人為が促す天災ばかり、戦争もまた。

【新生面】天の病む 仏教では世界を有情と非情に分ける。前者は人や動物という心や感情を持つ生き物のこと。後者はそれを持たない山、川、草木などの自然や物質である。表面的な解釈かもしれないが、再びの熊本地震、そして能登半島地震の被災地でのまたの豪雨と、立て続けの自然災害の非情さにこの教えを重ねている▼きのうの本紙には「石川から熊本へ」との見舞い広告が掲載された。「熊本のみなさまからいただいた温かいご支援と励ましを、私たちは決して忘れません」との情のこもったメッセージを読みながら、「この心優しい人たちも、どうか息災で」と熊本地震1カ月の鎮魂に続けて祈った▼過酷な自然災害は世界でも頻発している。26日にはネパールと中国の国境地帯で大規模な土石流が発生した。黒い濁流が瞬く間に集落をのみ込んでいく様は、悪夢のような光景だった▼ヒマラヤ山脈の氷河の崩落が発端とみられている。当然、地球温暖化の影響が考えられる。今世紀に入り氷河の融解スピードが倍になったとの分析を今年、現地の専門機関が公表していたという▼「気候変動は史上最大の詐欺」と言い張るトランプ米大統領に配慮し、6月のG7サミットでは温暖化は議題にも挙げられなかった。目前の危機に手をこまねいている国際社会の体たらくを見れば、今回の惨事は半ば人災の天災と言えるのではないか▼<祈るべき天とおもえど天の病む>。生き物の命を顧みない近代文明の非情さを問い続けていた、石牟礼道子さんの嘆きの句を思う。(熊本日日新聞・2026/08/30) 

⁂「週のはじめに愚考する」(134) 早くから予想されていたことでしたが、今年は台風の当たり年。9月を前にもう23号まで発生している。いつから、この好ましくない、今年の「予想」が始まったか知りませんが、ことに日本劣島南海(太平洋)では一年中海水温が異常に高く、年間水温も上昇の一途をたどるとなると、いつどこで、「台風(ハリケーン)」のような「自然災害」が発生しても不思議ではありません。自然界の災害というものの、それは表向きのことであって、詳しく見てゆくなら、そこには人為的な要素が大きく働いているのであって、むしろ「自然・人工災害」というべきではないかと、ぼくなどは思ってしまいます。(ヘッダー写真はCNN・2026/08/27)(https://www.cnn.co.jp/world/35251977.html

 このところ、劣島やその近海で、やたらに発生している地震も、メカニズムは自然の働きかもしれませんが、人間の住んでいる地域で起こると、たちまち人災も加わるのです。そもそも、発生メカニズム、それ自体に人間の働きは影を落としていないか、そんなことまで考えてしまいます。本日の熊日新聞コラム「新生面」は「天の病む」でした。石牟礼道子さんの俳句の「ことば」で、ぼくは早くから「記憶」に刻んでいたものでした。「祈るべき天とおもえど天の病む」、「天」が止んでいては人間に何ができるか。

 突飛なことを言うつもりもありませんけれど、この島国に限って言ってみると、東京大阪を結ぶ高速道路を作ったのは、ある種の技術工学の「念願」「快挙」であったかもしれません。でも、それが2本目となると、素直に「達成」と喜んでもいられなくなるのは、ぼくの悪いところか。東海道新幹線も、必要もなかったのに、開業早々、ぼくは乗車し、いささか奇妙な気分を味わいました。それが、何の因果か、劣島中央のアルプス地帯に「地面の底」をくりぬいて、2本目の新幹線を作るという、こうなるとそれは「暴挙」「狂気の沙汰」と、ぼくなどは考えてしまいます。120分が40分に短縮される、その価値や意味は、何で測るんでしょうか。つまり、「快挙」と喜ばれたものも2度3度と続けば「暴挙」「愚挙」となるのは避けられないし、それが地球の表面だけではなく、地中にも上層部にも悪影響を及ぼしていると、多くの人は考えないのでしょうか。毎年(五輪大会)を開くのは、間違いなし歴史的愚行・愚挙に他ならない。

 今年に入って、日月を置かずに世界各地で、凄まじい災厄が続発しています。南米だけでもチリーやベネズエラ、コロンビアにと、立て続けに大地震が発生、多くの犠牲者が出ています。過般には中国モンゴル国境地域に大地震、つい先日はヒマラヤ近くの雪崩が大きな山崩れや土砂崩れを誘発し、犠牲の全貌はまだ見通せないままで、救出作業が続いています。また、いまなお続いている異常な高温の災厄。気温四十℃の日常が常態化するのが目に見えているのです。

