても「鴨長明」流であることを免れません。それでいいのだ、と、またまた、その意を強くしている。無事に生きながらえても、いつか滅ぶのが運命です。そうであるなら、健康で長生きは「世の常」であり、ぼくには勿怪の幸いだ、と実証したいものです。命は有限であることが、あるいは、生きるものにとっては「最良の倫理」なのかもしれないと痛感している。
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