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【天声人語」反省なんかしておりません マレーシア・ボルネオ島に、プナンと呼ばれる狩猟採集民がいる。彼らの言語には「反省」を意味する言葉がないそうだ。奥野克巳氏の著書『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』に教えられた▼言葉がないだけではない。彼らは過失に対し謝罪しない。反省のそぶりさえ見せない。後悔や残念の感情は持っても、反省には向かわない。人類学者は書く。「反省しない生き方というのは、おそらくストレスがたまらない」。なんて気が楽かと▼日本列島も熱帯の島に似てきたようだ。反省の不在をとみに感じる夏である。終戦記念日の首相式辞から「反省」が消えた。先の戦争を「反省なんかしておりません」と言った人が首相だからか。国会を振り返り「反省点というのは特にございません」との強弁にも驚いた。自分は悪くないとの言ばかりが闊歩(かっぽ)する▼そもそも反省とは何か。辞書を引くなら、自分の行いを省みること。責任に向き合い、ときに謝罪の意も込める。反対語といえば、自分を正当化する、開き直る、学習しない……。誰もがそんな政治はごめんだろう▼奥野氏の書によると、プナンが反省しないのは、いまという時間感覚を重視する狩猟採集のためらしい。長い時間軸で「よりよき未来」を思うとき、人はおのずと自らを省みる▼論語は、吾(わ)れ日に三たび吾が身を省みる、と記す。真剣に考えているか。誠実に伝えているか。受け売りではないか。当欄も繰り返す。反省を。(朝日新聞・2026/08/30)

 その昔、「批評の神様」と崇(あが)められていた小林秀雄さんは敗戦直後、ある雑誌で「ぼくは無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と、戦後の「第一声」として記録されているのを読んで、「偉い人」もいるもんだと正直に思いました。。(「近代文学」昭和21・2)玉音放送を聞いた数日後の小林さんの姿が、いろいろな文学者によって活写されています。大学生になって初めて、小林さんの文章を読んだ人間だったから、この「ぼくは無知だから反省なぞしない」という表現に驚いたし、その驚きがその後もずっと続いたのでした。後半生、小林さんが「本居宣長」に執心したのは、彼自身の精神の問題でもあって、明確な理由のあることでした。それを「国粋」と言ってみたくなります。ぼくには意外なことでした。彼は、真珠湾攻撃を「お見事」と讃嘆した人でもあったのです。

 現首相も「私は当事者でもないので、反省なんかしないし、反省を求められる立場でもない」と、1995年の敗戦後十年の段階で「村山談話」と非難する前口上として述べていた。「反省しない」にもいろいろな場合があるんですね。

 この首相の国会発言は、まるで、「反省ならサルだってする」といわぬばかりの「歴史への罵声」を上げたことになります。「反省しない」というのは、いろいろなニュアンスがあります。上に上げた小林秀雄さんの「反省なぞしない」というのは、ぼくは「無知だから」であり、反省は「利口な奴がすればいいじゃないか」というものでした。これもなかなか無理のある「理屈」だったと、若いぼくは奇怪な感想を抱きました。戦後の小林さんの文学活動と、現首相の政治発言を比較もしないし、どちらの言い分に筋があるかということも言わない。両者は、まったく異なる「反省しない」だからです。

 「自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」(デジタル大辞泉)現首相の言い分(「反なんかしない」)は、これに当たります。「日米戦争(第二次世界大戦)」は「私には無関係」だから、「反省のしようがない」というのです。当事者ではないのだから、責任を問われることがないのだという言い分に通じます。だから「反省なら、サルだってする」けれども、「私はサルではないから、反省なんかしない」というのでしょう。とても分かりやすいですね。

 首相は1961年3月生まれだそうです。1995年当時、34歳の一議員でした。だから、この「言い分」は、思想信条の自由、表現の自由として、あるいは通るかもしれないし、そうでないかもしれません。歴史意識の有無を問題にするなら、どうでしょうか。同じ人間が「一女性」であるときと、「国会議員」である場合、そこにはやや異なった要素が入るでしょう。まして、その人間が「首相」になったなら、この「言い分」は通じないのが当たり前だと思う。それをそう感じないのが、この首相の救いがたい無能・無知なところだし、そんな首相を「神輿」にのせて、担ぎ上げる有権者がたくさんいるという自恃は、国家の、ぼくにしてみれば「危機」ですよ。しかし、国内外の多くは、その無知・無能を許してくれるでしょうか。これを放置しておくこと自体、国民の「歴史認識」が問われることになります。

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